第11話 会議は踊る。

(一)

 吉野山を下って、稲荷町を過ぎ、しばらく進むと内城がある現大竜町に着く。

 内城は簡易な平城である。鹿児島城下を治めるためには、薩摩主流の山城ではだめで、平地に城を築く必要があった。

 軍事用の平城としては、既に頑強な東福寺城があったが、統治場所として不便な所にあったため、中心に近いこの場所に、行政専用に建てられたのがこの城である。


 会議の場所である大広間には、既に多くの地頭らが駆け付け、談笑している。

 幾分、緊張の色があるのは、太閤からの重大な通達の内容を按じてのことだろう。


 「国兼!ここじゃ、ここじゃ。」

 新納忠元が大声で、自分の隣に座るよう、ばんばん畳を叩いた。

 忠元は場の中央に陣取っている。その隣には、やはり三名臣のひとりである山田有信、その子有栄が座っている。有信は先年隠居したが、重大な会議ゆえ自主的に出席したらしい。

 出席者を見渡すと、平田光宗、歳宗親子など同様の理由での、隠居したが参加している者も多いようだ。忠元のように、隠居した者のみの参加の方が珍しい。


 場の前方には、島津一族である義虎、元久、喜入季久など親戚衆が座っている。場の中央は、古参の臣で固められ、後方は新参の臣や若手が座っている。

 当事の行政スタイルは、内政は地頭による地方自治に委ねられ、外交は君主の専権があり、軍事のみ合議するのが、一般的だった。

 豊臣家やその子飼大名がやっている上意下達スタイルは、織田信長という独裁者が確立したもので、地域豪族の集団的統治には馴染まない。

 君主は合議の議長であり、意見が対立したときの最終決定権を持つが、その権力は他の地頭とのバランスに左右される。


 意外に思えるかもしれないが、現島津本家の権力基盤は強固とは言えない。

 現島津本家は、伊作家という小さな分家の流れをくみ、先先代の貴久が周囲の豪族と、時に合戦し、時に同盟しながら薩摩大隅の統一を成し遂げて、まだ二十年ほどしか経っていない。

 家臣の多くは、元々敵対していた者や、同盟関係にあった者であり、忠誠心の強い譜代の家臣は未だ少数である。親戚衆においても同じことで、例えば、義虎の薩州家は父の実久の代は、貴久の最大の敵の1人だった。


 こういった事情で、現当主久保は、今日の会議では、地頭達の意見を目一杯尊重せねばならない。因みに、この状況は、朝鮮の役における島津家の遅陣や寡兵の原因となり、関ヶ原においても、義弘を苦しめることになる。

しばらくすると、義弘を先頭に、その子で現当主久保、その弟忠恒、そして、三名臣の最後の1人、家老の鎌田政近が大広間に入ってきた。


(二)

義弘が、周囲を見渡して口を開いた。

「皆、忙しき中、ご苦労でごわす。」

 君主側にして、家臣に対するこの丁寧さが、義弘の人気の理由の1つである。


 会議に先だって、地頭の出席状況が確認される。欠席は、島津歳久と伊集院忠棟、忠真親子である。


 「欠席の理由は?」

 短い義弘の問いに対して、政近が答える。

 「伊集院親子は、ご不快とのこと。」


 「なんち、二人とも病気な。」

 忠恒が舌打ちせんばかりに、苦々しく叫ぶ。この義弘の次男は、後に島津藩初代当主となるが、忠棟を嫌いぬいており、後に謀殺することになる。


 「まぁ、よかが。歳久は、何か理由を言うてやったか?」

 義弘が場を治めるように言う。

 「いえ、何も。」

 「そうか。」義弘は溜め息をついた。

 かって知謀の歳久と言われた島津家三男は、弟家久の死亡以来、領地の宮之城に引きこもり、公の場に姿を見せない。


 「それでは、始めよ。」

義弘の言葉に、スッと立ったのは鎌田政近である。

 「鎌田政近、主命により、会議を取り仕切らせていただきもす。」

やや、緊張の面持ちで言う。

 「まず、先日届いた太閤殿下のご書状を読ませていただきもす。」


       下


 太閤秀吉が全国諸侯に命ず。

 朝鮮国及び明国、我が日の本に不遜の儀これあり。

 太閤、帝に代わりて、我が国の兵力を持って、これを討たんと決意す。

 急ぎ、兵を調え、肥前名古屋へ参集せよ。我が二十万の精兵で大陸へ渡り、明、朝鮮を討ち平らげん。

 参集の日は、来年四月一日である。


 

