第4章 鞄の秘密

 翌日曜日も明けて月曜の朝。

 私と理真りまが理真の部屋で遅めの朝食兼早めの昼食を取っていると、携帯電話の着信音が鳴り、理真は箸の動きを止めた。

〈着信音1〉買ってから一度も変えていない理真の携帯電話の音だ。発信者を通知するディスプレイを見て、「丸姉まるねえからだ」と箸を置いて携帯電話を取った理真。スピーカーボタンを押して、私も会話に参加できるようにしてくれる。


「もしもし、理真」


 スピーカーから聞こえてきた丸柴まるしば刑事の声は、完全な仕事モードだった。


「何かあったの?」


 理真もただならぬ気配を感じ取ったのか、口調が冷静なものになる。


「今朝、兼崎かねさき金融にガサ入れが入ったの」

「ガサ入れ? 暴力団とは無関係だったんじゃ」

「マルサ方面。脱税よ。かなり前から目を付けてたらしいわ。踏む込むだけの証拠が揃ったのね。兼崎さんが身代金として用意したお金の出所も察しが付いたわ」

「出所って?」

「先々週くらいに、社長室からの話し声を女性社員が漏れ聞いたそうよ。『一千万を私が、二千万を社長がとりあえず……』みたいな会話が聞こえたって。社長と殺された丸山まるやまさんの二人の声だったと証言してるわ。多分、脱税した現金をそれぞれの自宅に、こっそり自宅に隠しておこうという相談だったのかも」

「タンス預金なんかじゃなかったってことか」

「そう。そうなんだけどね……」


 突然、歯切れが悪くなった丸柴刑事は、理真に「丸姉」と話を促され、


「ガサ入れで会社の金庫にも大量の現金があるのをみつけてね。金融業だから、会社にある程度まとまったお金があるのは当たり前なんだけどね、それでも社員の話じゃ、多くても金庫に入ってるのは常時一千万くらいだって。兼崎さんが現金を置くの嫌ってるから。でも、今朝の金庫には三千万近くの現金があった」

「それって」

「そう、うち二千万は、兼崎さんが身代金として使ったお金だと認めたわ。でね、そのお金の一部の紙幣番号が一致していたの。前に話したわよね、龍神会が覚醒剤取引で銀行員から支払われたお金と」

「え?」


 理真が頓狂な声を出した。私も箸の動きを止めた。どういうことだ?


「さっきも訊いたけど、兼崎金融は暴力団と無関係なんだよね?」

「そう、兼崎社長も、それだけは頑なに否定しててね。脱税は認める。自宅に二千万隠していたことも認めるが、暴力団との繋がり、覚醒剤取引なんて全く身に覚えがないって」


 変なところで潔いな。


「でも、紙幣番号が一致してるっていうのは……」

「そうなの。兼崎金融は龍神会の息が掛かった会社で、覚醒剤取引で得たお金を一時的に保管していた。そう見られても仕方がないわ」

「でも、丸姉、そのお金は丸山さんの身代金として使われたものなのよね? ということは、確かにその現金は兼崎社長の自宅にあったはず。さっきの社員の話から、脱税金の二千万円も自宅に隠してあったとする。そして、兼崎さんがしらばっくれてるだけで、兼崎金融が本当に龍神会と繋がっていたともする。そうすると、兼崎さんの家には、脱税の二千万、龍神会の千五百万、合わせて三千五百万円のお金があったことになる」

「そういうことになるわね」

「その中からどう工面して身代金として使うか。考えるまでもないよね。暴力団から預かったお金を身代金の内訳に入れる? うちの社員の丸山を助けるため誘拐犯に身代金としてあげちゃいました、なんて言ったら、新潟東港に浮かぶわよ」

「うーん……あ、ごめん、これから会議だから、またあとで掛け直す。じゃあね」


 丸柴刑事は電話を切った。


「……よくよく考えたらさ」


 しばらく箸に手も付けずに考え込んでいた理真は、


「兼崎さんの家に、脱税と龍神会のお金があったならさ、話は簡単だよね」

「何が?」

「龍神会の千五百万円と、脱税の二千万の中の同額を取り替えてしまえばいいんだから。龍神会が恐れてるのは、紙幣番号が控えられてるってことだけでしょ。脱税金の中の千五百万を龍神会に渡してしまえば、龍神会はおおっぴらにそのお金を使えて、兼崎金融は龍神会との繋がりを知られていないんだから、出て行くお金の紙幣番号をわざわざ調べられるはずない。つまり、兼崎さんが身代金として使えるお金には、番号を控えられた紙幣が必ず含まれる」

「辻褄があったね」

「いや、ここからよ。今回幸運にも、と言っていいのかな、身代金は誘拐犯に奪われることなく戻ってきた。で、兼崎さんは、そのお金を会社の金庫に入れた。どうして? 今まで通り家に保管しておけばよかったじゃない。タンス預金だって言って」

