ゆめのはなし

ロセ

序幕

 蒸し暑い年だった。すこし外に出ているだけで服は汗で湿り、元気だけが削り取られて行く。

 そんな年、母が逝った。

 そのことを思い出すたび、蝉の鳴き声が耳を席巻する。気を緩めたら、胃に残っていたものを全て吐き出してしまいそうだった。

 外の景色でも見て気分を落ち着かせようと閉じていた瞼を開く。視界の端を黒が通り過ぎて行った。影のような陰鬱さを抱えた黒だ。

 最近、その色をどこかで見たような気がする。

 ……どこだっただろう。

「蝶々になったみたい」

 無邪気にはしゃぐ声がどこからか聞こえる。どこか懐かしい声に母が逝った日が映像として蘇った。

 その日はあいにくの天気模様だった。

 だのに、母は黒揚羽の刺繍が美しい着物を床に広げ、眺め魅入っていた。素人目にも一品だと分かる代物だからこそ広げて見たくなるのは分かる。

 だけどもこう湿気がある日に着物なんか出してしまったら、カビが生えてしまわないだろうか。母がいいのならいいが、気に入りだと常々話していたものを今日に限ってそう扱う理由が俺には分からなかった。

 部屋の前で立ち尽くす俺に気付いた母はくすくすと笑う。

「気になることがあれば聞けばいいのに」

 もっともだ。俺は遠慮をせずに思ったことをそのまま尋ねた。

「こんなに湿気があるのに着物を出しても平気なの?」

「駄目よ。黴が出来ちゃうじゃない」

 もっともらしく母は言うが、言っていることとやっていることが矛盾している。

 何をしたいんだろう、母は。と、母が笑みを潜め、その何とも言い難い顔を俺に向けた。その顔からは着物を見ていた時の嬉しさのようなものが抜け落ち、焦りのようなが感じれた。

「ゆめじ」

「どうしたの」

 母の茶色の目が震えていた。

「私に何かあったら、その時は草史ソウシのことお願いしますね」

 草史は弟の名前だ。

「当たり前じゃないか」

「……、よかった」

 安堵するように、母はゆっくりと瞼を伏せた。が、その一方で俺はむかむかしていた。母の目には、俺が弟を見捨てるような薄情な兄に見えていたらしい。悲しい話だ。

 自嘲を口の端に称えた時だった。ぼうぼうと火が盛る音が聞こえたのだ。俺は耳を疑い、火を探した。

 と、母の手元にあった着物が発火していた。蝋燭から燃え移ったのか。いいや、待て。確かに今は雨が降っていて、そこそこ暗いがこの部屋に今、蝋燭はない。その事実に頭が凍った。

 じゃあ、この火はいったいどこから発生したんだ。いくら目を擦っても、火はたしかにそこにあり、蛇が舌なめずりするかのような動作で美しい着物を焼いて行く。

「母さん、火が」

 狼狽える俺とは対照的に母は赤い炎に炭と化して行く着物を一瞥し、「そうね」と穏やかに頷いた。あんなに大事にしていたのに。口をぽかんと開け間抜け面を晒す俺に母は念を押した。

「草史のことお願いね、ゆめじ」

 火が赤い体をしならせ、母を一息の内に食った。「あっ」と声を上げる暇すら与えられなかった。唖然とする俺の前で母は痛みの声すら漏らさず、静かに火に包まれた。火は獣のように全体を震わせ、畳にまで侵攻し始めた。

