第9話 あの夜の月

(一)

 大地を染める一面の赤、まるでこの世で無いような情景の中に、その女性は、ふわりと存在した。その人自身、まるでこの世のものではないように。滑るように花畑を動いては、ぱちんぱちんと、咲き誇る彼岸花を摘み取っていく。

 黄地に赤い椿をあしらった鮮やかな小袖。生きている人の色ではない、血管の浮き出した肌の異様な白さが、着物を一層艶やかに移す。大層痩せているが、程よい肉付きは未だ保っている。もはや四十を超える年だが、大きく黒い目と小ぶりでツンと高い鼻、桜の花びらのような桃色の唇は未だ若さと、三州一と呼ばれた往年の美しさを保っている。


 よく見ると、まるでその女性を守るように、子牛ほどの大きさのある犬が寝そべっている。ふさふさした長毛に花弁のような茶色のぶちがところどころに見える。知らぬ者は犬と分からず、これが噂に聞く獅子かと思いそうな外観。国兼が蝦夷から連れ帰って十年になる。

 これが往年戦犬として、国兼と共に戦ったアイヌ犬の福王丸である。戦場では常に一小隊並みの活躍をし、梅北衆の一員として、敵を震え上がらせた。興味深いのは、決して仕込まれたわけでなく、自由意思で戦っているところだ。今も自由と言うより神出鬼没に活動するこの犬は、人間並みの知能を持っているようだった。


 福王丸の耳がぴくんと立った。むくっと起き上がると、畑の入り口に向かって駆け出していき、入ってこようとした男に飛びついた。男にのしかかると、ぺろぺろと顔を舐める。男は起き上がろうとばたばたもがくが、福王丸はなかなか開放しない。見ていた朱鷺の方が、片手で口を隠して笑った。まるで花がほころんだようだ。男は寝たまま、片手に持った大ぶりの鯉を掲げて言った。

 「土産じゃ。」

 国兼が自分で川に入って捕まえたものか、古びて綻びのある衣服はずぶ濡れであった。


(二)

 侍女の浪路が、炊事場で鯉を煮ている。搾り取った鯉の生き血が、盃に注がれ居間に座る朱鷺の前に置かれているが、顔をしかめて、なかなか手を付けそうにない。

「肺病に効くそうじゃから。」

困ったように飲ませようとする国兼に、薩摩一の”ぼっけもん”の面影はない。それを面白がってか、朱鷺は親に甘える少女のように、頭を振り続けている。

 浪路が、鯉の煮物と味噌汁を運んできた。朱鷺と国兼の姿を見ると、呆れたように言う。

「姫様、いつまでも子供の様に!国兼さまがお困りですよ。」

 浪路は、肝付家で朱鷺が幼い頃より守り役を務め、国兼の下に嫁しづいたときに一緒に付いてきた老女である。老女と言っても、年齢は国兼と同じだ。もちろん、朱鷺も姫と言う年ではないが、浪路にとっては勿論、国兼にとっても、いつまでも手のかかる姫であった。

 二人に迫られ、ついに盃を手にした朱鷺は、鼻をつまんで生き血を一気に、のど奥へと流し込んだ。まずそうに顔をしかめ、舌を出している。その姿に、今度は国兼と浪路が笑った。


 夜も更けて、浪路は離れで寝所に入った。国兼と朱鷺はまだ起きて、障子を開け放ち、居間から外を見ていた。山深い北山の城からは、肥沃な姶良平野、さらに錦江湾から火山桜島まで望める。床の間には、朱鷺がいけた彼岸花が一輪飾られている。二人はしばし何も言わず、外を見たまま、国兼は盃につがれた濁酒を飲み干し、その盃に朱鷺が徳利からつぎ足すを繰り返していた。

 空には煌々と、白い大きな満月が輝いている。

 とん、と不意に朱鷺が国兼の腕にしなだれかかった。

肺病特有の血の臭いを抑えるため、焚きしめた微かな香の臭いが、鼻をくすぐる。

国兼は一瞬驚いた顔をしたが、再び酒を口元に運び始めた。

「ねぇ、憶えておいで?」

 朱鷺の問いに、国兼は顔を向けて何をと言った。

「あの夜も月が出ていた。」

あの夜、ああ、あの日か。国兼は頷くと再び盃を傾けだした。


(三)

 永禄元年(1558年)九月のことである。朱鷺の父、大隅の名族肝付氏の実質的当主兼続は、長年誼を結んできた島津家を突然見限り、日向の伊東氏と手を結んで、薩摩大隅日向の島津氏拠点を攻略し始めた。

 朱鷺の母、御南の父である島津忠良も黙ってはいない。次子である猛将忠将に、二千の兵を率いさせ、肝付方の垂水伊地知氏を攻撃させた。

 これに対し、肝付兼続は嫡男良兼を大将として、大隅の豪族、禰寝氏、薬丸氏などを含む三千の兵で救援に駆けつけるが、猛将忠将率いる薩摩の精鋭の前に、連合軍は分断され、良兼本隊は包囲されて窮地に陥る。そこへ、日向庄内梅北荘から駆け付けた、国兼率いる梅北勢二百が忠将の背後から本陣を急襲し、混乱に陥った島津軍を、肝付本隊と挟み撃ちして敗北せしめた。その夜のことである。