「今度の事件で、兼崎さんの家には二千万円の現金があるぞ、って少なからず世間に知れてしまったから、泥棒なんかを恐れて会社に置くことにしたんじゃない?」

「そんなこと、警察は発表したりしないよ」

「警察も信用してないんじゃないかな、兼崎さん」

「それはあり得るね。何せ暴力団のスパイだっているらしいからね」

「納得いった?」

「うーん……でも何だかしっくりこないな……」


 理真はしばらく唸っていたが、まあいいや、と再び箸を手にして食事を再開した。私もお椀を口に運ぶ。味噌汁、冷めちゃったよ。



「いや、それはない。絶対にないな」

「どうしたの丸姉?」


 電話の向こうから聞こえた丸柴刑事の声は、いつもと違いドスを効かせたような低音ボイスだった。


「理真の推理をクロさんに聞かせたのね。で、それに対するクロさんの答え」


 今のはクロさんのものまねだったか。理真から悪い影響を受けないでもらいたい。あんまり似てないし。

 食事の片付けも終わり、午後の再放送ドラマを理真と見ていた最中、丸柴刑事から電話があった。理真がその電話に出るなり、丸柴刑事の第一声からの理真との会話だ。


「絶対ない、って何が?」


 と理真。例によって携帯電話はスピーカーモードで、私にも二人の会話は聞こえるようになっている。丸柴刑事は普段の声に戻って、


「兼崎金融と龍神会が繋がってて、覚醒剤代金の千五百万円を兼崎さんが預かっていたんじゃないかって話よ。兼崎金融と龍神会は全くの無関係。組対の意地に賭けても、それだけは間違いない。クロさん、かく語りき」

「クロさんが言うなら、そうなんだろうね」

「じゃあ、兼崎金融の金庫に龍神会のお金があったのはどういうこと?」

「元を正せば、どうして兼崎さんの家にそのお金があったのか、ってことだよね」

「そういうことになるね」

「……事件を最初からおさらいしてみよう」


 理真は、こほん、とひとつ咳払いをして、


「まず、兼崎さんの家に脅迫状が届き、兼崎さんは、犯人の要求に応じることにした。隠してあった脱税金、と、今のところ考えられているんだけど、現金二千万円を鞄に入れて……」


 理真はそこまで言ったところで黙り込んだ。


「……理真?」


 いつまで経っても理真の事件のおさらいが再開しないので、丸柴刑事は電話越しに声を掛けてきた。無言の時間は十秒以上続いている。ラジオなら放送事故だ。

 しかし、丸柴刑事は今の理真を見ることができないため不審がっているのだろう。

 私は違う。理真は今、右手人差し指を下唇に当てて黙り込んでいる。これは理真が考え事をするときの癖だ。丸柴刑事も今の理真を目に出来ていたら、今の私のように、黙ってその考えがまとまるのを待っていたことだろう。


「……そうだ、鞄だよ!」


 理真が沈黙を破った。


「えっ」

「丸姉、公園のゴミ置き場からみつかった鞄から指紋は出て来た?」

「指紋? えーと……」


 スピーカーから手帳をめくるような音が聞こえたあと、


「出なかった」

「出なかった? 指紋を採ったのは、当然ゴミ置き場からみつかって兼崎さんに返す前だよね? 持ち主の兼崎さんの指紋も出なかった?」

「ええ、もちろん兼崎さんに訊いたわ。汚れがひどくて一度拭いたんだけど、やっぱりボロいから結局捨てることにしたって答えが帰ってきたわ。身代金を運んだ当日は手袋をしていたから指紋も付かなかったんだろうって」

「そっか……その鞄はもう兼崎さんに返却したんだよね。とっくに処分されてるだろうから……丸姉、徳田とくださんの連絡先を教えてもらえる?」

「徳田さん? 兼崎さんの家の家政婦ね。ちょっと待って……」


 再び手帳をめくる音が聞こえ、「言うわよ」との声。私はペンとメモ紙を手にして、丸柴刑事の言った徳田の自宅の電話番号と住所を自分の手帳に控えた。私がメモを終えると理真はさらに、


「あと、写真。鞄の写真ある?」

「写真? 鞄の? うん、あると思う」

「その画像、私の携帯に送って。じゃ、また後で」


 理真は電話を切り、


「由宇、行こう」


 私に顔を向けた。この流れからすると、行き先は当然徳田の家だろう。



「違うと……思いますけど。これだ、と言われれば、これのような……」


 徳田は理真の携帯電話、正確には携帯電話の画面に表示された写真見て、自信なさそうに言った。もちろん、丸柴刑事から送信されてきた、警察が公園のゴミ置き場から発見した鞄の写真だ。

 平日は夕食時にだけ兼崎邸へ通う徳田は、昼過ぎのこの時間は自宅で自分と夫のための家事をこなしていた。理真が電話で来訪の旨を告げると承諾してくれ、こうして丸柴刑事から送信された鞄の写真を見てもらっているのだ。

