第2話 あれが殿さま?
(一)
「五郎丸、危ないぞー。」
「降りてらっしゃい。」
「がらっぱに、尻子玉を抜かるっど。」
童たちが、口々に下の岸から、けたたましく注意をする。
当の五郎丸はどこ吹く風で、滝の横の崖を、少しづつ登っていった。
五郎丸は、ここ湯之尾の滝に近い薩摩の国、川東村の村長の末っ子で、今年8歳になる。
生来やんちゃな質で、いくつになっても無茶や悪戯が収まらない。
ある時は、神木である杉の大木に上り落ちて腕を骨折したり、またある時は、暴れ馬に跨って村中を走り回って怪我人を出したり、親である伝左衛門が困り果てて、何度か寺小姓にしようとしたが、どの寺でも暴れ者の五郎丸に手を焼き、三日ともたず家へ帰された。
そんな五郎丸の夢は、尊敬する太閤秀吉のように、百姓から侍になって、いつか天下を取ること。男の子なら一度は見る夢を、彼なりに真剣に考えていた。
遊び仲間で年長の兵助は、最近の太閤のおふれ(人払令)で、百姓が侍になることはできなくなったと言うが、そんな馬鹿なことを太閤殿下がするわけがない。それは、太閤殿下自身の一生を否定することだ。ここまで難しくは考えなかったが、五郎丸は兵助の言葉を信じず笑い飛ばした。
今日も侍になる修行で、ここ湯之尾の滝にやってきた。滝の上は神が住む森があり立ち入り禁止だ。滝壺にはガラッパ(河童)が住み、子供を引き込んで尻子玉を抜いて殺すという。現に年に2,3人は、この滝で水死体が上がった。
面白い。神もガラッパも、この五郎丸様が正体を見届けてやる。
侍になる修行のため、度胸試しのため、五郎丸は、二〇間ほどの高さの崖を登っていく。
(二)
滝の頂点に手がかかった。身体を一気に引き起こそうとして、五郎丸は人の気配に気が付いた。
何だ何だ。
用心深く頭をそっと崖の上へ出す。戦乱の世は太閤の天下統一で終わったとはいえ、未だ村々では、野党や山賊の被害が収まらない。守護地頭など領主たちも今は、戦に代わる野党などの対策に知恵を絞っていた。
!
ぎょっとして、手が離れそうになり、五郎丸は、必死で岩肌にしがみついた。
滝の上に、金糸や銀糸をあしらった豪華な小袖、平袴姿の若い男がいる。腰に大小を刺し、髪はちぢれた長髪、その色は、茶色と言うより血のような赤だ。そして、顔には般若の面を被っている。
気の強い五郎丸は、鬼の面ごときでは驚かない。
その男は、滝の流れの上に、宙に浮いて立っていた。
物の怪!
