第48話 殿、お待たせいたしました!
㈠
文禄元年六月七日、国兼は朝から猪三と館の留守を預かる小者の新助爺と一緒に、庭や屋敷内の大掃除をしていた。じりじりと厚い六月の日光の下、伸びかかっている夏草を引き抜き、壁や廊下を拭き清める。三人の一心不乱に取り組む姿は、まるで何か願掛けでもしているかのようだった。
そこに、手ぬぐいで汗をふきふき、旅装の若侍がやってきた。
「おお、秋山殿ではないか!」
国兼は、素直で飾り気のない徳川家臣のこの若者を、すっかり気に入ったようであった。秋山浩之進の方も、武骨ながら、時折さりげない気遣いを見せるこの老人に惹かれ、役目を良いことに、暇さえあればこの湯之尾の地を訪れていた。
「今日はどうしたことでござるか。」
日ごろ、雑草が生えっぱなしでも平気な国兼にしては珍しいと浩之進は思った。「大切な集まりがあるのでな。」
もろ肌をさらし、汗をふきながら国兼が言った。言いながらも、考えに沈んでいるようで、眼は遠いところを見ているようだった。
「秋山殿こそ、何用じゃ。」
浩之進は懐からタスキを取り出し、肩を回して裾を絞りながら答えた。
「ご案じめさるな。いつもの大殿のご心配事でござる。日本軍が勝ちに勝っておる今、謀反を起こしても世間の支持は得られぬのではないかという。これを国兼殿に言いに行けと、先日から矢の催促で、たまらず肥前名護屋を飛び出してきたのでござる。」
言いながら、浩之進も草をむしりだした。国兼も横に並び、無言で青草を抜き続ける。
掃除が一段落したのは、照り付ける太陽がやや傾きだしたころだ。縁側に腰を下ろし、新助爺が入れてくれた白湯をすすりながら、あらためて浩之進が国兼に問うた。
「そう言えば、今日の集まりとは何でござるか。」
㈡
「佐敷城と熊本城に搬入する兵糧、武器弾薬、全て整いました。」
「お申し付け通り、五万の軍勢が二年籠城しても大丈夫な量を揃えております。」
湯之尾の大黒屋本店で庭を見ていた喜内は、番頭の波次と磯丸の報告に大きく頷いた。
「佐敷も隈本も、城を攻め落としたら、敵に囲まれる前に素早く搬入してしまうのだ。その後の手筈は、かって言いつけておいた通りだ。」
頷いた一番番頭の波次だったが、意を決したように喜内に話を切り出した。
「旦那様、どうしても、大黒屋を続けるわけにはいかんのでしょうか。」
喜内はゆっくり振り返ると、頭を横に振った。
「駄目だ。この謀反、上手くいっても終結までには数年かかる。大黒屋が謀反に関わっていることはすぐわかるやろ。奉公人を危険にさらすわけにはいかん。あくまでも、当初の予定通り、兵糧などの搬入が終わったら大黒屋は店じまいや。店に残った金、商品を今から清算して、奉公人に配る準備をするのや。それにな。」
喜内は、珍しく国兼がするように、にかっと笑って言った。
「利休様には申し訳ないが、実は、わしはどうしても商人が好きになりきれんじゃった。わしの身体の中で戦いを求める血がじりじりとうずくのだ。ここ数年は、早く店じまいしたくてしょうがなかった。」
目を伏せた波路に代わり、元は侍である磯丸が口を開いた。
「奉公人の中には、私のように元々は侍だった者が大勢おります。どうか、我々も謀反にお加えくださいませ。旦那様と共に戦いたいのでございます。」
喜内はこれにも首を振った。
「お前の気持ちはありがたいが、この謀反は、あくまでも朝鮮出兵に動員された者や米を強制的に徴収された百姓が、それに逆らって起こすもの。元侍が大勢参加しては、謀反の趣旨が違ってしまう。今回はその気持ちだけ受けさせてもらおう。」
磯丸もがっくりと膝をついた。座り込む二人の番頭の肩を、通りしなにぽんぽんと叩き、喜内は屋敷の奥へと入っていった。床の間に、巨大な独鈷杵が立てかけてある。一本の縄文杉から彫り抜かれ、三十貫目を超える重さがある伝説の仏の武器を、喜内は片手で軽々と持ち上げ、にこりと微笑むと言った。
