あらわれた身代金

庵字

第1章 誘拐事件の顛末

「よく通報してくれました」


 新潟県警捜査一課の城島じょうしま警部が、キッチンテーブルを挟んで座る、家政婦の徳田千賀子とくだちかこに向かって感謝の言葉を述べた。

 徳田は「はい」と、下を向いたまま、か細い声で答える。

 居間では捜査員たちが固定電話と徳田の携帯電話に機械を繋げている。犯人から連絡があったときのための逆探知及び録音用の機械だ。


「準備出来ました」


 機械の設置が完了したことを捜査員のひとりが報告した。

 城島警部は、「そうか」と椅子から立ち上がり、キッチンから続き部屋の居間へと移動して、固定電話と携帯電話が並べて置かれた座卓の前に腰を下ろす。

 無言を貫く二台の電話機を前に、警部自身も無言のまま腕を組んだ。


 兼崎かねざき金融の専務、丸山卓まるやますぐるが誘拐されたとの通報が新潟県警に入ったのは、午後一時のことだった。

 通報したのは、兼崎金融社長、兼崎いわお自宅の通い家政婦、たった今、城島警部と話していた徳田千賀子だった。通報したのが丸山の家族ではなく、所属会社社長家の家政婦だった理由は以下の通りだ。


 その日の午前十一時。徳田は買い物から帰り、いつものように玄関の郵便ポストを覗いた。午前中の配達で届けられた数通のダイレクトメールの中に、表に一行、ワープロ打ちで〈兼崎社長へ〉とだけ書かれた白い封書が混じっているのをみつけた。住所も書かれていなければ切手も貼っていない。郵便配達員以外の何者かが直接このポストに入れたものに違いなかった。

 その封書にただならぬ不安を感じて邸内に駆け込んだ徳田は、土曜日で会社は休みのため在宅していた家の主人である兼崎金融社長、兼崎巌を捕まえて一緒に封書を開封し中身を検めた。


 中からは、やはりワープロ打ちの便箋が一枚出て来た。

 そこに書かれていたのは、兼崎金融専務、丸山卓を誘拐したこと、その身代金として現金で二千万円支払うことを求める内容だった。


 身代金の支払と運搬を行うものは兼崎社長が指名されていた。受け渡し場所まで現金を入れた鞄を持ち、携帯電話を持たずにひとりで来ること。現金受け渡し場所として指定されたのは、新潟市東区を流れる阿賀野川あがのがわ河川敷にある、〈阿賀野川ふれあい公園〉そこへ向かう行程までも以下のように指示されていた。


 午後十二時ちょうどに家を出て、十二時四十一分新潟駅発の白新はくしん線下り普通列車に乗る。公園最寄り駅の新崎にいざき駅に下りたらそこから公園までは徒歩で移動。午後一時三十分になったら、公園最北にある男子トイレの用具入れの奥に現金を入れた鞄を置いて速やかに帰ること。

 件の列車の新崎駅到着が十二時五十二分。駅から公園までは徒歩で約三十分。ぎりぎりの行程といえた。

 文末には、「警察に通報したら丸山の命はない」という、誘拐事件脅迫状の決まり文句が添えられていた。


 脅迫状を読んだ兼崎巌は、犯人の要求を呑むことを徳田に告げ、決して警察に通報はしないように、とも言いつけ、「支度をする」と自室に籠もった。

 十数分後、兼崎はコートにマフラー、手袋をはめた外出着姿で、手には使い古した黒いビジネスバッグを持って部屋から出て来た。季節は十月半ば。晴天とはいえ北風が身に染みる季節だ。

 玄関で呼び鈴が鳴り、タクシーの運転手が到着した旨をインターホン越しに告げた。自室にいる間に兼崎が携帯電話で呼んだのだ。徳田が時計を見ると、十一時五十五分。兼崎の家から新潟駅までは車で二十分ほど。今日は土曜日で道が混んでいることを考慮しても、三十分もあれば新潟駅へ到着できるだろう。


「くれぐれも、警察に通報はしないように。丸山の命が掛かっているからな」


 玄関前で言い残して、十二時ちょうどに兼崎はタクシーに乗り込んだ。

 そうは言われたものの、居ても立ってもたまらない徳田は、ひとりでいることが不安だったことも手伝い、とうとう主人の言いつけを破り110番通報をした。時間にして午後一時のことだった。


 事件の詳細を聞いた捜査一課は押っ取り刀で兼崎邸に駆けつけ、同時に阿賀野川ふれあい公園へ本部、所轄署からの捜査員急行を手配した。

 犯人の要求に従い、兼崎は携帯電話を自宅に置いていき連絡が取れないため、徳田から聞いた兼崎の服装と顔写真を捜査員に配布。身代金受け渡し前であれば、黒いビジネスバッグを持っている可能性も付け加え、犯人が監視している可能性もあることから、発見したら声を掛けずに尾行するよう通達した。


