下層区画

 結局、目的地である海鼠水工旧本社ビルに辿り着けた部隊はいなかったんだっけ、と当時のことを昇降機の中で湯は思い返しました。不幸な偶然が重なった出来事とは言え、自分が足を引っ張ったことは疑いようがない、そう思うと腹の傷痕が痛む気がしました。

「また、二年前のことを思い出しているのぉ?」

 出し抜けに左胸からシグさんが訊いてきました。声には雑音が混ざっています。

「いえ、別に」

 横を向き咄嗟に嘘をつく湯。

「さっきから脈が速いし、手先足先が冷えているわぁ」

 棘皮鎧は内側、つまり装着者の肌に触れる側にも管足があり、脈拍や体温を常に計測しています。

「生体反応から勝手に推理しないでください。思い出したらいけないんですか」

 シグさんのお節介に湯が苛立ちを見せます。

「うぅん……」

 シグさんは何か考えている様子です。

「いいえ、思い出してもいいの」

 湯の表情は変わりません。

「何度も思い出しては忘れるうちに、色が抜けて化石のようになっていく筈。無理に思い出さないように蓋をするのは、却ってよくないと思う」

 湯は黙って話を聞きながら、まともに話せんじゃん、と思いました。

 シグさんを着た湯は、オーメさんとともに下層区画行き昇降機に乗っていました。広い通路が斜め下へ走り、昇降機が断続的に低い音を立てて、湯たちを運んでゆきます。隣では、生簀から引き揚げられた棘皮部品のコンテナが上へと運ばれてゆき、湯たちとすれ違いました。コンテナの上に乗っているイエガゼが湯に腕を振ったので、湯も会釈を返します。

「シグさん」

 湯が少し低い声で言いました。

「何かしらぁ?」

 シグさんは既にいつもの調子に戻っています。

「ここ、痛みませんか?」

 湯は自分の、シグさんの胸にある、青い金属光沢を帯びたひび割れを指差しました。二年前の強制除装のあと繋ぎ合わせた痕跡です。ガゼノリと呼ばれる接着剤の影響で、色が変質して青くなったのです。他にもあちこちに青いひび割れがあります。

「ぜぇ〜んぜん。今朝ビンビンだって言ったでしょぉ」

 そう言ってシグさんは笑いました。確かに、シグさんはいつもビンビンだと、湯も少し笑います。隣ではオーメさんがだるそうに横たわっています。管が壊れていた場合に必要な工具を、体腔にしまっているのです。

「そろそろ着きますね」

 背中にかけた皮銃を、取り出して構えます。ヒトデの腕一本丸ごとを銃の型に押し込んで成型した、散弾銃型皮銃です。ざらざらした橙色の銃身にKAISO270と白い文字で印刷されています。昇降機が止まりました。下層区画の洞窟が広がっています。壁の外は海に面した岸壁であり、台所区画や玄関区画より遥かに湿気があります。湯の操作で天井の灯りが点きました。地面の水溜りが光を反射して白く光っています。


「ほらね、思ったより簡単だったでしょぉ」

 七十六番配管洞で修理を終え、シグさんが言いました。朝、湯は面倒くさがっていましたが、渾水漏れはすぐに見つかり、修理も難しくはありませんでした。

「こんな小さな渾水漏れで、あんなにおいするかな……」シグさんは帰って飲み食いをする算段を始めていますが、湯は配管を眺めて首を捻っています。寝起きに感じたにおいを思い出しているのです。ふと、この配管の渾水は温度が高いことに気づきました。次に、漏れた温かい渾水が流れていった筋を見ます。

「シグさん、この先も点検します。オーメさんは、苦しそうだからここで休んでてください」

 漏れた渾水の筋を辿り、湯は歩き出しました。

「どうかしたのぉ?」

 いつもの喋り方ですが、シグさんは既に全身の感覚器官の感度を上げて警戒を始めています。

「この先には、生簀用に冷たい海水を溜めた部屋があります。それに、これを見てください」

 湯は足元に転がっている欠片を手に取りました。

「これは、イエガゼさんの家屋修復用骨パテです。十ヶ月前の落石で、壁に穴が開いたときのものでしょう。イエガゼさんたちは骨パテで修理をしてくれるけど、壁の中の人工神経までは直せません」

