人類が皆、幸せになれるスイッチ
潮原 汐
人類が皆、幸せになれるスイッチ
道路はひび割れ、ビルの窓には一つとしてガラスがはまっていない。塗装が落ちて錆びた車が列を成し、群れを成し、時々腹を見せて転がっている。千切れた電線が垂れ、あちらこちらから鉄が風に軋む音が鳴り響く。そのどれもが濃い緑に覆われ、かつての街は森に呑まれかけている。
鳥は澄んだ青空を翔け回り、虫は網の目のような花畑で仕事をし、動物達が大通りを闊歩する。
人間は誰一人いない。人類はもう、どこにも存在しない。
誰もいなくなってしまった世界で、朽ちたビルの中で、『人類が皆、幸せになれるスイッチ』が点滅している。準備万端。押される時を、役目を果たす時を、今か今かと待っている。
ただの穴となってしまっている窓から、部屋の中へ陽の光が差し込み、月の光が差し込み、風が舞い込み、雨が入り込む。やがて部屋の角に埃が溜まり、そこから芽が出た。茎が伸び、ギザギザの葉が広がり、黄色く丸い花が咲いた。タンポポだった。花が散って綿毛になると、窓穴から風に乗って出て行った。
窓穴からは鳥も入って来る。雀、カラス、鳩、ツバメ。『人類が皆、幸せになれるスイッチ』しかないこの部屋も、鳥にとっては良い住居だ。小枝やボロ切れを運び入れて巣を作り、卵を産む。孵化した雛に餌をやるため、親鳥は忙しなく窓穴を潜る。子はいつか巣立ち、親は巣を捨てる。そうしてまた別の鳥がやって来る。
日は沈み、また昇り、季節が巡る。幾度も幾度も。誰もいなくなってしまった世界は続く。
やがて遂に、その時が来た。
『人類が皆、幸せになれるスイッチ』が、役目を果たす時が来た。
暗くどんよりと立ち込めた雲で空は暗い。雨粒が落ちる。大きく重たい一滴だ。それが二つ、三つ、あっという間に土砂降りになった。雷も轟く。激しい雨から逃れようと、猫が部屋に入って来た。窓からでなく、ちゃんと、部屋の入り口から。少し前に起きた地震で、蝶番が錆びていたドアはドア枠から外れていたのだ。猫は肉球によって音も無く、四つの丸い足跡を残しながら歩く。きょろきょろと部屋の様子を伺い、その目が点滅する『人類が皆、幸せになれるスイッチ』を捉える。
パッ、パッ、パッ、パッ――。
一定の間隔で瞬きを繰り返す。休まず、乱れず。猫はそんなものを見るのは始めてだった。尻尾を立てて尻を振り、肩を深く落としていく。全身のバネに力を蓄え、飛び掛った。鋭いパンチがスイッチを叩く。
カチッ。
スイッチは点滅から点灯へと切り替わる。内部の小型発信機から電波を発信。それをビルの別の部屋にある機械が受信。『人類が皆、幸せになれる装置』が起動した。システムが動作し、瞬く間に世界が、人類が皆、幸せになれる世界へと変化していく。
丁度、雨も上がった。雲が流れ去り、暖かな太陽の光が生まれ変わった世界に降り注ぐ。
誰もいなくなってしまった人類が皆、幸せなれる世界で、猫はビルの窓穴から美しい虹を見上げた。
人類が皆、幸せになれるスイッチ 潮原 汐 @nagamasa_s
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます