リヴィング・ウィル法

中崎 ぱけを

 今日僕は区役所の保険年金課に出向き、「リヴィング・ウィル」同意書を提出した。

 これで僕は今後一切の痛みの緩和に関する治療を受けられなくなる代わりに、国民保険、社会保険をはじめとするあらゆる公的扶助に関わる費用を納める必要が無くなる。消費税や所得税さえ不要になる。目先のお金は重要だ。


 圧倒的に他の先進諸国より過激に急速的に進んでしまった日本の超高齢化社会は、10年も前からすでに限界を迎えていた。それでも政治家達や政財界が結託して、

「無理に、国民の不安を煽って治安が悪化したり、ものが売れなくなったりしては困る。」

 という共通の利益が一致していたため、適当でもっともらしく、「素人ではなかなかそれがまやかしであることは判別できないような説明」でもって上手に誤魔化してきた。それに気が付いた物書き、ルポライター達はたくさんいたけれど、雇用されている記者は会社からその記事を書かないように徹底的にマークされていたし、フリーで取材をするものはそれと無く事故や行方不明と称して社会から抹消してきた。

 もちろん、たいていの奴らはちょっとした現金を握らせると、とっとと取材を停止して諸外国の安住の地で、例え日本がどうなろうとも、自らのリタイア生活を謳歌していたようだ。人間、安定して暮らせる余裕のある生活がもっとも望まれているからな。


 そして5年前、社会の福利厚生費歳出を以前のまま維持するには、現在の歳入規模を2倍以上に引き上げないと成り立たなくなった。それは一斉にリタイアした65歳を超えた団塊の世代が主な引き金だったのだけれど、正直に言うとそれは昔から予想できる事態だったわけで、所謂「2025年問題」として何もしてこなかったのが一番の問題だった。

 このことに付随して、政治家達の間を始め、世間でもかなりの議論が交わされた。多分、戦後初と言ってよいほど抜本的に話し合いがなされたのだ。歴史的な議論と呼んでもおかしくない。

 そこで問題として取り上げられたのは、老齢年金や後期高齢者医療制度の対象になってくる老人だけではなかった。すでに、若いながらも意欲を失い、社会的にお荷物になっているニートやホームレス、あるいは全く向上心の見られない生活保護者層にまで議論の幅は広げられた。

 さらに初めて共通の認識として受けられたのは、老人達の「これ以上自分たちが社会の荷物になりたくない」という謙虚な思いと、ニートやその他精神的疾病を抱える人から出ていた、「この先の未来に希望はない。早く死んでしまいたい。」という意見だった。


 政治家はこれを見逃さなかった。


 一部の弱者を切り捨てる格好になるが、多くの現状を維持したい人々からの支持を集めるため4年前の通常国会で提出されて激しい審議を経て成立したのが所謂「リヴィング・ウィル関連法案」である。これは憲法で上げられている基本的人権の保障規定の23条を凌駕する形にまで拡大解釈し、

「死すら、選択の自由がある」

 という理由のもと、延命を望まない人の為の歳出を減らし、その分を長く健康で生きて、成功して社会に認められたいという「労働、納税、教育を受けさせる義務」を徹底的に履行できる人を保護する名目で成立させた。

 当然のことながら、多くの文化人やマスメディアからやり玉に挙げられたのだけれど、このリヴィング・ウィル法案を焦点とした衆議院解散総選挙で国民はこの法案を推す民主自由党を圧倒的多数で支持した。

 そういう経緯もあり、国会では数を武器に先に閣議決定がなされ、衆参両委員会での野党の真剣な反証の積み重ねではなく、稚拙な時間伸ばしも手伝い、有意義な議論がなされないままこの法案は簡単に衆参両本会議を通過し、可決。

 翌年施行された。


 法律の概念はとても単純なものである。

 この法律は、生きる意志を持つ人を守るための法律である。

 逆に尊厳死を認め、生きることに疲れ、自分らしくあるために死を受け入れることを許可した法律である。

 ただし、安楽死規定に付いてまでは時期尚早と言うことで、法案へ盛り込むことは留保され、近い将来の課題とされた。


 実際に法案の施行が始まって以来、治療を受けることを避ける低所得者がごっそりと減少し、経営が悪化した日本医師会から度重なる抗議と改善要求、及びたくさんの現場職員による署名が提出されたりしたが、翌年の通常国会の予算編成後に、