 

 短いが、極度に深刻な内容に、一同言葉を失った。


閑話休題

ここで、秀吉による朝鮮侵出がなぜ無謀なものだったか考察したい。

 秀吉の計画は、石田三成はじめ優秀な経済官僚が立案したこともあり、形式面においては決して無謀なものではない。

 当事の日本の人口は二千万人、総石高も二千万石であり、潜在兵力は五十万人、一石で二百人の一日分の糧食となるので、二十万の兵なら三年は賄える兵糧を国内で確保できた。

 一方、朝鮮の人口は五百万人、文治主義のため常備軍の数は少なく、併せても五万に満たない。

 明の人口は一億五千万人で、その兵力は百万とも言われたが、日本は火縄銃を中心とした装備において、明をはるかに凌駕しており、その保有数も五十万丁とも言われていた。更に、明の屋台骨は、官僚制の腐敗などでガタガタであり、歴史的結果として、後に明が日本より兵力兵装に劣る金に滅ぼされた事を考え併せると、司馬遼太郎氏も指摘される通り、無謀な戦いと言うわけではなかった。

 このデータだけだと、なぜこの侵出は失敗したのかとすら思える。

 しかし、計算通りいかないのが歴史である。むしろ、形式面では測りきれない計算違いがあったのだと思う。それは歴史上、長期の遠征においてしばしば起こる兵糧の輸送管理の困難さである。

 石田三成らは、これを軽く見ていたのではないか。広大な中国の戦史において、遠征軍が糧食の確保に苦しみ、大量の餓死者を出したりするのは珍しくない。曹操はこの問題を解決するため屯田制を作り、糧食を作りながら遠征した。

 なぜ糧食の確保が困難となるのか?輸送距離が大きくなればなるほど、事故や事件のリスクは高まる。敵や山賊の標的となるばかりでなく、海や川に落としたり、糧食自身腐ったりする。糧食を現地調達しようにも、戦時中だと困難がつきまとう。

 中国ほどでないにせよ、朝鮮半島も十分広大であり、結果として、後の第一次侵出において日本軍は大量の餓死者を出す。因みに、太平洋戦争でも、日本軍は大陸で同じ失敗をしており、遠征の兵糧管理の難しさはここにも示されている。

 島津軍は、豊後への遠征で、同じように兵糧確保に苦しんだ経験があり、武将たちは皆、形式面のデータだけでは楽観しなかったに違いない。

 計算した石田三成らですら、この戦争の困難性を認識し、戦争前から終結の落としどころを探っていた様々な証拠があり、この事が、後の朝鮮侵出での日本軍の行動をときに混乱させ、ときに膠着させた。会議の段階では知るよしもないことだが。


(三)

 五郎丸は城外で、猪三と待たされている。鹿児島は湯之尾より遥かに栄えているが、内城は武家町のど真ん中にあり、近くに興味を引く見ものなど全く無い。猪三は襤褸にもたれかかって居眠りをしている。五郎丸は、所在無げにうろうろし、堀の蓮の花などをぼんやりと眺めていると、突然、後ろから目隠しをされた。

