16姦計、極まる


 全てが凍っていた。子供たちの顔から感情が消えている。


 夫の血にまみれた祐樹先輩の絶叫が、数万人の声の中に響き渡っている。


 俺は前に倒れたまま、ザベルの亡骸を見つめた。


 左肩と左胸が吹き飛んだと見えたのは確かだった。ザベルの命を支えていた肉体の一部は、赤黒い血と肉になって発狂したように泣き叫ぶ祐樹先輩に降りかかっている。


 大口径の弾丸、恐らくは対物ライフルによるものだろう。心臓と肺があばら骨や肩の骨ごと吹き飛んでいる。これでは助かりようがない。


 時間が止まっているように思えた。這いずるように近づくと、片腕と両足、胴体の三分の一だけになったザベルを助け起こす。細い体だ。もう冷たい。


 死に顔は穏やかだった。ハイエルフの女性に押さえつけられ、鎮静剤代わりの花粉によって眠らされている祐樹先輩は、ザベルが守ったおかげで凶悪な12.7ミリの弾頭の衝撃から生き残ることができたのだ。おびただしい血は自身ではなくザベルのもの。


 俺には言葉が出なかった。唇が勝手に震えた。俺が生き残れた理由の全てが、生命のない死体になった。


 壇上の喧噪はさらにひどくなっていく。今までキズアトやマロホシが味方だと思っていた連中が、パニックに陥って騒ぎ始めたのだ。そういえばドラゴンピープルが撃たれていた。