「疼痛を緩和する治療については、リヴィング・ウィル法対象者であっても医療報酬の適用を可能とする」という法案修正により、経営に敏感な病院関係者を黙らせることに成功した。実際、延命治療の中には痛みの除去という部分が多く含まれる。現場の医師や看護師達は、そのように苦しみながらも治療を受けず、段々と弱っていき、痛みすら訴えることができずに命を消していく姿を見てられなかったし、遺族達からも「本人の意志とはいえ倫理的に問題がありすぎる」という意見があったのだ。この法案は、あまりに画期的であったため日本国内での法案担当者への非難も大きかったし、何より諸外国からの抗議も大きかった。

 しかし、日本政府と、一部のあきらめた人たちはその抗議よりも自分の信念と、お金を最重視した。

 疼痛の緩和が認められる事により、病院を訪れるリヴィング・ウィル法対象者の数は相当なものとなり、病院の経営の屋台骨を支えるほどとなった。このことにより一番の恩恵を受けたのは製薬会社ではないだろうか。もちろん、痛みを緩和するものの中には依存性が高い薬品も含まれる。ただそれは合法的な治療であり、すべての国民に平等に医療を提供するには限界を迎えた日本が選択できた唯一の選択しかもしれなかった。

 当然、この法案は時限立法で成立した。団塊の世代がひとしきり他界した後には、正常な年代別人工分布になることが期待されたからだ。

 しかし、あるアナライザーはこの説を真っ向から否定した。

 少子高齢化が進んでいくこの情勢で、昔ながらのピラミッド型、あるいは釣り鐘型人口分布が復活するとは思えない、と言う主張だった。しかし、世論はこの主張を無視した。実際に、死期を迎える身内が発生しない限り、この法案への意識はきわめて他人事であり、その他人が死んだとしても、現在の重税が少しでも緩和されるのであればそれは自分にとって歓迎されるべきことだったのだ。

 そんな、世論の衝突はやがて下火になっていき、やがてすべての人が時限立法であることも忘れ、当たり前のこととして受け取るようになった。つまり、裕福層は満額の保険料を支払って、金持ち同士での相互扶助を実現し、高度な医療で健康を維持し社会に君臨し続けた。一方、貧困層はリヴィング・ウィル法対象者となり、十分な医療を受けることなくその場しのぎの痛み止めをもらっては、体を次第に弱らせていき、手放されたヘリウムガス風船が上空へ飛んでいくようにひっそりと消えていた。最後に行き着いた彼の思いは誰も考えることなど無かったかもしれなかった。


 僕は平凡なある工場の工員だった。

4年前のある日、機材のトラブルで2トンもの鉄塊が僕の右腕に落ちてきた。複雑骨折、及び各部神経断裂。

 公式的な完治は6ヶ月だったが、この右腕は形を残しているものの、二度とまともに動かせることはないと医者から告知を受けた。当時、僕には夢があった。ギターを弾くことに関しては全国的にも有名になりかけだったのだ。しかし、それだけで生計が成り立つわけでもなく、僕は短期的に集中してと「充電期間」と称しては時給の高い肉体労働に従事し、契約期間が終了しては音楽活動に没頭するというライフサイクルを作り上げていた。その音楽活動が芽を吹き出し、もう少しでスタジオミュージシャンとして一端の生計が成り立つ報酬を受け取ることのできる契約の目前、僕は「充電期間」の最中であり、浮かれていたせいもあったのだろう、長年事故もなくきわめて正確に仕事をすることで、工場長にも認められていた僕なのに、些細な安全装置のかけ忘れによって僕は自ら夢の道を閉ざされた。

 社長は、

「後身を育成するために残ってくれないか?」

 と、今までと変らぬ暖かい申し出をしてくれたが、唯一無二の夢をたたれ、すでに僕はどうでもよくなっていた。腕も満足に動かせない自分が何を他人に教えることができるのか? 僕は自嘲的にさえなった。ありがたかったが社長の申し出は断り、障害年金と会社が内緒でかけていてくれた災害保険の収入で、暮らしに困ることはない位の収入は確保できた。そのことを聞いた時に僕は、