 電話機に逆探知機器の設置を行う間、城島警部と新潟県警の紅一点、丸柴栞まるしばしおり刑事の二人が徳田から聞いた話の内容は以下の通り。



 徳田は、平日は夕食時のみ、土日は掃除や洗濯も兼ねて朝から晩まで、兼崎邸に通っている家政婦。兼崎金融社長、金崎巌は未婚で家族がいないため、身の回りの世話をする人間が必要として雇い入れられた。

 誘拐犯が兼崎に身代金を出させる人質として、同社専務の丸山を選んだ理由もここにあるのでは、と徳田は語った。

 丸山は社長を除けば兼崎金融一番の古株で、創業当初から社長と二人で会社を運営してきた、いわば戦友とも言うべき存在だ。


「あの社長が身代金を払っても助けたいと思う人間なんて、丸山さん以外にいないのではないでしょうか」


 徳田のこの言葉が兼崎の人となりを言い表していると言えた。兼崎はケチで有名な人物だった。

 この年――兼崎は現在五十九歳――まで、そして恐らくこれからも未婚を貫いているのは、家族が出来ると何かと出費が増えるからだ、とまで陰口を叩かれている。


 その倹約ぶりは会社だけでなく私生活にまで徹底されていた。世間や同業者間への体裁のため、自家用車だけは見栄えのよい高級車を所有していたが、これも中古。しかも走るのは、ほぼ自宅と会社間の往復だけだという。


 金儲け以外に趣味と呼べるものを持たない兼崎は、休日にどこかへ出かけるなどということはほぼないため、会社から帰ってきたのち及び休日は、車は鍵付きの車庫の中に大事にしまわれている。

 ただ、兼崎は家事炊事だけはてんで駄目で、家政婦を雇うのがただひとつの贅沢と言えるかも知れなかった。


「その面接の時も、最初はとんでもない金額を提示されまして。ええ、もちろん低いほうの、です」


 徳田は当時を思い出したのか渋面を作りながら言った。それでも交渉の末、常識的な雇い賃に落ち着き、徳田も家が近くで通うのも楽なため、家政婦として働くことを決めたという。

 毎月の食費、消耗品購入等の生活費の上限は、兼崎の収入を思えば異様に安く抑えられていたが、元来家事炊事が得意な徳田は、別段それを苦にはしてはいないそうだ。いかに低予算で豪勢な料理を作り家事を遂行するか。徳田はそれをゲームのように面白がってやっているという。


「今日、旦那様がお金を入れて持って行った鞄。あれなんて、『もうさすがにくたびれてきたから捨ててしまうか』なんて先週おっしゃってたものですよ。お仕事で使っていたビジネスバッグだそうですが、最後に使い道が出来て喜んでらっしゃるんじゃないでしょうかね。あらやだ、私ったら不謹慎な」


 徳田は口に手を当てて笑みを浮かべかけたが、対面に座る城島警部、丸柴刑事の真面目な顔を見ると、すぐに元のような神妙な顔つきに戻った。



 逆探知機器設置完了の報告を受け、城島警部が席を立ってダイニングキッチンのテーブルから居間の座卓へ移動すると、徳田は対面にひとりとなった丸柴刑事に、


「旦那様から、警察に通報はするなと言われておりましたけれど、私は、通報するべきですって申し上げたんですよ。誘拐事件って、とても成功例が少ないって聞いていましたので、警察の方たちが出てくれば何とかなるかと思っていましたので」

「ええ、よく分かります。通報して下さって感謝いたします」


 丸柴刑事は笑みを浮かべた。

 城島警部に同じ事を言われても、その強面のためか萎縮したような受け答えしかしなかった徳田だったが、女性の丸柴刑事相手だと安心したのか、今度は小さく笑みを返した。


「まだ犯人らしき人物も、兼崎さんもみつかっていないようですね」


 丸柴刑事は腕時計に目を落とした。時計の針は一時四十分を指している。脅迫状の通りに行動したなら、すでに兼崎は身代金を入れた鞄を指定された場所に置いて、立ち去っているはずの時間だ。

 丸柴刑事は腕時計から徳田の顔に視線を移し、


「兼崎さん、どこかで迷った、なんてことはないでしょうか。脅迫状を置いていってしまって……」


 丸柴刑事の視線は再び動き、テーブルの上で止まった。そこには証拠品保管用の透明ビニールに入れられたA4サイズの紙が入っていた。犯人からの脅迫状だった。

 徳田もビニール袋の中身に目をやり、


「はい、大事な証拠品を落としでもしたら大変だから、と。内容は全て憶えたから心配ない、とおっしゃいまして……犯人も意地悪ですね。ここから阿賀野川ふれあい公園なら、車でなら三十分もあれば行けますのに。わざわざ電車でなんて――」