 まあ!とシグさんが驚きます。

「じゃぁ、私の神経が通っていない場所で、何かが起きているかもしれないのねぇ」

 湯が返事をしようとしたとき、地響きが鳴りました。すぐ近くです。

「それはそうとぉ、湯は緊張するとお喋りになるのねぇ」

 湯の緊張が少しほぐれました。

「私って、普段そんなに無口ですか?」

 湯は皮銃を手に取り、フレームの窪みに指を入れて安全装置を解除しました。


 薄暗いホヤ照明の下、粘液で床がぬかるんだ冷水室を通り、湯は生簀部屋に踏み込みました。予想通り、そこにはガゼクイボラがいます。鳥肌を立てて息を詰まらせる湯の左手を、誰かが握る感触があります。シグさんが掌の圧力を変え、人の手の感触を作り出しているのです。湯は黙ったまま幻の手を握り返しました。

 ガゼクイボラは空になった生簀から身を乗り出し、こちらを向きつつありました。あの日、湯に傷をつけた個体ほどではないですが大きな個体で、殻の高さが彼女の背丈ほどあります。相手が振り向くより早く、湯は低く跳躍して、全体重をかけた蹴りを殻に浴びせます。ガゼクイボラが転倒し、鈍い音とともに生簀の底に落ちました。振動で天井から大量の水滴が落ちます。水音を立て、ガゼクイボラの食べ残しを蹴飛ばしながら湯は腹足に駆け寄ります。皮銃を構え、腹足の柔らかそうな場所を狙います。

 きっとこいつは落石のときに浸入して、すぐに冷たい水で冷やされて眠っていたんだ、そこに漏れた水が流れ込んで温み、目を覚ました、渾水漏れは結果じゃなくて原因だったんだ、これまでの経緯を推測しつつ湯はパルス散弾を四発、起き上がろうとうねっているガゼクイボラの腹足に撃ち込みました。

「眠っていた割りにはぁ、素早いわねぇ」

 ガゼクイボラが口吻を振り回しながら体勢を立て直したので湯は飛び退きます。

「わ、私の考えまで読めるんですか?!」

 口に出していないのにシグさんが自分と同じ考えに至っていたので、湯は驚きました。

「まさかぁ、流石にそれは無理よぉ。状況からしてぇ、そうとしか思えないものぉ」

 皮銃をしまい棘皮鎧の両手を硬化させて再度踏み込みながら、湯はその言葉に疑念を抱きました。いつか棘皮知性体の専門家に、シグさんたちに読心能力があるかを聞いてみたい、そう思いながら口吻や殻の振り回しを避け、軟体部に手刀を打ち込みます。

 ガゼクイボラの粘液はある種の粉粒体として振る舞います。打撃を受けた部分が瞬間的に固体化するため、一見軟らかそうな胴はとても頑丈なのです。

 口吻に水滴が集まりだしました。湯は仮水砲を警戒して皮銃を背中の管足で保持し、生簀の底から外に跳躍しました。

「いい判断よぉ。前よりずっと冷静じゃないぃ」

 シグさんは、戦闘中でもよく出来たときに褒めることを忘れません。

「あのとき随分肝が冷えましたから、頭も冷えやすくなったんですよ」

 照れ隠しに皮肉を口にしつつ、湯は小石や棘皮素材の骨片を拾って投げつけました。棘皮鎧の力を借りてかなりの速度で投射していますが、牽制にすらなりません。口吻を取り巻く水滴がいよいよ多くなってきたので、湯は水のある生簀に飛び込みました。あの空気の震えがまた来ると思い水底に伏せましたが、数秒経っても仮水砲は発射されません。ウミシダが泳ぐ動きで可動肢を波打たせ泳ぎ上がり、水面から顔を出します。ガゼクイボラは底から這い上がり、こちらに背を向けて遠ざかってゆくところでした。

「ん〜、あったかい水を浴びて調子を取り戻すつもりかしらぁ」

 追いかけないと、生簀の縁に手をかけて湯は飛び出しました。ガゼクイボラはこちらに背を向けていますが、口吻と触角でこちらの様子を伺っています。鈍重そうな見た目とは裏腹に、湯が走るのと変わらないほどの速さで這ってゆきます。

