ボーンシェル・ガール ヒトデ屋敷のメイドさん

コルヌ湾

お屋敷

 潮のにおいで、彼女は目を覚ましました。なぜこんなに濃い海水のにおいがするのか、不思議に思いながら、両腕の中にある一振りの剣を見つめます。棘皮動物キョクヒドウブツの体から作られた、肉厚の直剣です。鞘は鎖帷子状の組織と多角形の骨片で出来ており、弾力と湿り気のある乳白色の皮で覆われています。薄い骨片が何枚も重なった柄は、虫の腹を思わせる造形です。鍔と鞘の両方から互い違いにヒトデの腕状の突起が生え、手を組んだように固く掴み合っています。彼女は片手でその剣を持ったまま、白い手で目をこすりました。身支度を済ませてからお屋敷の中を点検しよう、そう決めてから別のことを思い出しました。

「今日は、ご飯の日か」

 あまり面白くなさそうに呟くと剣を枕元に置き、ポキ、ポキと骨を鳴らしながら背伸びをして、ベッドの上に起き上がりました。長い生牡蠣色の髪が流体のように肩から背中へ滑ります。二段ベッドの梯子を二段ほど踏み外しながら降り、部屋の明かりを点けました。天井の窪みに張り付いた、半透明の壺に似た生き物が暖色光を放ちます。天井や壁の無数の凹凸が照らし出されました。光りだしたアカリボヤを見て、発光しない種類のホヤも飼いたいな、紫のがいい、鉢植えみたいなので飼えるはず、彼女はホヤの飼育計画を考えました。しかし、自分の一存ではホヤを飼っていいかは決められません。今は彼女一人しか寝起きしていませんが、ここはメイド用の相部屋だからです。衣類収納室の扉に手を掛けながら、今日はご主人様は帰ってきたかな、と一年前から帰らないお屋敷の主のことを考えました。扉には「室賀 湯」という名札が貼られています。

 室賀 湯。ムロガ、トウ。それが彼女の名前です。年齢は十六歳、少し痩せた体に寝巻きを纏っています。

 仕事用の濃紺のワンピースに着替えながら、湯は確かめるように腹を掌で触っています。大丈夫だと自分に言い聞かせているようです。簡素な白いエプロンを付け、長い髪を後頭部で巻き、髪留めで留めます。まっすぐに切り揃えられた前髪と緑色の大きな瞳のためか、年齢よりも幼い顔つきに見えます。彼女の、メイドとしての今日の仕事が始まりました。


 台所への長い廊下に甘いにおいが漂っていることに気付き、湯の覚醒深度が大きくなりました。床にある小さな戸が内側から開き、果物籠を乗せた白っぽくて厚ぼったい生き物が姿を現しました。頭を引っ込めたリクガメに、太く長い尻尾を付けたような形です。滑るような動きで湯へ近付いてきます。

「オーメさん」

 呼びかけながら湯はしゃがみ、その生き物と目の高さが近くなるようにします。尤も、その生き物には目も顔もありません。感覚器官は全身に散在しているのです。

「おはようございます」

 乳白色の地に薄桃色の幾何学模様がある肌を、湯が撫でます。果物籠を背負っているこの生き物は、イエガゼと呼ばれる大きなヒトデです。人の家で働く棘皮動物全体のことをこの島、凝澪島コゴリミオトウではイエガゼと呼ぶのです。オーメさんはヒラジオカヒトデと呼ばれる、イエガゼとして一般的な陸生ヒトデです。ヒトデは五放射相称ゴホウシャソウショウの生き物ですが、家の中で動きやすいよう腕の一本を尻尾代わりに、残りの腕を脚として使っています。腕を動かさず滑らかに移動していたのは、腹側に無数にある管足カンソクという、水圧で動く細い足を使っているためです。

「いいにおい。追熟ツイジュクが終わっていたんですね。ありがとうございます」

 湯は籠の中のアダンモドキの実の香りを嗅ぎました。南国の果物らしい甘い香りです。オーメさんは右腕を上げて管足を数本伸ばし、湯の首や手にペタペタと触れました。脈や味で湯だと確かめているのです。湯は管足の吸盤に吸われるのは嫌いではありません。

