4記憶移植の意味

 眠る男を見下ろすと、ドマは喋り始めた。


「この男の名は、瀬名せな勝機しょうきといいます。年齢は43歳、紛争までは、現在マロホシ様の経営する病院で、外科医をしていました。彼を含めて四人家族で、三呂市に自宅を所有し、ポート・ノゾミへは地下鉄とポート・レールを併用して通勤しています。家族の中で紛争に巻き込まれたのは、この男だけのようです」


 七年前、ポート・ノゾミだけがバンギアに飲まれた結果、そういう人間も多いと聞く。実際にそうなった人を見るのは初めてだ。俺だって結局家族と分かれたが、一応は全員揃ってバンギアに飲まれた。


 ドマの目が澄んだ印象を与える。与えられた勝機の記憶がよほど新鮮なのだろう。快活な調子で、次々としゃべり続ける。


「ふうん、たった四十年のわりには、結構興味深い人生を過ごしているな。マロホシ様、アグロスの人間達は、短い寿命の中で、本当に進んだ技術や高度な知識を身に着けているようです。この男も三十歳にも達しないうちに、人間の複雑な身体を学んで、ひととおりの手術ができるようになっていますね。日ノ本は教育がとても進んでいるな。バンギアでいえば王侯貴族や大金持ち並みの教育環境が、かなり多くの人間に用意されている」


 ただの世界比較みたいになってきた。しかし、本当に記憶を移しただけのようだ。眠っている男の方も、特に変化は見られない。

 マロホシは満足げにうなずくと、隣のギニョルを見やる。


「これだけのことよ。なにか、危険はあるかしら?」


「うむ……」


 ギニョルが目を細めてドマを見つめる。


 ただ見ているのではない。操身魔法の使えるギニョルには、魔力の分布を読み取ることができる。断罪者のうち最も魔力に敏感なのは、ローエルフのフリスベルなのだが、ギニョルだってそこそこはできる。


「少し、以前のドマと異なるようじゃが。ところどころ、わしら悪魔の基本的な波長が揺れておるような気がする。個人差といえばそれまでじゃが」


「ふむ。記憶は人を構成する上で重要な部分ですからね。私にも少し揺らぎが見えます。ドマ、なにか自覚症状はあるの?」


 ドマはしげしげと自分自身を眺めた。手を握ったり、開いたり、スーツの袖をめくって、腕を確かめたりしている。


「とくに、これといった違いは感じません。ただ、勝機は外科手術が好きだったようです。恐れ多いかも知れませんが、僕も改めて、マロホシ様の手術に興味がもてそうです」


 マロホシは腕を組んだ。切れ長の目を細めて、ドマを見つめる。


「普段は無かったの? 私の元に来ながら、この島にしかない人間の医療を学ぶという心がけが」


「あ、あっ! いえ。けしてそのような。とにかく、この男の記憶を得たうえは、僕も一層お役に立ちますよ」


 愛想笑いで弁解しようとしている。

 この迂闊なところ。人間の記憶を移されても、ドマはドマだ。マロホシもどうしてこんなやつを近くに置いているのだろうか。オフィスや今までの断罪事件で見た限り、もっと有能そうな奴が集まってきているはずなのだが。


 ドマの様子がかわらないのを見て、マロホシは満足そうにうなずく。


「実験は成功のようですね。このようなものですよ。ギニョル様、なにかございますか?」


「いや。特にない。これで終わりなのじゃな」


「ええ。これで、あなた方断罪者が期待するようなものは、このノイキンドゥに存在しないことが、お分かりいただけたかと思いますが」


 本当に、何もなかった。


 もちろん、このあたりだけやたら使い魔が死ぬ理由や、ハーレムズの目撃情報が多い理由は分からない。殺人の被害者や行方不明者、その逆の断罪事件を引き起こした奴らが、事件直前にノイキンドゥに出入りしていた理由も分からない。


 だが、適法性を確認したこの実験が、何ら悪い結果をもたらしていないことだけは確かだ。これをマロホシがどう利用するかは置いておいて、今の時点で、俺達断罪者は全く動けない。