「こいつ、昇降機に向かってないですか?」

 驚きながらシグさんに尋ねる湯。自分たちが通ってきた道を、ガゼクイボラが辿っているのです。

「わたしたちのヒトデ臭を、嗅ぎ取っているのかもしれないわぁ。生簀の中身もあるしぃ」

 昇降機まではもうすぐです。

「進路を変えさせます」

 湯は猛然と加速します。洞窟の起伏を飛び越えて接近すると、殻の先に白く艶のない場所があります。

「こいつ、殻頂が欠けてます」

 これなら勝てるかもしれないと、湯は思いました。

「あらぁ、傷物ってことねぇ」

 シグさんの発言は相槌のようなものだと捉え、湯は距離を詰めます。

 ガゼクイボラの堅牢性を高めている要素の一つに、殻の絶望的な滑らかさがあります。極めて滑らかな殻の表面が、打撃や弾を弾くのです。その殻が欠けているということは、欠けている場所から殻を破壊できる可能性があるということです。

 踏み切るのに丁度よい岩を蹴り、湯が鋭く跳躍しました。手話に似た指の動きで、シグさんに可動肢の推進器を使うことを伝えます。

「渾のご利用はぁ、計画的にねぇ」

 腰の可動肢が石鹸の香りを放ち、パニエ・スカートめいて拡がりました。可動肢内側の表皮が、渾を推進力に変換しているのです。

 凝澪島の陸生棘皮が渾を使うとき、副産物として石鹸に似た香りが発生します。機械に組み込む場合は脱臭装置を付けますが、シグさんの可動肢は試作品なのでそれがないのです。

 一瞬ですが爆発的な加速を得た湯は、硬化させた腕甲の肘を殻頂に叩きつけました。みしり、と肘が殻に食い込む感触のあと、湯自身も殻に弾かれ、ガゼクイボラは洞窟の壁に激突しました。


 衝撃吸収用の空気袋に頭部を包まれ横たわっていた湯が、体をさすりながら立ち上がりました。強い衝撃を受け、自動的に襟から飛び出して膨らんだのです。

「シグさん、エアバッグ、しまってください」

 半透明の空気袋の向こうで湯の顎が動きます。

「やっぱり、ヒトデだから丈夫に出来ているのねぇ」

 久し振りに湯の戦いを見て、シグさんが感心します。

「ねぇ、これならぁ、お腹もきっと大丈夫じゃないのぉ?」

 空気袋がしぼみ、襟に収納されました。現れた湯の顔は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべています。

「お腹は、関係ないです。その話は後にしましょう」

 ガゼクイボラは壁に半分埋まっていますが、仮水砲を撃とうとしています。

「もう一度、接近します」

 湯は腹をさすってから腰を落とします。斜め上に跳躍して壁を蹴り、よく弾むゴム球を筒の中に力一杯投げ込んだような動きでガゼクイボラに近づいてゆきます。

「いいわぁ〜、わたしの特徴である跳躍力、遺憾なく発揮されているわねぇ〜」

 感心ばかりしてないで弱点とかを教えてください、と湯は言いたかったのですが、今喋ると舌を噛みそうなのでやめておきました。背面に回り込むと、やはりひびが入っており、表面が剥がれた箇所は真珠色に美しく輝いています。埋まった状態から抜け出しつつあるガゼクイボラの殻に湯は飛びつきました。四肢と管足、可動肢でひびを掴んで足がかりにし、殻に馬乗りになります。

「大人しくしてください!」

 ガゼクイボラが体を捩って殻を振り回し、湯は振り落とされまいとしがみつきます。右腕を背中に伸ばし、腕甲の橈骨側の溝から液圧で管足を射出します。管足が吸盤で皮銃に吸いつき、腕甲に引き寄せました。湯は腕に貼りつけた状態の皮銃を、ひびの入った殻頂に向けて発砲します。鈍い音とともに殻が砕けて白い粉が散り、湯は効いていると確信しました。

