壱拾師
その翌日から、早速検査などで忙しくなってきた。例によって、血液検査やらCTスキャンやら。その間にも先日僕の体から持っていった肺の一部を病理検査にかけて細かくチェックしているらしい。なかなか病気一つを調べるにも大量の人員と時間が費やされているらしい。
そりゃ金かかるわ。
僕は漫然とそう感じた。病気にならない人は基本的にいない。試しにデパートの屋上から石を投げてみたら、2分の1の確率位で持病を持っている人に当たるだろう。つまり、本来であればとっくに破綻していたであろう従来の医療制度を抜本から改良すること無しに、要求した予算が来るままに無駄遣いし、余った予算を必要としている省庁に回してトータルで帳尻を合わせる、と言う行為自体がされてこなかったのも問題である。生まれながらに体が弱い人が、医療費の度重なる引き上げに不公平感を感じるのと同じように、病気をほとんどしない人が度重なる医療保険の高騰に不公平感を感じるのは事実である。
そのことをうまく調整するのが「政治」というモノのはずなのだけれど、政治家はまず自分の地位を安定させるところから仕事が始まるからな。・・・まぁ、不満を言っても仕方ない。選挙で見極めることができなかった国民もまたバカなのである。
僕は2~3日、傷の痛みでうろつくことはできなかったが、4日目位から痛みはチリチリとしたものから筋肉痛のような種類に変ってきたので、なるべく意識して体を動かすようにした。
そして、その日僕は自分の病室に飾られていた花を持ちだし、いつものように起床時間前のわずかに空が明るくなった時間に敷地の外へと抜けだし、秀さんが亡くなったという塀にその花をたむけた。
僕は魂などは信じない。基本的に。
それは、死して尚意識が有り、俗世と同じように考え事をしたり、悩んだりするのがイヤだから信じないようにしているだけだ。だから、他人の信仰心に関して横槍を入れるようなことはしない。そして、自分の魂に関してはそのような考えだが、他人の魂は尊重する。矛盾する考えの対立で僕の思想というものは成立しているのである。
「秀さん・・・」
僕は、花を秀さんに見立てて手を合わせて祈った。
自殺をすると魂は救済されないと言うが、ある人は誰か他の人のために自ら命を差し出すような場合は救われるとも言う。
秀さん。あなたが家族に対して積み上げてきた努力は受入れられなかったけれど、あなたはやはり家族のために最後までがんばってその命を差し出したのだと思いますよ。
言い聞かせるように、僕は何度も何度も心で思った。僕は魂なんて死んだときに消滅すればよいと思っているから、僕の代わりに秀さんの魂が救われることを一心に願った。そうしているうちに、外はやんわりとした日が差してきた。起床時間だ。
ここの食事は基本的に普通である。元々食に対する興味が著しく欠落しているので、周りの連中が不味い不味いと騒ぐと意固地になって、そうでもねーよと平らげるし、絶賛されるのもに関しては用心深く原料の輸入元や製造方法に関しての問題点を指摘する。天邪鬼なんだ。
味なんて、いつの頃から感じなくなったかしらねぇ。そう思いながら病院食を食べ続けてきた。でも、腹が減らないというのは気が楽なことでもある。お腹が減っては仕事ができない。
そんな朝食後、恵さんがやってきた。
「あなた、少しはおいしそうな顔をしてものを食べたらどう?」
いきなりジャブを打ってくる。
「おいしいものだったらね・・・。」
屁理屈な僕はそう答える。それが僕ら二人の挨拶みたいになっている。
「これ、この前あなたが頼んでいたもの。HDDはあなたのお母さんに頼んで部屋から持ってきた。本に関してはよくわからないから、それっぽい専門書で一番難しそうなヤツを選んでやった。」
恵さんは、それを言うときだけ妙に子供じみた楽しそうな表情を浮かべた。僕は、受け取った本をパラパラとめくってみたのだけれど、確かにこれはかなり上級者向けのネットワーク解説書であり、素人では全く太刀打ちできないものであることは肌で感じることができた。
「いや、これで良い。」
ほんの少し、無理をしながらもそう答える僕である。・・・まだ負けることがイヤなくらいの気力はあるようだ。
恵さんは、期待が外れたのか、そっ、と短く答えて病室においてあった椅子に座った。
「良ければ冷蔵庫の中にお茶が入っているけれど、病人に入れさせた方が美味しい?」
と再び嫌みを込めて言ってみた。すると彼女は、
「大丈夫、自分で持ってきたから。」
そういってステンレス製の水筒に入れた飲み物を自分用に入れ始めた。・・・多分、前に飲んだブドウジュースだろう。かぐわしい香りがそれを物語っていた。・・・嫌みだな。
