壱拾蜂
一人暮らしの自宅に帰ってきたものの、何となくよそよそしい雰囲気に包まれていた。確かに、どこかへ長期の旅行に行ったり、あるいは久しぶりに実家に帰ったときに自分の部屋にいても落ち着かないような感じがする、そんな雰囲気だった。
目を覚ますと強烈な東の日の光に顔をゆがめながら起きあがる。そう、スッカリ日は傾き冬へと進行している最中なのだ。
僕は床に転がっていたアンパンを朝食にして、パソコンをネットについないでニュースを確認する。・・・相変わらずつまらなくて弱いものを非難する記事ばかりである。ニュースコンテンツというのは2種類ある。僕が今見ているのはパソコンインターネット上に公開されている「一般記事」である。それともう一つ、この国には携帯向けのコンテンツが存在している。ちょっと前はどこの家にもパソコンが普及し始めて、一気にメディアの趨勢を奪う媒体になるかと思われたが、若者を中心に携帯電話のネット機能が膨張し、その結果通信費用が彼らの家計を圧迫するようになる。当然パソコンなど買う費用はないわけだ。そして、携帯電話はコンテンツのブロックが容易に行いやすく、開かれる情報にも限定をかけられるためにきわめてカットされた情報を与えられ続けた携帯キッズ達は、十分な知識もないまま世の中の経済的弱者にされ搾取される道を知らず知らずのうちに選ばされていった。もしも、頭の回転が速くて反抗的な人物が携帯上からそのブロックを破ろうとしても、携帯にはあまりに個人情報が紐付いておりすぐに「不穏な反乱分子」として当局ににらまれたりする。そういった様子は、一般のネット上には且つてのカルト教のテロの容疑者のように扱われ、社会的に抹殺されていった。当然、その後彼らがどうなったのか知るものは当局以外にいないだろう。
そういう危うい選民意識を持ち始めた富裕層の支持を保ち続けるためのスケープゴートは毎日作られ、デジタル化されたテレビでは連日人々の興味をそそるように報道されていた。
・・・もっとも、デジタル化されたテレビを一体どれくらいの人間が見ているのか全くわからないけれど。
さて、そんなことを頭に隅に感じながらニュースをチェックし、暇をもてあます。試しにインターネットメールソフトを起動してみたらとんでもない数のメールで受信フォルダはあふれそうになった。メールに動画ファイルを添付するのはマナーとして止めて欲しいものだ。
僕はうんざりしながらパソコンを強制終了し、そのまま再びベットに横になった。今しばらくはゆっくりと通院しながら過ごすのもよいかもしれない。
ようやくウトウトし始めた正午辺り、誰かが呼び鈴を鳴らす。僕は、こんな時間にやってくるのは新聞の勧誘とNHKの「再契約」の勧誘くらいなので、対応に出るのは躊躇ったのだけれど結局野生の感に突き動かされてドアを開けた。
「相変わらずさえない顔してるわね。」
恵さんはそういった。
「・・・少なくとも退院したばかりの人間の顔を見て言うべき言葉じゃないと思う。」
僕は若干憮然としながら彼女に言った。
「ま、いいじゃない。あなたの本質は顔じゃないでしょ?」
そういうと勝手に靴を脱いで家に上がり込む恵さんであった。外はスッカリ寒い感じなのでこれについてとやかく言わないようにしておこう。
彼女は自分の家のように当たり前に僕の部屋のコタツに潜って、カバンをゴソゴソと探し始める。そして、1枚の紙を取り出した。
「ささ、ちゃんと読んで。」
「・・・なにこれ?」
「雇用契約書」
「・・・。なんの?」
「あなたの新しい仕事。どうせ無職でニート同然なんでしょ。」
あぁ、駄目だ。なんだか頭痛がしてきた。恵さんは黙っていたらとても綺麗な人なんだけれど、圧倒的にひとに説明するのがへたくそだ。あるいは社会的弱者に説明するのは上手なのかもしれないが、僕に対してはこれっぽっちも上手な説明がなされない。僕はそこであきらめて無造作にコタツの上に置かれた「雇用契約書」というものを手にとって読み始めた。
「恵さん、これ最後の希望の家療養所の雇用契約書じゃないですか? 何でこんなもの持って来ることができるんですか?」