「さあ、利休師匠に育てられた大黒屋喜内はこれで店じまいや。今日からは、鬼も恐れる暴れ者の川畑鬼無に逆戻りだ。やっと、誰憚ることなく、思う存分に武が振るえる時がやってきた。」
㈢
湯乃尾施薬院の一室で、次右衛門は弟子の及川作之助と、その妻で助手のお駒の前に大量の書物を積み上げて言った。
「これがわしが永年研究を重ねた薬草学をまとめたものじゃ。お主はこれを読みこなし、今後はお駒と二人で、この施薬院を盛り立てていくのじゃ。」
次右衛門には、十年前に先立った妻(喜内の妹)との間に娘があったが、嫁した先ですぐ病気になり、呆気なく亡くなってからは天涯孤独の身である。ちなみに、義兄にあたる喜内も妻に先立たれ、子供もいないので同じ境遇だった。
「先生!そんなことを急におっしゃらないでください。私には、正直自信がありません。」
必死の面持ちで訴える作之助に、次右衛門は微笑みかけた。
「大丈夫じゃ。わしの下で五年修業したお主の腕は、どこに出しても恥ずかしくないものじゃ。ここにくる患者のため、どうか励んでくれ。このわしの、最後の願いじゃ。」
がっくりとうな垂れた亭主に代わり、お駒が、その美しい眉を曇らせながら聞いた。
「先生は、この湯之尾を離れて、いったいどこへ行かれるのですか。噂の朝鮮出兵に、殿様もいよいよ行かれるということでしょうか。」
次右衛門は頷きながら言った。
「わしは最も古くからの梅北国兼様の家臣、老いぼれたとはいえ、殿が行かれるなら、どこへでもお供するさ。」
お駒は言葉を続けた。
「朝鮮は遠い海の彼方と聞きました。お帰りはいつになられますか。」
その問いに、次右衛門は遠い目をして答えた。
「さて、いつになるかの。来年のお盆くらいには帰れるかの。」
そのときは、作之助もお駒も、父とも慕う次右衛門の言葉の真意がわからなかった。
㈣
日向都井岬、数百頭の野生馬が繁殖するこの丘に、民部は肥育してきた若駒三十頭を連れてやって来た。元々、全てこの地で生まれた馬だ。親も兄弟もいるに違いなかった。案の定、若駒たちは懐かしそうに鼻をひくつかせ、民部が頷くのを確認すると、一目散に野生馬の群れへと走り入った。野生馬たちも気づいていたのか、鼻づらをこすりあって親愛の情を示している。もしかしたら、若駒たちの親や兄弟かも知れなかった。
「わしはもう面倒を見てやれん。達者で暮らせ。」
一言つぶやいた民部は、愛馬”青”の鼻づらをポンポンと叩いた。鞭は鞍に備えているが、馬を操るときに使ったことはない。幼い頃より育て鍛えた馬との意思疎通は以心伝心、特に合図も必要とせず、思うままに動くのだ。青は踵を返すと、岬を背に一目散に駆けだした。
しばらく走った民部は、顔をしかめると手綱を引いた。後ろからどどどと複数の駒音が近づいてくる。振り返ると、一頭余さず若駒たちが跡を着いてくるのが見えた。
「やれやれ。」
肩をすくめた民部は、ゆっくりと愛馬を反転させた。目の前まで駆けてきた若駒たちは、民部の前でいつものように整列する。
「お前たちはまだ戦場へは出せん!面倒も見られぬ以上連れて行くわけにはいかんのだ。勝手なようじゃが、ここでお別れじゃ。親兄弟と仲良く暮らせ。」
いつものように、まるで人に話しかけるように若駒に話しかける。馬たちは、言葉は分からなくとも気持ちは理解できるようだ。民部の言葉にも関わらず、その姿を見据えたまま、一頭たりともその場を離れそうになかった。その姿は、まるで、自分たちを連れて行けと訴えているようだった。じっと見ていた民部の目に涙が溢れた。湧き上がる感情を振り払うように、民部は初めて鞍に備えた鞭に手をかけた。
「最後の命令じゃ。わしの言うことを聞け!聞かぬ奴は、この鞭で打ちすえてくれるぞ!」
