第3話 亜夢叶梨絵

 亜夢叶あむと梨絵が事の異常さに気がついたのは、部室に徹の姿がなかったことがきっかけだった。


 討伐部は毎日開かれていて、たった二人しかいない部員で「どの化け物を倒すか」、と言った真剣な話や「社会科の教師の悪口」何かを語り合うことなどが活動内容だった。


 徹は、そのプローディギウムによって、体を壊すこと無く、極めて健康的な人間だった。「単体で完結している」と表現できるそのプローディギウムは免疫すら必要としない。それ故に風を引くことすらなかった。


 しかし、その日、梨絵がいつもどおりに部室の扉を開いても、部室で飼っている亀が、どんくさそうな目で梨絵を見る他に、生き物の気配はなかった。


 おかしい、梨絵はすぐにそう思った。


 三年生、つまり受験生である梨絵は放課後に補習を受けてからこの部室に来ている。徹は二年生だから、そのような補習はなく、放課後すぐに部室にいるはずだ。不吉な予感がする。


 もしかしたら、飲み物でも買いに行っているかもしれない。梨絵はそのように考えなおした。


 しかし、二十分経っても徹は戻ってこなかった。部室から自販機までは、階段を三階分下って五十メートルほどの距離があるが、二十分経っても戻ってこないのは明らか怪しかった。


 梨絵の中で、段々と不吉な予感が大勢を占める様になっていった。誘拐? 愉快犯に殺されかけている? それとも、卑しい雌豚に言い寄られているのか。いずれにせよ、梨絵の力で徹を救い出さなくてはならない。


 梨絵は決めるとすぐに動くタイプだった。


 スマホのホーム画面を押し、電話帳を開き、たった二人しか登録されていない連絡帳を開いた。一人は風夢徹で、梨絵はその下に記されている電話番号を押した。二度三度のコールの後に、億劫そうな声が聞こえてきた。


「何ですか? また風夢ふうむ先輩のことですか? 杞憂に時間を使うのはあまり賢くないと思いますよ」


「残念、杏樹ちゃん。今度の模試も学校トップだったわ。それで、徹の居場所はわかる?」


「分かりますよ。なんとなくですけど。ちょっと待って下さいね。集中しますから」杏樹がそう言うと、スマホからはドヴォルザークの名曲、「新世界」が聞こえ始めた。五分ほど待つと、「新世界」はピタリと止んで、杏樹が「今、西部の方向に自転車を走らせていますね」と慌てたように言った。


「なんで西部なのよ。ここは東部よ」


「知りませんって、そんなん」杏樹はため息を付きながら続けた。「ただ、私が風夢先輩を呼ぶなら西部にしますけどね」


「どうして?」梨絵が言った。


「亜夢叶先輩がもし待ち合わせの場所に気が付いても、ここから西部までは自転車で一時間はかかりますからね。風夢先輩が誰かと合流するなら、それは亜夢叶先輩のことも知っている可能性がありますね」

 

「今の徹の位置なら、私が追って追いつけるかしら?」


「無理だと思いますよ。もう、風夢先輩は西部に入っていますから。あ、先輩の移動が止まりましたね」


「誰かいる?」

 

「ええ、音は聞こえませんが、眼鏡をかけた女性がいますね」


 やっぱり雌豚か。梨絵は、「その女の身元を割っておいて」と言った。


 杏樹は梨絵の声に返事をする間もなく、大きな声で「女が風夢先輩を真二つにしてしまいました!」と言った。


 雌豚で、殺人鬼......これはひどいものね、梨絵は自分の鼓動が早まるのを感じた。顔も熱い。


「女の身元を割っておいてちょうだい。私がそいつを死ぬより苦しい思い世界に誘ってやるわ」


 梨絵が今にもはちきれんばかりの怒りを孕んだ声でそう言った。しかし、帰ってきた杏樹の声は落ち着いたものだった。

 

「毎回思うんですけど、風夢先輩は不死身なのですからそこまで過敏にならなくても良いのではないですか?」杏樹は言うか、言わないか迷ったように、間を一つ開けた。「正直、風夢先輩が刺されようが、切られようが、亜夢叶先輩がしゃしゃり出ることじゃないと思うんですよね」


「だから、その女を見逃せと? 杏樹ちゃん、化物はなんで秘密裏に処理されていくのか分かる? それはね、人類の敵だからなのよ。私からすれば、徹を襲う人間は私の敵なのよ」


「それがおかしいんですよ。どうして風夢先輩のことなのに、亜夢叶先輩の敵になるんですか?」


 梨絵は黙った。杏樹を信用してはいたが、自分の過去を話す決心ができずにいた。


「それはね、杏樹ちゃんのしらなくてもいいことよ」梨絵はようやく、絞り粕のような声でそういった。


 すると、電話は切られていないようだが、杏樹の声は少しも聞こえないというような時間が十秒ほど生まれた。


 引き伸ばされたような十秒間の後に、ようやく杏樹の声が聞こえた。


「まあ、私はこれ以上どうこう言おうとは思いまえんが、くれぐれも法律だけは守ってくださいね」


 杏樹がそう言うと、電話はすぐに切れて、「ツー」という音だけが聞こえた。


 梨絵はスマホを耳から話すと、雑な動きでそれをスリープモードにして机の上に滑らせた。意味もなくそれを目で追うと、梨絵は椅子に腰掛けた。


 徹は赤縁眼鏡をかけた雌豚と会っている、と杏樹ちゃんは言っていた。徹は眼鏡をかけた女性が好みだと言っていたから、そこに釣られた部分が大きいのだろう。徹の眼鏡に対する思いを悪用し、自らの殺人欲求のはけ口にしたというその女はどのような顔をしているのだろうか。


