海鼠水工

 二年前のことです。ご主人様と湯の部隊は、草むらに埋もれた地表の廃村を進んでいました。目的地には順調に近づいています。

「ご主人様、これなら私たちが一番乗りですね」

 シグさんを着た湯が、隣を歩く紳士を見上げて話しかけます。浅黒い肌には深い皺が刻まれ、波頭のように渦巻く白い髭を生やした老年の男性です。皺の奥の瞳で湯を見て、頷きます。

「ここから先は渾が濃い。シグルドリーヴァからの警告を見逃さないようにな」

 はい、と湯はそわそわしながら返事をしました。普段あまり見ない地上の建物に興奮気味のようです。

「ご主人様、それなら私が先行して偵察してきます!私とシグさんなら足の速さもジャンプ力も部隊で一番です!」

 湯は小走りでご主人様の前に回り込み、腰の可動装甲を揺らしてここぞとばかりに訴えます。

 湯が着ているシグさんは乳白色と紺色を基調とした試作型です。ロングスカートを思わせる形状の可動肢は、ウミユリの腕を元に設計されたものです。弾力のある青黒い皮に包まれた骨の枝が足元まで伸びています。他にも試作の部品が取り付けられており、全体の輪郭は湯のピナフォア・ドレスに少し似ています。頭に付けたホワイト・ブリムに見える物は、非物質障壁発生器です。

「ダメだ」

 ご主人様はかくしゃくとした歩みで湯を避けて通り過ぎます。

「えーっ!」

 露骨に不満を表します。自分の実力を発揮させてもらえないことはこれまでにもあり、この作戦ならご主人様の役に立てると思っていたのです。

「何が出てくるか分からない。湯はいつも通り、付近の生物と渾振を調べてくれ」

 返事をしない湯に返事を促し、ご主人様は部下たちに指示を出しました。計測器やビーコンを設置するのです。


「私、ご主人様に信頼されてないのかな」

 不満そうな顔のまま、掌から管足を長く伸ばし、湯は廃村の隅で建物を調査していました。

「まあ、そんなことを考えていたのぉ」

 左胸からシグさんの驚いた声がします。

「だって、訓練ではいつも成績がいいし、偵察くらいなら任せてくれてもいいのに」

「そうねぇ、あなたは皮銃の扱いも格闘も、私の着こなしも筋がいいわぁ。でもぉ、偵察が簡単な任務だと思っているうちは、ご主人様も安心してお仕事を任せられないわねぇ」

 偵察任務を軽く見ていたのは事実でした。シグさんは作られたのは最近ですが、三十年前から使われていた棘皮鎧を再利用した体なので経験豊富です。

「うぅ……」

 ふわふわした口調なのに厳しいことを言ってくるなあ、いつか言い返してやる、湯は誓い、渾振反応を調査しました。

「あれ……?」

 湯が工場らしき廃墟の前で立ち止まりました。計器やシグさんは何も拾っていませんが、この建物だけ壁面にあまり植物が生えていません。何かある、湯は唾を飲み、歩みを進めます。

「湯、先にみんなに伝えないとダメよぉ」


 工場に入り、シグさんは胸と両脚の蓄光灯を点灯させました。足元が明るくなります。人の気配はありません。

「大丈夫ですよ、動体反応もないし、いざとなったら跳んで逃げます」

 棘皮鎧には光や音、振動や気流を感じ取り、それを鎧の内側の管足で装着者の皮膚に伝える機能があります。シグさんの場合は、両手の甲に距離や速度に応じた振動が生じる仕組みです。工場内に反応はなく、動く生き物も機械もないようです。至る所に赤錆びだらけの機械とその部品が散乱しています。あらあら、防錆処理をしていない金属を使ってたのねぇ、シグさんが折れて横たわる起重機を管足で撫でました。

 工場二階の奥まで湯たちは進みました。そろそろ戻ろうかと思ったとき、湯は妙なにおいを感じました。金属のにおいではありません。

「ねぇ、この建物、やっぱりおかしいわぁ。棘皮で出来た機械が全然ないもの」

「経営者は従順な金属機械が好きだったんじゃないですか」

 湯はにおいを辿り、錆び付いた扉の前に来ました。この中を確かめたら戻ろう、そう決めて取っ手を掴んで開けます。生臭いにおいが鼻をつきました。

 そこでは、ヒツジナマコの死体をオオカミヒトデの幼体たちが貪っていました。掌をすぼめたような、五角錐型の頭部が一斉に振り返ります。まずい、隙間から様子を見るべきだった、湯が後悔したときには、幼体たちは親を呼ぶ声を上げ始めていました。口笛のような音です。それに応える成体の鳴き声がどこかで聞こえます。