「湯、また仮水砲よぉ」

 この位置なら殻が邪魔で自分を狙えないはずなのに、そう思いながら後ろを向くと、ガゼクイボラが地面に仮水砲を撃ち込んでいました。仮初めの水しぶきが上がり、足元の地面が割れます。

 下層区画は虫食いだらけの木の葉を重ねたような構造の、洞窟の集合体です。ガゼクイボラの砲撃で地面に穴が開いたため、湯たちとガゼクイボラは下層区画の最下層、つまり標高ゼロの地点へ転げ落ちていました。落下しながらもガゼクイボラは激しく体をくねらせて湯を岩に叩きつけ、湯も殴る蹴るの殴打を繰り出します。下敷きになることを恐れ、可動肢の推進器で湯はガゼクイボラから離れました。直後に着水し、二つの水柱が上がります。湯が先に立ち上がりました。今立っているのは、上の洞窟よりも広く、照明が少ない洞窟です。ガゼクイボラは殻のあちこちが割れて内臓が見えていますが、海水から渾を吸収したのか仮水砲の圧縮を開始しています。

「ひ、皮銃は」

 軽い目眩を覚えながら湯がシグさんに尋ねます。

「フレームが曲がってしまったわぁ」

 ぐにゃりと曲がった皮銃をシグさんが可動肢で拾い上げました。なら、帰ってから渾を多めに添加して再生させないと、湯はシグさんの部屋の近くにある武器庫を脳裏に浮かべました。渾水の満ちた水槽が八本並び、皮銃や骨剣が出番を待って眠っている、涼しい武器庫です。早く終わらせて私もお風呂に入りたい、湯は足元の海水を蹴飛ばしてガゼクイボラに近づきます。皮銃が使えない今、使える武器は拳しかありません。

「今、その螺子みたいな肉を……」

 湯が腕を振り上げて拳を硬化させたとき、またも地響きが聞こえました。

「な、何ですか?まさかもう一匹?」

 湯が狼狽える中、シグさんは現在地を調べていました。地響きがより大きくなり、近づいてきます。

「あぁー……」

「シグさん、どうしたんですか?一体何が」

 シグさんは苦笑して言いました。

「今回は、引き分けになりそうよぉ」

 お屋敷とその近くの町からは、一定時間おきに使い終わった渾水が、お屋敷地下の配管を通して海へ排出されます。湯たちは、その配管の中にいたのです。大量の水が、湯とガゼクイボラをお屋敷の外へと押し流しました。


 押し寄せる水と砂に揉まれつつ、湯は磯の岩に掴まります。髪留めが壊れて流され、湯の長い髪が海藻のように水流に靡きます。流れが緩やかになり止まると、その場に腰を下ろしました。

「ああ、もうこんな時間だったんですね」

 夕陽が沈んでゆくのが見えます。この大きな岩の多い磯から見えるのは、発光生物たちが模倣した空ではない、空気と太陽光で出来た空です。空の半分はすでに夜の色に染まっており、夕陽の橙と夜の藍がせめぎ合う円弧は、複雑な色合いの光の帯になっています。穏やかな海面には、個人用の浮橇ウキゾリが数艘走っています。

「綺麗ですね、シグさん」

 湯は髪の水を絞り、頭の後ろで結びました。

「オーメさんを探して、帰りましょう」

 そう言って海に背を向けようとしたとき、シグさんの逃げて、という声が聞こえ、左手の甲が激しく脈打ちました。岩の上から、殻の半壊したガゼクイボラが、湯めがけて降ってきました。


 まさか上から、と湯が思ったときには手遅れで、腹足の下敷きにされていました。頭と右腕は動かせるものの、噛みついてくる口吻をいなすのに精一杯です。

「ス、スカートは、可動肢は」

 のたうつ口吻を右手だけで押さえ込み、湯がシグさんに尋ねます。

「無理ねぇ、もう渾を使い切ってしまったものぉ」

 何か鎧に固定式の銃でもついていれば、と湯は思いましたが、どうにもなりません。第七世代型は四肢と機動力を武器として使う設計です。このままでは丸呑みにされる、どうすれば、湯は脂汗をかいています。