小さく柔らかい手だ。

「だーれだ。」

少女の声

こんなところに、知り合いなどいるわけがない。

「お前こそ誰だ。」

怒鳴った。

「おっかなーい。そんなことじゃ、女の子にもてないよー。」

手が放された。振り返ると、五郎丸とおない年くらいの可愛い少女が立っている。

誰、これ。五郎丸は首を傾げた。

「ああ、そうか。」

 そう言うと、少女は両手で自分の顔を撫でた。手の下から、つるりとのっぺらぼうが覗く。

「あっ、化け狐!」

 五郎丸が身構えるのを、鈴は手を振って押しとどめる。

「ちょ、ちょ、ちょっと待って。私は碧眼翁から言いつかって、梅北様にお仕えするために来たの。」

「お前みたいな化け狐の言うことなんか信用できるか。」

「困ったなー、どう言えば信用してもらえるわけ。」


 押し問答をしていると、城内から一人の侍が出てきた。泥や垢に塗れた顔、禿げ上がった頭、鼻は団子、顎はしゃくれ、目は黒い点の様、ぼろぼろの小袖を着流し、垢にまみれた褌は出しっぱなし、何日も体を洗っていないらしく、臭いと言うより異臭を振りまいている。

「何これ。」

 異臭に鼻をつまむ鈴の下へ、つかつかと歩み寄ると、くんくんと臭いをかぐ。

「獣臭かー。若い獣の臭いがする。」

「何よ。自分の方が臭いじゃないの!」

 鈴は、顔を真っ赤にして言い返した。

「怪しか―、おまん(お前)怪しかど。一緒に番屋まで来い。」

そう言うと、鈴の襟首をつかんで、引きずっていこうとする。それまで黙って見ていた五郎丸は、悲鳴を上げる鈴を見て、侍の垢だらけの手に噛みついた。不意を打たれて、侍は思わず鈴を掴んでいた手を放す。

「ぺっぺっ、汚いなあ。馬糞食った方がまだましだ。」

唾を吐く五郎丸に、侍はにやりとした。

「臭いはせんどん。おまんも獣の変化じゃったか。おい(俺)が、二匹とも吊るして調べちくるっ。」

じりじりと、鈴を庇い乍ら後退する五郎丸に、にやにやしながら近づいていく。

この男は異様だ。勘で分かった。冷汗が流れる。


「何をしとる。」

突然声がかかった。

「甚兵衛様、助けてください。」

ほっとしたように五郎丸は言った。

侍が振り返った。鶴田甚兵衛が立っていた。二人は知り合いらしい。


「押川強兵衛、我が家の身内に何の用じゃ。」

「国兼殿は獣を身内にしておるのか、こら傑作じゃ。ははは。」

「無礼を言うな。」

「おまんが無礼じゃ、この押川強兵衛様は、島津本家の直臣ぞ。梅北家の陪臣に過ぎぬおまんなどが、軽々しく口を聞いていい相手ではないぞ。」

押し問答の末、強兵衛は刀に手をかけた。

やむを得ず、甚兵衛も構える。

強兵衛はうれしそうに言った。

「おまんとは、いつか決着をつけたいと思っとった。覚悟はいいか。」

「勝ってから言え。」

甚兵衛の目が、すっと細くなった。


「甚兵衛兄!久しぶりでござる。」

緊迫した中へ、呑気な声を上げて、一人の武士が割り込んできた。すらっとした長身に、涼しげな眼もと、青い小袖に灰色の半袴、爽やかな印象を与える若侍だ。

「弥十郎か。一年ぶりか。京はどうであった。」

甚兵衛は強兵衛の相手を放り出して、若侍と手を取り合った。


興ざめした顔で、強兵衛が刀を戻す。

「鶴田甚兵衛、命拾いしたに。じゃが、今度は必ず仕留めるからな。」

そう言うと城内へ消えていった。


五郎丸と鈴は手を握り合ってきょとんとしていたが、それに気づくとお互いに赤くなり、慌てて手を放した。



(四)

 通達に先立って、豊臣家は出陣の詳細を緒大名を呼んで説明した。その場で、石田三成らが緒大名の質問に回答した。島津家からは、十八歳の当主久保名代として鎌田政近、清水康英が参加した。そこで、家中への説明は、頭脳明晰の呼び声高き家老鎌田政近が行うことになった。

