重苦

 憮然とした表情をして、僕は荷馬車に揺られる子牛のように恵さんのうるさいジムニーの助手席で揺らされていた。もう穴の空いたマフラーの爆音なんて気にならなくなってきた。慣れというのは斯くも人の五感を鈍らせてしまうものなのか?

 景色は川沿いを通り抜ける高規格ルートに差し掛かっており、流れはズムーズそのものだ。このルートを抜けると全開僕の心を潤した田園地帯に入り込んでいくのだろう。

 しかし、今回はそんな豊かな自然も僕の心をなだめるには十分でないように思われた。


 引越しにまつわる策略……、恵さんと母は「手配」という言葉を使うが、は僕の気持ちを320番位の耐水ペーパーでこすりつけるようなものだった。僅かに今より3時間ほど前、突然就職先の契約書を見せられ、ものの1時間後には新人の工藤製作所の社員がのんきな母を乗せて、バンでアパートにやってきた。

 恵さんと母は、話が合うのか少し楽しそうに会話をしてから、引っ越しの作業に着手した。

 ……僕だけが置いて行かれたような感じだった。

 恵さんは、僕に対して、

「これをまず運ぶから、配線を外して。」

 と指示をだし、外した機材やケーブルは整理されながらダンボールに詰められ、荷物ができると新人社員の伊東君は黙々と部屋から運び出し、バンに載せていった。母は、その傍ら僕の衣服や日用品を仕分けしながら、僕に対して

「コレ要るの?要らないの? どっち?」

 とまくし立て、綺麗にたたんでダンボールに詰め、やはり荷物ができると伊東君は荷物を抱えてバンに持って行った。


 ……何処の、優秀な引越し屋だよ。


 僕は呆れながらも、ただその作業にしたがって行くしかなかった。もともと、一度リヴィング・ウィル申請前にかなりのものを整理してしまっていたので、荷物は少なく、30分もすると長く辛い労働とともに過ごしてきた部屋は空っぽになり、明るさを取り戻し誇らしげでもあった。どうだい、この部屋は本来こんなに明るかったんだよ? そんな皮肉を言われている気分だった。

 その後に、電気屋がきて、ガス屋がきて、電話屋がきて、大家が来て物件の引き渡し書にサインをした。ゲームでもやっているようなご都合主義で段取りがなされ、僕をこの部屋に留めておくものはすっかり無くなった。そして、全員クルマに乗り込んで出発しようとした時に、いつも不定期にやってきては僕に餌をねだっていた猫がゆっくりとやってきた。

「にゃー」

「あ、ちょっとまってもらえます?」

「いいよ。あなたの周りには以外に仲間が多かったのね。」

 皮肉なのか、暖かく見守ってくれているのかわからないコメントを恵さんは発して、伊東くんを交えた3人で楽しくおしゃべりを始めた。

「にぁう」

 僕は習慣的に猫のカリカリをポケットに入れていたので、取り出して手ずから食べさせた。そして、頭を撫でると僕の足に頭を強く押し付けた。

「……この子も随分とかわいがってくれて、君がいなくなると寂しくなるな。君は随分と優良な住居人だったしなぁ」

 突然、背後から挨拶くらいしかしない仏頂面の大家さんが話し始めた。そしてこの猫が大家さんの飼猫だと知って少々びっくりする。……だったら言ってくれればいいのに、と思ったが顔を見る限りそういう慣れ合いを好まない人なのだろう。いつだってお別れの時に大事なことを言って人を混乱させるタイプなのかもしれない。

「あ、そうだ。君にちゃんと敷金を返さないとね。」

そう言って分厚い封筒に入ったお金を僕に渡してくれた。

「いえいえ、そんなのいいんですよ。随分汚く使ってしまったし……。」

「いいんだよ。君はもうちょっと自分の価値を信じたほうがいいかもしれないよ。秋の落ち葉も、冬の雪かきも、春の氷割りも、夏の雑草取りも、いつだって君は何も言わないのにやっていたじゃないか。その……、身体だってではないのに。」