「伊里中先生にあなたがコンピュータ技術に詳しいと話をしたら、是非うちのパソコン管理人員として勤めて欲しいとお願いされたのよ。」
「話は見えてきましたけれど、何故僕の頭の上を通り過ぎて勝手にここまで話を進めるんですか?」
「どうしてって・・・、イヤなの?」
「イヤとかそういう意味じゃなくて、順番が逆でしょ? 履歴書を出して面接をうけて内定が出てからの雇用契約書でしょ?」
そういうと恵さんは大きくため息をついて話し始めた。
「いぃ? そういうルールに縛られて私たちは権力を持っているひとに踏みつけられてきたのよ? そんなルールくらい無視したってかまわないでしょ。」
・・・なんとなく意図はわかるけれど、話がめちゃくちゃな気がする。僕は辛抱強くその「雇用契約書」を読み進めた。
「就業場所、最後の希望の家診療所。仕事内容、院内のサーバー管理及び入居者へのパソコン教室の講師、及びクライアント端末の修繕メンテナンス。場合により院内自家菜園の手入れ、あるいは入居者への介助、支援・・・。なんだか何でも屋という感じがするんですけれど。」
「ウィー。」
「・・・なんですか、ウィーって。」
「私が最近凝っているフランス語でイエス。」
いやいや我慢だ、ここに書かれていることだけが先生の意図だ。
「給与、月額固定給20万円。住居賄い付き・・・。これって僕に住めと言うことですか?」
「そう。」
「・・・。この部屋はどうすればいいのですか?」
「今の無職のあなたに、この部屋の家賃を払う能力があったかしら?」
「・・・無い。というか、何で身元保証人に僕の母親のサインと判子があるんですか!?」
「うん、ここに来る前にあなたのお母さんにお話ししてきてもらってきたの。仕事があるって事ですっごい喜んでいたわよ。よろしくお願いしますって。」
どうして、こう言うときばかり女性という人種は結束力が高まるのだろう。 段々僕は面倒になってきた。
「一つ条件があります。」
「なに? 今なら何でも調整がきくよ? 何しろスポンサーが工藤の社長だから。」
「まさか、工藤製作所の社長に僕のことを話したのですか?」
「うん、だから雇用契約書の最後の行を見て。ほら『工藤製作所のシステムアドミニストレーターとしての職務も含む。毎週金曜日15時~18時まで。この部分については固定月給に付加して時給2000円の賃金が発生する』って。」
「恵さん。社長にどんな宣伝をしたのかわからないけど、企業のシステムを管理するのってそんなに簡単じゃないんですよ?」
「当たり前じゃない。簡単な仕事ならあなたよりもっと安い給料で働いてくれるひとをお願いするよ。それに、工藤製作所のシステムサーバーは最後の希望の家診療所の倉庫に置いてあるの。いつでもメンテナンスできる素敵な立地条件でしょ? 都心じゃサーバー置くのも土地代がかかるからねぇ。」
どうやら、僕はこの契約書に従って働くしかなさそうだ。確かに、このボロアパートでさえ今の僕には家賃を払っていくのは大変だろう。
「一つ聞きたいのですけど、」
「なに。」
「最後の希望の家には高速のインターネット回線はあるんですか?」
「馬鹿なこと言っちゃいけないわよ。光専用線が工藤製作所と結ばれているし、今のところパソコンを使う人も少ないから劇的に速いわよ。ま、それも社長が費用を出してくれたんだけれどね。」
・・・すべてが準備周到だ。どんな言い訳を付けても逃げることは不可能に思えた。けれども、パソコンをいじってお金が稼げるのは悪いことではないとも感じていた。さらに、既存プロバイダを利用しないでネットに接続できる環境があることが僕の興味を大きくそそった。それだけで、公安の検閲の目をそらすことができる。
「わかりました。行きますよ。真面目に働くと思いますよ。それで、いつから働けば良いんですか?」
「今日私が来たのはあなたの引っ越しの手伝い。今から引っ越し始めるよ。」
なんだか部屋の中で暴れたい気持ちになったけれど、今となっては仕方ない。取り合えず向こうに行ってからゆっくり考えるとしよう。
それほど僕は圧倒され、面倒くさくなっていたのだ。
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