第5話

 ――何か、まずいことでも言っただろうか。

 透の顔が、みるみるうちに険しくなっていた。

 うっかり地雷でも踏んでしまったのではと慌てて弁解の言葉を探すが、しかし当の透は気分を害したという風ではなく、ただ今の彼女の言葉が信じられないという顔で押し黙っている。

 やがて、意を決したのか――

「ちょっと待って。京子……ひょっとして長老の話の内容、理解できてたの?」

 念を押すように、質問を返してきた。

「……え? うん、まあ一通り聞いてたし」

 呆気にとられて頷く京子。

 しかしその答えに透は、一層深く考え込むような素振りを見せる。

 そして、唐突に立ち上がった。

 そのまま部屋の隅まで歩いていくと、床に置いてあった荷物から何かを取り出して戻ってくる。

「……僕、こっちに来て一年ほど経つけど。最初の半年はこれに費やしたんだよ」

 そう言って手渡してきたのは、何冊もの紙の束。

 目で伺いを立ててから、そのうち一冊をめくってみる。

 走り書きのような筆致で、カタカナの羅列と日本語が対になるように書き溜められていた。

 どことなく、英語の授業のノートを思わせる。

 ……つまりこれは、語学を習得しようという努力の跡ということだろうか?

 そこまで理解して、ようやく京子はあることに気付いた。

 思い返してみれば、こちらで出会った人間は最初から、透以外誰も日本語を話してはいなかったことに。

 だが京子は、彼らの会話から意味を汲み取り、理解している。意識しなければ気付かないほど、ごく自然なこととして。

 黙り込んだ京子の様子を見て何かを確信したのか、透が言う。

「なるほど……多分、それが京子の『外なる理律アウターズ・ロウ』だ」

「それ……って?」

「まあ、異世界の言葉が分かるって感じじゃないかな? ……待てよ、ってことはひょっとしたらノルヴィール語だけじゃなくて、他の国でも有効なのか……?」

 軽い感じで纏められるが、直後透はまたも真面目な顔で考え込んでしまう。

「……えっと、凄いの? それ」

 透の努力の結晶たるノートの束を見るに、確かに便利な能力なのかも知れないが……京子が期待していたのとはだいぶ違う。

 第一、言葉の壁なんて本来はご都合主義で何となくクリアしておくべきものではないのだろうか、作劇上。

 リアクションに困る京子とは対照的に、透はあくまで真面目な顔を崩さず頷く。

「大当たりって言っていいんじゃないかな。実は『外なる理律アウターズ・ロウ』って当たり外れが激しいんだよ」

 そう言ってハズレの例を挙げていく。『酒が三分で抜ける』『手から砂糖が出る』など宴会芸レベルでなら面白そうなのから、心の底から気の毒だと同情してしまった『尿がスライム状に固まる』などというものまで。

 それらに比べれば、京子のそれが遥かにマシなことだけは確信できる。

 が、それよりも気になったのは――

「ねえ。それだけ知ってるってことは、私たちみたいにこっちに飛ばされた人って、多いの?」

 さっきのトラックの話でも思ったことだった。

 透は、最初から今に至るまでずっと冷静だ。少なくとも、訳も分からず飛ばされた異世界でようやく元の世界を知る人間に出会えた――というような感動は見受けられない。

 むしろ、京子が混乱しないよう気遣っている節さえある……まるで、これが初めてではないとばかりに。

 そんな京子の推察に、透は頷きで答えた。

「僕が知ってるのは十人くらいかな。実はそのうちの一人が率先して『同じ境遇同士結束しよう』って言い出したこともあって、ちょっとした互助会みたいなのが出来てるんだよ」

 なるほど、透が京子にあれこれと世話を焼いてくれているのも、互助会とやらの活動の一環なのだろうか。

 まあ、考えてみればこれほど酷な話もないのだ。

 着の身着のまま、言葉も話せず。その上得たのが尿スライム体質では、選ばれし者どころか普通の人間以下のハンデを負って放り出されたに等しい。数日中に野垂れ死んでもおかしくない。