 連中は部下と共に今まで邪魔をしていた騎士やエルフに泣きつき、騒ぎ立てながら壇上から逃げ降りていく。


 俺は狙撃手の方を見やった。もうドローンしか飛んでいない。首尾よく標的を仕留めて逃げたのだろうが、ザベルが殺された今となってはどうでもいい。


 すべての光景、あらゆる音が分厚い膜の向こうになってしまったようだ。


 誰かが俺の隣にしゃがみこむ。黒い髪にこめかみから突き出た角。悪魔の女。


 マロホシがザベルの亡骸をじっと見つめた。


「……心臓と肺が吹き飛んでいる。即死ね。私でもゾンビにする以外、手の施しようがないわ」


 淡々と事実を述べる声。薄ら笑いが頭に浮かぶ。

 こいつは俺から再び奪った。コートの内ポケット、銀のナイフを抜き放つ。


 逆手にもち細い首めがけて突く。肉を貫けば灰に還る。


 腕が止まった。動かない。コートの袖につたが絡んで食い込んでいく。胴体、足にも。


 振り向くと、ワジグルが杖をかざしていた。演台の木製部分を現象魔法で成長させたのだ。


 動かない。手を切り離し飛ばしてもマロホシを殺したいのに。


「……放せよ、放せ! こいつだ、こいつが殺したんだ! また俺から奪った。みんなから奪った! 生かしておいちゃいけないんだよこんな奴らはッ!」


 視界が霞む。涙が流れている。流煌のことであふれ尽くしたはずの涙が、頬を伝って穏やかに眠るザベルの頬に降り注ぐ。


 冷たいと言って起きてくれ。また、俺をガキ扱いしてくれ。

 頼むから、頼むから。


 キズアトが近づいてくる。俺は銀のナイフにますます力を込めた。爪が手のひらに食い込んでナイフの柄を伝い血が流れる。


 殺してやる、絶対に殺してやる――。


『騎士、いい加減にしろ!』


 太い腕が俺の体を包み込んだ。瘴気の煙が目の前を覆っていく。


 見上げると紫の毛並みの大山羊。操身魔法で悪魔の姿になったギニョルだ。


 ギニョル、断罪者。俺は断罪者。


「騎士くん、やめてよ。その二人は、狙われてるんだよ」


 ユエの涙を含んだ声が分厚い膜を押し開けていく。


 ナイフが落ちる音。俺の耳と目に改めて状況が流れ込んでくる。


 壇上はすでにキズアトとマロホシとその取り巻き、さらにドラゴンピープルの死体を除いて断罪者しかいない。


 聴衆が口々に叫んでいる。


「今ミーナスとゾズに何をしようとした!」


「何が起こったんだ、断罪者が襲ってるのか!」


 聞き取れる言葉の端だけでもやばい。こいつらにとっては、突然断罪者が壇上に現れ、候補者が次々狙撃されたことまでしか分からない。


 断罪者としてこの場に現れた俺は、あろうことかそんな状況で候補者の一人であるマロホシめがけて銀のナイフを振るおうとしていたのだ。


 聴衆からどう見えるか。完全に状況を見誤った。ザベルを目の前で失ったことで感情のまま最悪の行動を取ってしまっていた。


 キズアトが歩き出す。護衛や俺の視線を後目に、ザベルの死体を振り向くこともせず、演壇の中央に進む。


 マイクを拾った。演説用のものだ。呆然としていた機材係のゴブリンに鋭い目くばせを送ると、スピーカーのスイッチが入る。


『うろたえてはならない! これは見えない敵の仕業だ!』


 電子音を介在したとは思えないほど、力強く温かい声だった。波の轟きかと思うほどのざわつきが収まり、視線は壇上のキズアトへと吸い寄せられる。


『今あなた方は、恐るべき陰謀を見た。敵は我々の島の発展を妨げようと、素晴らしい素質を持った立候補者を二人も殺害した。敵の狙いは我々の分断と選挙制の阻害にある!』


 筋書きが形作られていく。なにも口をはさめないまま、島の住人がキズアトの描く道を歩み始める。


『断罪者が我々に危害を加えるように見えたか。違う。彼らとて人間なのだ。私達の好敵手であった素晴らしい政治の素質を持つザベルは、敵の凶弾に倒れた。今取り押さえられている丹沢騎士は、その篤い正義感ゆえに、恩人の死で動転してしまっただけに過ぎない。あなた方のうち何人が、目の前で大切なものを奪われて平静に仕事をこなせるだろうか。このことで断罪者を疑ってはならないのだ!』


 民衆の動揺が嘘のように静まっていく。まるで大規模な蝕心魔法だが違う。いくらキズアトでも数万人を同時に操ることはできない。


 今、こいつが語り掛ける言葉が、一挙手一投足が島中の聴衆を虜にしてしまっているのだ。これは覇王の素質と言っていい。


『我々がこれからどうすべきか。賢明なあなたがたはご存じだろう。敵が恐れるのは選挙による新たな秩序なのだ。新たなテーブルズ議員の民意による選出と、彼らが支える断罪者の興隆だ。恐れてはならない。選挙は必ず予定通りに実施されねばならないのだ! 我々は今日悲劇を見た。だが候補者として残るつもりだ。卑劣な銃弾にも魔法にも、決して屈しない。我々のほかの候補が、同じ勇気を持つことを祈ろうではないか! テーブルズが今回の事件を受けてなお、賢明な判断をすることを願おうではないか!』


 聴衆がもろ手を挙げ、恐怖も忘れて声を上げた。もしかしたら新たな事件やテロが起こるなどという考えは頭の隅にもない。


 当然で、仕組んだキズアトとマロホシがこれ以上を考えてなどいないのだ。


 ミーナスとゾズの名を称える叫びが怒涛となって全てを埋め尽くしていく。


 これで、この選挙は正当化される。


 候補者が三人不正を犯して資格を奪われ、演説会では何者かに二人の候補者が殺害された呪われた選挙がポート・ノゾミの歴史を作る。


 ザベルを引き入れ、利用した末に命を奪ったキズアトとマロホシによる悲劇が続く。


『法と正義だ。選挙は必須だ。我々の意志で我々が選ぶ。島は負けない、我々は敵に負けない!』


 断罪者が守ってきた全てを、キズアトとマロホシが奪っていく。


 ユエの腕に力が入った。とっくに動けもしない俺を抑え込むためじゃない。


 戦い、敗れて、静かに眠るザベルの亡骸を見つめ、絞り出すようにつぶやく。


「こんなの、こんなのって、ないよ……全部、全部あいつらが持っていくの。私達は、断罪者はこのままあいつらの言いなりに、なってしまうの」


 俺には答える言葉がない。ギニョルが悪魔から人間の姿に戻る。


 満面の笑顔で聴衆に答える二匹の悪鬼を見つめると、唇を噛む。


「なぜ、気づかなかったか。勝てぬ。わしら三人では、三人だけでは、決してあやつらには、勝てぬ……」


 怒号にも近い歓声の合間に、小さな声が刻み込むように聞こえる。


「……必要じゃ。あと四人、あの四人が、断罪者の本当の力が」


 嵐が奪い去った四人の仲間。


 三週間経っても、いまだに発見の連絡がなく、もはや絶望的な四人。


 クレール、ガドゥ、フリスベル、スレイン。


 果たして生きているのだろうか。


 俺の肩にふわりとした羽毛の感触。


 こいつはふくろう。間違いない、大陸で四人とドーリグを捜索している狭山に渡した使い魔。


 広がる熱狂のあいまをどう飛んできたのか。脚には確かに手紙がくくりつけてある。


 ギニョルが紙きれをほどき、ローブのポケットに収めた。


 使い魔は再びどこかへ飛び去って行く。


 一体、何の知らせか。中身はまだ分からないが、たった三人の断罪者では恐るべきキズアトとマロホシにあらゆる意味で勝てないことは明白だった。

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