壱拾麓
入院期間はすでに1ヶ月を超えた。
その間の治療というのは実に気持ちの悪いものであり、悪性新生物呼ばれるガンには未知なる生命活動のたくましさを感じるのである。それと同時に、遺伝情報の継承という正しいルールを逸脱した場合の現象の怖さを知ることとなった。所謂暴走というものだろうか。
正直言って治療技術に関しては矢口医師にがんばってもらうしかないのだけれど、僕は彼の助言をなるべく忠実に守ってきたし、そのスタッフ達にも敬意を払ってきた。病気を治すという行為にはそういう患者と医療スタッフとのチームワークが重要であった。片方ばかりががんばっても高い効果は上げられない。
その点では、巷にはびこる医療訴訟の嵐はそういうコミュニケーションが機能してなかった「悲しいケース」なのだな、と思うのである。信頼あれば、結果が不幸なものであってもそこに共感が残る。そういう意味では矢口医師は時折熱くなりすぎるのだけれど、僕の信頼をきちんと繋いでいたし、例え一時間後に心臓が停止しようとも彼を恨む気持ちは全くない。そういうことは母が見舞いに訪れるわずかな会話の時間にも話していたし、母も僕の言葉から矢口医師への信頼を繋いでいた。おそらく母も例えどんな軽微なミスで僕を死なせることとなったとしても、その経緯を見つめてきたものとして彼を非難することはないだろう。悪いのは病気そのものと、病気を改善するための技術を支援しない行政にあるのだ、と僕は思う。
この入院期間で僕はそうしようと思えば圧倒的に退屈であったはずなのだけれど、とにかく学生の時に使っていた辞書とネットワークに接続したパソコンを駆使して、「普通」に会話ができるくらいの英語力を回復した。まぁ、確かに何もしなかったらそのまま闘病だけに流されて暗い気持ちになり、そのまま体を弱らせていったのかもしれない。けれども僕はそれがどんな役に立つのかのイメージがつかめていないながらも英会話能力を会得していった。機嫌の良いときは、英会話を学ぼうと志す人たちの集うチャットに紛れ込んで、自分の病気自慢などをしたり、他の人の考えをフムフムと聞いたりしながら考えを巡らせた。
一つそこで気が付いたのは、英語を勉強するという余裕のある人は僕とは違った収入に余裕のある人たちであり、彼らは僕のような貧民層の話を興味深く聞いてくれた。そして、少なからずショックを受けたようであった。
僕らから見ると嫉妬や妬みの対象でしかなかった彼らの中にも、自分の将来を必ずしも楽観視していないことを感覚的にとらえることができた。もちろん選民意識とでも言うのだろうか、自分の与えられた境遇をひたすら自慢するような連中もいたが、そういう連中は話す相手に自分のことを語る(自慢だろうか?)するだけで、まともな会話は成立しなかった。
しかしながら、英語という言語を媒介とすることで、表現はストレートなものとなり、日本語的な歯に物が挟まったような婉曲表現ではないことは逆に好都合であったりもした。
ここで学んだことは、決して貧民層と富裕層は対立するだけの存在ではないと言うこと。そして、経済的に余裕のある生活をするために彼らもまた必死に過激な業務に就いていくために、精神的なストレスは課題であることを理解した。これは少なからず、同じ国の中で対立軸が「誰かの思惑」で恣意的に作られていることの根拠となりうる発見かもしれなかった。
そこから僕は、
「では、海外の人々はどう考えているのか?」
という単純な疑問から、メールやチャットの相手を国外に見いだそうとした。しかしながら、その試みは徒労になった。
あらゆる海外への自由なネットの接続がシャットアウトされているのである。・・・それは、今まで全く気が付かないことであった。いつの間にかネットワークの世界で日本は鎖国状態になっているのである。・・・一体難のために誰が?
そういう疑問を解き明かすための学習が、次の僕の課題となった。
「いかに封鎖されたネットワークの壁を突き破るのか?」
やるべき事は簡単だった。そのためにはあらゆるコンピュータネットワークの知識が必要である。
定期的に恵さんは、矢口先生との打ち合わせのついで、と言うことで僕を見舞いに来てくれていた。その度に僕は彼女にネットワーク関連の技術書を図書館から借りてきてもらい、返す本と入れ替わりに新しい本を受け取った。
「あなた、病人なんだから少しは安静にと言うことを学ぶことはできないのかしら?」
恵さんは、いつものように綺麗な花を花瓶に活けながら嫌みを言う。けれども、その行為を止めることは決して言わなかった。そして、せっかく生けてくれた花を僕が持ちだして秀さんの最後の場所に持って行ってしまうことにも一切口を出さなかった。
毎日が試行錯誤の繰り返しであり、時にパソコンのカーネル部分を壊してしまうことや、悪意のあるソフトに感染されられることも少なくなかった。けれども、僕は文句も言わずパソコンを再設定し続けた。
そういう不毛な作業をしているときには、賽の河原の風景を思い出したりもしたが、逆に考えるとその行為は繰り返されるフリークライミングのようであり、失敗しなければドンドン高みへと上り詰めていく実感があった。手をかける場所、足をおく場所をしっかりシミュレーションする。そこに失敗は許されない。フリークライミングの失敗が墜落によって終わるように、僕のネットワークブロックの突破の試行錯誤も、それを設定している人間達に察知されれば墜落と同じ末路をたどるのである。
なぁに、焦ることはない。時間ならたっぷりあるんだ。
一歩一歩。一日10センチでも落ちることなくうえに登ることができればそれで十分なのだ。それに必要な体力維持は矢口医師という優秀なバックアッパーが面倒を見てくれる。
僕は、先にある答えをただ知りたかった。
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