最後の決断、そう思う前日のことである。


 僕は寝坊しそうになったが何とか身支度を調え、職場へ向かった。腕がかなり不自由な僕ではあるが、障碍者斡旋の職としてネット上の不正アクセスや、公的良俗に反する書き込みなどを終日モニターとにらめっこして監視し、特定のキーワードに抵触するものをネット監視委員会に報告する仕事だった。ポインティングディバイスの発達や、入力ディバイスの進化により、この手の仕事は体が不自由でもできる時代なのだ。そして、いつものように何千ページものサイトを検索している最中に社長から直々に呼び出しがあった。

 

 ・・・多分、社長室に入るのなんて初めてじゃないかしら?


 ぼんやりとして感じて入室すると、社長がいた。

「大村さん(僕の名前だ)、単刀直入に言います。」

 ・・・とてもイヤな感じがした。

「障碍者雇用の行政からの支援が今月をもって打ち切られることになりました。」

「・・・はぁ。」

 良く趣旨が理解できないまま、僕は間抜けな返事をする。

「正直に言いますと、あなたを今まで雇用できていたのは、あなたの生産性以上に行政から助成金が入るからここにいて仕事をしてもらうことができたのです。そして、先日ネット監視委員会から通達がありました。今まで以上に柔軟にキーワード検索と意味の理解ができる検索エンジンが完成したので、この仕事の発注は停止しますと。」

 ここに来てようやく意味が理解できた。

「知ってのとおり、私たちの会社にとってネット検索監視事業というのは全体の売上比率の1%にも満たないのです。補助金が無くなる以上、そして委員会からの仕事の発注が無くなる以上、あなたをこの会社にとどめておくことが不可能になりました・・・」

「・・・つまり、あらゆる面で用済みというわけですね。」

「もちろん、君は同僚とも良くコミュニケーションを取ってくれるし、社内での人望も厚い。君はとても優しくて評判が良いのだな。そこで、私も別の事業部への異動を懸命に模索したんだ。」

 もっともな話だった。僕がこの会社に勤務することができたのは障害者雇用助成金のおかげだ。それが廃止されるかもしれないというニュースはかなり前から聞いていた。もしかして、とは思っていたが実際にこうして社長から告げられると非常にしんどいものがあった。

「・・・大村君、申し訳ない。力不足の私たちを許して欲しい。」

 僕はしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。

「社長。今までお世話になりました。雇ってくれただけでも感謝の気持ちでいっぱいです。当時僕は夢も希望もなくて、自殺まで考えていたのに、こうして仕事をくれて、楽しい仲間と知り合えることができて、しかも目的みたいなものもそれなりに持つことができたんです。」

 社長は、力無い顔をしながら僕の言葉に耳を傾けていた。

「申し訳ないですが、僕は体が不自由で机とか満足に片づけることができません。放り出していくことをお許しください。」

「・・・いや、何もすぐに辞めてくれという訳じゃないんだ。今月、いや今年度いっぱいまでは何とか私の私財をなげうってでも次に繋がる支援をさせてやろうと思っているんだ。」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中で何かが弾けた。

「社長」

「・・・どうした?」

「老兵はただ消え去るのみ。」

 そういって、僕は社長室を後にした。しばらく社長が後から追いかけてきて、僕の回りをまとわりついていたが、それを無視して僕は「かつて」の同僚や他の事業部で楽しく世間話などでお世話になった人たちに挨拶回りをして、会社を後にした。みんな一様に突然のことにびっくりして、気の利いたことも言えないようだった。

「どうせ、個人の荷物なんて何一つ無かったんだよな・・・」

 社長も、5分ほどで僕から離れていったから意志の硬さを認識したのだろう。あるいは、殊の外うまくやっかい払いができてせいせいしたのかもしれない。その後も、社長からは電話も手紙も一切の連絡はなかった。僕の言葉をそのまま受け取ったのだろう。