 あの日、兼崎が持って行った鞄は確かにこれと同じかどうか。鞄の首実検というわけだ。


「あの日、旦那様が持って行った鞄は、もっと傷んでいたような気がします。捨てるつもりだったものですし。でも、男物のビジネスバッグって、みんな同じような形をしていますから、間違いなくこれだとも、これじゃないとも言い切れませんけれども……」

「何か特徴はありませんでしたか?」


 理真は食い下がる。


「兼崎さんがあの日持って行った鞄が、他の鞄とこれだけは違う、見分けが付くというような特徴は?」

「そう言われましても……あ、チャックです」

「チャック?」

「はい、見た目というのとは違いますけれど、思い出しました。旦那様があの鞄を捨てると言い出したのは、チャックが壊れてしまったからなんです。チャックがかなり堅くなってしまって、完全に閉じた状態からほんの少し、拳が入る程度しか開かなくなってしまっていたんです。そこまで開けるのにも結構な力というか、コツが必要で。私も一回試させてもらいましたから。閉めるのには問題ないんですけれど」

「でも、あの日鞄には身代金を入れたんですよね?」

「はい。ですが、身代金をご用意したのは旦那様が自分の部屋でおひとりで、でしたから。少し開くくらいなら札束をねじ込んで入れるくらいは出来るのではないかと」

「……そうですか。ありがとうございます。大変参考になりました」


 理真と私は徳田家を辞した。

 車に戻った理真は、運転席に座って丸柴刑事に携帯電話を掛けた。


「丸姉、ゴミ置き場から鞄をみつけた警官に話訊けないかな?」

「鞄を見つけた警官? うん、それはもちろん可能だけど」

「私の携帯に電話もらえる?」

「分かった。伝えておく」

「それとさ、兼崎金融に聞き込みはしたよね? 聴取した資料、読ませてくれないかな。本部にある? 丸姉も今本部? じゃ、ちょうどいいや。これから向かうから」


 私と理真は県警本部へやってきた。

 私たちが応接室へ通されてからすぐに、丸柴刑事はひとりの制服警官を伴って入室してきた。


早通はやどおり署刑事課巡査の森川もりかわです」


 凛々しい顔立ちの青年制服警官は理真と私に敬礼してそう名乗った。理真と私は、とりあえずお辞儀を返す。


「理真が話したがってた、鞄を見つけた警察官よ。ちょうどすぐに連絡が取れたから来てもらったの」


 丸柴刑事は、そう説明した。

 理真が、「わざわざすみません」と礼を言うと、「名探偵の捜査に協力できるとは、光栄なことですから」と森川はさわやかに笑顔を返した。さては、この森川巡査、警察内部に少なからずいると噂される隠れ理真ファンだな。わざわざ本部まで来たのも理真に会いたかったからなのではないか? なんて邪推してる場合じゃない。理真はさっそく質問に入り、


「森川さん、チャックは簡単に開きましたか?」

「は?」


 森川巡査は、理真からのいきなりのその質問に頓狂な声で答えた。


「チャックです」


 理真は念を押す、


「鞄のチャックは閉まっていたと思うのですが、無理なく簡単に開くことができましたか?」

「……あ、は、はい。ええ、難なく開くことができました」

「難なく全開に出来た? 拳が入る程度まで開いたら、それ以上開かない、なんていうことはなかったですか?」

「はい……きわめてスムーズに開け閉めできました」

「……そうですか。ありがとうございました。とても参考になりました」

「は、はい、それはよかったです……」


 あっけにとられたような森川巡査の顔には、これで終わりかよ、と書いてあった。


 私と理真は続いて丸柴刑事の付き添いで、兼崎金融社員への聞き込み結果をまとめた資料の閲覧に当たるため部屋を移動。

 資料のある部屋へ向かう途中、丸柴刑事は森川巡査への質問の意味を理真に問い質した。

 徳田からの話を聞くと、「じゃあ、あの鞄って……」と考え込む表情をしたが、資料のある部屋に着き、理真に資料を出してやるため思考は中断されたようだ。


「……殺された丸山さんって、あんまりいい話聞けてないみたいだね」


 と資料をめくりながら理真。丸柴刑事はそれを聞いて、


「そうね。兼崎社長自身も社内の評判はあまりよくないからね。社長の右腕って言われる丸山さんも、必然そういう評価になっちゃうのかもね」


 理真は尚も資料に目を通しながら、


「それと……その社長と丸山さん、最近関係がぎくしゃくしているようだった、っていう証言があるね……」


 理真は資料を閉じて、


「分かった、かも……後は証拠だけど」

「分かったって、何が? 誘拐犯人が?」


 丸柴刑事が理真に質すと、


「私の推理だけどね。順を追って話すわ」


 理真は椅子に深く座り直し。丸柴刑事と私も理真のほうに体を向けた。

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