第2章 ケチな社長と二千万円

「……と、いうわけなのよ」


 丸柴まるしば刑事はローテーブルの向こうで誘拐事件の顛末を語り終えると、マグカップを手に取り、中に入った熱いコーヒーを旨そうにすすった。二口ばかり飲みカップを置くと、


「どう、理真りま?」


 私の隣で黙って話を聞いていた|安堂(あんどう)理真に質した。

 安堂理真、女性、年齢は二十ウン歳。職業は恋愛作家。腰ほどまである長い髪を後ろで束ね、〈安心価格〉が売りの衣料店で買ってきたラフな部屋着姿で丸柴刑事の話を聞いていた。時折、コーヒーの入ったマグカップを口に運びながら。


「あの誘拐殺人事件に、そんな裏話があったんだ……」


 理真はカップをテーブルに置いた。

 私も大きく頷く。金融会社専務誘拐殺害事件は、ここ連日新聞、ニュースを騒がせていた。報道では、身代金の受け渡しに失敗して誘拐された専務が殺害された。としか報じられていなかったのだ。

 マスコミは「警察の失態だ」と書き立てているが、話を聞く限り、警察に落ち度があったとは思えない。責任があるとすれば、犯人の指定場所を間違えた兼崎かねさきにあるのだろうが、さすがにそんなことをマスコミ発表するわけがない。

 理真は私を向いて、


由宇ゆう、おかわり」


 と空になったカップを差し出した。

「はいはい」と呟きながら、私は縁なしの丸メガネを押し上げて、立ち上がって台所に向かう。

 私の名前は、江嶋えじま由宇。

 安堂理真の親友であり、理真が住むアパートの管理人でもある。

 理真の年齢を有耶無耶にしたのは、私と理真は同い年であるからだ。女性の年齢をはっきりさせるのはよくない。


「丸柴さんは?」


 私は台所から居間――と言っても狭いアパートのため、すぐそこなのだが――に向かって声を掛けた。

「いただくわ」と丸柴刑事の声。今は平日の昼間。仕事途中の丸柴刑事はグレーのスーツ姿だった。

 私は自分の分も含め三人分の挽いたコーヒーを新しいフィルターの上に落とした。いつもはインスタントなのだが、丸柴刑事が来たときくらいはコーヒーメーカーで本格的にコーヒーを淹れることにしている。正直、私は違いがあんまり分からないけれど。


 新潟県警捜査一課の丸柴栞刑事がこうして安堂理真のアパートを訪れて、事件の話をするのはこれが初めてではない。なぜなら、理真は恋愛作家の他にもうひとつの顔を持っているからだ。その顔とは、素人探偵。


 理真が探偵活動を行うようになった顛末は他の物語に譲るが、過去、主に新潟県警に協力し、幾多の不可能犯罪を解決に導いてきた実績がある。そしてその際には、私もワトソンとして理真と一緒に現場に赴くことがほとんどなのだ。探偵とワトソンが両名とも女性というのは、中々珍しいのではないかと思っている。


 警察が犯罪捜査において、プロアマ問わず民間の探偵に捜査協力を仰ぐことは今や珍しくない。

 過去、そして現在も何人もの探偵が警察捜査、こと不可能犯罪捜査に手を貸し、その解決に寄与している。オーギュスト・デュパンに始まり、シャーロック・ホームズ、エラリー・クイーン。本邦では明智小五郎あけちこごろう金田一耕助きんだいちこうすけに代表される職業探偵、素人探偵の活躍は広く民衆に知られており、その活躍を収めた多くの小説も広く愛読されている。

 コーヒーメーカーのスイッチを入れて私が居間に戻ると、


「容疑者は浮かんでるの?」


 と理真が丸柴刑事に訊いたところだった。丸柴刑事は、


「容疑者自体には事欠かないわよ。何せ兼崎いわおってのはケチで有名な男だそうだから。会社の経営方針にも如実に反映されているそうよ。敵が多いけど味方も多い、って人物評があるじゃない。兼崎は、敵は多いけど味方は少ない、いや、いない、って感じ」

「ボロクソだね」

「うら若い女の子がクソとか言わない」


 自分でもクソって言っちゃってるよ丸柴刑事。

 理真は、うら若いに加えて美人だ。そして丸柴刑事も、うら若い、かどうかは微妙だが、かなりの美人だ。後頭部でまとめた髪から漏れるほつれ毛、その下の襟元から覗く白いうなじがそそるぜ。

