第10話 吉野狐
(一)
翌朝早く、次右衛門が薬草をいっぱい抱えてやって来た。
朝餉を終えたころ、麓の大黒屋に泊まっていた猪三と五郎丸がやってきた。
子供好きの朱鷺は、五郎丸を見て大層喜んだ。旦那様、この子を養子に迎えましょうとまで言った。
国兼と朱鷺の間には子ができず、このまま国兼が死ぬと梅北家は無くなり、家禄は島津家に没収されてしまう。家臣のためには後継ぎが必要だった。
侍になりたい五郎丸は単純に喜んだ。養子の場合、人払令の適用は免れる。国兼はそれも良いかなと思ったが、考えておこうとだけ言った。
会議のある鹿児島は、ここから八里ほど南西、歩いて四半日ほどの距離にある。行き方は竜ヶ水の断崖を通る経路と、吉野山を通る経路がある。朱鷺の方が、五郎丸を気に入ったことにより、出発が夕刻にずれこんでしまった。会議に遅れるわけにはならないので、国兼は、イノシシ夜を徹して歩くことにし、吉野山経路をとることにした。
(二)
吉野山の峠に差し掛かるころには、日がとっぷりと暮れていた。国兼を乗せた愛馬襤褸は、頭を下に下げとぼとぼという感じで歩いていく。既に三〇歳を超え、葦毛も完全に白毛となり、老斑も浮き出し、国兼同様年老いているが、その気になれば十里を走り通すことができる。民部が手塩にかけて育てた馬だが、癖が強い暴れ馬で、国兼に出会うまで誰も乗せたことが無かった。見た目のくたびれ具合とは違い賢い馬で、人の言うことをよく理解し、状況判断も的確だった。国兼自身、何度この馬に助けられたかわからない。
猪三が珍しくはしゃいでいる。子供好きなこの男は、単純に五郎丸の仲間入りを喜んでいた。大人ぶった五郎丸の方は、からかい相手くらいにしか思っていないようだ。最近繰り返されるお決まりの光景は、ここ吉野山でも行われていた。
べろべろばー。猪三が舌を出し目を剥いて怖そうな顔をする。
「何だそれ。」
つまらなそうに五郎丸が、頭のところで両手を後ろ手に組んだ。
「冗談ではねえぞ。ここ吉野山は出るんだー。」
「何が?」
熱弁をふるう猪三だが、五郎丸はそっけない。
「化け狐がよ。なんでも、昔、島津の殿さまを助けたっちゅうことで、ここ吉野山で、狐はとっちゃあなんねえんだ。それをいいことに、のさばった狐たちは年を経て人を騙すようになったちゅう話よ。それだけじゃなかよ、馬の肝を食べるために、人が連れている馬を盗むんだと。」
けらけらと、五郎丸は笑い出した。狐が化かす。川東村にもいっぱい狐は出るが、そんな話は聞いたことが無い。子供だと思って作り話で、怖がらせようとしてらあと思った。
そのとき、目の前の道が、まるで昼のように明るくなった。誰か篝火でも炊いているのかと思っていると、明かりが近づいてきた。
「ひぃぃぃぃ。で、で、出たー。」
人を脅かそうとした猪三が、持っていた槍を投げ出し腰を抜かした。
人の大きさ程もある巨大な火の玉が目の前に現れたからだ。
(三)
ごっと襲い来る火の玉に、襤褸は驚いて竿立った。振り落とされた国兼は、地面に転がって受け身を取る。地面で何かが蠢いていた。
「蟹だ、蟹の群れ。」
五郎丸が叫ぶ。
近くに沢でもあるのか、何百匹という沢蟹が道を埋め尽くしていた。国兼たちの手足をはさみに来る。襤褸には足をはさむだけでなく、数十匹がよじ登って体をはさみ始めた。嫌がった襤褸は、暴れてどこかへ走り去ってしまった。
その途端、一瞬にして火の玉も蟹の群れも跡形もなく消えた。
「やられた。」
国兼が叫んだ。噂の吉野狐だ。本当に馬をさらいおった。指笛を吹いてみたが、虚しく辺りに木霊するだけだ。
「どうしましょう、殿さま。」
猪三が情けない声で聞いてくる。
「決まっておるじゃろう、狐に生き胆を食われる前に、見つけ出すんじゃ。」
時間が無い。国兼、猪三と五郎丸、二手に分かれて探すことにした。国兼は谷の方を、五郎丸達は山の方を。
国兼は槍を片手に、谷を少しずつ降りていった。下までつくと、小川が流れていた。見ると、向こう岸の茂みが揺れている。渡って確かめようと、小川に左足を踏み入れた途端、激痛が走った。水の中に隠れていたものが姿を現す。身の丈十尺を超えそうな大蟹が、国兼の右足を挟んで振り回した。激痛にうめき声が漏れる。このままでは、右足がちぎれる。