 そんな異世界の人間たちが拠り所を求め、作り上げる。それは自然なことに思えた。

 同時に、京子の境遇や手にした能力がいかに恵まれているかという実感も徐々にだが沸いてくる。

 ――と。そこまで考えたところで、さっきの質問に戻ってくる。

「……で、透の能力って何なの? 持ってるんでしょ?」

 改めて尋ねると、途端に透は複雑な表情を浮かべる。

「僕のは……魔法が詠唱や魔力消費なしで使える、っていう奴なんだけど……」

 やや言葉尻を濁して答える透。が――

「魔法? この世界、魔法が使えるの!?」

 透の口にした単語に食いつく京子。

 透があの巨狼を仕留めたのは、京子が意識を取り戻す前の出来事だ。

 ゆえに京子は今の今まで、魔法というものを直接見てはいない。

 もっとも、であれば仰々しい杖を携えた透の出で立ちを一体なんだと思っていたのか、という話になるが、京子はあまり深く考えない性質たちだった。

 ともかく、テンションの上がり下がりが激しい京子を落ち着かせるように、

「使うだけなら、京子も覚えられると思うよ。どこまで極められるかは適性次第らしいけど」

と答えてやる透。しかし完全に逆効果だった。京子の目が輝きを増し、鼻息も荒くなる。

 異世界の言葉を自在に操ると聞いても白けた反応だったのとは大違いだ。

 ひとしきりキメ顔で虚空に手のひらをかざすなどしていた京子だったが、ふと何かに気付いたように透に向き直る。

「……でも、透のそれってとんでもない能力じゃないの?」

 ゲーム好きの京子には、魔法を唱えるのにMPや詠唱時間が必要ないということがどれだけ壊れチート性能かということが、容易に分かる。

 その言葉に透も同意はしたものの、やはりどこか曖昧だった。

「うん……ただまあ、その。他に代償があるっていうか……多分、そろそろ影響が出てる頃じゃないかな」

 煮え切らない答えに京子が疑問を口にする前に、部屋のドアからコンコンとくぐもったノックの音が響く。

『食事が用意できましたので、是非降りてきてくだされ』

 聞こえてきたのは、長老の声。

 そう言えば、そんな話もしていた気がする。タイミングよく、京子の腹の虫も鳴った。

 そんなこんなで二人は話を一旦打ち切り、下の食堂に下りることにした。




 再び服を着崩して食堂に降りた京子を見るなり、長老は渋りきった表情を浮かべた。

「……お客人にこういうことを申し上げるのは失礼とは思うのですが。もう少し服装を、その……腰布が長すぎて、少々目に毒ですのでな」

 さっきは何も言われなかったスカートにチラチラと視線を落としながら苦情を述べる長老。

 これ以上露出を増やせと言われたことに、京子は自分の頬が引き攣るのを感じる。

 しかし透はともかく、京子は保護してもらっている身なのだ。無用に反発して追い出されても仕方がない。

「わ、分かりました……」

 スカートの腰を折り込んで、裾を上げる。ふとももの露出が3センチほど増えたところで、村長は妥協したように頷くと、やや気まずげに頭を下げて去っていった。

「もう、ホントなんだってのよこの世界……」

 しかし何故突然、こんなことを言ってきたのか。

 村に着いてすぐ長老を訪ねた時は、少なくとも不快そうな様子は見せていなかった。その際とほぼ同じ露出を保っていたはずなのに、今になって苦言を呈してくる理由が分からない。

 不思議に思った京子が透の方へ視線をやると――

 ぷい。

 露骨に目を逸らされた。

 スカートを短くしたことで目のやり場に困っている――という感じではない。もっと何か後ろ暗いものを抱えているような雰囲気が滲んでいる。首筋から、汗が一筋流れ落ちるのが見えた。


――そろそろ影響が出てる頃じゃないかな。


 先程の説明で、最後に付け足していたその言葉が不意に頭に浮かんでくる。

「……ねえ、透」

 逸らしたままの視線の先に回り込む。再び逆方向に顔を背けられたが、構わず続ける。

「あなたのアウターなんとか……代償があるって言ってたよね?」

「えーと、それは。担当者が不在で」

「代償って、何?」

「訴状が届いていないのでコメントが」

「……何?」

 沈黙が降りる。永劫とはこんな感覚を言うのだろうと思うくらい、たっぷり時間を置いた後。

 根負けしたように、透が言った。

「僕が魔法を使うと……この世界の女性が、脱いでいくんだ」

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