「何? よし、こっちに来てもらえ」


 居間から突然、城島警部の声が上がった。携帯電話で通話をしていた城島警部は、言い終わると耳に当てていた携帯電話を離して通話終了ボタンを押し、キッチンに向かい、


「兼崎さんを確保しました」

「本当ですか?」


 徳田は椅子から立ち上がり居間へ。丸柴刑事も続いた。

 徳田を座卓の対面に、丸柴刑事を自分の隣に座らせて城島警部は、


「はい。堤防道路を新崎駅方向に歩いているのを捜査員が発見しました。手ぶらだったそうです」

「手ぶら、ということは……」


 徳田の言葉に頷いた城島警部は、しかし、腕を組んで渋面を作り、


「ですが、報告を聞いて少し妙な点が……」

「妙な点?」


 と返したのは丸柴刑事。「ああ」と城島警部は話を再開し、


「捜査員が兼崎さんを発見したのがな、公園とは線路を挟んだ反対方向の堤防道路だったんだ。兼崎さんは、犯人指定場所の公園の反対側から歩いてきたということになる」

「……警部」


 丸柴刑事は何か閃いたように、


「もしかしたら、兼崎さんは、別の公園に行ってしまったのでは?」

「どういうことだ?」

「犯人が指定した場所は、〈阿賀野川ふれあい公園〉ですよね、阿賀野川右岸側にある公園ですが、同じ右岸側河川敷には、それとは別にもうひとつ公園があるんです」

「何だと!」


 丸柴刑事が語った二つの公園の位置関係は以下の通り。

 JR白新線は、新潟市をほぼ東西に走る路線だ。公園最寄り駅である新崎駅は、鉄道橋で阿賀野川を渡ったすぐに位置している。犯人が指定した〈阿賀野川ふれあい公園〉は、駅を下りて北側の河川敷にある。対してもうひとつの公園は、線路の南側に。つまり二つの公園は線路を挟んで南北に位置している関係なのだ。


「その線路の南側にある公園、確か名前は〈阿賀野川公園〉というはずです」

「〈ふれあい〉が取れただけなんですね」


 丸柴刑事が口にした公園の名前を聞いた徳田は、口に手を当てた。


「駅に周辺の案内図があり、公園の名前も載っているでしょうけれど、〈阿賀野川〉の河川敷にある〈公園〉と漠然と憶えていたら間違ってしまうかもしれません」


 丸柴刑事は不安そうな表情になる。


「……ということは」


 城島警部は額に汗を浮かべた。その会話を聞いていた捜査員たちも色めきだった。



 現場周辺に緊急配備が引かれ、捜査員を多数動員しての捜索も行われた。

 その間にパトカーに乗せられて自宅に帰り着いた兼崎巌は、


「徳田さん、警察に通報したのか!」


 と問い詰めるような声を出しながら廊下を歩いて来たが、居間に上がるなり逆に城島警部に問い詰められた。


「兼崎さん、あなた、犯人が指定した公園を間違えたんじゃありませんか?」


 話を聞くと、丸柴刑事の推測と城島警部の言葉の通りだった。

 兼崎は新崎駅に到着して、北口ではなく南口に下り、そのまま川を右手に見ながら堤防道路を歩いたと語った。公園に到着すると最北端の男子トイレの用具入れに鞄を入れ、速やかに立ち去ったという。

 それを聞いた城島警部は、すぐさま捜査員にそのトイレを捜索するよう指示を出した。


「間違っていたんですか、私が……」


 事の詳細を丸柴刑事から聞いた兼崎は、脅迫状の文面を見て黙り込んだ。


「駅にある案内図を見なかったんですか」


 城島警部の声に兼崎は、


「案内図はもちろん見た。だが、〈阿賀野川公園〉という名前にだけ目が行ってしまって……私は足腰に自信がなく、犯人が指定した時間まで指定場所に行けるか不安で焦ってもいたものだから……」


 城島警部は、掛ける言葉が見つからないといったふうに黙って兼崎を見る。

 今度は兼崎が城島警部に詰め寄り、


「で……丸山は、丸山の安否は……」


 その答えは、直後城島警部に掛かってきた携帯電話にあった。死体が発見されたとの報だった。

 死体は二つの公園に挟まれた白新線線路橋の下で発見された。腹部をナイフでひと突き。所持していた免許証から、被害者は兼崎金融専務、丸山卓であると確認された。

 それを伝え聞いた兼崎と徳田は畳に崩れ落ち、徳田はすすり泣きを始めた。

 丸山の車も発見された。二つの公園から少し離れた車通りのない路上に駐車されており、鍵は丸山が身につけていた。

 城島警部は、畳の上に座り込む二人に、


「それと、もうひとつ。兼崎さん、身代金は無事でした。捜査員が公園で発見しました」

「何ですって?」


 兼崎はそれを聞いて顔を上げて城島警部を見た。


「あなたが間違って行ってしまった〈阿賀野川公園〉で。鞄に入ったままの状態で。しかし、みつかったのはトイレの用具入れではありません。公園隅のゴミ置き場の中からでした」


 城島警部のさらなる言葉を、兼崎は放心したような表情で聞くと、


「な、中身は……」

「ええ、無事でした。二千万円の現金が入っていました」

「ほ、本当に?……」


 兼崎は目を見開いて小さく呟いた。


 緊急配備と捜索は夜まで続けられ、犯人もしくはそれと思しき人物は発見されなかったが、何人か怪しい人物を確保し、所轄署に連れて行き話を聞いた。

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