 年齢は私や理真より数個上。三十いってたかな? しかし、そのルックスはどう見ても私や理真と同年代にしか見えない。同時に、およそ刑事にも見えない。

 理真と丸柴刑事、双方フランクな喋り方なのは、二人は理真が素人探偵として活躍する前からの知り合いであるためだ。


「でも、丸姉まるねえ……」


 と理真。理真の丸柴刑事に対する呼び方にも、親しみが込められている。


「私が、というか、聞く限りじゃ、素人探偵が出張る類の事件じゃないと思うけど。警察捜査で兼崎さんに恨みを持っていて、かつアリバイのない人物をひとりひとりとっ捕まえて尋問してボコって吐かせれば終わりじゃない?」

「理真、問題発言。ま、全面的に否定はしないけど。おっと。そうじゃなくて、理真に解決してほしい問題はね、徳田とくださんのことなのよ」

「徳田さん? ああ、兼崎さんの家に通ってるっていう家政婦の」

「そう、警察に通報してくれた人。で、その徳田さんが言うにはね。どうも変だと」

「何が?」

「徳田さんの雇い主の兼崎さんがよ。あのケチな旦那様が、いくら親しい丸山まるやまさんの身代金としてだって、ぽんと二千万円もの大金を出すのはおかしいっていうのよ」

「はあ、何それ? でも、実際兼崎さんは、お金を持って丸山さん救出のため犯人の指示通りに動いたわけでしょ」

「まあ、そうなんだけどね」

「そういえば、身代金は結局戻ってきたんだよね」

「そう。二千万びた一文手つかずでね」


「うーん」理真は腕を組んで考え事をするように下を向き、数秒経ってから顔を上げて、


「……でもそれは、兼崎さんが犯人が指定した公園を間違っちゃった結果そうなったんだよね。話を聞くに」

「ええ」

「ということは。事件の概要はこういうこと?

 犯人は兼崎さんが公園に来るのを待ち構えていた。犯人が鞄を置くよう指示したトイレの周辺でね。でも、時間になっても一向に兼崎さんは現れない。兼崎さんは間違えて名前の似た、線路を挟んだ別の公園に行ってしまっていたから。

 一方、徳田さんの通報を受けて捜査員が現場へ急行する。当然向かったのは私服刑事ばかりだろうけれど、犯人は周囲の様子がおかしくなったって気付いたのじゃないかな。

 兼崎さんは脅迫状の脅しを無視して警察に通報した。そして、現場にも来ないことから、身代金を払うつもりもないと。犯人はそう判断した。で、慌てて橋の下に行く。そこには丸山さんが縛られるかして監禁されていた。警察に通報した代償として犯人は丸山さんを殺害。警察の配備が掛かる前に逃走を遂げた」

「もし、兼崎さんが行くべき公園を間違えなければ、身代金は犯人の手に渡っていたということね。それで犯人が大人しく丸山さんを返すかはまた別問題だけれど」

「……兼崎さんが、わざと公園を間違えたってことはないかな?」

「どうして? 身代金が惜しいから? 人の命、ましてや自分の会社の社員の命と引き替えにする? だったら、最初から要求なんて突っぱねて見殺しにしてるわよ。人道的にどうかとは思うけど。もしくは、さっさと警察に通報して丸投げするか」

「道中で気が変わったとか?」


 私は二人の話に入り込み、自分の考えを口にしてみた。


「最初は義侠心で丸山さんを救おうと思っていたけれど、やっぱり二千万が惜しくなったってこと?」


「そうです」と丸柴刑事の声に応えてから私は腰を上げた、コーヒーのいい香りがしてきた。そろそろ出来上がった頃だ。私は自分のものと丸柴刑事の空になったカップをお盆に乗せて台所へ。

 その間に理真が丸柴刑事に、


「兼崎さんは、身代金が回収されたって聞いたとき、とても驚いていたって言ってたよね」

「そう、私もすぐそばで見てたからね。下手したら、丸山さんの死体がみつかったって聞いた時よりも」

「しかも、鞄はトイレの用具入れからじゃなくて、公園のゴミ置き場からみつかったんだよね。それについて兼崎さんは何て言ってるの?」

「自分は確かにトイレの用具入れの中に入れた、って言ってるわ」

「兼崎さんが用具入れに鞄を入れて、ゴミ置き場で発見されるまでどれくらい?」

「そうね……一時間は経ってないわね」

「その間に何者かが鞄をトイレからゴミ置き場に移したってこと? 公園管理の人が見回って、ゴミだと思って捨てたとか?」

「管理者に訊いてみたけど、そういったことはないわね。しかも、たまたま通りかかった一般の人が拾ってすぐに捨てたとしても、中を確認しないまま捨てる? 中身は現ナマ二千万よ」

