9アルコールと乱闘
サンドイッチを食べ終えると、フィクスはチェイサーの水をウイスキーのグラスへ傾けた。氷が溶けてグラスにぶつかり、子気味いい音が響く。マドラーを使って軽くかき混ぜ、グラスに唇をつけると、一口ぶんくらい一気にあおった。
雪のような頬に少しだけ赤みが差し、ウイスキーで潤いを帯びた唇を、薄桃色の舌で軽くなめとる。
「……こうして、宵の口にお酒を頂いた気がします。日ノ本では二十歳前の飲酒が禁じられていたようですが、流煌さんも、ご主人様も、法律を守っておられたのでしょうね。このお酒に慣れるまで、少し苦労したような」
記憶はなくとも、感覚はあるか。この間のドマの一件では、移植された記憶から、ドマの中に瀬名が蘇っていたが。覚えていなくても、感覚になって体に残っている何かがあるのだろうか。
俺はモヒートに口をつけた。こいつはラム酒をコーラで割ったカクテルだ。バンギアの大陸まで行くと手に入らないが、この島でならまあまあ手に入れやすい。
甘い香りと爽やかな炭酸の中に、アルコールが通り抜けていく。思ったより飲みやすい。沼パンは水分が少なく、喉も乾いていたので、一気にコップの三分の二を開けた。
「うめえな……」
そういいつつも、喉を焼いたアルコールの熱が胃から全身に回っている気がした。
ワインでユエに心配されたが、フィクスと違って、下僕半の俺は酒への抵抗もそれほど強くされなかったらしい。
不覚にも、カウンターに手を突いてしまう。カウンターの吸血鬼が、かぶりをふって水を出してくれた。水を飲み干したが、なかなか戻らない。
フィクスがため息を吐いて俺を見下ろす。
「ご無理をなさいましたね。煙草はたしなまれるというのに」
「うっせ……くっそ、俺を殺したいなら、今を置いて、ないぞ」
まずいぞ、ちょっと景色が回ってきた。煙草はよくやるんだが。
よろめきそうになったのを、フィクスが椅子を寄せて体を支えてくれる。
「……ご主人様、考えなしの発言はおやめください。いくらなんでも、こんな酒場で断罪者を殺して、偉大なる主に迷惑がかからぬはずがないでしょう」
そりゃそうか。というかよく考えたら、バイクで二人乗りしようとした時点で、他意はないと言われていた。
「すいません、お水をもう一杯ください。ほら、しっかりして。あなた本当に、二十歳を超えた男性なのですか。覚えてはいませんが、共に偉大なる主の下に使えた娘たちが、あなたのような者に断罪されたなんて信じられません」
なんかこんなこと、昔もあったような気がする。まだ紛争の起こる前。三呂のライブハウスで調子に乗って、アホなことにビールを飲んで、ふらふらになった。
流煌と一緒に、補導に回る先生を避けて逃げ回り、三呂大橋を歩いて帰ったっけ。
紛争から逃げるときもそうだったかな。流煌は俺を逃がそうとして、キズアトの奴に捕まっちまった。
迷惑をかけてばっかりだ。本当に、流煌は、フィクスは、キズアトと居た方が幸福だったんじゃないのだろうか。
「すまねえ、なあ……」
うなだれていると、勝手に言葉がもれた。誰に謝っているかも分からない。
キズアトの下僕となり、名前が変わって記憶も奪われ、人生そのものを抹消されたに等しい流煌。けっして戻らない全てを、俺は俺のせいだと思ってしまう。
細い手が、おれの肩をつかんだ。引っ張り上げられたと思ったら、ネクタイをつかまれて一気に唇を奪われていた。
目の前に出てきたフィクスの上半身が、俺を強く包み込む。舌でこじ開けられた口に、冷たく爽やかな液体が流れ込んでくる。息遣いと鼓動まで、抱き締められているかのようだ。
俺に水を飲ませ終わると、相変わらず淡々とした目で、フィクスは俺をカウンターに預けた。
アルコールとは別の意味で熱い。水のせいか、酔いが一気にさめちまったようだ。
「勘違いなさらないでください。偉大なる主と比べ、圧倒的に男性として劣るあなたを気遣うことも、私への責め苦なのですから」
そう言いながらも、俺とは視線を合わせない。今もし、強く見つめ合ってしまったら、俺達はどうなるのだろうか。
