23チャーム

 記憶、と呼ぶにはあまりにおぞましいものだった。


 クレールは汚辱刑の残虐を体感している。それは記憶を見ている俺と如月もだ。


 首尾よくライアルを仕留めた坂下忠治は四日間、昼夜を通して恐怖におびえることとなった。ダークランドの森や茂みでは、昼は下僕を主とした部隊が、夜は吸血鬼たちが音もなく徘徊し、忠治を追い詰めていった。他の部隊員は一人ずつとらえられ、殺されてばらばらにされた死体が木にさらされ、半殺しのまま助けを呼ぶ声に、忠治は耐えられずに姿を現し、捕縛された。


 生きたままの地獄とはその後のことだ。ルトランドがただ黙って陰のように付き従い、記憶を取り出すかたわらで、忠治は両手足を錆びたのこぎりで一本ずつ切断されていった。無論傷口は腐敗したが、破傷風で死にかけると下僕が黙って魔法で治療し、激痛で意識がもうろうとなれば、吸血鬼が蝕心魔法で精神を操って気絶を防いだ。生かさず殺さず、気絶さえ許さない。精神を操るということがこれほど恐ろしいとは。


 理性を捨てて現実から逃げることさえも、蝕心魔法で封じられ、四肢をもがれて沼に着けられ、虫に食われて事切れる瞬間まで、坂下忠治はその理性を固定されていた。普段の暮らしと同じ精神状態で、恐怖と苦痛を受け続けた。


 最後の数日、忠治の頭を渦巻いていたのは、早くに母を病気で失った一人娘、坂下燈子の笑顔だった。日ノ本政府は、バンギア行きを希望した忠治のような自衛軍の兵士に対して、家族に特別な報奨金と年金を保障している。特に忠治は自衛軍でも屈指の狙撃手であり、戦果を期待されていて、何度も上官から勧誘されていた。


 娘を無事に養うという目的は達成した。それだけを支えに、忠治は狂気を耐え抜いて死んだ。

 

 断罪者として色々な場面で死を見てきたが、これ以上に悲惨で苦しい死に方は、ないと断言できる。忠治がつかまってからの十日間と比べれば、一千年の禁固刑すら生ぬるく思えてしまう。


 ルトランドは一連の汚辱刑の間、夜は父を失ったクレールを支えるにこやかな爺やとして振る舞い、昼は忠治を拷問しながら、その苦痛をカメラのように正確に写し取っていたのだ。


 狂気だった。狂気に違いなかった。

 そして、そんなルトランドは、クレールと同じ吸血鬼なのだ。

 

「ふ、ふふ……わたしの、記憶を見たんだな、愛らしい吸血鬼の子」


 映像が戻った。クレールの目に映るのは、右目を見開き、蝕心魔法に抵抗する坂下燈子だった。


「あの、爺さんが尋ねてきてから、毎日、毎日、あの映像だ。お前を殺しても変わらない、爺さんを殺しても、変わらない。日ノ本の人間の平均寿命は、80歳を超えてるんだ。今は20歳のわたしは、60年以上、あれを見続けることになる。蝕心魔法は、アグロスのどんな薬でも、医者でも止められない、父さんの苦しむ声が耳を離れたことがない。本当に大した復讐……!」


 クレールが歯を食いしばる。燈子に渦巻く苦痛の記憶は、たった一度でも、耐えられるような感覚ではなかった。まして、燈子は忠治の娘だ。死にゆく父親が、自分の名前を呼ぶのを聞き続けているのだ。

 同じ父を奪われた子として、クレールには、燈子の気持ちが察せられるのだろう。


「もちろん、日ノ本を崇めても、くだらん男に抱かれても、あの爺さんの娘を殺してやっても同じだ。お前達吸血鬼がこの世から滅ぼうが、わたしにはなにも変わりはない。わたしは鬼だ。お前達が作った鬼だ。生きながらにして、鬼となったんだよ! 残りの人生、恐怖と不幸を撒き散らして、多く巻き込んで死んでやろう!」


 叫びと共に、燈子から魔力が弾けた。記憶を見たクレールの蝕心魔法が揺らいだのに乗じて、戒めを破ったのだ。


 放り捨てていた銅線を拾いあげ、自爆のため再びつなごうとする。だがクレールも動いた。驚いたことに、ライフルを捨てて燈子に直接飛びつく。


 撃たれるものと思っていたのか、燈子は反応が遅れた。押し倒されて、銅線の一方を蹴り飛ばされる。無論、体に巻いたプラスチック爆弾はそのままだが、この爆弾は結構安定的で、ちょっとしたショックや小さな火などでは爆発しない。信管の作動こそが、確実な起爆を引き起こすのだ。


「は、放せっ!」


 燈子はナイフを抜き、乱暴に振り回した。感情に引っ張られ、習った格闘術も使いこなせていないのだろう。それでもクレールの真っ白な頬を、ぎざぎざしたナイフの刃がかすり、裂かれたシャツの胸に血がにじむ。