「……現ナマ二千万円か、拾ってみたいなぁ……」


 理真は恋する乙女のようなうっとりとした表情になり、ため息をひとつ漏らした。狭いアパートだから、台所でコーヒーを注ぎながらでも、その惚けた顔がよく見える。


「もしそんなことになったら、きちんと届けるのよ。探偵がネコババなんてしちゃ駄目よ」

「……」

「黙るな」


 漫才のような二人のやりとりの中、私は淹れたてのコーヒーを三人分持っていく。

 丸柴刑事は、「ありがとう」と、理真は、「サンキュー」とそれぞれカップを受け取った。

 理真は、吐き出したため息の代わりにとばかりに、鼻孔を広げ淹れたてのコーヒーから立ち上る香りを大きく吸い込んで、


「そういえば、緊急配備で怪しい人を何人か連行したって言ってなかった? その中に本命っぽい容疑者はいなかったの?」


 丸柴刑事も大きくコーヒーの香りを吸い込んでから、


「駄目ね。住所不定の浮浪者とかで、兼崎金融とは全く無関係。でもちょっと珍しい人が釣れたのよ。龍神会りゅうじんかいの構成員。しかも二人も」

「龍神会。地元のヤクザだね」

「龍神会の関連会社が近くにあるのよ。そこに出入りしてる連中でしょうね。野次馬騒ぎを覗きに来たってんじゃないだろうけど。散歩してただけだなんて言ってるらしいわ。すぐにクロさんに引き渡したわ」


 クロさんとは、組織犯罪対策課の黒崎くろさき警部のことだ。

 モノホン顔負けの荒くれ組対(組織犯罪対策課)刑事どもをまとめていることから、その腕っ節は折り紙付きだ。新潟県警最強の呼び声も高い。


「実は、最近ちょっと嫌な噂があってね……」


 誰に聞かれる心配もないのだが、丸柴刑事は少し声を潜めて、


「警察の中に、龍神会と繋がってる警官がいるんじゃないかって」

「本当?」


 理真は眉を顰めた。

 何だそれは。まるで刑事ドラマだ。丸柴刑事は続けて、


「うん、ガサ入れとか町中の一斉検挙の情報が漏れてるらしいって。クロさん、かなり怒ってたわ。それで、龍神会は今、クロさんたちが目を光らせて見張ってるのよ」

「そうなんだ……」


 その構成員はクロさんにかなり締め上げられるだろう、同情する義理はないが、かわいそうに。


「龍神会って言えば、ちょっと前、大掛かりな検挙があったよね?」

「そう」


 理真の質問に丸柴刑事は、


「覚醒剤の取引でね。客の銀行員が、覚醒剤の代金千五百万円を現金一括で支払ったんだって。で、その金が銀行の金庫から持ち出したお金だったと」

「なにそれ。大胆なやつだね」

「ちょっと変な男でね。龍神会もまさか末端の素人客が一千万以上もの現金を持ってくるとは思ってなかったでしょうね。覚醒剤を買う客がかなりまとまった金を持ってくるらしい、って情報を得てマークしてたクロさんたちに取引現場を押さえられたの。でも、現金だけは龍神会が持ち逃げして、現在どこかに保管してるらしいわよ」

「はあ。二千万に一千五百万、合わせて三千五百万の現金か、あるところにはあるね」


 理真は再びため息を漏らした。丸柴刑事も同意するような顔をしてから、


「で、元々銀行に保管されてたお金だから、全部紙幣番号を控えてあるんだって。だから龍神会も迂闊にそのお金を表に出せないのよ。組対は龍神会から出て行くお金を逐一チェックしてるの。クロさんたちが目を光らせてるのは、そのせいもあるわね」


 何だか不可能犯罪とはまた別次元で凄い世界だ。刑事ドラマというか、ヤクザ映画じみてきた。


「さてと。理真、時間があれば、明日にでも兼崎さんのところに付き合ってくれない?」


 と丸柴刑事。明日は土曜日。事件発生から一週間が経過したということか。作家という商売をしている理真は時間の自由が効く。締切に追われてでもいなければ。幸い(?)現在理真は何ものにも追われてはいない。仕事がないだけなのだが……


「うん、いいよ。由宇は?」


 理真は私に顔を向ける。もちろんオーケー。アパートの管理人も似たようなものだ、時間の自由は効く。そうでなければ素人探偵のワトソンなど務まらない。


「じゃ、明日朝九時に本部まで来て。覆面パトで一緒に行きましょ」


 丸柴刑事は、「ごちそうさま」と空になったカップをテーブルに置いて立ち上がった。


「丸姉、ご飯一緒に食べていかない?」


 理真の誘いに丸柴刑事は、


「残念だけど、これから捜査報告と調書のまとめよ。ちょっと時間が空いたから寄っただけだから。それじゃね」


 この中で何かに追われているのは丸柴刑事ひとりだけだった。

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