「ねぇえぇ、湯」

 シグさんの、いつもと同じ落ち着き払った声がします。

「朝と昼、食べてないならぁ、胃液が溜まっているわよね?お腹の口を使ったらどうかしらぁ?」

 湯が鳥肌を立てて身をすくめます。

「ぜ、絶対に嫌です!」

 湯が激しく拒絶します。

「一度裂けているんです!次にひらいたらまた裂けちゃいます!真っ二つになります!」

 かなり怯えています。まるで食べられることより裂けることの方が怖いようです。

「そうなのぉ?でも、怪我をしてから、一度もひらいてないのでしょう?なら、本当に裂けるか分からないじゃない」

 普段より一層穏やかなシグさんの声。海面では、浮橇が騒ぎを目撃して逃げてゆきます。

「ダメで元々、試してみたらどうかしら。ほら、痛いのは初めてのときだけって、言うでしょぉ?」

 湯は絶句し、気を取り直して口を開きます。

「シグさん、何を言っているんですか?このままだと私たち丸呑みされるんですよ?」

 なぜ猥談を差し挟む余裕があるのか、湯には分かりませんでした。棘皮知性体は人間とは違う、と思ったところで自分も人間ではないことを思い出します。

「そうだぁ、いい考えがあるわぁ。ご主人様が帰ってきたら、夜伽をして捧げたらどうかしらぁ」

 朗らかなシグさんの声が、ガゼクイボラの肉越しに聞こえます。

「なっ、何を、私がご主人様とっ」

 ま、まさか、と湯は慌てました。そんなことを言われる心当たりがあったのです。

「ひょっとして、わ、私の部屋の物音を拾ってたんですか?」

 湯の声は震えています。

「えぇ?そんな盗み聞きみたいなことはしないわよぉ。あなたの部屋には神経を通していないものぉ。どうしてそう思ったのぉ」

 からかう口調から一転、シグさんは心からの心配を示します。

「何でもない!何でもありません!」

 ご主人様からもらった骨剣を脚に挟み、体を揺らしながら空想に耽っているという事実を口に出す訳にはゆかず、湯は頭を横に振ります。髪の先から海水が飛び散りました。

「だいたい、シグさんこそなんでそんな話をするんですか!」

 ガゼクイボラが分泌する粘液のため、口吻を掴むのが難しくなってきました。手を滑らせながら湯が訊き返します。

「ご主人様とあなたがすれ違いながら惹かれ合うという趣旨のメモが、部屋の前に落ちていたの」

 手が滑り、口吻が岩を打ちました。

「あれを読んだのですか!たった今盗み聞きはしないって言ったのに……それにメモじゃなくて小説です!」

 赤くなった顔に噛みついてくる口吻に裏拳を見舞い、湯はシグさんに抗議の意思を示します。

「変な湯ねぇ。読むまであなたが書いたものだとは知らなかったのよぉ」

 湯は指の骨片を逆立てて口吻を掴み直します。

「イエガゼさんたちが小説を書く訳ないじゃないですか!」

 湯が悲鳴のような声を上げます。イエガゼたちはにおいでコミュニケーションをするので、文字は書きません。

「湯ぉ、あなた泣いてるのぉ?」

 シグさんが不思議そうな様子で訊いてきます。

「泣いてません!」

 腕甲に内蔵されたジャイロ機構で拳の軌道を安定させ、密着状態で出せる最大の威力で口吻を殴りつけてから、湯は涙を拭いました。

 ああ、なぜこんな話に、湯がそう思っている間にも腹足が彼女の体を押さえつけ、口吻はすぐ目の前まで迫っています。

「あのねぇ、また傷口がひらかないか怖い、というのは、分かるわぁ」

 湯は黙ってシグさんの台詞の続きを待ちます。右腕の腕甲に、青く光るひびがあります。

「それでねぇ、もしもなんだけどぉ、傷口がひらいちゃったらどうなるか、考えたことあるかしらぁ」

 傷口が、ひらいたら?そんなの痛くてとても恐ろしくて、でも湯はその先まで深く考えたことはありませんでした。シグさんは言葉を続けます

「正直に言って、最悪は死ぬと思うわぁ。でも、湯は姿は人間でもヒトデの生命力を持っている」

 確かに、自分はナマモノを食べてもお腹を壊さないし、もし人間ならあれほど岩にぶつかれば只では済まない、それは湯にも分かります。

「はい、そうですけど。でもやっぱり怖いんです、口から裂けるのが……あと、シグさんはなんで口調をわざわざ変えてるんですか?」

 口吻から歯舌が覗きます。

「ええ。あれは本当に恐ろしい出来事だった。わたしにも至らない点が多かった」

 二年前、シグさんを強制除装したときの、苦い思い出が過ぎります。ひょっとしたらシグさんの方が怖い思いをしたかもしれない、湯は断片になったシグさんの姿をときどき夢に見ます。

