壱拾尼
翌日、僕は必要以上に早く目が覚めた。内心、やれやれ困ったな・・・。手術前だからモノも食えねぇ・・・、と暇をもて余していたのだけれど、起床時間前にゴソゴソと騒ぐのも躊躇われたので、僕は階段を下り外に出てみることにした。タバコがあったら吸いたくなるのだろうけれど、ニコチンパッチのおかげで禁煙パイポをくわえてかじっていればそれほど苦痛ではない。
外は前日までの秋晴れとは変って、どんよりと重たい雲が空を埋め尽くしている。そのせいか、心持ち雰囲気が暗いような気がした。塀の外では夜中に病院に出入りしていた人々が、寒さと疲れと疼痛の緩和で気がゆるんだのだろう、そこら中で塀にもたれかかってしばしの睡眠を取っている人が多かった。
・・・やっぱり、こういうのって普通じゃないよな。
そんな風に心から思った。
そして、僕は先日出会ったタバコねだりのおじさんが居ないかと、塀の回りをぐるっと一周したけれど見つからない。はて、今日はどこかに出かけているのだろうか? 僕は吸い殻入れの前でタバコを吸っている同じ境遇と思われる人に思い切って尋ねてみた。
「・・・あの。良くこの辺りでもらいタバコをしていた髪の毛がフサフサした、ちょっとダンディーな人って知っていますか?」
・・・ダンディー。・・・もっと気の利いた表現の仕方というのはなかったのだろうか?
「あぁ、それ多分秀さんのことだな・・・。妙にきっちり髪の毛をセットしている人だろ? タバコを吸っていると必ずもらいに来るという。」彼は思い出し笑いをしながらそう言った。
「多分その秀さんです。・・・なんだか今日は居ないみたいですね。何かご存じですか?」
その質問に彼はすぐに応えず、タバコを大きく一吸いしてから口を開いた。その吸い方は秀さんにそっくりだった。
「秀さんはね、・・・おとといここで亡くなった。」
僕は冗談か何かの話だろうと耳を疑った。彼は話を続ける。
「おとといのその前の日にな、秀さんやけに機嫌が良いんだよ。なんだか、『俺でもちょっと役に立ったぜ』とかここらの知り合いに嬉しそうに話していてさ。」
一昨々日。・・・僕が秀さんと一緒にタバコを吸った日だ。
「やたら嬉しそうなんでね。どんなことがあったんだ? とみんなで尋ねたりしたんだけれど、ちっとも答えないんだ。その内、黙って懐から書類を出して、ずーっと見つめていたんだけれどな。夜になっても、ずっと眠ったままだし、俺たちがタバコを吸い始めても全然もらいタバコに来ないんだ。そして、明るくなってからも寝たままなので誰かが声をかけたら、もう冷たくなっていた・・・。その内区役所の福祉課の人間が来たり、警察が来たりしていろんなヤツに話を聞いていたんだけれど、俺が一番親交が深かったと言うことで奴らに付いて行って話をしてきたんだ。・・・まぁ、仲間意識と言うより飯が出ると聞いたからなんだけれどな。」
彼は、そのことを話すときだけ、ちょっと心が痛むのかしかめっ面をしながら右耳の上の方を掻いた。
「聞かれたことなんて大したことじゃないんだ。最近様子はどうだったとか、どうして気が付かなかったのか、とか。そんなこと言われても病院の出入りで皆痛みをこらえながら必死なんだ。誰も他人のことなんてその時間は気にしてられない。」
僕はじっくりと話を聞くために、缶コーヒーをおごって話の続きを聞いた。
「死因は、薬物の取りすぎだってさ。秀さん、病院でもらった薬をため込んでいたみたいなんだ。そして、その夜致死量を服用したらしい。その時にわかったのだけれど、秀さんが見つめていたのは生命保険の証書でな。こんなホームレス同然の暮らしをしながらも、安い賃金を何とかやりくりして、ほとんど保健支払いに充てていたらしい。受取人は彼の元奥さん。何となく秀さんからは、奥さんには申し訳ないことをした、としんみり話しているのを聞いてはいたんだけれど、自分が家庭を壊したと思い続けていたんだろうな。・・・何というか、秀さんらしかったよ。・・・もうちょっと不満たらたら、愚痴だって俺らに言って気を紛らわせばいいのによ。リヴィング・ウィルなんて半分死人になるような制度だけれど、病気でも余命幾ばくもない訳でもないのに、死ななくたっていいのにな。・・・寂しいよ。あの人なつっこい顔が見れないのは。」
そう語ると、彼は寂しい顔をしながら、時折涙を流しそうになったりもした。