鞭を振り上げ、必死の形相で叫ぶ民部を、若駒たちは悲しそうに見つめていたが、一頭又一頭と、のろのろ、何度も振り返りながら岬へ向かって引き返し始めた。最後の一頭が、けし粒ほどの大きさに離れて行ったのを確認して、民部は鞭を下し、青に話しかけた。
「よし、わしらも行くか。」
青は再び踵を返すと、遠く湯之尾に向けて走り出した。
㈤
日差しがじりじりと熱い縁側で、半左エ門は寝転がり、昼間だというのに徳利から酒をぐびぐびと飲んでいた。
「良い酒だな。一人で飲むのはもったいないくらいだ。」
そうひとりごちながら、再び酒をあおる。五臓六腑にかっと広がる熱が、暑さの中むしろ気持ちよかった。今日は梅北館へ出向かなければならないが、刻限は日没だ。まだまだ時間があった。
「おっと、やばいやばい。眠ってしまっては大事な集まりに遅れてしまう。」
一瞬、襲ってきた眠気に目をこすりながら、半左エ門は座って飲むことにした。眠気にかすんだ目にたくましい体躯が入った。
「なんじゃ、お主、また来たのか。」
いつかの猟師風の男が庭に立っている。半左エ門に一礼すると、大きな口を開いてガッと笑った。
「いつぞやの酒の味が忘れられんでな。」
そう聞いて、半左エ門もにやりと笑った。
「ちょうど良かった。摂津の地酒が手に入ったのだ。どうじゃ一献。」
男は待ちきれないと言った風で、半左エ門の隣に腰かけた。半左エ門が差し出す徳利をひったくるように取り上げると、顔を天に向けてぐいぐいと飲み干した。
「おっ。いい飲みっぷりだな。どうじゃ、まだまだ酒はあるぞ。」
男は笑顔でくしゃくしゃに顔を歪めた。
日が傾いてきた。そろそろ出仕せねばならない。立ち上がりかけた半左エ門はよろよろと尻もちをついた。
「がははは。」
その姿に大笑いした男も、半左エ門を助け起こそうとして尻もちをついた。二人とも顔を見合わせて笑った。
「さすがに、飲み過ぎたようじゃの。」
男は頷いた。
「今日は久しぶりに楽しかった。わしはもう出仕せねばならん。機会があったら、またどこかで飲みたいものじゃ。」
それを聞いて、男は真顔になった。そして、半左エ門の顔をじっと見てぽつりと言った。
「謀叛などやめてしまえ。」
あんと言う顔で、半左エ門は男の顔を見た。
「謀叛なぞつまらんぞ。酒でも飲んで普通に暮らした方がよっぽどいい。」
男の顔を見て、何事か思案していた半左エ門だったが、急に何かを思いついたのか、膝をぽんと打った。
「そうか、お主も朝廷に謀叛を起こしたのじゃったな。」
男は一瞬あっと言う顔をしたが、にやりと笑って言った。
「なんじゃ、わしの正体は、ばれておったのか。まあ良い、お主、見たところ謀叛など柄ではあるまい。主君への忠勤か何か知らぬが、馬鹿馬鹿しい。やめてしまえ。」
半左エ門は怒るでもなく、遠い目をして沈もうとする日を見つめながら、独り言のように言った。
「忠か、おそらくそうでは無いな。」
「それではなんだ。お主の胸の中にある思い人のためか。」
苦笑した半左エ門の胸に去来する思いがあった。垂水の豪族伊地知氏の末弟に生まれたが、幼い頃から、なぜかここは自分の居場所ではないとの思いがあった。それは、大和で槍を極め、京でからくりや築城技術を収めてからも変わることはなかった。どこかふわふわした自分を、兄たちは自覚のない半端者と呼んだ。そんな半左エ門の安らぎは、ある日の宴席で目にした、凛とした隣国肝付氏の朱鷺姫の存在のみだった。
変化が訪れたのは、大隅小浜砦での国兼を先鋒とする島津歳久軍との戦いからだ。半左エ門の手による防御からくりを備えた小砦を、千五百の歳久軍は攻めあぐねた。百の兵を指揮する半左エ門は、ときに砦の間道を使って奇襲をかけ、得意の槍で先鋒梅北軍の鶴田甚兵衛と激しく斬り結んだりした。戦線が膠着したかに見えたとき、突如桜島が大噴火し、降り注ぐ噴石によって半左エ門自慢のからくりは全て破壊された。噴石は麓の海潟村にも降り注ごうとした。このままでは、数百の民人が犠牲になる。