つーっと、さすがの五郎丸も背中に冷たい汗が流れた。
そのとき、その男が、ゆっくりと五郎丸の方を向いた。
面は取らないが、なぜかわかった。
笑った。
そう思った瞬間、握っていた岩が剥がれた。
五郎丸は叫び声と共に、瀑布の滝壺へと落ちていく。
下で見ていた兵助たちも、叫び声を上げていた。
幼いが肝の据わった五郎丸は、死を覚悟した。
兵助たちも、とても助からないと手で目を覆った。
ごっ
そのとき、兵助たちの横を旋風がすり抜けた。
見ると、ざんぶと馬ごと滝つぼに飛び込んだ男が、上から落ちてくる五郎丸を両手で受け止めた。
日に照らされ、影となったその顔は、五郎丸にはよく見えなかった。
馬はそのまま、じゃぶじゃぶと瀑布を泳いでいく。
意識を失う瞬間、五郎丸は助けてくれた男の、つんとそらした白いひげを見た。
「なんじゃ、どこのじじいじゃ。」
悪態をつくと、そのまま、目の前が暗くなった。
(三)
「目が覚めたかーい。」
気が付くと、五郎丸は地面に寝かされていて、何とも間の抜けた中年の大男の顔が、上から覗いていた。呑気そうなこの男は、声まで間延びしている。
「とのー、とのー。気が付いたようごわんど。」
男の顔の先には、馬の轡を握り、滝を見つめて一人の武士が立っていた。細かい傷跡の目立つ長い顔に、両端がぴんと立った白髭を鼻下に蓄えている老人だ。目は奥目で大きく、鼻は鷲鼻で高く、知っている者は南蛮人の様だと思うだろう。薄汚れ、ところどころ破れたのを縫い合わせてある直垂、よれよれの狩烏帽子、長身だが鶴のように痩せこけている。
老人が引いている馬も、同様に草臥れている。元は葦毛だったものが年老いて白くなった毛並み、その白もところどころ染みで汚れている。主人も馬も見た目はくたびれているが、共にしゃんと立って滝を見つめているところは老人らしくなく、妙に違和感があった。
「やんちゃが過ぎると、命を落とすど。」
老人は近寄るなり、いきなりこう言った。不躾な物言いに、五郎丸は助けられたのも忘れ、思わずかっとした。
「じいさん、うるさい!おらは、あんなものさえ見んければ、落ちはせんかったわい。」
老人は歯を見せてニヤと笑った。
「ガラッパでも見たか。」
からかわれたと思い、五郎丸は躍起になって言った。
「ガラッパなど、しっぽを巻いて逃げ出すわい。鬼じゃ、おらが見たのは本物の鬼じゃ。」
どっと、兵助たちの笑い声が聞こえた。もっとましな言い訳をしろ。鬼なんて、おるわけがなかろう。五郎丸は意地になって、あれは鬼じゃ、鬼に違いないと言った。
老人の顔から笑いが消えた。大男も青ざめ、心なしかぶるぶる震えている。
「どんな姿じゃ。」
真剣な顔で、五郎丸に尋ねた。
きらびやかな小袖、般若の面をかぶって、宙に浮いていた。
自分の名誉のため、一生懸命説明した。
兵助たちは、ほら見ろ、ただの面じゃろ、宙に浮いていたのは見間違いじゃと囃し立てたが、老人の顔は、みるみる真剣になっていった。
(四)
そのとき、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。ときに小さく、ときに大きく、激しく優しく、聞いていると踊り出しそうになる響き。兵助たちは、うきうきと浮かれ出した。
「忠助じゃな。相変わらず上手いもんじゃ。」
老人の言葉に大男が頷く。辺りがだんだん橙色に染まってきた。もうじき日が暮れる。今日は年に一度の湯之尾神社のお祭りだ。近郷近在から大勢の人たちが、湯治場としても知られるここ湯之尾に集まって賑わう日だ。
「お前たちも祭りに行くんじゃろ。」
老人は兵助たちに声をかけた。みんな畏まって頷く。
「なら、早く家に帰れ。祭りだちゅうて、夜遅くまで遊び歩くんじゃなかぞ。」
そう言うと馬に跨り、滝の上流を目指してゆっくり進んでいく。件の大男が、重そうな槍を担いで慌てて後を追った。
「なんじゃ、あの失礼な爺は。」
後姿を見送ってぽつりと言った五郎丸の独り言に、兵助は笑った。
「お前、知らんとか。」
何のことだと物言いたげな五郎丸に、兵助は続けて言った。
「あれは、おい(俺)たちの殿さまじゃ。梅北国兼様じゃ。」
あれが殿さま、あの爺様が。
五郎丸は、失望を隠せなかった。侍になるには、まず領主の家来になるのが筋道だが、あんな貧乏そうな年寄りだとは。秀吉が信長に仕えたようには、いかぬようだった。
世の中は、ままならん。
五郎丸は、8歳にして世間の厳しさを知った気がした。
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