「それでも、現にわたしたちは生きて帰ってきた。あの経験を持ち帰って。そして今、あなたはわたしを着ている」

 シグさんの口調はあくまでも平淡です。それも自分を気遣ってのことだろうと、湯は思いました。

「廃工場のときと同じ状況に思えるかもしれないけれど、実はずっとよい状況なの。考えてみて」

 確かにあのときと同じではない、湯は全身を包む管足の肌触りに意識を向けました。生きている、という感覚があります。

「だから、湯。また一緒に生き延びましょう。もし、仮に真っ二つになっても、わたしがあなたを繋ぎ留める。必ずお屋敷に連れて帰ると約束する」

 また少しの間、湯は沈黙しました。少し小さな声で、シグさん、と呼びました。

「こんなことを頼んで本当に申し訳ないんですが、もし私が裂けて二匹に分裂したら、シグさんも二体になってくれますか?」

 湯は恐る恐る問いました。ガゼクイボラの向こう、複雑な色を映す空で、高く薄い筋雲が茜色に光るのが見えます。シグさんはふふふ、と笑いました。

「そんなの、当たり前よぉ」

 シグさんの幻の手が湯の左手を握ります。湯が強く握り返すと、今度は全身に、抱き締められるような優しい圧力を感じました。

「ガゼクイボラの腹足に胃液で攻撃を試みます。私が三つ数えたら前を開いてください」

 力強い声で湯はシグさんに指示を伝えます。シグさんは分かったわぁ、と返事をしました。

「三、二、一ッ」

 湯が数えました。棘皮鎧の胸から鼠蹊部までが稲妻のように割れて、湯の腹が露出します。それに合わせて、湯は右手を口吻から離し、地面を押してガゼクイボラの真下に滑り込みました。腹足の下は粘液で満ちています。息を止めて腹に神経を集中します。ヘソが蠢き、ヘソを中心に、五本の溝が伸びてゆきます。胸骨と脇腹、腰骨の上にまで伸びた溝が開き、中から淡い橙色の管足が数十本、花の雄しべのように展開しました。ヘソのあった位置には多角形の骨片に覆われた孔、湯の本当の口があります。星型にひらいたその腹は、ヒトデの腹そのものです。湯は目を瞑り、管足の触感を頼りに腹足を探ります。生簀でパルス散弾を撃ち込んだ傷があるはずです。一本の管足が肉の削れた場所を探し当て、湯は目を見開いて腹に力を込めました。本当の口から、半透明の黄色い胃袋が裏返りながら拡がり、ガゼクイボラの腹の傷に金属すら溶かす胃液を吹きつけました。散弾で抉られた肉に胃液が染み渡ります。ヒトデの摂食行動であり、湯本来の食事方法である体外消化を行ったのです。

 傷口に強酸を浴びせられたガゼクイボラの腹足が反射的に縮み、湯の体と地面から離れます。素早く胃袋を本当の口にしまうと、湯はガゼクイボラを両脚で思い切り蹴飛ばしました。ガゼクイボラは腹足を丸めたまま岩の向こうに転がってゆき、その先で硬いものが割れる音がします。