「母さん」

 畳が燻され出た煙に咳込みながら俺は母を助ける為に、外に出て助力を求めるべきかどうか悩んでいた。なにせ母はもう姿が分からないくらい、炎と一体化している。

 今から消防に助けを頼んだところでこれでは意味がない。医者すらも匙を投げるだろう。

 頭はそう理解しているのに、足はこの場から動こうとしない。なんとか母を助けたいと思っていたからだ。けど一体どうすればいい。どうすれば俺は母を助けられるんだ。

 苦悩に押し潰されそうな頭に、声が広がった。

――草史をお願いしますね。

 あれは、母の遺言だったんだろうか。だとしたら、俺は……。

 口の肉を噛み、形を歪めつつある現実に俺は背を向けて隣の部屋へ走った。そこには朝から近所の子どもたちと遊び疲れ果てて眠る弟――草史がいた。

 幸いかな、弟は今も夢の中を散歩しており、この惨状の一つも知らなかった。

 頼むから、外に出るまでそのまま眠っていてくれ。そう願いながら、俺は弟を抱き抱えて裸足のまま家を飛び出した。

 門の外へ出たと同時に、体にかかっていた圧のようなものがふっと抜けた。倒れ込むようにその場に座り込み、肩で息をする。

 腕の中にいた弟をちらと見たが、まだ瞼を閉じていた。胆が太いのか、ただ単に暢気なだけなのか。ともあれ今は弟のそんな性分が有難かった。

 息を整え、正面を見た俺は瞬きを繰り返した。家がなかったのだ。あったのは、炭のように黒く焼け焦げた家の骨組だけだ。うまい言葉が出なかった。吐き出したい言葉は山のようにある。けれどもそのすべてが喉元で絡みつき、まともな言葉になろうとしなかった。

「にいちゃん」下から聞こえる声にはっとし、顔を下げる。弟が目を覚ましていた。

 母親譲りの茶色の目が母の最後の声をありありと思い出させた。瞼を閉じる。瞼の裏にはっきりと映ったのは母ではない。あの着物の模様だった。俺はしゃがれた声で尋ねた。

「ここから一番近い親戚って誰だったっけ?」

 弟はまだ眠いのか、睡魔を落すように瞼を擦る。

「伯母ちゃんだよ。島根の」

「島根か」

 島根に行くまでの費用を頭の算盤で弾き、顔を顰める。一人で二百はかたい。二人ともなれば四百だ。そんな大金、どこにあるのだろう。頭に手をやっていると、弟が「にいちゃん、眠いの?」と聞いて来た。

 日ごろの俺を見ていればこその発言だったが、今日ばかりは的外れだ。

「いや、目はよく覚めてる」

 目じりを下げながら、俺は弟の小さな頭をぐりぐりと撫でた。心配しなくていいという思いを込めたつもりだが、弟は不思議そうな顔をして俺を見るだけで何も聞こうとはしなかった。

 よく見ている弟のことだから、やはり俺は眠気に参っているのだろうと思ったかもしれない。けど今はそれでいい。弟の目には俺がいつものように映っているという何よりの証拠だ。

 残る問題は旅費だけだ。頭を大きく横に傾けて記憶をぐらぐらと揺す振っていると、母が台所の床下から壺をよく出し入れしている姿を思い出した。たしか財布もその中から取り出してはいなかっただろうか。あやふやだったが、現時点で金のことで思い出せることはそれくらいだ。……賭けてみない手はないか。俺は薄い望みを抱きつつ、ずっと俺を見上げていた弟に告げる。

「お金を取って来る。草史、お前はここで待っていろ」

「どうして?」

「崩れると危ない」

 視線を向けた先の焼け焦げた家の骨組は家としての体裁を危うげに保っている。いつ崩れてしまうのかは分からないが、崩れるのを待つ時間は惜しかった。敷地に足を踏み入れて後ろを振り向く。弟は俺の言いつけを守り、門の柱からこちらを見つめていた。手を振ってやると、弟はにこりと笑って元気よく手を振り返した。

 よし、台所を探そう。自分で言っていておかしさも感じるが、現状じゃ台所は探すものの一つだからしようがない。俺は瞼を伏せて、頭の中に家の間取りを浮かべる。

 門から玄関までは俺の歩幅で五歩ていどで、そこから真っ直ぐに台所に行くには長い廊下を渡る必要がある。その途中には左右に部屋が一つずつある。内、一つはさっきまで母が着物を広げていた部屋だ。思考が感傷に浸り始める前に頭を振って堪えた。