「では、皮を剥いてみんなで食べましょう」

 歩き出すとオーメさんはその後を付いてきます。ときおり湯は振り返り、オーメさんはよく眠れましたか、などと声をかけます。ヒラジオカヒトデは発声器官を持たないので、オーメさんは体表の凹凸や艶を変化させて答えます。湯はええ、ええ、そうですね、と言って目を細めました。

 湯たちは広い台所に着きました。それなりの人数分の食事を用意できる広さと設備です。流し台の前に立って傍に籠を置くと、湯は顔に保護ゴーグルを付け、拳の骨を鳴らしました。鉈を手に取り、アダンモドキの実に振り下ろします。アダンモドキは名前とは違い、アダンとは縁遠い植物です。実際には凝澪島特産のマンゴーの一種なのですが、表皮がとても厚くて硬く、剥くのは大変です。一方オーメさんは、尻尾腕の管足で流し台に貼り付き、仰向けの状態でアダンモドキを剥き始めました。管足で柔らかい場所を探り、腹面中央の歯で、鈍い音を立てながら皮を齧って剥いでゆきます。繊維質の分厚い皮を剥くと、水分を多く含む柔らかな黄色の果肉が見えます。甘い香りが一層強く辺りに漂います。

「たまには、火を通した料理も作った方がいいでしょうか」

 湯は一年間ほとんど使っていないコンロの方を向いて呟きます。湯もイエガゼたちも食べ物を加熱する必要がないため、ご主人様が戻らなくなってから台所は一度も本領を発揮していません。

「オーメさんは、何か食べたい料理ありますか?」

 少し困った顔で湯がオーメさんに尋ねます。オーメさんは一旦管足の動きを止めたあと、またアダンモドキの皮を剥き始めました。イエガゼには加熱調理品は必要ないのです。

 皮剥きを続けていると、床の隅にある戸がガタガタと震えました。

「皆さん、おはようございます」

 戸を開けて出てきた、茶色のイエガゼに湯は挨拶をします。大きさはオーメさんと同じくらいです。続いて、朱色と茶色の、少し小さなイエガゼが這い出してきました。

 このお屋敷では七匹のイエガゼが働いています。広いお屋敷で別々に家事をしている場合が多いこと、自力で食事出来る場所がこの台所以外にもあることから、必ず全員で食事を摂る訳ではありません。

「ガゼ団子も用意しますね」

 湯は石とウニの骨格で出来た冷蔵庫を開き、中からエビと海藻、ビタミン剤を取り出しました。包丁で刻んでからビタミン剤をかけて丸めると、イエガゼ用のご飯であるガゼ団子の出来上がりです。切ったアダンモドキとともに石皿によそい、敷布の上に置きました。後から来たイエガゼたちが、猫が前足で水を飲むのに似た動きで、行儀よくガゼ団子とアダンモドキを食べ始めました。オーメさんは壁の低い場所から出ている二つの蛇口を捻り、真水と渾水コンスイを交互に飲んでいます。湯は淹れたお茶を飲みながら、その様子を眺めていました。

 渾水。渾水とは、コンを添加した海水から、不純物を濾過した液体です。渾とはいわゆる魔法と呼ばれる力の源です。凝澪島での呼び名であり、他の国や地域では、様々な名前で呼ばれています。人の体内にも溜まってゆくものですが、このように液体として扱える状態にしたものが、管で家々に配られています。

 渾水の蛇口を見て、湯は小さく声をあげました。寝起きに感じた潮のにおいのことを忘れかけていたのです。管から渾水が漏れているのかもしれない、点検しないと、と思い同時に面倒だなあ、と少し萎えました。点検にゆくには、この台所区画から下層区画まで降りる必要があります。湯は壁の受話器を取って口を開きました。