 兼続は上機嫌で盃を傾けていた。諸将が口々に良兼を褒めそやす。

「さすがは、伴氏の流れを汲む名族肝付家のご当主じゃ。」

「あの島津忠将の慌てっぷり、何が薩摩の軍神よ。我ら大隅勢の前には、ひとたまりも無いわ。」

 露骨な追従だが、知ってか知らずか、良兼も上機嫌で、諸将から注がれる酒を飲みほしている。

「諸将よ、今宵の祝勝を記念し、我が掌中の珠をご覧に入れよう。」

そう言うと兼続はぽんぽんと手を叩いた。狩野派による鷹が描かれた襖が、音もなく開かれる。そこには、一人の美しい少女が座っていた。桃色の小袖に赤字に金銀の刺繍のある豪奢な内掛を着て、気が強そうに、平伏するでも礼をするでもなく、顔を上げて正面を見据え座っている。

「我が三の姫、朱鷺姫じゃ。」

 兼続は、自慢げに言う。

「おお、この方が。」「何と美しい。」「流石は、肝付家のご息女じゃ。」

諸将が口々に言った。先程と異なり追従ではない。今年十三になる朱鷺姫の美しさは、隣国にまで鳴り響いていた。和歌など教養も身に着け、舞では、天下の名人になるだろうと言われていた。そろそろ輿入れする年だが、溺愛する兼続が離さない。格式好きの兼続が、宮中に上げようと画策しているとの噂もあった。


「朱鷺よ、戦勝の祝いじゃ。この父と兄のため、ひとさし舞うてはくれぬか。」

兼続が目を細めて娘に願うが、

「嫌でございます。」

にべもない返事だった。

「この父の頼みぞ!聞けぬと申すか!」

語気を荒げて兼続は言うが、朱鷺姫は動じない。

「何度おっしゃられても、嫌なものは嫌でございます。」

「姫様は、お恥ずかしいのでございましょう。」

家老の薬丸兼将が、その場を取り繕おうとするが、それにも

「違います。恥ずかしいのではございません。」

と気強く答えた。


(四)

 朱鷺姫は怒っていた。父のあまりの非道さに。島津家は母の実家、島津忠将は母の兄である。母の実家を突然裏切り、島津の仇敵伊東氏と手を握ったうえ、島津の拠点を次々と攻略する。戦国の習いとは言え、母の気持ちを思うと辛かった。

 しかも、母に離縁を言い渡し、子たちを心配する母が離縁に応じぬと知るや、高山城内に軟禁した。

 そのうえ、伯父である忠将に勝って、母のいる城内で、この馬鹿騒ぎの宴席。

 舞など披露できるわけがない。


 兼続のこめかみに青筋が立った。生来の短気で、怒ると押さえが効かぬ方だ。

「戦勝の祝いに水を差しおるか。言え、何故踊らぬ。事と次第によっては、娘と言えど容赦せぬぞ。」

刀に手をかけた。不穏な空気が、その場を支配した。

 怖いもの知らずの朱鷺姫は、それでも負けずに何事か言い返そうとした。その時である。


 後ろで「あーあ。」と、伸びをしたものがいる。

「誰じゃ。」怒りはそのままに、兼続が振り返る。

「いや失礼、姫の言うとおりじゃと思いましてな。」

頭をぼりぼり掻き乍ら、優しそうな目をした長身の武者が立ち上がった。

それが梅北国兼という名だとは、後で知った。

「どう言う通りじゃと言うのだ。」

いい加減なことを言うなとばかり、兼続がせまる。

「だってその通りでござろう。一部将である忠将を退けたのみ、島津軍は武の中心忠良始め、嫡子貴久、敗れた忠将すらピンピンしてござる。さあ各々がた、ぐずぐずしている場合ではござるまい。領地に帰り戦支度じゃ。」

 そう言うと、さっと立って一礼し、すたすたと宴席を後にした。

空気が変わった。姫のことは、兼続さえ忘れていた。

場が白けたのを幸いに、後に続いて中座する者は少なくなかった。


『あやつ、片田舎の、わずか三千石の地頭に過ぎぬに、少しばかりの武勇を鼻にかけ、増長しおって。」

 兼続の前で、薬丸兼将が聞こえよがしに呟く。

「放っておけ。使い道のあるうちはな。」

 兼続はそう言って、盃をぐぃっと空けた。


「待ってー。」

廊下を追いかけるが、打ち掛けが邪魔で、うまく走れない。

助け舟を出してくれたのは明らかだが、余計なことを。

姫の覚悟が台無しだ。目一杯、文句を言ってやるつもりだった。


 国兼は、後ろを振り返ることなく、すたすたと進み、城の門脇につないであった馬に跳び乗ると、そのまま、領地のある北方目指して疾走した。

「なんて」

蒼黒い、闇に包まれた森林を、土埃を挙げ乍ら疾走し、去っていく美しい白い馬、なんて幻想的な情景だろう。

これが朱鷺の初恋であったかもしれない。

空には、青白く、大きな満月が輝いていた。


 込み上げてきたものが、朱鷺の甘い夢を覚ました。

激しくせき込む。口を覆った白い片袖が深紅に染まる。

背中をさすりながら国兼が言った。

「閉めるとしよう。少し冷えてきたようじゃ。」

立ちかけた国兼を朱鷺が抑えた。

「そのままで。」

せえせえ息をしながら言う。

「次この美しい満月を見ることができるか、わからないのですから。」

口から血を垂らしながら、決死な面持ちでそういう妻を、国兼は優しく抱きしめた。

 



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