「地味な奴隷を随分と見せつけてくれたものだな、下僕半」
「なんだ?」
振り向くと、吸血鬼が四人、俺とフィクスを取り囲んでいた。他の席の奴らも立ち上がり、その合計はさらに増えて九人。店主がいつの間にか、外のランタンを回収して戻ってきている。
これは閉店ってことか。ただでさえ人通りの少ない通りで、ランタンが収納されれば、いよいよ店に入る奴は居なくなるだろう。
リーダー格というのか、銀髪を綺麗に刈り込んだ、目つきの鋭い男の吸血鬼が話し始めた。
「その奴隷が欲しくなった。マロホシの下僕半、一晩私達に譲れ」
そう言うと、スカしたスーツの胸ポケットから、バンギアの貨幣、ルドー銀貨を取り出し、カウンターに転がした。
バンギア唯一の人間の国、『崖の上の王国』の首都が描かれた円形の銅貨。これが五枚で一千ルドー。
日ノ本のイェンにして、数百円。ホープ・ストリートでも、これで尻尾を振る女は誰も居ない。
「はあ? フィクスは百万イェンもしたんだ。一千ルドーじゃ、サンドイッチひとつ買えねえ。大体、売るはずねえだろうが。吸血鬼らしくもねえやり方してんじゃ」
「ご主人様!」
悲鳴に近いフィクスの声。頭の上に衝撃を感じ、目の前が暗くなってカウンターに倒れ込む。
髪の毛が濡れてる。破片が散ってる。一人が話しかけている間に、他の奴が中身入りの酒瓶で殴りやがった。
ゴブリン並みに汚いやり方だが、引っ掛かった俺も悪い。日常的にクレールと接してたせいか、吸血鬼は公正な奴らだと、勝手に思い込んじまった。カルシドのような奴も居るのだ。
店中に哄笑が響く。吸血鬼たちが俺を指さして笑っている。
「はっはっはっは! 下僕半ごときが、我々に意見できると思うか! 来い、フィクス。卑しいミーナスに代わって、我々が可愛がってやる!」
ミーナス・スワンプ。沼のミーナス。キズアトの奴の本名だ。名と居住地だけを表す名前というのは、吸血鬼で最も低い家柄であること、いや、確たる家さえも存在しないことを表す。屈辱的な名だ。
「あなたがた……」
キズアトの奴を偉大なる主と崇めるフィクスの声に、冷たい怒りがこもる。それに反応して、吸血鬼たちが整った顔に欲望をみなぎらせた瞬間を、俺は見逃さなかった。
一気に立ち上がると、俺を笑った吸血鬼の顔面に向かい、無言で拳を叩き付けた。
クレールの奴にわりと力があったので、用心がてら全力で振り抜く。鼻か頬を砕いた感触が、生々しく俺の手に伝わる。
「お、おのれ……!」
顔から血を吹き出し、テーブルを背にした吸血鬼の目に、魔力の光が集まっていく。蝕心魔法には精神の集中が必要だ。痛みと怒りは魔力の操作を鈍らせる。
俺は一気に詰め寄ると、テーブルに飛び乗って、マウントを取った。
「こっちの台詞だ、カス野郎がっ!」
一発、二発、三発、立て続けに殴りつける。フィクスを見つけたときから今までの苛立ちをぶつけるように。
拳と顔がみるみる血まみれになった。頬が腫れて、整った容姿が崩れてきた吸血鬼。殴りながら怒りが渦巻き、もう一発と振り上げたところで、腹を蹴られて床を転がる。
それだけじゃなかった。ビリヤードのキューや、椅子、机、足で持ってほかの吸血鬼が散々に俺を打ち叩いた。
「ご主人様!」
フィクスの叫びが遠くで聞こえる。かろうじて動く顔で見上げると、吸血鬼が顔の血をぬぐい、懐から銃を取り出すところだった。
オートマチックハンドガン、P220。
スライドが引かれた。9ミリルガーが銃身に装填される。
「店主、片付けておけ」
氷のような目をして、俺の頭に狙いを付ける。装弾数は十発以上。防弾チョッキ、ボディアーマーなし。撃たれればひとたまりもない。
「やめてください! もう分かりました、私が付き合いますから、どうか命だけは」
命乞いが幕の向こうで響いた、まさにそのとき。
閉ざされたはずの酒場の扉が、大きな音を立てて開いた。
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