「シグさん、おはようございます。ご主人様からの連絡はありましたか?」

 受話器の向こうから泡の立つ音がした後、声が聞こえてきました。

「おはよう、湯。今日も早いのねぇ。まだ何も来ていないわぁ」

 雑音が混ざっていますが、柔和そうな女性の声です。

「やっぱり、そうですか。体調はどうですか?また小エビを食べ過ぎたりしてませんか?」

 いつも通り、ご主人様のことと体調のことを尋ねます。

「ええ、今日もビンビンよぉ。それに面白い夢を見たわぁ」

 夢か、最近あまり見ないな、と思いながら湯はどんな夢だったのか訊きました。

「寒い国へ旅する夢よぉ。真っ白な雪が積もっていて綺麗だったわぁ。いつか本物を見てみたいわねぇ」

 湯は本物の雪を見たことがありません。凝澪島は暖かいので雪は降らないし、寒い国に行ったこともないからです。

「雪ですか。私やシグさんは低温で動けるんですか?」

 寒い場所に長時間いた経験はありません。南国の生き物は雪に耐えられるのか、興味が湧きました。

「さあ?湯たんぽを背負って厚着すれば大丈夫じゃないかしらぁ」

 シグさんもあまり詳しい訳ではないようです。

「そういう問題ではないんですが、ええと、まあいいです」

 湯はヒツジナマコのセーターを重ね着した自分を思い浮かべましたが、忙しいので話題を変えることにしました。

「あの、ついさっきのことなんですが」

 潮のにおいのこと、渾水漏れはないかを尋ねました。やや間を置いてシグさんが答えます。

「そうねぇ、確かに七十六番配管洞で、小さな渾水漏れがあるわ。それ以外は何も感知していないわねぇ」

 ああ、やっぱり面倒くさい、湯は額に手を当てました。七十六番配管洞は外に近い小洞で、配管と地下に通じる設備が集中している場所です。

「ありがとうございます。では、玄関区画から帰ったら点検に行ってみますね」

 面倒な場所だけど、お屋敷の警備機構と一体化しているシグさんが小さな異常だと言うなら大事ではなさそう、と判断しました。

「えぇ。それならぁ、私を着ていってもらえるかしらぁ?」

「シグさんをですか?」

 シグさんを着てゆくほどのこととは思えませんでしたが、湯は了承しました。この所平穏な日々が続き、しばらく袖を通していなかったため、軽い運動にいいだろうと思ったためです。湯は受話器を置こうとしました。

「そうだわぁ、ちょっと待って、湯」

 シグさんはまだ用事があるようです。もう一度受話器を顔に近づける湯。

「あのねぇ、また海鼠水工カイソスイコウの方からお手紙が来たのぉ。警備部に戻って欲しいのですって」

 湯は床を見て、ため息をひとつ。

「また海鼠の私兵のお誘いですか。私はもう怪我で引退したのに」

 湯は無意識に腹を触ります。

「湯、よく聞いてぇ。あなたの怪我はもう完治して、体は元どおりよぉ」

 下を向いたまま湯は腹を撫でています。

「メイドを続けるのも悪くないと思うわぁ。でもぉ、海鼠に戻った方があなたの力を活かせる。最新型超高性能試作棘皮鎧のわたしを着ていることを差し引いても、あなたは強いものぉ」

 途中自慢を混ぜてないか?という疑問は一旦置いておき、湯はシグさんの言葉を頭の中で繰り返します。そう、確かに私は強かった。あの日までは、湯は少しだけ昔のことを思い出しかけました。

「シグさん、お心遣い痛み入ります。でも、私はもう棘皮使いではなくて、このお屋敷のメイドさんですから」

 思い出してしまいそうになるのを自分の言葉で遮ります。ふたりは沈黙しました。イエガゼたちが食事する、湿った音だけが聞こえます。先にシグさんが声を出しました。

「そう、分かったわぁ。でもあなたは本当にすごいのよぉ。わたしを着こなせるのが、その証拠。気が変わったら教えて頂戴」

 ええ、とだけ返事をして受話器を置く湯。軽く頭を振ってイエガゼたちの様子を見ます。二匹はすでに食事を終えて仕事に戻り、オーメさんはいま食べ始めたところでした。湯はアダンモドキを二口、口に押し込みます。衣類や布巾を洗濯部屋の籠に放り込み掃除も済ませると、玄関区画にゆく支度を始めました。


 お茶を水筒に詰め、地図、皮銃、ホヤランプとともにナマコ革の鞄に収めました。

「オーメさん、行きましょう」

 出発に備え台所の出口で待機していたオーメさんが軽く前傾し、管足を使った滑る動きで歩き出します。

 台所を出て窓のない廊下と部屋を幾つも通り過ぎます。湯とイエガゼたちによる掃除と、お屋敷が持つ自律調整機能により、部屋の中も調度品も清潔に保たれています。やがて廊下は次第に細くなっていき「玄関区画方面」「足元注意」と書かれた扉の前で行き止まりになりました。ご主人様から預かった鍵束を鞄から取り出します。そう言えばこの鍵はどこの扉に使うんだろう、湯は一本の鍵を指先で撫でます。色から見て他の鍵より新しい物に見えます。

