死
翌日、僕はかれこれ7年は通院しているであろう精神科に薬をもらいに行った。
大リストラ時代と呼ばれた時には、ものすごい数の患者達が待合室であふれていたのだけれど、気が付くとその数は減っていったように感じる。それは、無事に社会に復帰していったのか、二度と戻れぬ永遠の旅へと出発していったのか、僕にはわからない。やがて僕の名前が呼ばれて診察室に入る。
「お疲れ様。どうですか? 最近の調子は。」
カルテに目を通しながら、前回のやりとりをチェックしながら医師は僕に尋ねる。
「はい、いつものように最悪ですね。」
そう・・・、と順々にカルテを過去にさかのぼりながら医師はそう言った。
「薬はきちんと飲んでいますか?」
「それが、ちょっと沢山飲み過ぎちゃってます。普段は意識がもうろうとしています。」
「困ったわねぇ・・・。薬は飲み過ぎても効果がきちんと出ないんですよ。前にも説明しましたよね。」
「はい、そうなんですけれど。沢山飲んで意識を沈めないと、発作的に死んでしまいそうになるんです。」
医師は眉間に皺を寄せて、こちらを見据えた。
「わかるけれど、それはきちんと守らないと駄目です。それで、薬はまだあるんですか?」
「いいえ、全部飲み尽くしてしまいました。」
「そう・・・。いや、困ったわね。同じ薬はこれ以上処方することができないし・・・。同じような効果の別の薬をとりあえず処方しますか?」
「はい、それでお願いします。」
「それと処置室に連絡しておくから、点滴をしていってくださいよ。顔色見ても、目の感じを見ても、今のあなたはとてもまともには見えない。」
「・・・はい、わかりました。」
「じゃ、きちんと決められた量の薬を飲んでくださいね。それと、何か問題があったら電話でもいいから連絡をください。」
そう言い残して、早々に次の患者の名前を呼んでいた。僕は形式ばかりのお礼を言って、処置室の前のベンチに座って呼ばれるのを待った。
病院は窓が多く、とても明るい雰囲気なのだけれど、全体的にここは病んでいる空気に包まれているのか、ちっとも健全で明るい感じがしない。そりゃそうだ、ここは病院なんだ。祭りみたいににぎやかでどうするのよ?
やがて、僕は呼ばれて処置台に寝かされ、点滴を受けた。僕は昔から体が弱かったらしく、注射というものが全く怖くない。刺され慣れているのだ。だから、看護師さんの技量を見極めるのが楽しくて、いつも針を刺す場面をじっくりと凝視する。もしかしたら、そのせいで緊張した看護師さんが上手にさせなくなるのかもしれないが、プロとしてがんばってくれたまえ、と言う考えである。今まで観察してきたことから推測すると、針を刺した時の皮膚の凹み具合と、刺した時の痛みは比例すると言ってよいだろう。何事もなかったように、すぅーと針をなめらかに体内に挿入する人の場合はちくっとするだけで、ほとんど痛みを感じない。
さて、この若い看護師の技量はいかがなものだろうか?
結果としては予想通り、思いっきり皮膚は針の圧力によって大きくくぼみ、甚大な痛みを残して体内に吸い込まれていった。彼女にとってはそれが当たり前なのかもしれなく、わびの一つもなく、点滴量を調整して、
「何か、あったら隣にいますから呼んでくださいね。」
と言った。
(何かあったらと言うか、点滴針を指すのがへたくそなんじゃい!)
と心の中で4回位つぶやくように叫んだ。
やがて、安定剤の成分が効いてきたのか、僕はすぅーっと眠りに落ちた。・・・なんだかこの2~3日寝てばかりだな。
起きたのは看護師さんに起こされてだった。目が覚めた時は普段よりは頭がすっきりしており、さすが病院の薬は効き目がクリアだぜ、などと思ったが通常の薬より高額なので、何度もやってもらうわけにはいかない。僕は、身支度を調え会計で自立者支援証を提示し、そのおかげで1割負担の医療費を支払って帰宅の途についた。この1割負担になれてしまうと、通常の3割負担の病気で病院に行くのがためらわれるようになる。たまに、むしろ逆に自立にとって妨げなのじゃないかとも感じるが、どれ位長期間付き合っていくのかわからない病気と、高額な薬品を購入するためには仕方ないことであり、そういう疑問も頭の隅っこに追いやる以外にない。
外は、秋の晴天だった。空は高くて、どこまでも澄んでいた。春や夏のような何かがみっちりと詰まったような濃縮された空気感とは明らかに一線を画すようなこのクリア感はいったい何なのだろう。
僕は、ショルダーバックに詰めていたヤシカの銀塩カメラを取り出して、うっすらとかかった雲に向けてシャッターを切った。
かつてこのカメラを手に入れた時は狂ったように色々なものを被写体にして撮影したものだけれど、今となってはカメラを持ち上げるのも一苦労だし、デジカメが標準カメラとして取って代わり、幾つかのフィルムメーカーは撤退し、フィルムの値段、現像費やプリントの値段も尋常ではない高級な趣味となってしまった。
古きものは淘汰される。一握りの優れたものだけが金持ちの自慢の道具として保存される。
それは、鎌倉、室町、江戸時代からずっと変わりがないのだなと感じる。裕福なパトロンが資本を投資し、自分の好みを自在に左右するのだ。欧米だってそうだった。人間という種の基本的思考というのは普遍的で変わらないのだな、と改めて感じるのだった。
病院からの道を、そんな風にだらだらとJRの駅まで歩いていると、一台のやかましい排気音の車がしばし僕の横でスピードを落とし、
(・・・あれ、コイツ俺に併走してないか?)