 でも、僕はもう誰も恨む気にはならなかった。ただ重たく疲れただけで、何もかもが面倒くさくなった。


 9月の残暑がぶり返した解雇の翌日、とても暑い日、僕は区役所の年金保健課を尋ねた。

 待合室には、普通の暮らし向きをしている人たちと、どっぶりと疲れて今にも死んでしまいそうな人たちが真ん中のベンチを中心にしてはっきりと分かれていた。これも2極化の究極の姿なのだろうか。僕は受付の整理券を受け取りしばらくベンチに座ってくつろいだ。壁には次々と変る保険関連法案を告知するポスターで埋め尽くされていた。しぶい大御所俳優や、デビューしたばかりなのだろうか、はち切れんばかりの笑顔を浮かべたアイドルっぽい女性が、

「国民年金は18歳からの強制加入に変りました。おじいさんおばあさんを助けるために、みんなでがんばりましょう」

 と、白々しいキャッチコピーが書かれていた。

 僕は「その年金、誰が支払うのかね」などとしばらく考えていた。

 ここ最近の大学進学率は20%を割り込み、裕福層はかつての有名大学へ行き、貧乏層は高校卒業と同時に非正規雇用で働くことが多いのだそうな。近頃では日本のこうした若者を、わざわざ中国や東南アジアに派遣して、現時水準の給与で働かせる新手の派遣業者もいるらしい。数年前であれば、考えられなかったのだけれどそうした条件で3年きちんと勤めると正社員の椅子が用意されるので、それなりに需要があるようだ。・・・もっとも正社員になったからと言っても、そこには就業規則の遵守というものがあり、再び日本に帰れるという保証があるわけでもないし、数年前に法令化されたホワイトカラーエグゼンプションにより、名ばかりの役員にされサービス残業の嵐と知人は言っていた。

 お金は集まるべくして生まれてきた環境の人の元に集まる。

 それが今の国際競争力の中に巻き込まれた日本の姿である。

 さて、そんなことを考えているうちに僕の整理券の番号が呼ばれた。僕は、神妙な面持ちで電子的な声でアナウンスされた番号の窓口へ歩いていく。

「お待たせしました。今日はどういったご用件ですか?」

 きわめて事務的な口調で窓口のお姉さんが話しかける。

「今日は、リヴィング・ウィルの相談と申請に来たのですが・・・。」

 その瞬間、端正な顔立ちをしたお姉さんの表情が一瞬固まる。僕はその目を避けるため、胸の辺りにぶら下がったIDカードを眺める。

 

 黒木区役所 年金福祉課(嘱) 柏木


 そう書いてあった。嘱託と言うことはアルバイトみたいなものや非正規雇用なのだろう。窓口の奥の方では年長で白髪交じりの課長が、でかい机でお茶を飲みながら新聞に目を通している。

「リヴィング・ウィルの申請をご検討でしたか。」

 固まったのはほんの一瞬で、再び事務的な口調に戻る。きっとこういう相談には慣れっこなのだろう。かろうじて彼女の中にある人間としての良心が思考停止にさせたに過ぎない。

「えぇ、検討というかもう心は決まっているんですけれどね。」

 僕は続けた。

「そこで、手続き上どういったことが必要で、手続きをした後どのようなことが変ってくるのかを知りたいのです。」

 彼女は2秒ほど僕の目を見据えて、少々お待ちください、と言いながら資料を探しに窓口の後ろ側のロッカーを探した。

「こちらがリヴィング・ウィルに関する資料なんですけれど。」

 僕は、思いの外すぐに用意された資料に目を向けながら彼女の言葉を待った。

「すでにご存じだと思いますが、この制度の適用によってあらゆる延命治療が停止されます。それはご存じですか?」

「はい、承知しています。」

「延命治療の適用範囲については、ガン治療や脳の障害による植物状態、さらには事故などによる怪我に関しても適用されます。」

 正直、交通事故で瀕死の状態になっても放置されることは知らなかった。僕の単純な勉強不足だったのか、ここ数年の間で法の改正が行われたのか・・・。

「リヴィング・ウィルの申請をした方には、『尊厳死受諾意志カード』が交付されます。それによって意識不明の重体になった時でも、各種医療機関ではそのカードに示した意志によって延命治療が中止されるのです。・・・そこまではよろしいですか。」