「あらぁ、雛を起こしちゃったみたいねぇ」

 シグさんの口調がいつも通りなのが少し頭に来ましたが、湯は駆け出します。このとき湯はまだ余裕があるつもりでした。オオカミヒトデくらいなら自分で追い払える、と思っていたのです。次の瞬間、湯は走り抜けようとした部屋の床を踏み抜きました。他の床と見た目は変わらないのになぜ、湯は疑問に思いながら下の階の、油が浮かぶぬかるみに落下しました。

「うっわぁ、何これ?!」

 泥のようなもので満たされた水槽に落ちたようです。不自然なほど鮮やかな、紫色のぬかるみに膝まで浸かっています。

「沈んでいくわぁ。早くそ……と…………」

「シグさん?どうしたんですか?」

 左胸からの声が急激に弱まりました。湯は水槽の縁に手をかけ飛び降ります。着地したとき、違和感がありました。

「ねえ、シグさん、どうしたんですか?力が、体が重い」

 棘皮鎧の基本機能である、筋力補助が効いていません。鎧ではなく重りを着ているようです。シグさんからの返事もなく、湯は頭が真っ白になりました。この状況でオオカミヒトデに襲われたらひとたまりもない、とにかく逃げないと、足を引きずって廊下に出ます。

 湯たちは気づきませんでしたが、この工場はかつて蔓延っていた違法採掘業者の物でした。湯が落ちた水槽には、棘皮鎧の水管系に悪影響を及ぼす薬品が放置され、踏み抜いた床は薬品を隠す偽装用のものでした。

 あと、あと少し、湯は工場の出口に近づいていました。水管の力を失った棘皮鎧は骨と皮と水の塊であり、あまりの重さに這いながらここまで来たのです。そうだ、一旦シグさんを脱ごう、ここなら後から回収に来られる、湯は喘ぎながらそう決めました。何度も手を滑らせながら襟の後ろにある封印カバーを引き剥がします。赤い緊急除装レバーが露出しました。

「……めよ、と……こ……しん……」

 微かにシグさんの声がします。ごめんなさい、必ず迎えに来るから、と言い、レバーに指を掛けて首の前へ半周させました。襟の中で部品が噛み合う音が連続して響きます。間を置いて、息が出来なくなるほどの強さで全身が締め付けられた後、設定済みの分割線に沿ってシグさんのキャッチ結合組織が軟化し、剝がれ落ち始めました。

 一分も経たないうちに除装は完了し、湯が身につけているのは下着と、首に残った襟だけになりました。うずくまり、肩で息をしています。これで逃げられる、安堵感を覚える湯。そうだ、シグさんの機能中枢、環状水管ユニットだけでも拾って、そう思い視線を上げた湯の表情が凍りつきます。周りを、オオカミヒトデの群れが取り囲んでいます。そんな、もう追いつかれるなんて、辺りを見回すと原因が分かりました。内壁と外壁の隙間や、通気口からオオカミヒトデが出てきます。工場の内部構造を利用しているのです。ここは彼らの巣だったんだ、湯は呻きながら後ずさりし、力なく壁に寄りかかります。

「ご主人様、申し訳ございません」

 オオカミヒトデが目のない頭で湯を凝視しながら、ゆっくりと近づいてきます。五角錐型の頭部がユリの花の如く開き、五裂の顎の中で牙と無数の管足が動くのが見えます。もうダメだ、身を強張らせたとき、真っ白な骨の刃が、オオカミヒトデの頭部を貫通し、湯の鼻の先で止まりました。痙攣しているオオカミヒトデの向こうにご主人様が立っています。左腕の戦闘用義手が竹を割ったように展開し、飛び出した骨刃でオオカミヒトデを串刺しにしたのです。。ご主人様はオオカミヒトデを放り投げ口を開きました。

「怪我はないか、湯」

「は、はい」

 声をかけられて湯は我に帰りました。

「そのまま休んでおれ。すぐに応援が来る」

 ご主人様は骨刃を振り、オオカミヒトデの群れに向き直ります。よかった、これで本当に大丈夫だ、湯は泣きそうになりました。ご主人様は骨刃を構え、飛びかかってきたオオカミヒトデを切り伏せようと踏み込みました。

 そのときです。湯から見て左側の壁が轟音とともに砕け散り、ご主人様は大きな何かに跳ね飛ばされました。


 粉塵に包まれた大きなものが体を振るいました。床に瓦礫が落ちます。

 白、黄土、焦げ茶の、漣のような紋様に彩られた分厚い殻。そびえ立つ尖塔のような、螺旋の殻頂。唇のように捲れて広がった殻口。朱色の軟体は粘液を分泌しています。頭部からは触角と、自在に動く長い口吻が伸びています。粉塵の中、今の突撃に巻き込まれたオオカミヒトデを吻先の口でつるりと丸呑みにしている、巨大な巻貝。生きているオオカミヒトデたちは蜘蛛の子を散らすように逃げてゆきます。