「・・・まだ、こんな日本にも良心的に雇用者のためを思って負担をしてくれていた社長がいたんだ。」

 と涙さえこぼしたものだ。

 そして、僕は定期的に入ってくる保険金で、質素な生活を始めた。

 やがて気が付いたのだけれど、僕は燃え尽きてしまったのだろう。夢が閉ざされた影響も大きい。激しい肉体労働はギタリストになるための生活費取得手段であり、ギタリストになると言う目標のためには高収入の仕事が必要だった。短時間で効率的に仕事をしないと練習すらできなかったので、僕が選択できる職業の幅というのはきわめて狭かったのだけれど、その過酷さが逆に心地よいリズムとなって、相互的作用でがんばることができた。

 今や、僕はその両方を失い、糸の切れたタコのごとく、フラフラと時間の流れるまま、風のながれるまま、流されているだけのように感じた。健康についての興味は一切失われ、定期的な診断ももう5年も放置している。食糧事情も良いとは言えなかった。いくら保険金があるとはいえ、それは贅沢をするための金額ではなくて、復帰に向けて最低限を保証する金額でしかなかったからだ。

 それでも、生きていられるだけで満足、などと思いながらネットで情報を交換する位が唯一無二の趣味となっていった。

 昔ながらの僕を知っている人は、励ましてくれた。

「君のアイディアと僕の技術を使って、ユニットを立ち上げ一花火打ち上げようぜ!」

 などという脳天気な申し出もあったが、やはり僕はプレイヤーとして行きいたかった。贅沢なことかもしれないけれど、それが僕の生き方に関するポリシーだったのかもしれない。ブレインとして人を動かすのではなく、僕は自らが汗をかいて行動したかった。それだけである。・・・けれどもその願望はサイボーグ技術が確立されるかもしれない22世紀にでもならない限り叶いそうになかった。


 僕は、2年位前から鬱という症状を発症した。

 何から何までやる気がない。向上心もない。

 そして、頑固なことに人の世話になってまで長生きし無くない、とさえ感じるようになった。せっかく僕の生活は質素ながら、保証されていたのに逆にそれが苦痛でたまらない時が多かった。自殺と言うことも何度か考えた。ところがそれはあまりにパワーがいることで、それすら僕にとってはおっくうであり面倒で、遠い世界の話のように思われた。

 精神科に診断に行くと、担当医に向かって、

「・・・ねぇ、先生。早く僕を安楽死させてよ。」

 とつぶやくのが癖になっていた。その度に先生は、

「生きているうちに、良いことは必ず巡って来る。その時まで、辛抱しないと・・・」

 と諭されて、大量の向精神薬と精神安定剤をもらって帰ってくるのだった。何度か僕は、その薬を一度に服用して緊急搬送されたこともある。けれども、現代の薬学は大量の服薬によって死ぬことがないように精巧に作られている。今思うと、だたっ子が暴れているようなものだったのかもしれない。そのまま2年の月日が過ぎ去った。

 ある時の健康診断のレントゲンで、医者は僕の肺に陰があることを指摘した。

「精密検査をしてみたいとわからないけれど、初期の肺ガンの可能性も捨て切れません。一刻も早い治療が必要です。」

 その指摘に対して僕は少し考えて、

「返事は1週間待ってくれますか?」

 と申し出た。当然、一刻を争う事態になるかもしれないから早く入院治療を決めてください、紹介状は今日書いておきますから。」

 と言って、会計の時にはすでに紹介状が僕に手渡された。

 病院を出ると、空は青く、9月の心地よい北海道の風がながれていた。これから、次第に寒くなり一面白い雪で覆われることを考えると少しうんざりとした。


(僕の命が、後どれ位あるのかわからないけれど、僕は多分、十分にがんばって働いて、あの事故で燃焼し尽くしたのかもしれない)


 そんな思いが、次第に僕の思考を支配し始めた。そんなときに思い出したのがリヴィング・ウィル法だった。自分は一歩踏み出すだけで、後は行政が法のもと僕を始末してくれる。

「・・・もう、十分がんばったよね。」

 そんな風に僕の思考は傾倒し始めた。世間には未だに僕のことを覚えていてくれて、応援してくれる人もいる。両親だって多少の健康を患っているけれど、健在であり、僕が訪問していくと嬉しそうに世間話の相手になってくれる。ほんの刹那、僕はこの人達と別れるのが惜しくなった。けれどもそれ以上に、

「・・・もう、彼らの負担にならず、自分らしく、病気になったのならそれは天命を受け止めて、静かに命のともしびを燃焼させたい。」

 それが僕にとっての最終結論であり、決断だった。

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