と思った瞬間、ちょっと先に行ったところで左に車を寄せハザードランプを点けて停車した。一人の端整な顔立ちの女性が運転席から降りてきた。・・・なにか恨みを買うような形で彼女がカメラの撮影範囲に入っていて、苦情でも言われるのかしら。僕はそう思って近寄ってくる女性に対して身構えた。
「あなた、私のこと覚えている?」
「・・・なにが?」
よくわからないまま、僕は間抜けな返事を返した。
彼女はブラウンのサングラスをしていたが、それを外した。
「私、おととい区役所であなたの相談に乗ったなのだけれど。」
そこでようやく思い出した。区役所窓口で派遣かバイトで働いている人だ。
「えーっと確か名前が・・・」
「柏木です。」
そうだ、IDカードにそう名字が書いてあった。名前までは知らないけれど。
「あなた、そこの病院に行っていたの?」
何となく高圧的な尋ね方に聞こえたので、僕のガードレベルはいっそう高くなった。
「僕がどこの病院に行こうと、あなたには関係ないと思いますけれどね。」
「まぁ、そうなんだけれど・・・。」
彼女は病院の方を見ながらそういった。
「あなたには関係ないけれど、私の兄があそこの閉鎖病棟に入院しているの。今、お見舞いに行っていたのだけれど、待合室で見かけた顔が居たから声をかけてみただけ。それで、私はこれから区役所に戻るのだけれど、家が同じ方向のあなたを見かけたから声をかけてみただけ。・・・ちょっと釘を刺したいこともあったしね。」
その目は区役所で相談してもらった時のような、鋭い視線が混ざっていた。
「別に交通費が余って仕方がないというのなら、乗らなくていいよ。」
何となく、頭に来る言い方の申し出だったが、バリアフリーも進んでいない駅舎でヒイコラいいながら電車に乗ることを思うと、言葉と態度は気に入らないが、その申し出はちょっと魅力的に感じた。
「じゃ、迷惑じゃなければお願いします。」
謙虚に僕は言った。
「迷惑だったら、とっくに無視して通り過ぎてるよ。」
・・・相変わらず失礼なものの言い方だ。
僕は助手席に乗り込んで、一苦労しながらシートベルトを付けようとした。最後の部分でいつも苦労するのだが、彼女はさっとそれを見て手伝ってくれた。
「別にいいのよ。私、昔介護の仕事をしていたから職業病みたいなもんなの。」
なるほどね。体が勝手に反応するというヤツですか。
しばし無言のまま、そのスズキのジムニーは区役所方面へ向かって走る。もっとも会話をしようと思っても彼女の旧式のジムニーはエンジン音の漏れが凄くて、とても会話になるような状態でもなかったのだけれど。
・・・きっと今の車は静穏性に優れているのだろう。かつて、車が趣味でそういう知識だけは偉そうな僕はそんなことを考えながらも、
(ま、エンジン音をじっくり聞くのもメンテナンス上、とても大切なことなんだけれどね。)
そう思いながら、そのうるさいノイズに耳を傾けた。うるさいながらもしっかり手入れをされて大事にメンテナンスが施された車であると言うことは、そのエンジン音と、段差を乗り越える時の振動具合でよくわかった。きっと、愛されている車なのだろう。僕は、そんなものを大事にする感じの彼女を少し見直した。
しばらく走ると、市の中心部にさしかかり、渋滞とともになかなか先へ進まなくなった。会話もなく、車も先へ進まず、ちょっと居心地の悪さを感じた僕は彼女に話しかけた。
「お兄さんが入院中って・・・。」
「あぁ、そうなの。私の兄は長く重い躁鬱でね。時間レベルで気分が変るの。躁鬱って結構たいへんなのよ? 鬱の時は弱音を吐いたりふさぎ込んだりで、こっちまで気が滅入るけれどそれでもじっとしている分まだ楽なのよね。けれども、一転躁状態になると気分が大きくなるのか、突然とんでもない冒険物語の構想を語り出して私たちをあわてさせたり、軽く手首を切りつけたり、脚を包丁で刺したり・・・」