 溢れた胃液が岩の隙間で湯気を立てる中、湯は肩で息をしていました。ひらいた腹が端から閉じてゆきます。震える手で腹に触ります。

「さ、裂けて、ない……」

 上半身を起こして腹を見ると、傷痕には何の変化もありません。痛かったり、破れたりすることを覚悟していましたが、傷痕はただの模様のようです。

「湯、よくやったわぁ。ね、大丈夫でしょお?」

 シグさんの言葉に何度も頷き、湯はもう一度横になり、深呼吸と伸びをして空を見上げました。顔についた粘液を拭い取ります。天頂はもう群青色で、星が瞬いています。そうだ、と呟き湯は起き上がりました。開いていた棘皮鎧の前が閉じます。指でシグさんに明かりを点けて、と伝えると、可動肢の裾が青白く光って足元を照らします。湯は岩を降り、ガゼクイボラが転がっていった場所へ向かいました。

「うわぁ、これは間違いなく即死ねぇ」

 シグさんがガゼクイボラを見つけました。

「管足がぞわぞわ動いてるんですけど、これって鳥肌みたいなものですか?」

 肌に触れるシグさんの管足が、漣のように揺れているのが感じられました。

「まぁ、そんなものよぉ」

 心なしかシグさんの声は震えています。シグさんから見てもこれはエグく見えるのか、と湯は目の前の状況を見て思います。ガゼクイボラが、殻と同じ渦巻き状の肉を岩の上に飛散させています。湯が叩き割った殻頂に荷重がかかった結果のようです。

「これでもう安全です。あとはオーメさんを探さないと」

 湯はもう一度伸びをして、体の凝りをほぐしました。すると、岩の向こうで白い影が動きました。

「あらぁ、迎えに来てくれたみたいねぇ」

 工具を捨て、身軽になったオーメさんが歩いてきます。

「オーメさん!ご無事だったんですね」

 小走りで近寄ると、オーメさんは管足で湯とシグさんを触りました。異常なしと分かったのか管足をしまいます。

「さあ、帰りましょう」

 湯たちの前には黒々とした岩壁がそびえ、その上に海浜植物の林と星空が広がっています。湯が纏う青白い光に驚いたのか、足元でヤドカリかクモヒトデが、小さな音を立て走り去りました。

「シグさんは、帰ったら夕飯にしますか?」

 湯はこれからイエガゼたちと自分の食事の支度をする予定がありました。湯の食事は三日に一度ほどの頻度です。

「えぇ。お腹が空いたわぁ。でもぉ、食べるなら貝以外がいいわねぇ」

 それを聞いて湯はくすくす笑いました。

「あのガゼクイボラ、けっこう美味しかったですよ」

 全身を包む管足がざわつきました。シグさんは驚いているようです。

「まぁ。胃を出したときに味見したのねぇ。ちゃっかりしているのねぇ」

 シグさんは呆れていますが、湯はガゼクイボラの味を思い出し管足舐めずりをしました。足元では、オーメさんが藻をむしり取り食べています。


「こんなところに、脇道が?」

 台所区画へ帰る道を探す途中、湯は見慣れない通路を見つけました。

「骨パテが散らばっているわぁ。イエガゼちゃんが修理したのが、さっきの振動で崩れたのかしらねぇ」

 イエガゼたちは骨パテで勤勉に修理をしますが、報告を忘れることがたまにあります。

「なるほど。中を見てみましょう」

 湯たちは岩の通路を進み、小洞に出ました。そこで待っていたのは、浅い水に浸ったまま動かない棘皮機械たちでした。

「これは、浮橇……」

「あらぁ、さながら浮橇のお墓のようねぇ」


 浮橇は凝澪島で使われている、二輪車に似た小型の船の一種です。船といっても船底は水面に触れません。棘皮の持つ渾により、磁石のように水面と反発する静的な力を発生させ、僅かに浮いて滑走するのです。推進力は海獣のものに似たヒレで生み出します。湯も免許を持っていますが運転はほとんどせず、ペーパー・スライダーになっています。


「どれもずいぶん傷んでいるわぁ」

 シグさんとオーメさんは管足で浮橇を調べています。何か使える部品があれば持ち帰るつもりのようです。湯はゆっくりと辺りを見回して歩を進めます。小洞が広くなり、外に通じています。