屋内で噴石を避けながら、半左エ門は砦の帰趨よりそちらの方が気がかりだった。そのときだ。ひとりの、ひょろりと背の高い武者が、島津陣中から進み出て、海潟村を背にして降り注ぐ噴石の前に立ちはだかった。「何をする気だ。」思わずそうつぶやいた半左エ門は、信じられない光景を目にした。その武者がかざした巨大な槍から放たれた青い光が、無数の噴石をすべて焼失せしめたのだ。見終わった半左エ門は大笑いしていた。「なんなんだ。馬鹿馬鹿しいほどに凄まじいあの槍は。」半左エ門の中で何かが変わった。ただ、国兼に臣従するのは、それよりしばらく後、肝付氏の本拠である大隅高山城落城のときだ。
そうだな。あらためての思いを胸に半左エ門は立ち上がった。
「やはり行くのか?」
そう聞く酒呑童子に半左エ門は力強く答えた。
「ああ、わしの居場所だからな。」
㈥
夕刻近くになり、兵となるべき百姓たちが、顔にしっかりと覚悟を示して続々と梅北舘に集まりだした。七人衆の甚兵衛や三郎も、早くから麾下の百姓、町人、猟師たちを連れて駆け付けている。
「なんと、百姓たちに全てを打ち明け、加担するか否かはその判断に任せたと申されるか。」
口に含んだ水を吹き出さんばかりの驚愕を見せて、浩之進が叫んだ。国兼は黙って頷く。
「危のうござらんのか。どこからか企てがばれたら、もうおしまいでござる。軽はずみではござらんか。」
珍しく詰問口調で浩之進が攻め立てた。
「誰が加担しておるとか全貌まで話しておらぬ。わしが謀叛するというたまで。もしことが露見しても、梅北家のみが罪を負えば済む。だいたい、嘘をついて戦場に連れ出すわけにはいかぬ。それに、謀叛となれば、残された家族のことも考えねばならん。何よりわしは。」
国兼はその澄んだ目で浩之進をじっと見た。
「我が領民を信じておる。」
浩之進のこめかみを、じんわり汗が伝っていった。
表が騒がしくなった。庭にどやどやと、川東村の村長太郎次郎を先頭に百名ほどの百姓たちが入って来た。もはや領地ではない川東村に、謀叛のことは伝えていない。もしや、五郎丸がうっかり漏らしたのか。いろいろ経験しても、子供はこども、やはり信用が置けぬか。甚兵衛がそう考えたとき、川西村の村長彦左衛門が、国兼の前に進み出て平伏した。
「打ち明けたのは、わしでございます。差し出たことをして申し訳ございません。」
隣で太郎次郎も平伏した。
「皆で話して決めました。どうかわしら川東村の住民も、この戦いにおつれくださいませ。」
国兼は頭を振った。
「お主たちは天領の領民、わしの領民でない以上連れて行くわけにはいかぬ。」
太郎次郎は伏せたまま叫ぶように言った。
「そこを曲げてお願い申す。どうせ、このまま待っていても、いずれは朝鮮に送られる身。どうせ戦うなら、この人と信じたお方の下で戦って死にとうございます。」
国兼は何かをこらえるように、ぐっと天を見上げて言った。
「これは普通の戦いではない。謀叛じゃぞ。その覚悟はあるのか。」
太郎次郎も、それに応えるように顔をぐっと上げて力強く言った。
「われらみな、ここに集いし川西村の衆と同じく、家族を離縁してまいりました。もはや身一つ、何を恐れることがありましょうや。」
国兼は太郎次郎の前に歩み寄り、その手をぐっと握った。太郎次郎もぐっと握り返す。浩之進は、心に熱いものが込み上げるのを感じた。
「これで川西村、川東村あわせて二百。旧領含む全ての領民が、お舘様と共に謀叛に向かいます。」
彦左衛門が言ったとき、門前にガラガラと荷車の音がした。いつのまにか、喜内、民部、次右衛門も揃っている。見慣れない大男を連れた半左エ門が、酒樽を積んだ荷車を引いて舘の庭へ現れた。
「おお、間に合ったようじゃ。これで全員集合か?」
甚兵衛が、ばつの悪い顔をして応じた。
「いや、忠助がまだじゃ。」
㈦
「おっとお、食べねえのか。」
まだ三つの幼い和助が、よちよちと歩み寄って聞いてきた。