「後で福祉課の役人から聞いたんだけれど、奥さんはとっくに別の男と新しい家庭を築いていて、身元引き受けも保険金の受け取りも拒否した。秀さんは、区に引き取られて無縁仏として荼毘に付されたらしい。保険金は奥さんが相続放棄したと言うことで、区が変わりに受け取った。役人のアイツ、歳入が増えてラッキーとか抜かしたから、俺ヤツを殴ってやったよ。・・・ま、警察に連れていかれて、一晩個室に泊められちまったけれどな。」
僕は彼に話のお礼を言って、部屋に戻った。そして、秀さんが取った行動について僕なりに色々と考えた。薬とため込んでいたと言うことは、秀さんは保険をかけて準備して、予め自ら命を絶つつもりだったんだろうな・・・。僕の一言で彼は誰かから認められたという満足を得て、この世にも満足してしまったのだろうか・・・。今や秀さんがいないから、それを正しく理解することはできない。でも、もう一度会いたかったよ・・・。僕はひっそりと大きな涙を一つ、枕にこぼした。
外は曇りで、今にも雨になりそうだった。
秀さんの思いは奥さんに伝わらなくて、彼は幸せにあの世へ行けたのだろうか・・・。
遺書の一つも残さないで。彼はそれで良かったのだろうか・・・。
手術は朝の一発目と言うことなので、それほどドキドキしながら待つほどの時間は無い。とはいうものの、やはり全身麻酔は経験したことがないので不安もある。手術など、痔の手術をしたくらい。あの時は下半身麻酔でしっかり意識があったしな・・・。でも逆にゴリゴリと内臓を引っ張っているような感覚が体内を通じて振動が伝わってくるので不気味だった。しかも、痛かったし。
そんなことを考えていると例の頭痛を誘発するキャンディーボイスの宮原看護師が術衣をもってやってきた。
「大村さん、調子はどうですか? ・・・あ、何か不安そうな顔をしていますね。」
「はいな、不安ですよ。」
僕は我慢強くそういって受け取った術衣に着替え始めた。
「もうこうなると、まな板の上の鯉ですね。」
「あー、何かその表現面白いですね。」
・・・いにしえのことわざというモノは死につつあるらしい。彼女は僕のオリジナルの暗喩だと思っているようだ。
やがて矢口医師が丁寧に病室に現れた。・・・例のインターンを後ろに従えて。どうやら病院というモノはなかなか患者を安らかな気持ちにさせてくれないらしい。
「大村さん、一緒にがんばりますよ。私たちは全力で処置をしますから、気力でがんばってくださいね。」
「わかりました。」
僕は手短に返答する。
「そういえば先生。」
「なんですか?」
「リヴィング・ウィル申請しておきながらも、やはり自ら命を絶つ人がいるんですね。」
矢口医師は複雑な表情をしながら、
「・・・はい、残念ながらそれが現実です。政府はリヴィング・ウィル対象者になっている人の自殺者数をカウントしていません。だから統計的には自殺者が減少したようにメディアで報道していますが、医療の現場にいるモノはそれがウソだと言うことを知っています。リヴィング・ウィル対象者もやがてその真実に気が付いてきます。知らないのは、普通の生活をしている人たちだけです。自分への脅威がきわめて少なくなった格差社会において、富裕層はそれを認識する必要がないからです。」
「・・・なるほど。」
僕は窓の外を見て、秀さんが息絶えたという場所の辺りの塀を見続けた。
「だから、私たちは生きなければなりません。生きて、何かを切り捨てることで維持するのではなくて、両方生き残る方法を考えなければなりません。それは、私たち医療関係者だけではできないことですし、あなた方患者だけでもできない。あらゆる人を巻き込まなければ不可能なのです。」
僕はそれに同意するようにうなずいて、
「今日はよろしくお願いします。」
そういって、しばしベッドに横になって手術の時間まで体をリラックスさせることにした。
時間になると、ストレッチャーが用意され僕はそれに移乗した。なんだか、ドラマのようだな、などと思ったが現実なのだ。母は不安そうに僕を見ていたけれど、
「後は先生ががんばるし、手術をすれば治るんだから。」
と、笑いながら母の不安を取り除こうとした。ストレッチャーは僕を乗せて移動を始め、遠ざかる不安そうな母の顔を僕はずっと見続けていた。手術室にはいると静かにクラシックの音楽が流れており、それでも独特の薬品臭さが僕の鼻を突いた。矢口医師は改めて僕を診てうなずき、僕も同じようにうなづいた。
麻酔科医から全身麻酔を受けた僕は羊を数えるまもなく意識をなくした。
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