「小さな船渠みたいです」

 少し水が深くなっています。水底で、エビが尾を曲げて逃げてゆきます。

「湯、あれぇ」

 海と空が見える出口の反対側、暗がりに、大型の浮橇が駐機しているのをシグさんが見つけました。湯が歩み寄ると、直方体で構成された、煉瓦色の浮橇があります。

「これ、オニイソメ4000じゃないですか」

 湯が口に手を当てて驚きます。オニイソメ4000は整備性、安定性、積載量に優れた実用的な浮橇として、人気を博した機種です。十年以上前に生産は終了しています。シグさんとオーメさんが機体を検分し始めます。

「エンジンは無事よぉ。少し整備がいるけどぉ、動きそうねぇ」

 エンジンとはその機能面から見た呼び名で、ウニの骨格に包まれた、内臓と神経からなる浮橇の中枢部位のことです。もし動くとしても、鍵がないと、そう思った湯は今朝の鍵束を思い出しました。腰の小物入れから鍵束を取り出します。計器盤の鍵穴に差し込むと、小気味よい音とともに奥まで差さりました。

「まぁ」

 シグさんも驚いています。

「ご主人様からの贈り物かしらねぇ」

 湯はエンジンはかけずに、座席に座りました。オーメさんが膝に上がってきます。しばらくそのまま放心して、オーメさんを撫でながら暗くうねる海面と夜空を見つめます。一筋の光が空を横切りました。

「あらぁ、流れ星。湯は何かお願いしたかしらぁ?」

 湯は質問に答えずに、言いました。

「シグさん、雪を見に行きましょう」

 シグさんの体の明かりが明滅します。

「え、えええぇ?!」

 激しく驚くシグさん。

「ちょっと待って、湯。確かに今朝雪を見たいと言ったわ。気持ちは嬉しいけど、この浮橇ではそんなに遠くに行くのは無理よ」

 こんなに驚くシグさんを見るのは久し振りだなあ、と思いながら湯が前を見たまま話し始めます。

「はい、それは分かっています。それに、シグさんを海外に連れて行くには手続きが大変です。だから、まず海鼠水工に行くんです」

 シグさんはまだ困惑しています。海鼠水工本社のある街までなら、オニイソメ4000で問題なく移動できます。

「海鼠のお誘いを受けて、警備部に戻るんです。仕事をうまくこなせたら、海外に行く機会がもらえるかもしれません。個人でシグさんを連れ出すのは大変でも、軍需企業である海鼠でならきっとチャンスがあります。ご主人様のことも、何か、分かるかも」

 こんなに自分の意見をはっきり話す湯は久し振りだ、と思いシグさんは圧倒されていました。

「本当にいいのぉ?また怪我をするかもしれないわぁ」

 ガゼクイボラの他にも、凝澪島には人類を脅かす生き物が多く、戦いは今も続いています。

「もし、怪我をしたら」

 湯は左胸を見て微笑みました。

「そのときのことは、そのとき考えましょう」


 一ヶ月後。

 よく晴れていますが、やや波の高い日。六匹のイエガゼたちが、湯たちの見送りに船渠に集まっていました。

「皆さん、貝にだけは気をつけてくださいね。見つかったらすぐに逃げて、町の人を呼んでください」

 イエガゼたちが管足で頷きます。湯は、首尾よく湯と一緒にゆける籤を引き当てたオーメさんと、整備したオニイソメ4000に乗り込みました。

「あんなにテキパキ準備をするなんてぇ、わたしは湯を甘く見ていたのかもねぇ」

 イエガゼたちへの、留守の間続けて欲しい作業としなくてもいい作業の伝達。町と海鼠水工への連絡。浮橇の運転の練習。生き生きとした湯の姿に、シグさんは一ヶ月間驚きっぱなしでした。

「皆さん、行ってきます。場合によっては、すぐに帰ってくるかもしれません」

 イエガゼたちが管足を振ります。オーメさんはすでに荷物箱に自分の居場所を作って落ち着いています。

「シグさん、行きましょう」

 湯は一度、お屋敷のある岸壁を振り返りました。どこか、古い写真を見ているかのような印象を受けます。いつかまた、このお屋敷でご主人様のお手伝いが出来るといいな、そう思いながら外套を羽織り、水平線を見つめます。

「えぇ、海鼠水工に」

 シグさんが可動肢で座席にしがみつきます。

「いいえ、シグさんの願いを叶えに、です」

 湯は、エンジンを始動させました。




おわり

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