「まぁ、どんな理由であれ、明日にはその女に懺悔させてやるけど」


 梨絵は思わずそう呟いた。


 何度も思ったことだが、いざ呟いてみると、そのことがなんとも魅力的に感じた。梨絵は女を苦しめる様子を想像しながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。






 梨絵は気が狂いそうなほどに真っ白な部屋に立っていた。風は流れておらず、光も差さず、匂いもしない、恐ろしいほどに不気味に感じた。


「あなたは誰?」


 何もない空間で、男の穏やかな声が響いた。梨絵は驚いたが、それ以上に恐怖を感じて、驚きの声をだすことすら出来なかった。


「あなたは誰?」


 穏やかな男の声が、少し苛立ったようなものになった。梨絵は小さな声で自分の名前を名乗った。


「亜夢叶梨絵......それは君を現す印でしかない。印が本体なものなんてないだろう?」


「じゃあ、なんと言えばいいの?」


「僕には君が何者かなんて知る由もないよ。質問を変えるね。君はかい?」


 なぜこんな質問を、こんな部屋でされなくてはならないのか。果たして自分はこの部屋から出て行けるのか。そればかりが気になったが、そのためにも少年の質問に答えた。


「私は、今は少し違うけど、自由な意思に基づいて生きてきたと思う。誰に命令されることもなく生きてきたんだから。私自身の意思のもとで」


「君は自分の意志をだと本当に思っているのかい? 運命だったり、カミサマだったり、そういうものが最初から決めていたレールの上を走っているだけだとは思わないかい?」


「私は無神論者なのよ。だからカミサマに祈らなきゃだとか、そういうことは考えない。運命に感謝することもない」


 そういうんじゃないんだよ、姿もしれない男が呆れた様に言った。「カミサマでも、運命でも、なんでも良いからそう言う超現実的な存在がを決めているんじゃないの? って言いたいんだよ。歴史はドミノのようになっていて、予め決められた道筋通りに倒れていく。君たちもまた倒れていくドミノの一つだとは思わないかい? と聞いているんだ。カミサマだとか運命だとかそういう記号は便宜上のものにすぎない」


「もしそれがそうだとして、私にどんな関係があるというの? もしあなたの言う話が本当だとして、ドミノが倒れる方向を変えられるわけじゃないのだから仕方のない話でしょ?」


「違うよ。ドミノがこの世の森羅万象を理解し、外部に働きかける力が僅かにでもあれば倒れる方向を変化させることだって出来る」


「残念。私はそこまで博識でもないし、力もない。ついでに興味もない」


「私は知っている。この世の全て、森羅万象をね。でも。この世界をあるべき姿に帰すだけのモノは君が持っている。だから君に話しかけたんだ」


「何だというの? その世界をあるべき姿に帰すモノって」


「風夢徹さ。彼さえいれば世界を帰還させられる」


「馬鹿じゃないの?」梨絵は膝が怒りで震えるのを感じた。「徹を私が差し出すとでも思う? そんなどうでもいい目的のために」


 梨絵の声は白い部屋に反響するばかりで、男はしばらく声を返してこなかった。その代わりに、男が何やら紙に記入している音だけが聞こえた。


「ノープロ。全て予定通りだ」


 男がそう言うと、梨絵の意識は暗闇に落ちた。


 



 「君、君、起きなさい」


 梨絵が目を開くと、うんざりしたような男の声がした。部室の電気はいつの間にかつけられていて、梨絵が目を擦ると、その男が高校の守衛であることが分かった。


 「君ねぇ、いま何時だと思っているのさ?」


 「えっと......」梨絵はそう言いながら、机の上に置いてあったスマホに触れた。スマホのホーム画面には一件のメールがあるということと、「二十三時」と時間が表されていた。「こんなに寝ていたなんて。すみません、失礼します」


 「いやさ」守衛は荷物をまとめている梨絵に言った。「これ、先生方に報告しなきゃだねだよね。君の名前とクラスは?」


 梨絵の通学する学校は生徒指導に力を入れていて、部室を許可外の時間にまで使えば、部活動停止の処分すらありえた。徹との唯一の共通点であるこの部室を失うことは、梨絵にとっては致命的なことだ。


 梨絵は整理していた鞄の中から、振り子を一つ取り出した。それを守衛に向けて、揺らした。 すると、守衛の苛立った顔から次第に表情が消えて、木偶の様になった。


 梨絵はそれを一瞥すると、スマホの通知を確認した。徹からのメールだった。


 「先輩、変なんです。何がって、僕が? 世界が? とにかく何もかもが変なんです。

 明日の部活の時に、とにかく、話を聞いてもらえますか?」


 不吉なメールだなと梨絵は思った。徹はあの雌豚に何かされて、おかしくなってしまったのだろうか。


 梨絵は女のことを思い出して、思わずスマホを握りしめた。気温は十分に低いはずなのに、スマホが手汗で濡れているのを感じた。


 

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