 傷つけられても、クレールは武器を抜かない。燈子を抑え込み、抱き締めるようにしてその両腕を封じると、現れた首筋めがけてかっと口を開いた。


 犬歯が柔肌に食い込む。鮮血がしたたり、吸血するクレールの目が妖しく光る。


 涙が流れている。チャームを使った、クレールの目からだ。


「き、さま……」


 静穏と快楽の中で、燈子の声が穏やかに変わっていく。抵抗が止んでいる。ナイフはすでに取り落としていた。

 不可逆の強力な蝕心魔法、チャームの効果だ。坂下燈子が、彼女の体から消えていくのだ。同時に燈子を苛む忠治の記憶も。


 クレールが唇を話し、顔を上げた。穏やかな目でこちらを見つめる燈子の黒い髪に細い指がそっと絡む。


「……君を、リナリアと名付けよう。ルトランドのかけた蝕心魔法は消えた。僕は君の主として、もう、けっして、君を苦しめたりしないと誓う」


 優しい言葉に、力いっぱいの抱擁で応えた燈子。強く抱かれながらも、クレールの涙は止まなかった。


 その後は、早回しのように流れた。クレールはリナリアに命令し、待機していたヘリを呼ばせて、兵士の一人を操り奪った。リナリアにはくじら船への潜入と破壊活動を行わせ、その後自分は島に戻ったドラゴンピープルと共に奇襲をかけた。


 相手の狙撃手を下僕と化し、自らも不意を突いて狙撃を行う。俺とルトランドは、すんでのところで命を拾い、船も止まったというわけだ。


 手繰り寄せた最高の結果にもかかわらず、クレールの心は晴れなかった。


 燈子を救うため、燈子の全てを奪わざるを得なかったのだ。

 吸血鬼に苦しめられた者を、吸血鬼の力でしか解放できなかった。


 クレールの思念には、自分が吸血鬼であることの疑問が渦巻いている。

 鬼となった燈子の姿が何度もループしている。


 吸血鬼は、本当にこの世に存在していていいのか。

 父であるライアルを尊敬し、吸血鬼であることに誇りを持っていたクレールは、ずたずたに傷ついたまま、苦しみの中をさまよっていた。


 映像が消えていく。再び戻ったくじら船の甲板で、クレールはひざまずいている。顔を上げ、全員を見回した赤い瞳は震え、記憶と同じ涙が宿る。


「リナリアは、僕の何人もの同胞を銀の弾丸で葬った坂下燈子は、僕たち吸血鬼が生んだ。たとえそのもとが父様の狙撃にあったとしたってだ。その彼女の苦しみを、僕はチャームでしか、彼女の人格を奪うことでしか解決できないのか! 僕はなぜ吸血鬼なんだ、こんな、こんな……人の心を奪い、操ることしかできない種族なんだ!」


 叫びと共に泣き崩れるクレールを、フリスベルが痛ましい顔で見守る。

 リナリアがしゃがみこみ、その手をそっと握った。


 俺には言葉が出ない。だが、銀のナイフをそれ以上握ることはできなかった。


 吸血鬼がどんな種族であっても、キズアトのような奴が流煌を奪っても、俺にクレールは殺せない。同じ断罪者として、ときには罵り合いながら、共に過ごしてきたこいつを。スカした態度や、ナルシシズムの向こうに、吸血鬼にあるまじき、心の優しさを育んでしまったこいつを。


 誰も何も言わない。クレールの慟哭が、静かな海に響く。


 その最中、だった。


 誰もが目を離していた如月が、一気に立ち上がる。

 反応したスレインの腕をくぐりぬけると、ルトランドの首元を抱え、その喉元にナイフを突きつける。


「動くなっ!」


 杖を持ちかけたフリスベル、尾を振り上げたスレイン、9ミリ拳銃を構えたリナリア、そして顔を上げたクレールと、M97のスライドを引いた俺。


 ひっくり返っても勝てないであろうメンツを前にして、如月は泣きながら笑う。


「……予定通りだ、予定通り、吸血鬼は抹殺する」


 こいつも俺と共に記憶を見た。恋人だと信じていた自分が、燈子の本質を何ひとつ知らなかったのものも分かったに違いない。


 それなのに、まだ――。


 如月の妄執に応えるように、くじら船が大きく汽笛を吹いた。

 足元で氷が砕ける音がする。フリスベルがつくった氷塊が破られている。


 まさか、船が再び動いているのか。


「お前達断罪者は、くじら船の弱点を突くと思っていたぞ。魔法で止められることもまた、想定済みだった。補助動力がある。このまま島を沈めてやるぞ」


 赤く染まった日ノ本の鉢巻きが、苦悶の輪のようにその額を取り巻いている。

 如月の目から涙が消えた。純粋な狂気で、全てを切り捨てる。


「軟弱な感傷はいらない。私は報国ノ防人の団員、日ノ本大河だ。如月などという軟弱な名は捨てた。如月が抱いた人の心など知らん! この身は全て神州のため、悪鬼羅刹どもを葬る!」


 こいつの中では、もはや全てが理解を超えたのだ。


 プラスチック爆弾を満載したくじら船は、ゆっくりと、だが確実に、氷の海を脱出し始めていた。


 その丸い舳の目指す先には、ポート・ノゾミの明かりがはっきりと輝いていた。

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