「ところで、体の調子はどうなの?」
「別に、前と変ったところはないよ。どうして、こんな厳重な検査で病室に閉じこめられなくては行けないのかわからないくらいだよ。」
正直にそう答える。
「あなたって、もっと素直になればもっと他の人からも評価されるのにね。」
なんだよ、また嫌みかよ、と思った僕は彼女が空っぽになっている花瓶の方を見つめているのに気が付いた。
「・・・残念なことがあったみたいね。今度また花を買ってくるわ。二人分。」
「・・・申し訳ないけど頼んだよ。」
このとき僕は素直にその申し出を受入れた。自分以外の人が絡むと、そういう風に素直になれるのは一体どういうことだろう、とずっと自問し続けた。
「ところで病人が病室にこんなたいそうなパソコン設備を持ち込んで一体何をするつもり?」
「敵を欺くためには、まず身内から。」
僕は、残ったご飯を胃袋に詰め込みながらそういった。最後にどんよりとした感覚とともに胃袋が、もうイラナイよ、と言う信号を送り、僕の意識は了承した。
「病人なんだから少しは休んだらどう?」
時折解説書をじっくりとその意味を解きほぐしながら呼んでいる僕に彼女はたしなめた。
「病人と思えば、病人だし。でも、僕は自分の症状を自覚していない。自覚したら病人だ。それまでにやれることはやっておく。・・・実際、僕にどれくらいの時間が残されているかなんて誰も保証してくれないし、神様の行いだって適当だ。」
なるほどね、と言う風に彼女はうなずき、それからは黙って病室の一部となったかのように僕をそっとしておいてくれた。
一つ一つ。
僕はわからない用語や仕組みが本の中に発生したときに、ネット上でその意味を詳しく解説したサイトにアクセスしてじっくりと自分の知識にしていった。多分、こういうものは敷居が高く見えていながら、最初の一つがほぐれた瞬間に数珠つなぎでドンドンと時ほぐれていくものだと思う。そう、思わないとやっていられないからな・・・。ややしばらくして、矢口医師が入室してきた。例のインターンは、・・・いないぞ?
「大村さん、調子はどうですか?」
医者の最初の挨拶は、近所で出会った主婦達が今日は天気が良いですねぇ、とか釣り人の今日は連れますかとかと一緒なんだろうな・・・
「えぇ、特に変ったところはありませんよ。」
「そうですか。・・・あぁ、柏木さんこんにちは。」
どうも、と言う感じで彼女も挨拶をした。
「さて・・・、大村さん。以前よりお話をしていた抗ガン剤の治療を始めたいと思います。」
僕は、はぁと言う感じでうなずき、話の続きを待った。
「不安なのは副作用なのですが、これは人によって症状の出方がマチマチです。なので、何とも言えませんが一番酷い場合はかなり苦しむことになります。しかし、現時点ではこれが最善の方法ですので何とかがんばって耐えてください。」
「わかりました。」
そう言いながらも、僕は時折中途半端に解読中だった本をちらちらと見たりした。摘んでいた糸をうっかり離してしまうと、また解きほぐすのが大変だからな。そして、夕食後に点滴で始めますから、よろしくお願いします。と言って彼は部屋を出ようとした。
「伊里中先生の研究が完成していたら、抗ガン剤で苦しむ人も減ったのでしょうかねぇ・・・。」
僕は何となくつぶやいた。
「・・・どうでしょう。現実にはその治療は行われていないので・・・。ただ、臨床試験の時点では現在の抗ガン治療より明らかに副作用が少なかったのは事実です。」
「なるほど。」
製薬会社とそれを切り札として手元に置き、今はどうなっているのだろう。そして、潤った製薬会社からは献金をうける政治家達はだんまりか……。
では、と彼は言い部屋を出て行った。どうやらこれからが本当の苦難の道のりらしい。
「あなたって、穏やかそうな顔をしながら結構他人の痛いところを突くのね、」
彼女はそう言ったが、
「元からそういう風にできているんじゃないかしら・・・」
と適当に受け流した。残念ながら、今は解読する方が重要案件だ。
5時を回ったくらいに、恵さんは用事があると言って帰っていった。そして、夕食の時間にはいつものように母がやってきて、さっきまで恵さんがいた椅子に座って、くつろぎ始めた。夕食は、相変わらず美味しそうではなかったので、5分で終了。案の定看護師に、よく噛んでください、と怒られる。でも、良いんだ。早食いと怒られるのは慣れているのだから。
7時くらいに、看護師が再び現れ、僕の腕に点滴をセットした。そして、静脈を伝い抗ガン剤は僕の体内に回り始めたのである。
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