22深淵を覗く者は
クレールはしばらく動かなかった。空からと違って、海面すれすれの低い位置では、夜目が利いても木立の中の様子が分からない。
こちらから敵の姿が見えない以上、接近するよりほかないが、どこから狙われるか分からないのだ。へたに障害物を出られない。
銃撃を受けたクレールは、二つのパターンを想定していた。すなわち坂下燈子が素直に89式で射撃している場合。そして、観測手か他の兵士が囮としてこちらの目を引きつけ、誘導しようとしている場合。
俺には思い浮かばなかったが、後者の方も確かに考えられる。確かに、敵が二人だけとは限らない。
もう一度クレールは辺りを見回す。今居るのは島の岸辺にある岩場。木立は前方十一時の方向。そこまでに身を隠せそうな岩が一つ。距離は十メートル程度。前身するなら、まずあそこまで。
怪しいのが、右前方三時方向にある崖。距離は百メートル強だが、海から上がって前進し、前方の岩に身を隠すと仮定すると、角度的に丸見え、絶好の狙撃地点となる。もしも、そこへおびき出すのが燈子たちの狙いだとしたら――。
クレールの奴、毎回こんな緊張感の中銃撃戦をやってたのか。いけ好かないこともあるが、これだけのプレッシャーの中、あらゆる場合に注意していれば、少し分かる話だ。
「……よし」
案外早く、クレールは覚悟を決めた。考えたところで、リスクは減らないことには気が付いているのだ。
身体を半分海に沈めながら、波のタイミングをうかがう。穏やかながらも、少し大きな引き波に合わせて、顔を沈める。少しだけ位置をずらして、浮き上がった足を岩場にかけた。
身体を引き上げた瞬間、銃声。水の滴るマントの裾を、小銃弾が貫いた。
クレールは身をかがめると、岩場を不規則にじぐざぐに動きながら前へ進む。銃弾は容赦がない、二発、三発と予想される針路上を過ぎ去る。
かわしていなければ、額か、心臓を貫かれている。追い込みなどではなく、仕留める気の銃撃。そう思っていたクレールだが、岩陰に飛び込みざま、M1を構えて崖を警戒する。
吸血鬼の目でなければ捉えられないわずかな光。月明りをほんの少しだけはじいたスコープに向かって、M1ガーランドが小銃弾を吐き出す。
M1の乾いた銃声と、対物ライフルの巨大な銃声が交錯した。
クレールの頬のすぐ脇で、岩石が砕け散る。
一方崖の頂上。岩の塊、いや、岩を模したギリースーツを着こんだ兵士が、声も上げずに落下していった。
後者だったのだ。いかにも撃ち殺そうとする銃撃が囮で、岩に辿り着いたクレールを、無防備な背後から対物ライフルで粉々に吹き飛ばす作戦。
読んでいたわけじゃなかった。あの状況で、岩に飛び込む瞬間、クレールは本能的に背後を警戒した。そしてわずかな光を逃さず、的確なヘッドショットを叩き込んだ。訓練と戦闘を繰り返し、その心身に染みついたクレールの警戒心が相手に勝ったのだ。
自らの平静を確かめるように、クレールは頬に着いた岩の破片を払った。崖には背を向け、木立の奥を見つめる。ここまで倒した兵士は二人。くじら船に割く戦力から考えても、これ以上が居るとは、さすがに考えにくいと踏んだ。
岩を出て、次の木立へ。やたら撃つと位置がばれると思ったのか、今度は銃撃がない。距離はかなり縮まっている。極限の緊張感だ。俺なら叫びながらM97を乱射して相手に撃たれているに違いない。
敵をけん制し、駆け引きに気を配る。俺が面倒くさがる部分を、クレールはこうして引き受けてくれていたのだろう。知らずに、どれほど助けられていたことか。
最も、自身の記憶の中のクレールに、そんな述懐が伝わるはずもない。
しばらく周囲の気配を確認した後、クレールが森へと踏み込んだ。
姿勢を低くし、茂みをかき分けながら進んでいく。銃声から方角は分かるが、まだクレールの目は相手を捉えられていない。だが、恐らく向こうはこちらを把握している。致命傷を食らっても不思議ではない。
記憶を通じて、クレールの思考が分かる。どうやら、坂下燈子と話ができる状況を望んでいるらしい。殺し合いをしながらよくそんな考えが思いつくものだが、同じ吸血鬼として、ルトランドが自分を欺いて汚辱刑を行ったことへの責任を感じている。
吸血鬼であるキズアトによって、流煌を奪われた俺のことも、その中に含まれていた。俺に対して、普段はそんなそぶりをおくびにも出さないというのに。
種族としての自分を、何より誇りに思っているクレールがだ。
「出て来い……」
つぶやきながら、M1のストックを握りしめ、木立の中を見回す。クレールは砲火の位置から、相手との距離を把握している。もう10メートル以内には接近している。次迎撃に現れた瞬間に銃を撃ち落とし、制圧するつもりなのだ。
夜を見通す深紅の瞳は、木立の影から現れるどれほど小さな影一つとして見逃すまいと、大きく見開かれているのだろう。ほんのわずかな風に、微妙にゆらめく青白い髪も、空気の流れを通じて坂下燈子の存在を探っているかのようだ。
一分、二分、無音の森をにらんだまま、息の詰まるような時間が流れる。
三分を心の中で数え終わったところで、クレールは木立を出て走り出した。
仮説がある。最悪の仮説、自分はすでに勝利したか、相手を追い詰めてしまったのではないか、という。
「よせ、やめろ……!」
独り言を言いながら、不格好に駆け出す。木の根につまずき、転びかかったクレールに、銃弾は降り注ぐことがない。不格好に丘の斜面を突き進む、隙だらけの小柄な少年に、敵意を向ける者は誰も居ない。
それは、すなわち――。
革靴が、硬い地面を踏んだ。木立を超えたクレールは、たった一発の威嚇射撃すら受けることなく、狙撃手が陣取っていた丘に足を踏み入れた。
「あ、来た」
真っ赤に染まった目をこちらに向けながら、足元に銃を放り出した軍服の女性が、銃座に座っている。
幽鬼のように蒼白な顔に、黒い髪がゆらりとかかる。百日眠らなければ、人間は死ぬのだろうが、そんな事態を何度も超えたかのような凄絶な視線だった。
もしも、日ノ本の文化にいう幽霊や怨霊というのが顕現したのなら、こういう容姿だろう。今のリナリアとは似ても似つかない。
そばには、頭から胸、腹と撃ち抜かれた兵士の死体がある。
クレールの記憶と俺の思考は、完全に一致している。女が羽織っているのは、紛れもない、警察署の前で吸血鬼に巻かれていたプラスチック爆弾つきのベスト。
こいつが坂下燈子。追い詰められて、今まさに自爆を選ぶところに違いない。対物ライフルを使う兵士を殺したことで、すでにクレールは対決に勝っていたのだ。
「吸血鬼、”クレール・ビー・ボルン・フォン・ヘイトリッド”。任務を邪魔する可能性のある断罪者。お前の手にだけは堕ちないための自爆のつもりが、来てくれたから巻き込める」
ぼそぼそとした呪詛のような言葉。両手に握り締めた剥き出しの銅線は、爆弾の信管の通電用か。
「地獄におちろ。おぞましい吸血鬼」
「よせ!」
両手の銅線が接触する間際、クレールから走った銀色の魔力が、燈子の真っ赤な両目を貫く。
詠唱なしに使える蝕心魔法。動作の停止を命令する単純なもの。
燈子の手が止まった。銅線はぎりぎり通電していない。間一髪間に合ったが、燈子の精神とつながったクレールには、彼女をさいなむ苦痛の記憶が一気になだれ込んだ。
吸血鬼が作った悪夢が、吸血鬼たるクレールに襲い掛かってくる。
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