 最初に質問の声をあげたのは、義虎の子で現薩州家当主忠辰である。今年二十五歳になった忠辰は、親に似ず柔弱で理屈っぽいともっぱらの評判だった。因みに忠辰は、朝鮮の役で、島津本家に断りなく、勝手に帰国し、島津姓を捨て泉と改姓するなどの奇行を行い、太閤によって改易となっている。

 忠辰がかん高い声で質問したのは、戦において家臣が質問してはならない禁忌事項だった。

 「勝てる見込みはあるか?」というのである。

これは武門としても、してはならない質問である。

 武士は戦が示された以上、ただ勝つべく気持ちをひとつに頑張るというのが、当時の気風であった。

 周囲に白けた空気が流れたが、政近は丁寧に彼我の戦力比較を述べ、豊臣家が気分だけで、この大戦を仕掛けようとしているのでは無いことを説明した。

 続いて忠辰は、一体誰が大陸に攻めこもうなどと考えたのか?と聞いた。

これも答は明らかな愚問で、太閤以外にあり得ない。

 太閤の天下統一より四年、武士ですら、戦に疲れ、平和の有り難みを知った。なお、外に向かって戦を仕掛けるエネルギーを持っている人間は、太閤しかなく。それは、ある意味常人離れしたことだった。


 なお、質問しようとする忠辰の言葉尻を捉えて、上手に質問を替えたのは山田有信である。

 数万の大友勢に対して、二百の兵で何年も日向高城を守りとおした有信は、治世の名人として、領民からの信頼も厚い。質問は、そういう有信らしいものだった。

「太閤殿下の壮図は素晴らしか。じゃっどん、兵となる領民に、海を渡っての戦の大義をどう説明すっとか?」

戦国時代の徴兵制と言っても、百姓を侍が無理やり兵にしたわけではない。戦国時代であっても、村単位で一定の自治権を有し、自ら武装し、時に一揆によって領主すら脅かす力を持っていた戦国時代の百姓を徴兵する場合、戦の大義名分が必要だった。

 お互いに攻め合う戦国時代の場合、他国を攻めることも、究極的には自国を守ることに繋がるため、大義名分は立てやすかった。しかし、天下統一が成った今、海を渡って他民族を攻めることに何の大義があり、百姓にとって命を懸ける意味があるというのか?

 「石田様の話では、このような説明をしたらどうかとの事でした。」


 一 太閤殿下は、外征の成果を「切り取り次第」という言葉で表している。つまり、大名は自ら占領するほど領地が増える。兵は増えた領地から褒美を貰えばよい。

 二 明は大国であり、統一なった我が国をいつ脅かすか分からない。我が国には元寇の教訓があり、攻められる前に攻めるという自国を守るための戦いである。


 この説明に、頷いている地頭もおり、さすがは知恵者治部少じゃとの声も上がった。

 そのとき、その場のざわめきをかき消すように、ゲラゲラと哄笑が起こった。

 今まで押し黙っていた国兼が、腹を抱えて大笑いしている。一同に、またこの老人かとのなんとも言えない空気が広がった。


(五)

