第4話 風夢徹×亜夢叶梨絵

 風夢徹が瞼を擦ると、徹は海の上に立っていた。水面に触れる足が少しばかり冷えるようなきがするだけで、後は普通の大地とそんなに変わらなかった。


海底は目に見えず、日の当たるところは美しい水色に、そうでない所は全てを吸い込む様に深い色をしていた。潮の匂いどころか、如何なる匂いもせず、風も全く感じられず、徹のいる空間には海と太陽しかなかった。


 それは異質とも言える空間であったが、徹が特別な感情をこの空間に抱くことは無かった。死、飢え、脱水、ありとあらゆるリスクは徹の前では何の意味も持たないし、妙な空間というのは亜夢叶先輩のプローディギウムで慣れきってしまっていた。


 徹は特にすることもなかったので、少し歩いてみることにした。海面は徹がその上を歩いても、波紋一つ作らず、ヒンヤリとした石の上を歩いているような錯覚すら感じた。


 しばらく歩いて、無機質な海を泳ぐ存在に徹は気がついた。魚だろうかと一瞬考えたが、よくよくキチンと見ると、それは数字であった。「1」やら「0」やらが群れを成して無機質な海を縦横自在に泳いでいた。


 徹はそこで初めて、この空間を不気味に感じた。数字たちはただの数字であったが、その数字以上のメッセージを押し付けられているように徹は感じた。それは嫉妬であったり、憎しみだったり、喜びだったり、絶望だったりした。


 しかし、それは不気味であると同時に魅力的であるようにも感じた。徹は数字を手に取ろうと海面に手を入れた。足は水に入らないのに、手はあっさりと海中へと入っていった。水中のヒンヤリとした感覚はなんとも言えない快感で、徹は数字を捕まえることを忘れてその快感を楽しんでいた。


 少しして、徹は数字を捕まえなくてはならなかった事を思い出した。海中で手を泳がせて、ようやく「0」を捕まえた。「0」は生きが良いようで、深海へと逃げようとするその力の強さに、徹は少し苛立ちを覚えた。


 そこから徹と「0」はしばらく格闘していたが、その均衡は怪奇な現象によって崩れ去った。徹がいよいよ全力で「0」を引っ張り上げようと力んだ。「0」はそれに負けるように海面へと段々と引き上げられていったが、「0」が海面に触れた瞬間、徹の立っていた海面がただの「海面」へと戻った。


 足場を奪われた徹は、大きな音を立てて海中へと落ちた。 

 徹の手に握られている「0」は、今がチャンスだと言わんばかりに、深海へと逃げようとした。その勢いはあまりに強く、徹が沈められてしまうと思うほどだった。


 とっさに徹は「0」を握っていた手を開いた。しかし、「0」が深海へと向かおうとする力は徹の事を深く深くへと引っ張ろうとし続けていた。


 徹は手をブラブラと揺らして、0を引き剥がそうとしたが、それもうまく行かずに結局、徹は海中へと沈められていった。


 沈められていく中で、徹は抵抗を諦めた。海中から見える景色は美しかったし、徹は死なないのだから、どうせならのんびり行こうと思った。


 徹が口を開くと、不自然なほどの勢いで海水が徹の口の中へと入っていった。海水はなぜか全く塩辛くなかった。流れ込んできた海水は、徹の胃ではなく肺に満たされていた。


 そんな中で徹を襲ったのは息苦しさではなかった。ただただ巨大な快楽だった。それは全能感と言っても良い。


 徹はもっとたくさんの海水を飲もうと、口を大きく開けて吸い込んだ。すると、海水と一緒に、ついさっきまで徹の手にくっついていた「0」も徹の口の中に入っていった。


 今度はまるで自分が上書きされているような感覚が広がっていった。自分で有るけど自分でない。自分で有るけど自分ではない。そのような感覚だった。


「徹......徹......」


 海面から女性の声がした。しかし、この巨大すぎる快楽に溺れた徹はとてもその呼びかけに応えるつもりにはなれず、無視を決めた。


「徹.....起きなさいよ、徹......」


 女性の声は最後にそう言うと、それ以上何も言わなかった。しかし、しばらく徹が快感を楽しんでいると、ゴツンという大きな衝撃が脳を揺さぶり、徹は急速に海面へと浮かんでいった。


 

 風夢徹がズキズキと痛む頭を持ち上げて、目を擦ると、そこには本を抱えながら徹を見下ろす亜夢叶梨絵の姿があった。


「せっかく人が心配して急いできたのに、寝てるってどういうこと?」亜夢叶先輩は本を徹が突っ伏していた机に叩きつけて言った。本のタイトルはソフィーの世界と言った。六百五十ページを超える長編小説だ。


「心配? あぁ、やっぱり昨日のこと、知ってましたか」後輩の力を借りれば、須田さんの住所や名前ぐらいすぐに調べられる。徹は観念したように言った。


「徹が須田ナントカとか言う雌豚に襲われたことも重要な問題だけど、そうじゃなくて」梨絵はそう言いながらスマートフォンを取り出して徹にそれを見せた。「昨日のメールの事よ」