「ガゼクイボラ……」

 呆然として湯は呟きました。陸生化した棘皮動物を追いかけ、短時間ですが地上で活動可能に進化した巨大なホラガイの仲間です。こんなところに、どうやって、事態の変化についてゆけず硬直する湯。視界の隅で瓦礫が動きました。ご主人様が這い出てこようとしているのです。ガゼクイボラは口吻を瓦礫に向けました。口吻の周りの空間に、虚空から湧いてきたかのように水滴が浮かびます。

「危ない!」

 空気が震え、口吻から糸のように細い水が発射されました。渾を圧縮して仮初めの水を作り出し、高圧で発射する魔法の一種、仮水砲です。瓦礫が粉になり、吹き飛びました。湯が身をすくめます。狙いは外れましたが、ガゼクイボラは既にもう一度仮水砲を撃つための渾圧縮を開始しています。

 そんな、まさかこんなことに。自分だけならともかく、まさかご主人様まで、どうすれば。震えている湯の耳に、部隊の仲間、海鼠水工警備部員の声と足音が聞こえました。

「局長!」

「ガゼクイボラ!聞いていないぞ」

「でかい。ヒトデのお嬢さんはどこだ、もう食われちまったのか」

「分からない、捜索は後。撃て」

 工場の出口から皮銃を構えた隊員たちが駆けてきました。彼らから見ると湯はガゼクイボラの後ろにおり、巨体に隠れて見えません。たちまち猛烈なパルス弾の雨が飛んできました。流れ弾が湯の寄りかかっている壁に当たり、頰に破片を散らします。

 ここから離れないと、味方の弾に当たってしまう、湯がそろりと歩き出したとき、振り返ったガゼクイボラと目が合いました。そして、その向こうでは工兵が衝撃砲を放とうとしています。だめ、今それを撃ったら、しかし湯の口も体も、言うことを聞きません。

 ガゼクイボラは物理的に極めて堅牢なため、力押しで倒すことは困難です。比較的有効とされるのは、重い物をぶつけて横に倒し、腹足に攻撃を集中させる戦法、ボラコカシです。衝撃砲は大型の皮銃で、ガゼクイボラを転ばせることに特化した粘着弾を発射します。

 ガゼクイボラの殻に衝撃砲が命中しました。見上げるほどの巨体がこちらに傾きます。転びながら、ガゼクイボラは仮水砲を発射しました。湯の足元を抉り、部隊の仲間がいる方へ、ホースを下から上へ振り回すように吻が動きます。仲間の持つ武器がチーズのように切断されるのが見えました。その勢いのまま口吻はぐるりと廻り、細い水の線は天井を袈裟切りにしながら湯に近づいてきます。体を強張らせる気力は、もう残っていませんでした。仮水砲の激流が糸鋸のように背後の壁を削ります。腹に鋭い熱さと衝撃を感じた後、湯の視界は暗転しました。


 湯は意識を取り戻しました。周囲に動くものはありません。仲間は退却し、ガゼクイボラは渾を使い果たして、湯を食べる前に殻に籠ったようです。自分は真っ二つにされたかもしれない、朦朧としながら手で腰を探ります。散らばっている壁の破片をよけると、腰はまだ繋がっています。次に恐る恐る腹を触ると、案の定酷い有り様です。大きく斜めに裂けています。水管が切れて無色透明の血液が床を濡らしています。ひょっとしたら環状水管も壊れているかもしれない、これはもう助からないのではないか、湯は自分が思ったより痛みや恐怖を感じていないことに驚きました。ご主人様たちに迷惑をかけて、その上こんな怪我までしたのなら、むしろその方がいい、そう思って瞼を閉じたときです。

 体のどこかに微かな振動を感じました。自分の体の向きさえ分からない状態ですが、湯は神経を集中します。左手の甲です。霞む目を凝らして見ると、左手の甲、中指、薬指に、シグさんの断片が除装されずに残っていました。ぎくしゃくとした動きで、左手を右の頰と床の間に差し入れます。

「湯、聞こえるかしらぁ」

 シグさんの声です。左手に残った断片が振動を発して、湯の頭蓋骨を震わせて話しかけているのです。

「わたしの断片が、いま助けを呼びに行ったわぁ。すぐに助けが来るから、大丈夫よぉ」

 話し方はいつものシグさんそのものです。湯は泣き始めました。

「あらあら、怖かったのねぇ。なら、昔話をしてあげる。十八年前のことよぉ。凝澪の北の浜に、見たこともないお船が流れ着いたの。その中から……」

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