「オーメさん、この鍵はどこの扉に使うのでしょう?」

 湯が差し出した鍵を管足が撫でます。湯よりお屋敷に詳しいオーメさんにも、分からないようです。最近増築された部屋のものだろうと考え、鍵束から別の鍵を選び、湯は合金製の扉を開けました。

 開けた先は真っ暗です。壁の向こう、遠くで循環設備が静かに唸る音がします。湯がホヤランプを点けると、寄木細工で再現された動物の腸管の如くうねった天井が、照らし出されました。深い窪みの奥には光が届かず、天井には所々暗闇の水溜りが見えます。いくら正規の通路でないとは言え、なぜここまで天井が有機的な形なのだろう、ご主人様の仕事と何か関係があるのか、毎朝見ている光景ですが、湯は首をひねります。壁は湿り気を帯びた岩肌で、足元は砂利道です。オーメさんは管足歩行から四本腕を使った歩行に切り替え、砂利を踏みながら歩きます。

 前方に見えるのは、扉ではなく岩の穴です。穴の天井からは隙間なく、胸の高さまで半透明の柔らかい根のようなものが垂れ下がっています。この生き物は何だろう、と湯はいつも不思議に思います。今度書庫の図鑑で調べるとして、やはり一本くらい持って帰ってみるべきだろうか、いやそれはまずいか、逡巡しつつ湯は半透明の根をかき分けて進みます。その様子はまるで何十枚、何百枚も続く暖簾をくぐってゆくようです。イエガゼたちの管足に少し似た質感で気持ちいい、そう思いながら湯は根のようなものを摘んでみます。オーメさんは砂利を踏む音を立てて歩いています。


 下から吹き上げてきた風に、ピナフォア・ドレスの長い裾がはためきます。両手が塞がっているので手で押さえる訳にはいきませんが、湯はあまり気にしません。

 湯は梯子を登っていました。梯子のある縦長の空間が煙突のように機能し、空気が上へと抜けています。程よい湿気と通気の良さからか、起伏に富んだ壁面には陸生棘皮動物が住み着いています。気配を察して隙間に逃げ込んだのは、収斂進化の結果、カニやフナムシのような形になったクモヒトデたち。ほとんど動じないのは、色とりどりのヒトデたち。乾燥に耐えるため、昆虫のように蝋に包まれた表皮が、複雑な光沢を帯びています。ものすごく腕の長いクモヒトデが浸入していたときは恐ろしかったな、壁がクモヒトデの腕で埋まっていた、そのときの光景を思い出し湯の背筋が冷えます。追い出す作業のことは極力思い出さないようにしました。

 横木が折れないよう、体重のかけ方に注意しながら湯は登り続けます。オーメさんは小さな棘皮を捕まえて食べながら壁を登っています。

「美味しいですか?」

 オーメさんはいつも食欲があっていいな、湯は少し羨ましくなりました。頭上の四角い出口に着くにはもう少しかかりそうです。

 湯たちが暮らすお屋敷は、海に面した岸壁の中に建つ、歪な円柱形の建物です。表層である玄関区画、湯が寝起きする台所区画、無数の細い洞窟からなる下層区画の三層から成り、それぞれの内部も階層や部屋に別れています。

 梯子を登り少し歩くと、鍵ではなく生体認証で開く扉があります。湯が掌を当てて開くと、蛾の繭のような楕円球型の広い空間に出ました。湯たちが立っているのは、ほぼ海水で満たされた繭の一番上、空気がある場所です。見下ろすと、緩やかに流れ泡の混じる海水の向こうに、赤銅色の塊が見えます。このお屋敷の肝臓の役目を果たす、巨大な棘皮機械です。複雑な曲線で形作られた、一枚一枚が湯の身長ほどもある骨片で覆われています。その骨片同士を小さな骨片が繋ぎ、全体に複雑な凹凸や、他の部屋へ繋がる配管が接続されています。配管もまた骨片と結合組織で出来た棘皮素材のものです。ここからだと全体は見えませんが、棘を取り払ったウニに表面は似ています。