 さすがに放っても置けず、政近が国兼を制して言う。

「左衛門尉殿、軍議でござるぞ!」

 それを聞いて、国兼は涙を指で拭いながら、こう言った。

「失礼つかまつった。この国兼、昨今こんな面白い冗談を聞いたことはごわはんもんで。」

 政近の顔色が変わった。

「冗談とな!こん話のどこが冗談か。」

 国兼は、政近をギロリと睨み付けて言う。

 「治部少は冗談ち言いもはんじゃったとな?」

 勿論じゃと言う政近に、国兼は舌鋒鋭く追い打ちをかけていく。

 「いや、こん話が冗談でなければ、こげん人を馬鹿にした話は無か。鎌田さぁ、そげん思わんか?」


 「少なくとも、ここ三百年大陸からの侵攻がないのに、あるかのように言うのは子供騙しで話にならん。

 問題は切り取り次第という約束じゃ。

 政近どん、そもそも、治部少は朝鮮占領に幾月かかると説明したんじゃ?」


 ぶしつけな国兼の問いに、政近は憮然としつつ答えた。

 「大谷刑部殿の試算では、一月あれば首都漢城を落とせるということじゃ。そののち、三月で朝鮮全土を支配する計画じゃ。」

 「それは、戦の算段であろう。わしが聞いちょるのは内治の算段じゃ。」

 「というと?」

 国兼の問いに意表をつかれて、政近は思わず問うた。

 「よいか。皆も承知の通り、占領というものは、保持しないと意味がなく、保持が一番難しいんじゃ。

 民を掌握し、占領されてもそこで暮らすことを納得させなければ、領地を増やす事にはならん。占領の最も難しい点はここにある。

 民が逃散すれば、空き地をとったにすぎないんじゃ。

 異民族を掌握する場合、言葉や文化の違いなど解決せんならん難しか問題が多かじゃろ。

 そいを解決しながら、朝鮮内部の抵抗と戦いつつ、明や女真とも戦うことになろう。

 そのために、幾月かかり、我らはいかほどの兵と兵糧を用意すればいいんじゃ?」


 「そいについては、何も話がござらんじゃった。」

 政近は汗を拭いながら言った。

 「兵糧など基本的な算段もできとらんに、切り取り次第とは何の冗談か。

 そもそもこの計画を聞いておると、攻める気は感じるが、攻め取る気が感じられぬ。

 太閤殿下はともかくとして、五大老五奉行ら重臣は、本気で韓入りを考えちょっとか?

 もし、本気でないなら切り取り次第とは、とんだ空手形じゃ。民百姓を偽って、命をかけさすことなどできんど。」


 政近は上方で、新納旅庵を通して、石田三成、小西行長らが、対馬の宗義智と謀り、もはや裏で朝鮮と和睦を探っているとの噂があることを聞いていた。

 石田三成は周囲に憎まれており、いつもの讒言だろうと思っていたが、国兼の言葉で、その噂の真偽を確かめたくなった。


(六)

 「なるほど。敵地統治に精通した国兼らしい意見よ。」

 義弘が、重い口を開いた。

 「しかし、断は下されたのじゃ。島津家は、太閤殿下に臣従を誓った身、褒美の有り無しに関わらず、戦えと命じられれば、命をかけるのが臣下たる武門の勤めじゃ。」

 この声に、おうと答えたのは、義弘の甥で、亡くなった家久の嫡子、二十才の豊久である。

 「今のお話し、眼が醒め申した。

  かの国で島津の武勇を存分に示しましょうぞ。」

  豊久に続いて、日頃義弘に心服している若い地頭たちが、口々に威勢を示す。


 「忠義でございもすか。」

 国兼は、盛り上がりを遮るように言葉を続けた。

 「その理屈は、侍のみのものであって、百姓とは関係ございもはん。百姓に示す大義にはなりもうさん。」


 何か言おうとする義弘に関わらず、国兼は続ける。

 「君に逆らいて、君を利する。これを忠と言う。中国には、こんな諺がござる。君命に諾だくと従うだけが、忠義にあらず。君が間違うときは、これを制してこそ忠義でござろう。」


 「太閤殿下が、お考えを変えられるとは考えられん。また、太閤を諌める家臣など今は一人もおらんそうじゃ。」

政近が、その場の雰囲気に負けぬよう大声を出す。


 「島津家の立場からしても、お諌めするなど、とても無理じゃ。抑えよ。」

 忠元が、国兼の袖を押さえながら言う。国兼が、会議を凍りつかす意見を言うのはいつもの事だが、今回は議題が悪い。また、国兼の態度は義弘に対して横柄に過ぎるように映った。当の義弘は気にしていないようだが、このまま議論がエスカレートすれば、義弘を神のごとく慕う若侍たちによって、国兼の命すら危うくなる。