 僕は多少のショックを受けながらも、ぼんやりとうなずく。

「そして、このカードの交付の代わりに国民保険、社会保険、障害年金、遺族年金、老齢年金などの徴収義務がなくなるとともに、行政からの給付金サービスもすべて停止されます。中には、給付サービスが停止され国や自治体への支払い義務がなくなるにも関わらず、寄付のように納付される方もいて、そこは自由です」

 ……金持ちの、自己満足か?


「と言うことは、僕は今両腕が不自由なので障害年金受けて、障害者手帳である程度行政サービスを受けているのですが・・・」

「はい、それらはリビングウィル申請から7日後をもってすべて停止されます。ただし、民間保険会社からの保険給付やサービスなどについては行政が関わる問題ではないので、各保険会社の契約にそって給付を受けられる場合がありますので、保険会社に確認をしてください。」

「・・・はい、わかりました。」

「その代わり、というか」

 彼女は続けた。

「苦痛緩和など、疼痛を取り除く治療に関してはこの『尊厳死受諾意志カード』提示によって、保険指定医の元の医療機関にて無料で受けることができます。」

「つまり・・・」

 僕は彼女の目を見据えて言った。

「死にゆく者への情けとして、苦痛緩和の治療はされるわけですね。」

 ちょっと言葉に詰まり、考えてから彼女は言った。

「この制度を受け入れる方によって、行政はかなりの額の医療費を節減することができたのです。そういう社会貢献に対して苦痛緩和に関する医療費予算は、介護保険料の一部から捻出されております。」

 何故介護保険から捻出されているのか、釈然としない説明だったが、僕はそれをうやむやに聞き流した。

 彼女は、しばらく説明資料を眺める僕の様子をうかがっているようだった。そして、

「それでも、大村さん。 あなたはリヴィング・ウィルを申請しますか?」

 その言葉はものすごく重々しく、僕の目を貫くような厳しさがあった。そして、ずっと僕を見据えて返事を待っている。

「・・・あの。」

「はい・・・。」

「この資料をもらって帰って、考えても良いですか。」

「えぇ、どうぞ。そのための詳しい資料ですから・・・」

「では、今日は説明ありがとうございました。」

「いえ、よーくじっくり回りの方と相談して、理解を得てから申請してくださいね。」

 何故か席を立つ僕に彼女はそう言った。その目は先ほどまでの事務的で冷たいものではなく、なにか訴えるものがあった。

 ・・・それはなんなのだろう?

  区役所を出ても、その視線がずっとまとわりついているようで気になっていた。

 しかしながら、やがて自宅に付くといつもの生活が待ちかまえており、すぐに僕の脳裏の隅っこに追いやられてしまった。

 僕は改めて、もらってきた資料に目を通す。

クリーム色の用紙に、明るいタッチのイラストが添えられたその資料は、あたかもリヴィング・ウィル法が救世主的な制度であるかのように書きつづられていた。

 リヴィング・ウィル法により、医療報酬の国庫負担は3分の1にまで圧縮され、生きる意志を強くを持った人々のためにより一層有効活用されています。そのように資料は締めくくられていた。細かい説明については、昼間受付のお姉さんが説 明してくれたとおりだった。

 僕は、今の生活と将来への希望を天秤にかけて、フラフラと右にも左にも定まらないイメージに思考を支配されながら、やがて睡眠導入剤の効果によって眠りに落ちた。それは、精神的な疲れからなのだろうか、深くて思い眠りだった。

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