「いや、これは単なるリハビリみたいなもので、自己満足なんですよ……。」

「なかなかできることじゃない。」

 頑として自分の主張を曲げそうにない大家さんは、腕を組んで猫が頭を押し付けるままにしていた。僕は、頑固親父と猫の交流がとてもおもしろく感じた。

「……では、お言葉に甘えて。」

「何処に行っても、たまにこいつに会いに来てくれ。」

そう言って猫のほうを見た。

「こいつも君のことを実に気に入っている。」

「……いや、ただ餌をあげていただけですよ。」

「こいつは、餌だけでは釣られるやつじゃないんだ。」

そうまで言い切られてしまうと返す返事もやはりなく、もう一度猫をなでて深くお礼をした。

「お世話になりました。」

「あぁ、達者でな。」


 僕はもっと自分のことを知るべき時なのかもしれないな。


 うるさいジムニーに揺さぶられている間、イライラしていた感情は部屋を後にするときの出来事によって占領されていた。それは、いままで自分を殺すことしか考えていなかった自分に対する戒めのようにも感じた。

 ……それにしても、うるさいな。そして、再び女性二人の策略を思い出してイライラするのだった。


 引っ越しは実に手際よくなされたので、朝に着手したのに昼前には最後の希望の家に到着してしまった。そして、再び伊里中先生と山木さんに、しつこいほど頭を下げて息子をお願いします、と頼んでいた。……すこし、親の心を知る瞬間だった。

 僕に与えられた部屋は、入居者とは少し別の建物になっていた。そこはなんだか少しだけ周りの景色にそぐわないほど新しい感じのするユニット住宅のような気がした。

「さぁ、荷物を運びこむわよ。中に入って作業してちょうだい。」

 テキパキと引っ越しの搬入をしようとする恵さんをよそに、僕はその真新しさと入居者の人たちの古ぼけた建物の対比にちょっとした違和感を感じる。それが、リヴィング・ウィルを申請した人とそうでない人との線引なのか? いや、伊里中先生と山木さんはそうではない。では、いったいどうしてこんな違和感を感じるのだろう。そんな僕の様子を放置して恵さんたちは荷物をとりあえず運び込んでいた。

「ほら、ぼーっとしているから皆さんが荷物を運びこんでしまったよ。」

 母はしょうがない子供を眺めるような顔で僕に話しかけた。

「そうだね。いつまでも考え込んでいるわけにはいかないもんな。」

 そう言うと僕はおとなしくその建物に入っていった。

 中を見ると僕が引っ越してきた部屋のとおりに荷物が置かれており、後は開封を待つのみとなっていた。

「この工藤の伊東くんね、記憶力が凄いいいのよ。運び出したのと全く同じ場所に荷物をおいてくれるの。」

 伊東はそう言われると、いやーと照れたように頭を掻いて、

「僕なんて大した技術もなく社員になったんですけど、記憶力だけは昔から良くて……。本当は役員面接でパッとした受け答えも出来なかったんですけど、社長がこっそり合格にしたとかしなかったとか……。歓迎会の時に社長が急に僕のところにやってきて、そりゃもう肝を冷やしたんですけど、そんなふうに言ってビールを注いでくれたんですよね。」

「なんか、社長らしいわね。」

 工藤製作所の名物社長か……。僕もこれだけの事をしてもらった以上ちゃんと挨拶にいかないといけないと思ったし、こんなエピーソードを聞かされるといったいどんな人物でどんな策士なんだろうか、と自ずと興味が湧いた。

 伊東くんは十分に役割を果たしてくれたし、母は帰りは恵さんのジムニーに乗って帰るので、仕事があると行ってこの場を後にした。新人社員にしては、礼儀も立ち振舞もとてもスマートで一人前の自立した好青年に思えた。なるほど、社長が見ているのはそういうところなのかもしれないな。

 僕は彼に丁寧にお礼を言って、母もそれに続いた。母はなんとか彼にお金が入っていると思われる封筒を渡そうとするのだけど、彼も、これも仕事ですから、の一点張りでなかなか譲らない。そんな様子を見て

「あれって、いつまで続くと思う?」

 と、恵さんに訪ねてみた。

「そうね、あれを見ているだけで懐かしい日本の姿を思い出すわね。いいわ、私が間に入ってなんとかまとめてくるから、あなたはちゃっちゃと荷物でも片付けていて。」

 僕は余計に問題が複雑化しそうであったが、彼女にその役割を任せた。

 建物の中にある僕の住居部分は、それほど広いものではない。6畳とかそんなものだろうか? それでも、東と南に開いた窓は風通しも良さそうだし、外を見ると広い畑が広がっているのだった。

 僕は伊東くんが丁寧に並べた箱の位置を確認して感嘆しつつも、部屋の核であり、同時に軽いものから手を付け始めた。外は晴れ。まだ太陽がお空で頂点を迎える前だった。

 

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