 紛糾しかけた会議を収めたのは、平田光宗の一言である。

 「もう決まったことは、仕方がなか。

  我らは、百姓どんを説得することにしもんそ。」

 平田光宗は、剛直な人柄と忠烈な働きぶりで家中で一目置かれる存在である。

先の太閤との戦においても、五百の兵で川内平佐城に立て籠り、敵方数万の銃火器による攻撃に、義久降伏まで耐え抜いた。

彼は、宝歴治水の薩摩義士平田靱負の先祖にあたる。


 「梅北さぁ、よかな?」

 頷いた国兼も、これ以上の議論が、なにも生まないことは理解していた。

 国兼の沈黙により、会議は滞りなく進むかに見えた。しかし、その後の兵の割り振りは、更に地頭たちに波紋を呼ぶことになった。

 島津軍の割り当て兵力は二万、石高六十万からすれば妥当とも思えるが、九州征伐による敗戦と太閤検地の影響で、どの地頭の財政も火の車である。兵は揃えられても、出兵に関する費用がとても足りない。しかも、兵糧に対して目安すら示されないため、軍備を整えるに先立つ不安が消えない。

 豊臣家の説明が不十分なこともあり、会議は不安を残したまま終わらざるを得なかった。

 結局、朝鮮の役において、島津軍は要請された半分も軍備が整わず、日本一の大遅陣をして、天下に恥をさらすことになってしまう。また、日本軍は十八万以上の大軍で攻めたが、兵糧などの補給の不手際と気候風土への対策を欠いたことから、五万人もの餓死、病死を出し、若き当主久保自身も病死で失う結果に終わった。


(七)

 会議が終わり、皆引き上げにかかっているとき、忠元は国兼に声をかけた。

 「いけんすっか?」

 それは、百姓をいかに説得するかという意味だったが、国兼は思いもつかない答をした。

 「大阪に行ってみよ。太閤殿下に会って見んと始まらん。」

 「な、な、な、な!」

 周囲の地頭からは、そんな馬鹿なと言う声、嘲笑する声すら聞こえた。一田舎地頭に、忙しい太閤が面会するとはとても思えない。 

 忠元の中では、皆と同じそんな馬鹿なという気持ちと、こいつならやりかねんという気持ちが相半ばした。

 常識で考えると、田舎者の一地頭になど忙しい天下人が会うわけがない。しかし、この男のぼっけぶりは、過去幾度も不可能を可能にし、周りを刮目させてきた。国兼に常識など通用しないのである。

 しかし、このぼっけもんが太閤と会って何をするのか。出兵を止めろと言って素直に聞く相手でないことは、国兼も十分理解しているはず、一体この男は何を考えているのか?もしや!


 「国兼。」

 「何じゃ。」

 忠元の不安を知らない国兼は、呑気な顔で振り向く。

 「物騒なことは、考えておらんじゃろうな。」

 国兼は、暫く考えて、自身に言い聞かすように答えた。

 「全ては会ってからじゃ。」


 廊下に出た国兼に、一人の若侍が近づいた。細身で背が高く、油断のないしなやかな動き、顔は一度会ったら忘れない爽やかな美男である。


 「お久し振りでございます。」

 挨拶する男を、国兼は見知っていた。

 「お主は確か、瀬戸口弥十郎じゃったの。」


 男はにこりと笑って言った。

 「今は、大殿から東郷重位の名のりを許されております。」


 東郷重位は示現流開祖であるが、義久近習である今は未だ示現流を編み出していない。肥後人吉の丸目蔵人から、新陰流一派のタイ捨流を学び、かって鶴田甚兵衛とは兄弟弟子の関係であった。その関係で、国兼と面識があったのである。


 「大殿がお呼びでございます。」

大殿とは、前領主島津義久のことである。

簡素な作りだが、手入れが行き届いた内城の庭に、墨染めの僧衣を着た初老の男が、夕暮れ迫る桜島を眺めている。

 六尺超えるがっしりした男は、島津家特有の面長で、切れ長の目をしていた。

出家して龍伯と名のっている義久は、今年五十八になる。当時としてはかなりの長寿だが、島津家中には、元気な老人が多く、義久も年取ったとは感じていない。


(八)