「やむをえん。」
振り回されながら、槍の革袋を外した。青白いまばゆい光が辺りを包む。そのまま槍を蟹の鋏に突き立てようとしたとき、国兼は突然放り出された。槍を地面にさして、軸にしながら、うまく勢いを殺して着地した。
再び槍を構えたとき、国兼の前には、裃を着た白髪の老人が、従者五名を引き連れて平伏していた。
「失礼をいたしました。」
上品そうな口調で老人が言う。
「高名な降魔の槍の使い手と知らず、無作法をいたしました。琵琶湖の大ムカデ、妖熊銀兜、星狼、奄美の大鰐、地獄極楽丸、五体もの強き魔物を退治されたこと聞き及んでおります。御無礼の段、ひらにご容赦のほどを。」
「お主たちは。」
国兼の問いに、老人は頭を上げて言った。
「我らは、吉野狐の一族にござる。我はその棟梁、碧眼翁にございます。大陸から渡り参った金毛九尾の狐を祖とし、薩摩の国吉野に住み着いてはや千年、守護大名島津家とは、共存共栄を果たしてまいりました。吉野を我らの聖域とし、勝手気ままにふるまって良いとの島津初代の書付もございます。」
「じゃからと言って、儂の愛馬を食らわれては困る。」
国兼の声に、碧眼翁は頷いて言った。
「降魔の槍の使い手たる、あなた様は別でございます。馬はちゃんとお返しする故、その槍をしまってはくださらんか。」
(四)
山の方へ向かった猪三と五郎丸は、五郎丸と同い年くらいだろうか、道端で泣いている小さな女子を見つけた。道にでも迷ったのか。子供好きの猪三が親切に、どうしたのかいと声をかける。
「大事なものを失くしたの。」
女の子は手で顔を覆ったまま泣き止まない。
「困ったなー、一緒に探してやるから、もう泣くなよー。」
それでも、女の子は泣き止まない。
「何を無くしたのかいってみな、ほら。」
猪三はそう言いながら、女の子の髪を撫でてやった。
女の子はいやいやをするように、顔を隠したまま左右に振る。
「見つからないわ。」
「そんなこと、探してみなくっちゃ、わからんべ。」
今度は、力づけるように言った。
「いいえ、無理よ。だって」
女の子は顔を上げて言った。
「私の顔だもの。」
目も鼻も口もない。のっぺらぼうの顔を見て、猪三は泡を吹いて倒れた。
「ちょろいもんね。」
そういって立ち上がろうとする女の子に、五郎丸が組みついた。
「え、ちょっとちょっと、私のっぺらぼうよ。怖くないの。」
組み付かれながら必死で叫ぶ。五郎丸は、へへんと笑いながら言った。
「怖かないや、この化け狐。最初から尻尾が見えてるぞ。」
「え!」
着物の裾から、二本の金色のしっぽが覗いていた。
「しまった、もう、またやっちゃった。」
その尻尾を五郎丸はぐいっと掴む。
「ちょっと、やめてよ。尻尾をつかまれると力が出せないじゃない。」
「へへ、そんなことは、言うもんじゃないぞ!」
そう言い乍ら、ぎゅうぎゅう尻尾をねじる。
「わかった、降参降参!何でも言うこと聞くから。」
少女狐は悲鳴を上げた。
「信用できないな。」
そう言って、さらに尻尾をねじりあげる。
「殿様の馬のところに案内しろ。」
言いながら、猪三の尻を蹴りつける。手荒い気付けに、猪三は跳ね起きた。
そこへ、襤褸に乗って国兼がやって来た。
「用は済んだ。行くぞ。」
五郎丸は驚きながら、少女狐を顎でしゃくって
「これは?」と聞いた。
「離してやれ。」
解き放たれた少女狐は、正体を現し、逃げ込んだ草むらから、遠ざかる国兼達を見ながら呟いた。
「あーあ、えらい目にあった。」
いつのまにか、年老いた狐が隣に立っている。
「碧眼翁様!」
老狐は、国兼達を見ながら言った。
「鈴よ。あの者たちの伴をせよ。」
「えー。嫌ですう。」
ふくれっ面で答える少女狐に、諭すように言う。
「よいか、数千年に一度現れると伝えられる降魔の槍の使い手、最近星どもが騒いでおるのと無関係ではあるまい。変事あるところ、必ず降魔の槍あり。お主は何が起こっているか、使い手の近くで見届け、儂に知らせるのじゃ。」
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