生返事をした忠助は、先程から暮れ行く空のみを眺めていた。
「お父っあん、晩御飯食べないの。」
囲炉裏の前で、ご飯をよそいながらお菊が聞いてくる。
それに応えず、忠助は上の空だ。
「放っておおきよ。腹が減ったら食うだろうよ。」
猛女で近隣に知られた妻のお竹が言った。それでも、お菊は父の姿にただならぬものを感じた。忠助の前に回り込んで顔を覗きこんだ。
「お父っあん、何か心配事があるんじゃないの。隠してないで言ってよ、家族じゃない!」
忠助は娘の真っ直ぐな目線をそらしながら、何でもないと、か細く言った。
「放っておきなってば。どうせまた他所にガキでもこさえたんだろうよ。」
お竹が吐き捨てるように言った。猛女と言われているが、亭主の浮気癖には、何回も苦しめられてきたのだ。
「何を!人の気も知らんくせに!」
思わず言い返した忠助は、はっとした顔をした。
お竹が、巨大な体躯を震わせながら、にじり寄って来た。
「何があるんだい。言ってみな!」
圧迫感を感じ、冷や汗をかきながら忠助は精一杯の声で言い返した。
「侍の誇りに関することじゃ!言えるか!」
お竹はそれを聞いて嗤った。
「何が侍だい。刀ひとつ満足に振れないくせに。この下田の家だって、元々は小者だろうに。」
小者、その過去に忠助は嫌な思い出があった。
下田忠助は、元々は薩州島津家に仕える侍だった。下田家は、野田郷に島津本家があったとき、代々殿さま付きの小者を務めた家柄である。お役目は、島津の殿様の整髪、髭剃り、洗い物といったところであった。代々の先祖たちは、小者として忠実によく仕えた。忠助の曽祖父は、ひょうきんだが粗忽者で有名な男だった。あるとき、殿さまの片眉を、うっかりそり落としてしまい、「ちょっしもた!(しまった!)」と叫んだところ、かえってその慌てぶりを面白がられ、「しもた」と言う姓を与えられて、三石程の領地をもらい一気に足軽組頭となった。島津本家が鹿児島に本拠地を移してからも、下田家は領地のある出水郷に残り、足軽組頭として分家の薩州島津家に仕えた。
「小者あがり」は、異例の出世をした下田家に対するやっかみの混じった侮蔑の言葉である。歴代の下田家当主は、その蔑称に負けまいと頑張って来た。しかし、生まれつき体格に優れず、勇気にも乏しかった忠助は、その蔑称を甘んじて受け入れざるを得なかった。上司、同僚ばかりでなく、部下である足軽たちにもバカにされた。耐えていた忠助だが、あるときついに爆発し、同僚と決闘騒ぎになった。決闘は人目につかぬ山中で行われたが、元来勇気に欠ける忠助は、刀を抜く前に土下座して謝ってしまった。憤懣やるかたない同僚は、土下座する忠助を土足で踏みつけた。いつの間にか、野次馬的に集まっていた同僚や、部下の足軽まで忠助を踏みつけ、引き起こして代わる代わる殴った。ぼろぼろにされ、気を失った忠助が、再び気がついたとき、簀巻きにされて広瀬川上流にぷかぷか浮かんでいた。後ろ手に荒縄で縛られ、身体の自由が利かない。思いっきり暴れたが、かえって水をたらふく飲んでしまい、意識が遠くなってきた。沈みかける忠助を拾い上げたのは、たまたま通りかかった国兼である。
「どうしたんじゃ。」
優しく声をかけられ、何でもないと答えたが、情けなさに涙が溢れた。そして、何を聞かれてもうわごとのように「わしは侍じゃ、侍じゃ。」と繰り返すばかりだった。
数日後、腫れの引かない顔で出仕した忠助は、主君義虎に呼び出された。喧嘩の御咎めかとびくびくしながら向かうと、そこには先日助けてくれた初老の侍がいた。びっくりする忠助に、主君がいきなり話を切り出した。
「これなるは、山田地頭梅北国兼殿じゃ。忠良公お気に入りのお方じゃが、何とお主を是非にとも家臣に欲しいというのじゃ。わしに異論はないが、お主はどうかと思うてな。」
座っている梅北国兼と言う侍は、数日前と同じく優しい目をしていた。忠助は何か救われたような思いがして、何度も何度も頭を縦に振った。