 あの日も、こうして桜島を眺めていた。義久が思うのは四年前のことである。

 太閤の大軍は川内に本陣をおき、島津軍は各地で奮戦したが、次々と城を落とされ、今は光宗、忠元、家久、義弘など数名の武将が籠城して抵抗を続けている情況である。

 勿論、まだ侵攻を受けていない湯之尾など山岳部や、鹿児島は無事だが侵攻は時間の問題だった。

 義久の下には、まだ無傷の旗本五千がいる。川内へ出陣して、乾坤一擲の勝負を仕掛けるか、義久はずっと悩んでいた。

 突然、近習が慌てて走ってきた。湯之尾地頭の梅北国兼が来ているという。戦場の中、単騎で湯之尾から早馬を跳ばしてきたらしい。

 何事かと面会した義久に、国兼は開口一番こう叫んだ。


 「殿は、薩摩そのものを灰塵に帰すおつもいか!」


青白い顔をした国兼は、脂汗を滴らせながら、義久を睨み付けるようにして、一気に捲し立てる。


 武士無くして、君主なく、民無くして、武士はなく、田畑無くして、民はなし。今や、その全ての存亡は、義久の胸ひとつにかかっている。


 太閤の大軍の前に、家は焼かれ、田畑は踏みにじられ、忠臣は虚しく死のうとしている。


 降伏は家の恥、武門の恥、島津家は無くなるかもしれない。しかし、降伏すれば、人も田畑もこれ以上失わずに済む。

 降伏しなければ、名誉は残いが、民、臣は死に、国は荒廃する。


 義久さぁは、名君忠良をして、大器量と称賛された資質の持ち主であられる。何が正しいか自ずとお分かりのはずじゃ。



 義久は、国兼の話を、目を閉じて聞いていたが、すっと目を開くと爽やかな笑顔を見せた。


 「お主の言う通りじゃ。まるで、祖父忠良に叱言を言われておるようじゃったど。」

 国兼の顔をじっと見て、義久は近習を呼んだ。

 「忠棟を呼べ。そいと、剃刀を持て。」


 「は。」という顔で不思議そうに、義久を見る近習に、義久はとびきりの笑顔で言った。


 「頭を丸めるのだ。おいは出家すっど。出家して太閤殿下に降参しにいくんじゃ。」


 それを聞いた国兼は、にぃと笑って、朽木の如くどうと倒れた。腹の辺りに血がにじんでいる。この男は、諫言に際し陰腹を切って臨んだようだ。


 「大した男だ。」

 義久は、これ以降国兼に全幅の信頼を寄せるようになる。

 死なすなと言い残し、剃髪した義久は、伊集院忠棟と共に、川内泰平寺の秀吉本陣を訪ねて降伏を申し入れた。


 島津家は、なんとか薩摩大隅の二州と日向の一部を安堵された。

 国兼は、八日間昏睡したが、次右衛門らの懸命な治療で一命をとりとめた。

国兼が奥へ通されたとき、義久は文机の前に座り、何事か一心に筆を走らせていた。顔もあげず国兼に話しかける。



 「会議では、またやらかしたそうじゃの。」


 国兼は聞こえない振りを装い、居心地悪そうに頬を指で掻いている。


 「太閤殿下に会うてか?」


 国兼は、今度はこくりと頷いた。

 「会えるかどうか、定かではございもはんどん。」


 「何もせぬよりましか。お主らしいの。」

 書き終わった義久は、ようやく頭を上げた。


 「ほれ、持っていけ。小西行長殿への書状じゃ。太閤殿下にお取り次ぎいただくよう書いておいた。」


 国兼は、思わず平伏した。


 「但し、わしの書状をしても、太閤殿下が会われるかはわからんぞ。」


 「あいがとうございます。他にも色々考えておりもんで。」

 国兼は、大阪に店を持つ大黒屋のつてを使うことなどを考えていた。


 「直ぐに発つとか?」


 「庄内に、やぼ用がございもんで。」


 義久はくくと笑った。

 「忠棟か。派手にやったそうじゃの。」


 首をすくめた国兼に、義久は頼みがあると言う。


 「虎居の歳久の様子を見てきてくれんか。お主は懇意じゃったろう。」


 


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