「……失礼しよう。これで、予定通りなのじゃろう」


「その通りです。さようなら、騎士くん」


 粘つくような執着の視線。科学者の目ってのは独特だ。七年前に俺を下僕にしようとしたときと同じ。

 つばでも吐き捨ててやりたい気分だが、一礼して、ギニョルと共にエレベーターへと向かった。


 講義は午後に行われていた。悪魔であり夜型のギニョルは、俺たちでいえば朝早くに無理やり出ていたことになる。

 そんなわけでだいぶ腹が減っていたらしく、途中でザベルの店に寄り、俺は夕食、ギニョルも人間でいえば朝食としての夕食となった。


 俺だけのときはともかく、断罪者の頭であるギニョルが居ると、店の客たちも少々振る舞いが大人しい。俺とギニョルはテーブル席で向かい合った。


 俺はソラマメとベーコンのクリームパスタ。付け合わせは安ワイン。ギニョルは黒麦のパンに、魚のフライとチーズ。それと、俺のより少し上等なワイン。黒麦は、ダークランドで作られている作物だ。黒というより、紫色の穂をつける小麦のような作物。パンは少々固めになる。


 ナイフとフォークで、フライを切り分けるギニョル。俺はパスタのスープをスプーンですくって口に運んだ。オリーブオイルが効いている。


「なんだったんだろうなあ、あの実験は。魔法のことはよく分からねえよ」


 フライを口に運び、ワインに手を付けるギニョル。細いのどがこくこくと動く。改めて見ると、蠱惑的な肌の白さだ。

 グラスから柔らかそうな唇を離し、水面を揺らしながら俺を見つめる。


「……確かに、表面上は何事も起こったように見えん。ただ、記憶と人格とは深い関係にある。ある意味、人格とはそれまでの記憶から作られているともいえるのではないか」


「記憶、か」


 人間は赤ん坊の状態で生まれるが、そのときできるのは泣くことだけ。その後一人前となるには、何かを見て覚え、学ぶことが必要だ。


 待てよ、もしギニョルの言う通りならば。

 学習したことだけじゃない、癖や好み、考え方に至るまで、全てが記憶として存在するというのなら。


 ドマは頭の中に、勝機という男の人格を、まるごと入れてしまったことになるんじゃないのか。


 それは、いくら悪魔でも相当なことになりそうだ。


ギニョルがワインを飲み干した。そっとテーブルに置くと、あごに手を当て、料理を見下ろす。


「クレールから聞いた話じゃが、吸血鬼も獲物の記憶を消すことはあっても、全てを写し取ることはせぬらしい。ゴブリンであろうと、人間であろうと、一人の記憶全てを持てば、それはその人格を得るということでもある。すると精神が危険になり、それが魔力に現れ、やがて体にも変調をきたすそうじゃ」


 そういや、チャームだって記憶を消すに留まっていた。あのキズアトだって、ハーレムズ全員の人格を頭に取り込んでいるわけじゃないだろう。


 それを、マロホシはあのドマに施したのか。


「我ら悪魔は、他種族を研究し、ときにはその姿に成り代わることさえする。じゃがそれは操身魔法によってじゃ。それ以外で自らを変えることは、境界を超える危険を招く」


「そりゃどういうことだ?」


「分からぬ。紛争の前は、誰もが敬虔に戒めを守っておった。あのマロホシは、それを破ったのじゃ」


 本来肉体を操る操身魔法ではなく、精神を操る蝕心魔法を使って、肉体に変化をもたらす。それがマロホシの目的か。ドマというそれほど組織に必要の無さそうな男を使ったのも、失敗のリスクを見越してのことだろう。


「あいつ、何をする気なんだ」


「アグロスに潜り込むのに役立てるのかも知れぬが、恐らくは好奇心じゃろうな」


 つまり、やりたかっただけってことか。数万年もある悪魔の歴史で禁止されたことを。

 いや、あいつなら――。


「……そう、だろうな。イカれてやがるぜ」


「この島が楽しくて仕方ないのであろう。奴は一種の天才じゃ。これまでわしら悪魔が掟によって試みてこなかったこと、戒めてきたこと、全て試すつもりに違いないわ」


 そう聞くと、なにか気高いようにさえ思えるが。後のことを知らないというのが問題だ。


 俺はグラスのワインを飲み干した。


「そんなに危険なら、難癖つけてでも止めるべきだったか」


「そうもいかぬ。法を守らせるということは、法にないことは裁けぬということじゃ。残念ながら、あやつの実験は適法。何も起こらぬことを祈るのみじゃな」


 そういうときは、大抵良くないことが起こってしまうものなのだが。


 果たして、俺達が食事を終えたあたりで、外からけたたましいブレーキ音が響いた。

 俺とギニョルは無言で席を立ち、表へと急いだ。


 店を飛び出すと、緑地をはさんだ向こうの車道に、ドリフト気味にカーブしながら乗用車が現れる。タイヤ痕をくっきり残し、中央線をふみにじって暴走する。


「ドマ……!」


 運転席でハンドルを握っているのは、実験を受けたあのドマだった。

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