昔を思い出した忠助の胸が熱くなり、がばと立ち上がった。殿と一緒に行かねば。ご恩を返さねばならん。そうは思うが、子供たちや妻の顔が浮かぶと再び決心が鈍った。へなへなと座りかけた忠助は、突然、ばん!!!と背中を殴られた。
振り返ると、にこりと笑ったお竹が立っている。
「殿さまの所に行かなきゃいけないんだろう。何があるか知らないけど、ぐずぐず考えずに行っておいでよ。」
そういう妻に、忠助は言い返した。
「お前は、何も知らんからそんなことを言えるんだ。大変なことなん…。」
忠助が言い終わる前に、かぶせるようにお竹が言った。
「太閤殿下に謀叛を起こすんだろう。知ってるよ。あんた、毎晩毎晩、寝言でそう言っているじゃないか。」
知っていて行けと言っているのか、へなへなと座り込んだ忠助は、ならばこれもと懐から書状を出した。表に「りへん(離縁)状」と書かれている。黙って受け取ったお竹は、その書状を開かずに、びりびりと破り捨てた。
「何をするんじゃ!」
お竹は、破れた紙切れを踏みにじりながら、忠助に言い返した。
「いいかい、どんなことがあっても、私らは家族だよ。謀叛で旦那が裁かれるなら一緒に裁かれてやろうじゃないか。」
忠助は、意外な答えに目に涙を一杯ためて言った。
「ばかな!謀叛の罪は死罪じゃぞ。」
お竹は忠助をにらみ返していった。
「構やしないよ!だって、家族じゃないか。人間一度は死ぬんだ。もし、あんたが私たちを死なせたくなかったら、太閤に勝って謀叛を成功させてみなよ。あんた、侍だろう!」
「そうだよ、おっ父。あたしは侍、下田忠助の娘なんだろう!」
お菊も目に涙を一杯ためている。
忠助は、がばとお竹の巨体に抱きつき、すまんすまんと繰り返した。その上からお菊や和助も抱きついてきた。家族の泣き声が家の外まで響き渡った。
㈧
忠助が舘に着いたとき、既に日はとっぷりと暮れていた。
「殿、お待たせいたしました。」
そういう忠助に、国兼は何も言わず頷いた。
半左エ門が珍しく声を上げた。
「方々、本日は出陣の祝いの席じゃ。わしがうまい地酒を用意した故、いざ今生の別れに一杯飲むとしようか。」
周囲から歓声が上がり、樽が勢いよく開かれ、全員に杯が配られた。国兼の音頭で乾杯をし、酒には余興が必要だということになった。しかし、家臣にも兵にも、能の一つも踊れるものがいない。
「しかたない。忠助、お主が太鼓だけでも叩け。」
甚兵衛がそう言ったとき、表門から輿がしずしずと入ったきた。付き従っている老女浪路を見て、国兼は腰が抜けるほど驚いた。
「と、朱鷺!なぜ…!」
輿から降りた朱鷺の方は、国兼ににっこりと微笑んだ。
「妻ですもの、夫の出陣の祝いはせねばなりますまい。」
病気を感じさせない凛としてた朱鷺は、そのまま舘の奥へずんずん入って行った。追いかけようとする国兼を浪路が留める。
「お着替えにございます。」
再び現れた朱鷺は、金の烏帽子をかぶり、真白に緋の鮮やかな巫女の衣装を着ていた。右手に鈴を持ち、侍女の奏でる笙に合せて、一同の真ん中で見事な神楽舞を舞う。美しいその様は、昔見たときと少しも変わらない。さながら、天女の舞のようであった。
みなしばし、謀叛という深刻な現実を忘れて、桃源郷に遊んでいるかのような心持ち、いや、極楽浄土とはこのような場所なのだろうか。その場にいた人外の者、酒呑童子すらもすっかり目を奪われる神がかり的な舞だった。まるで、不治の病が嘘のようじゃと次右衛門は思った。夫を思う心が、病を忘れさすのだろうかと。
国兼は何も考えず、ただ朱鷺の舞に魅入られていた。国兼にはそれが、朱鷺の最後の命の炎を燃やし尽くそうとする行いに見えて、一瞬たりとも目が離せなかった。
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