 部屋の出口は対岸の、ここより高い位置にあります。そこまではケーブルを渡らないと、辿り着くことは出来ません。

「なんで、しっかりした橋がないのでしょうね」

 湯が、また困った顔をして言いました。オーメさんは管足で海水を味見しています。

 ケーブルには、幾つかの車輪からなる装置がさがっています。掴まる取手と命綱になるベルトが付いており、湯はベルトを巻き始めました。

「オーメさん、よろしくお願いします」

 肩幅ほどに足を開くと、オーメさんが湯の体を登ってきました。数百本の管足がかなりこそばゆいですが、顔を歪ませて我慢します。湯の顔を踏みながらオーメさんが装置の上に取り付きました。湯が取手をしっかりと握ると、オーメさんが後ろ腕と尻尾腕で装置を押し、装置から湯をぶら下げた状態でケーブルを前進し始めました。湯が下を見ると、澄んだ水の下の棘皮機械が、灌木のような管足を伸び縮みさせるのが見えました。

 ケーブルの端が近づいて来ます。向こう側の壁に着いたのです。棚板のように飛び出した足場と手摺に足を引っ掛けます。この先の通路は隔壁が閉鎖されたため、通れません。湯たちは仮設通路へ向かいます。

 木の板や棘皮機械の廃材など、有り合わせのものを骨パテで固めた階段を、湯たちが登ります。仮設通路は通路とは名ばかりで、元は壁の中の隙間の空間です。

「早く、本当のぉっ、通路が通れるようになればいいの、にぃっ」

 オーメさんに踏み台になってもらい、湯は瓦礫に這い上がりました。かつては壁の内部に組み込まれていた棘皮機械が倒れたものです。渾水管の破断によりすでに死んで干からびていますが、骨がしっかりしているので足場にすることが出来ます。今度は湯がオーメさんを押し上げ、ふたりは引っ張り上げたり押し上げたりし合いながら、機械の死骸と岩の山を登ってゆきました。

「ふぅ」

 湯はハンカチで汗を拭いました。人が通る設計になっていないので、空調の効きがよくないのです。この仮設通路が出来たのは、十ヶ月前の落盤がきっかけです。岩盤が壊れ玄関区画へゆくことが出来なくなり、湯はイエガゼたちとともに仮設通路を敷設しました。所々に橙色の明かりが灯り、死んだ機械が隠れ家となっているのか、小動物が動く気配に湯は耳を澄ませます。

 仮設通路を登り切り、湯は足元の戸を開けました。縄梯子を下ろし、オーメさんを背負って洞窟に降りました。仮設通路の出口は天井にしか繋げられなかったのです。ここは台所区画と玄関区画の境界の、迷路のように複雑な洞窟です。湯は洞窟の壁にある深緑色の扉の前に立ちました。名札や郵便受けもあります。離れた場所にも同じ扉があり、まちまちな間隔で洞窟に扉が並んでいます。以前に湯が中に入ってみたところ、狭いながらもどの部屋にも渾水管や通気口があり、畳が敷いてありました。お屋敷の部屋というより集合住宅のよう、とそのとき湯は思いました。

「ここには、何方か住んでいらっしゃったんですか?」

 立ち去ろうとしたとき、湯は何気なくオーメさんに訊きました。彼女にとって意外なことに、オーメさんは肯定の表情を浮かべています。

「ご主人様は懐が広い方ですものね」

 不思議に思いながら、湯たちは次第に岩や砂から板張りの廊下になってゆく通路を進みました。

 次第に通路が明るくなり、玄関ホールに着きました。広いホールです。明かりを点けて、靴を確認します。昨日来たときから変化はありません。次に、今は希少になっている、堅牢な木材で出来た扉を見ます。鍵はかかったままです。ご主人様が真夜中に戻った可能性を考えて毎朝玄関に来るのですが、この日もご主人様は帰ってきていませんでした。

「やっぱり、今日もお帰りになっていないんですね」

 湯は扉に嵌められた磨りガラスの窓や、大鏡を見てから、困ったような、少し悲しそうな顔をします。湯は一年前、真夜中にこの玄関から出て行った、ご主人様の後ろ姿を思い出しました。ご主人様はとても急いでいる様子で、湯に三つだけ指示を出しました。