 徹には心当たりがなかった。スマートフォンの画面には、徹が送ったとされているメールが写っていたが、そんなメールを送った覚えはなかった。世界が大変? そのメールのほうが余程おかしいだろうと思った。


「そんなメール、送った記憶はありませんよ」


「じゃあ、誰が送ったというのよ?」梨絵は心配を引っ込めて、困惑した顔で言った。


「知りませんよ。携帯のバグですかね? それより、その須田朱音さん、今日こっちに来るらしいですよ」徹は意味の分からない話題を避けようとしてそう言った。


 途端に、亜夢叶先輩が耳を真っ赤にして眉をひそめた。


「あの雌豚がここに来るですって? いい度胸じゃない。下品な週刊誌見たくゴミ箱に突っ込んでやるわ」


「良いじゃないですか。刺されることなんてよくありますし、そんな珍しい事じゃないんですから」


 それでも、という言葉を亜夢叶先輩は強調した。「許されないことには変わりないわ。私は徹を虐めるやつを許さない」


 徹はその言葉に複雑な感情を持った。素直に嬉しいと思う反面、亜夢叶先輩のせいで、徹の行動がある程度制限されている事を考えると面倒だな、とも思ってしまう。


「虐められてるわけじゃありませんから。心配しないでください。須田さんは亜夢叶先輩に用があってここに来ると行っていたんです。ですから話を聞いてやってくださいね」


「どうしてそんなに雌豚の肩を持つわけ? 何? そんなにその子、眼鏡が似合ってたの?」


「ええ、そりゃあもう、かなり似合ってましたよ」亜夢叶先輩の肩が震えたのを見て、徹は慌てて付け加えた。「でも、肩を持つなんて、そんなことはありませんよ。ただ、先輩が何するのか心配なんです」


 私は、亜夢叶先輩は強い口調で言った。「私は当然のことをしているだけよ。目には目に、歯には歯を、というでしょ? 徹の代わりにそれをしてみせるだけ」


「僕はそんなこと、望んでいませんよ。必要があれば僕自身の手でっていつも言っているじゃないですか。雌螺子めねじさんも言ってましたよ。先輩は過干渉すぎるって」


 雌螺子杏樹めねじあんじゅとは、中学時代に討伐部を共にして、亜夢叶先輩からの誘いを断ってみせた後輩のことだ。


 亜夢叶先輩は途端に苦虫を噛み潰したような顔をした。「私達の事をよく知りもしないあの子にとやかく言われる筋合いはないわ」


「僕は当事者ですけど、雌螺子さんと同じ考えですよ」


「もう良いわ! そんなに言うなら」亜夢叶先輩は鞄を乱暴に手にとった。「本、戻しておいて。私は帰るわ」


 亜夢叶先輩はそう言うと、バタンと大きな音を立てて扉を叩きつけて部室から出て行った。


 徹は一人取り残された部室で亀に餌をやることにした。亀のやる気ない顔を見ると、自分の悩みに意味なんてないんじゃないかと思うことが出来る。徹はそうやって悩みを解決させていた。


 どうして亜夢叶先輩はこんなに僕のことを気にするのだろうか。もちろん、理由は分かってる。だけど、普通、ここまで面倒くさい事になるとは思えない。おかげで随分と苦労してきた。


 コンコン、と扉が叩かれる音がした。亜夢叶先輩が戻ってきたのだろうか?

 徹が「どうぞ」と言うと、入ってきたのは亜夢叶先輩ではなく、須田朱音だった。


「あれ、亜夢叶先輩がいませんね。どうなさったんですか?」わざとらしい言い方で朱音が言った。


 徹は亀の餌を飼育籠の隣に置くと、朱音に向き合った。


「今日はもう帰ったよ。で、なんの用事?」


「涙目で階段を走る亜夢叶先輩を見かけたので、これは何かあったのかなと心配してきたんですよ」


 お前のせいで喧嘩したんだよ。徹は内心そう思ったが、それをいうことはしなかった。


「そう。先輩にも色々あるからね。涙目で階段を降ることだってあるのかもしれない」徹はそう言いながら、椅子に座った。


「まあ、深くは聞きませんよ。ここに先輩がいない事は決まっていたことですし。結果が大切で、その過程がどうあったかということに意味なんてありませんからね」朱音は偉人の言葉を引用するような調子で言った。


「先輩がいないことが決まっていた? それは違うよ。先輩は急用があって部活を休んだ訳じゃない」


「ええ、でも決まっていたんです。私にはよく分かりませんが、亜夢叶先輩に用があると風夢先輩に言えば、安全に事が成せるだろうって言われたんですよ。今日は監視がないだろうって」


 朱音はそう言うと、鞄の中から、メガネケースほどの大きさの長方体を取り出した。

  

「それは?」徹が言った。


 須田朱音はそれを無視して、直方体を開けた。中には緑色の液体がいっぱいに入れられた注射が入っていた。


「風夢先輩、チクリとするかもしれませんが、少し我慢してくださいね」須田朱音はそう言って、徹の腕に注射針を突き刺した。

 

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