自殺は鬱から回復して、元気が出てきた時が一番危ないと話にはよく聞いていたが、そういう類の苦労があるのだろう。
「それで、1年前に自宅の屋根から飛び降りて、医師もこれは閉鎖病棟で保護しないと危ない、と指摘されて以来ずっと入院しているのよ。」
「・・・そうですか。大変ですね。」
「ま、病院に居てくれる限りスタッフが面倒を見てくれるから楽だし、私も普通に仕事ができるんだけれどね。」
人の苦労というのはなかなかわからないものであるらしい。特に自制がきちんと機能している人の考えは全くと言っていいほどわからない。
「それで、あなたは鬱で通院しているの?」
「そうですよ。もう7年位になりますね。」
「そう・・・。鬱もなかなか治らないみたいね。」
「あなた風に言うのなら、『ま、慣れっこですけど』ね。」
「・・・結構、嫌みなことを言うのね。」
「もともと毒舌ですから。・・・知りませんでした?」
「はい、知りませんよ。」
やがて、車は渋滞を抜けて再びうるさいエンジン音をまき散らしながら、区役所、つまり僕の部屋の方向へと向かう。当然、会話は全く成り立たない。
やがて、区役所に到着する。
「悪いけど、急いで職場に戻らなければならないからここで失礼するね。あなたの家、ここから徒歩で十分帰れるでしょ?」
「・・・なんで、あなたが僕の家を知って居るんですか?」
「昨日身分証明を見せてくれたでしょ。」
まぁ、確かにそうだ。けれどもそんなに記憶力がよい人など居るもんなんだな、と鬱を長く患って何かと忘れっぽい(というか、イヤなことを無意識に封印してしまう)僕は感心した。そして、最後に彼女はこういった。
「あなた、リヴィング・ウィルの申請。本当にするの?」
「・・・今、考えてますけど。」
「悩んでいるの?」
「それなりに悩んでいます。」
「じゃぁ、申請する前にもう一度会ってくれないかしら? 話さなければいけないことがあるの。」
「それは、役所の窓口で良いんじゃないですか?」
「いや、個人的に話さないといけないことなの。」
「・・・つまり、デートか何かのお誘いですか。」
「・・・蹴って、はり倒して、踏みつぶしてもい?」
何となく冗談では済みそうにない凄みがそこにはあった。
「あなたの連絡先は、おとといの面談で記録に残っているから、近いうちに連絡します。」
「・・・これって、個人情報保護法に違反するんじゃないですか?」
「・・・不正に献金を受ける政治家や、産地偽装する食品会社。あるいはインサイダー取引する大企業、個人投資家。どっちが重罪だと思う?」
僕は、その言葉に返事をすることなく変わりにこう答えた。
「固定電話は壊しました。携帯電話は水の中に捨てました。連絡する手段なんて僕にはないですよ。」
そういうと、彼女はしばらく考え込んでから、
「じゃ、手紙を出すわ。」
そういうときびすを返して、区役所へ戻っていった。なんだか知らないけれど、その姿に格好良さすら感じたのは気のせいだろうか。
僕は、おとなしく真っ直ぐに家に戻り、パソコンを立ち上げ、唯一の連絡手段であるメールチェックをしたが、届いているのは迷惑メールばかりで、それを削除するだけでスッカリ何かニュースを調べる気力すらなくなった。
そして、思った。
「人生に失望して、何もかもを捨てるつもりだったのに、どうしてこう人は俺の生活に関わってくるのだろう。」
その気持ちは、まだ精神年齢が子供には理解に苦しむことなのかもしれない。
僕は、久しぶりに硯と筆を引っ張り出し、般若心経を自分のために書いた。しばらくやっていなかったから凄くへたくそだったが、字の形などどうでもよかった。どうせ、書かれている内容や意味だってよくわからないのだし。
外は夕暮れで、気を利かせたオレンジ色のカーテンが余計に西日の強さを強調していた。世の中お節介というのも結構多いものだ。
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