 廊下を渡った先に、この家で一等広かった和室がある。母はそこを居間として使っていた。ふだんは襖で仕切られているその部屋をまっすぐ進んで右手に曲がると探している台所へとたどり着ける筈だ。

 よし、と俺は意気込み、頭に浮かべた地図をもとに近道をすることにした。地図通りに進む方が無難であることは分かっているが、俺は裸足だったし、一見すれば冷たそうに見えて実は熱くなっている土の上を歩くなんて危険を冒すつもりはなかった。

 俺は正規の道を大幅にずれて、台所へと向かい始めた。焼けた木々からは目に染みる煙が吐き出され、涙がぼろぼろと零れ落ちる。おまけに火の手は俺が歩いている場所すらも触れていたようで、足の裏がじんじんとした熱さを持ち始めた。それでも地図通りに進んで味わう痛みの大きさより、今味わっている痛みの方が小さかろう。

 まだ、だ。まだマシなのだ。自分にそう言い聞かせて足をせかせかと動かし、居間だと思う場所の横を通過する。台所は地図を信じるのであれば、このあたりになる。

 が、自信は毛ほどもなかった。腰を屈めて壺が顔を出していないかと綿密に探し歩いていると、煤けた黒に混じってうっすらと白が見えた。

 その場に腰を下ろして、これはなんだろうとその白をまじまじと見やる。どうもその白は蛹のようだった。蝶か蛾かはわからないが、ともかく何かの蛹だった。まさかあの火の中にいたんじゃないだろうな。眉を寄せ、死んでしまったんだろうかと蛹に視線を注ぐ。

 焦れるように、薄い殻の中でもぞりとそれが動いた。よかった、生きているみたいだ。

 腰に下げていた手拭いで蛹を包み、膝の上に乗せる。どこか緑が多い安全な場所に移してやろう。そう思って立ち上がろうとしたところ、視線が蛹がいた場所の下に釘づけになった。何度も塗り重ねたような茶の色が土の中から顔を出していたのだ。もしやと思い、土をさっさっと払い除ける。粘土色の蓋が出て来た。やっぱりだ。地図は間違っていなかった。ここが台所であっていたのだ。俺は嬉々として蓋を取り外し、中を覗いた。

 心を穏やかにする桜の色が薄い黒の中に佇んでいた。母が使っていたがま口財布だ。壺の中からそっとそれを取り出す。片道だけでいい。島根に行くまでの金額があれば。すがるような思いで、財布の留め金を開ける。百円札が一、二、三……、四枚。ああ、と俺は財布に額を押し当てた。

「にいちゃん、見つかった?」門から弟が呼びかける。体を捩じって、「あった、今そっちに戻る」と声をかけ立ち上がる。小走りで家の前に戻ると、弟は俺が大事そうに持っている手拭いを見て首を傾げた。

「何、それ?」

「蛹だよ。火の中にいたみたいなのにきちんと生きているから、どこかに移してやろうかと思ってな」

「何になるの?」

「俺もよくわからない」

 弟は俺を見、次に手拭いの中にいる蛹へと視線を止める。

「羽化する時、見れるかな」

「どうだろう。こいつの頑張り次第だろうな」

「見れるといいな」

 弟は無邪気に微笑んだ。次いで、「にいちゃん、お母さんは」と聞かれたくはなかったことを聞いた。顔がかちんと強張るのが分かる。あと何日かで、弟はようやく七つになる、なのに母は逝ってしまった。もしそのことを知ったら弟はどう思うだろう。そしてそれはこれからの弟の人生にどういう傷跡を残すだろう。

 考えに考えて、母のことは誕生日を迎えるまで言わないことに決めた。せめて誕生日は例年通りに「おめでとう」と言ってやりたい。そうするためには、母の死は伏せておかなくてはいけないことだった。俺は笑みを繕って、弟の頭に手を乗せる。

「家が燃えたからな。母さんは先に島根の伯母さんの家に事情を説明しに行ったんだ」

「じゃあ島根で会える?」

「ああ。さ、草史。俺たちも行こう」

「うん」

 弟は明るい笑顔で差し出した手を取った。

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