奇叛天    ~きほうて~ 天に歯向かった男

宮内露風

第1話 西郷従道

(一)

 1899年(明治32年)1月のことである。正月三が日が明けたばかりの、鹿児島県姶良村山田(現在の姶良市山田地区)、この山間の小さな村の村道を、軍服の上から外套を羽織って、馬に乗った一人の軍人が進んでいた。書生らしい、雪もちらちら降るというのに、薩摩絣一丁を着た若者一人を伴につれ、穏やかな顔で馬に揺られている。

 立派な身なりに、道行く村人が通りすがりに会釈をしながら、

「あんお人は何者な。」と、こそこそ話し合った。

「侯爵様じゃと。」「海軍元帥でいらっしゃる。」訳知り顔に囁く者たちがいるが、村人は侯爵や元帥と言われてもピンと来ない。

誰かが言った。

「西郷さぁの弟御じゃ。」

 その言葉の効果は覿面だった。皆大名行列を迎えるように、道端に平伏する。


 従道は困ったような顔をして馬を下りた。村長と思しき老人が走ってくる。

「西郷先生、こげん山の中まで、ようお出でくださいました。して、何用でござりますか。」

ぺこぺこと頭を下げながら、まくしたてる村長に、従道は苦笑して尋ねた。

「古い話じゃが、兄さんが、よう猟のついでに、こちらの村に立ち寄ったとの話を聞いてな。」

「西郷大先生が……、さて、ずいぶんと前のお話でございますな。」

「何やら、古い社を熱心に参っておったと聞いたが。」

「ここにも、いくつかお社はありますどん、どれじゃろかい。」

村長は憶えていないようで、しきりと頭を捻っている。


そのとき、一人の老婆が立ち上がっていった。

「そいは、確か北山の御社でございますよ。」

村長は、ぽんと手をたたいた。

「ああ、あん隠し神か。」


(二)

 北山は山田よりもさらに山奥で、細い獣道しかないため、馬を下りて歩くしかなかった。従道は今年五十六歳になる。まだまだ老け込む年ではなかったが、最近胃腸の調子が思わしくなく、具合が悪くて寝込むこともしばしばだった。必然、鍛えこまれた身体の衰えは隠せない。ふぅふぅ言いながら山道を登った。

 この地を訪ねたのには訳がある。先年、侯爵に列せられると共に元老となり、軍隊ばかりでなく我が国の政治の中枢にも身を置いた。そこで目にしたのは、兄隆盛が嫌い抜いていた政治の腐敗、日清戦争の勝利に勢いづく軍部を中心とした国を挙げての大陸進出。一方で、徳川の統治時代よりも貧富の格差は激しく、鹿鳴館での華族や新興成金たちの乱痴気騒ぎを尻目に、地方の寒村では飢えを凌ぐために遊郭に娘を売りに出したり、安い賃金で奉公に出ざるを得ない状況だった。

 何のために維新はあったとか。

さすがの従道も考え込んでしまった。西洋の文明を取り入れ、確かに日本は豊かになった。しかし、その一方で、日本のよき伝統や慣習、人々の暮らしが、破壊されていっているのではないか。

 性急なる大陸進出にも不安だった。日本の中枢部は、たった一度の勝利に思い上がり、博打に勝ったものが我を失うように、とんでもない無理をしようとしているのではないか。思い上がりは、近年の民族主義の台頭にも表れているように思えた。自らを神国の民とし、敗戦国である清や朝鮮民族を、殊更に蔑視する風潮が政府主導によって生まれた。


 この国は驕慢の極みにある。危ういこっちゃ。


 従道は内閣においてこの風潮を戒め、警鐘を鳴らそうとしてきたが、相手にされなかった。孤独を感じた従道が思い出すのは、日本の行く末に警鐘を鳴らし、大乱の末倒れた兄隆盛のことだった。

 しかし、従道の思いとは反対に、政府は大赦された故西郷隆盛を、征韓論者として大陸進出のシンボルとしようとした。靖国神社や、昨年十二月、上野恩賜公園に建てられた銅像が、その象徴である。


 兄は決して、力で相手をねじ伏せようとばかりは考えぬ人じゃった。


 従道が知る限り、兄隆盛が積極的に大陸への武力進出など唱えたことは無い。まず自分を遣韓大使としてくれ、命を懸けて説得をするから、叶わぬ時に初めて武力進出を検討すればよいと言ったに過ぎない。兄の信条からしても、幕末の江戸城開城時などの行動からしても、ただいま実しやかに唱えられている征韓論者説は、とても信じられぬものだった。

 現状に疲れ切った従道は、正月の墓参りで鹿児島に帰ったついでに、兄の足跡を訪ね歩くことにした。兄の行動から、その思いを知ることが、現状を解決する糸口になるかもしれぬ。兄が官職を辞し、鹿児島に帰ってから猟をして歩いた日当山や隼人、財部などを巡って歩き、兄が足しげく通っていた神社の存在を聞いた。西郷家の宗教は神道であり、神社を訪ねるのは珍しいことではないが、周辺に霧島神宮や鹿児島神宮など由緒正しい神社があるのに、何故名もなき社を訪ねたのか興味がわいた。そこで身軽に伴一人のみを連れて、この山間までやってきたのである。


(三)

 北山についても、容易に社は発見できなかったが、書生に尋ね歩かせ、ようやっと獣道の奥に社を発見した。もとは山城があったという山の中の小高い丘を、息切れしながら登る。社に着いた従道は、名もなき神社にもかかわらず、きれいに掃き清められた清浄な空間と、異様な鳥居に驚きを隠せなかった。

 その鳥居は、赤い巨大な槍の形をしていた。


 「珍しかな。全国の神社を参ったどん、こげな変わった鳥居は初めてじゃ。」


 いわれがあるに違いない。そのいわれが兄を惹きつけたのか。それとも、ここに祭られている神が惹きつけたのか。

 従道は八方手を尽くして探したが、北山の村人も、殆どの者が、この社の神を大事にすることと、この神については隠さねばならないということしか知らなかった。山田の村長の家に逗留し、何度か尋ねるうち、神の名を知る老婆がいると聞いた。兄もその老婆を訪ねたらしい。従道は北山の奥地に、一人で暮らすその老婆を訪ねた。


 「その名を知って、どうなさる。」

 従道の身分を知っても、老婆は興味なさげで、簡単には教えてくれなかったが、何度か通ううち、従道の熱心さに打たれたのか、その重い口をついに開いた。


 「あそこにおらっしゃる神の名は。」

ごくりと唾をのんだ。それを知ることで兄の行動や、日本の行く末に関するヒントが得られる気がした。


 「梅北左衛門尉国兼様、

  島津三代の臣にて、齢七十にして朝鮮征伐に異を唱え、

  ときの天下人、太閤豊臣秀吉様に逆らって、乱を起こした御仁じゃ。」

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