序幕_弐
つい何日か前のことを思い出した今でも、あの日が今日あったことのように感じる。
しかしそれも今日で終わりだ。これから来る列車に乗ってしばらく身を揺られてさえいれば、あとは列車が島根まで連れて行ってくれる。着いてからはまたすこし歩かなくてはいけないかもしれないが、それでも苦労は今日までのはずだ。
「列車遅いね、にいちゃん」
足をぷらぷらと揺らしていた弟が退屈そうな声を漏らす。「そうだな」と返しつつ、眠気に誘われた俺は目元を擦った。「眠いの?」と弟は俺の顔を覗き込む。正直に言えば眠い。朝も昼も歩き、夜は弟を背負ってここまで来たから。でもそんな弱音を弟の前では吐いていられない。任されたんだから。
「大丈夫、大丈夫だ」
弟は俺が着ていたシャツの袖を掴んで、視線を自分の膝の上に乗せた弁当箱へと落とした。
手拭いのままじゃ不安だからと途中で安い弁当箱を買って、その中にあの蛹を葉っぱと一緒に入れたのだ。弟は蛹が羽化するんじゃないかと期待しているけど俺はさほど期待していなかった。
虫も人も火には勝てないからだ。たいていのものは骨まで燃やされ、姿を失う。こうして蛹が今も形を保ち続けている。それだけでもう十分に素晴らしいことだ。羽化なんて重労働は望んでやらない方が優しい。
勝ち取った命を最後まで、いつも通りに燃やし生きてくれるだけでそれでもう良かった。
溶けてぼろぼろに消えて行く意識に耳をつんざく車輪の音が割り込んだ。
「にいちゃん、列車が来た」
「草史、危ないから列車が完全に止まるまで動くな」
椅子から立ち上がりかけた弟を声で制している間に、列車は速度を殺して停車した。
弟はきらきらとした目で俺を見る。そういえばそうしが列車に乗るのは今日が初めてだったかもしれない。頭を一撫でしてやると弟はにこりと笑い、その顔を列車に向けた。
ガコッ。列車の扉が開き、椅子から体を上げようとしたが、俺の体は椅子に根でも張っているのかと思うほどぴくりとも動かなかった。疲労がついにここまで来たのだ。情けないことこの上ない。
「草史、悪い。手を引っ張ってくれ」
「うん」
弟は俺が予想していたよりも強い力で手を引っ張った為に、体が大きく前に傾く。「わ」と驚いた声を出し、俺は咄嗟の判断で地面に手をつく。
「にいちゃん、大丈夫?」
まさか弟も俺が転ぶとは考えていなかったらしく慌てている。
「ちょっと掌をすりむいただけだ」
掌がじんじんと痛むけど、弟にこれ以上無駄な心配をかけまいとさっと立ち上がった。
あとで布を巻いておこう。そう決めて、弟にすり傷のない手を差し出す。弟が手を握ったのを見て、俺は列車の乗車口に向かった。二人が同時に入ることは難しそうだったので、弟を最初に入らせその後に俺が続く。列車は来たばかりな為にか、俺たち以外に人の姿はなかった。
「どこに座るの?」
「扉に近い方」
その方が万が一に寝こけてしまってもなんとかなるだろう。睡魔と闘いながら俺は自分の言葉通りに出入口に一番近い席に腰かけた。弟は俺の前の席に腰かけて、窓の外を興味深そうに見ている。
「人が乗り始めたらこっちに移動するんだぞ」
「うん」
聞き分けがよくて助かった。窓の外から漏れる光に目を細めると、いよいよ目が開けられなくなってきた。
「草史、すこし眠るから何かあったら起こしてくれ」
「分かった」
いつものように弟が返事をする。俺はすっかり安心してしがみついていたものから手を離した。
「おやすみ、にいちゃん」
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