「しばらく留守にする、何かあったら海鼠に連絡、もし」

 湯はそのときの指示を途中まで復唱しました。

「もし半年連絡がなかったら、次の仕事を探せ」

 ご主人様の指示した半年は、半年前に過ぎています。自分はご主人様の言いつけを破っているんだなあ、湯はため息をついてから鏡を磨き、掃き掃除をしました。オーメさんが扉に近寄り、管足を伸ばしています。外のにおいが気になるようです。重い扉を開けると、風が吹き込んできました。


 オーメさんと岩に腰掛け、水筒のお茶を飲みます。玄関から伸びる道が少し先で吊り橋になり、谷の向こうに繋がっているのが見えます。吊り橋がかかっているところまでが、このお屋敷の敷地です。ここからは見えませんが、谷底には海水が流れ込んでおり、外の海と同調して上下しているはずです。玄関から上を見ると、僅かな平地の先は垂直に近い岩壁であり、そこにコケムシのように不定形状に張り付いているのがこのお屋敷です。木と石、瓦や、イエガゼの吐いた骨パテで、もともと複雑な構造な建物がより有機的な表情を見せています。ご主人様は昔からある物を大事にされる方なんだな、湯はこのお屋敷ににじみ出ているご主人様の人柄に思いを馳せました。小さな庭園に視線を戻すと、庭木として植えられた灰緑色のウミユリが、丸めていた腕を開き始めています。夜が明けたのを感知しているのです。台所区画の明るさでもウミユリを育てられたらいいのに、湯は小さなウミユリの鉢植えを想像しました。陸生ウミユリは強い光がないと共生藻類が枯れてしまうため、屋内では育てられないと聞いたことがありました。

 湯はオーメさんの背中を撫でて上を向きました。東の空は、もう明るくなっています。もちろん本物の空ではありません。お屋敷が建っている大きな空洞の天井で、無数の生き物が空を模倣して光っているのです。発光生物と言っても一種類ではなく、天井に細菌やホヤなど発光生物の生態系があるのだと、湯はご主人様が購読している科学雑誌の記事で読んだことがありました。

「そろそろ行きましょう」

 立ち上がり振り返ると、断崖に幾つものキノコのように縁側が生えています。そのうちの一つでイエガゼが洗濯物を干しているのが見えました。隣には、かつて異国の旅人に「ドラム式洗濯機に似ている」と言われた寸胴なナマコ洗濯機が座っています。イエガゼが洗濯物を干し終わり屋内に戻ると、ナマコ洗濯機も太短い足でよっこらしょと体を持ち上げ、イエガゼの後についてゆきました。洗濯は滞りないようです。

 ふたりは吊り橋ではなく、お屋敷沿いに歩き出しました。右手側にお屋敷、左手側に谷があります。地面や岩壁、お屋敷の屋根すら覆う植物に音が吸われるのか、とても静かです。石が風に鳴る音を立てて、天井近くに開いた孔から適度に湿った涼しい風が吹いています。涙洞ルイドウと呼ばれる、凝澪島の地下を縦横に走る洞窟の出口です。涙洞は広さが不規則なため住むのには適しませんが、海面が下がると空気を吸い込み、上がると吐き出すため、地下空間の換気に於いて重要な役目を果たしています。

 湯は、ご主人様とこの道を歩いたときのことを思い出しました。世界でも珍しい地形と生物、そしてそこに暮らす人々。それらの素晴らしさについて話してくれるときのご主人様の表情を、湯は覚えています。きっとご主人様は、どこかで凝澪島の人や生き物のためになることを続けているのだろうと、湯は思っています。

 視線を上げると、平地が途切れた先に長い登り階段があり、その辺りから数本のワイヤーが自分たちの来た方へと伸びています。階段の途中にあるのがご主人様の執務室への扉です。静かな庭園はここまでで、また道が険しくなります。

 道幅はだんだん狭くなり、道というより断崖の出っ張りのようになりました。

「あらら、オーメさん、どちらに?」

 足場の悪い場所を進むとき、オーメさんに壁に貼り付いてもらい、湯がオーメさんにしがみついて進むことがよくあります。ところが、オーメさんは立ち寄る必要のない崖へ歩いてゆき、下を覗き込んでじっとしています。湯は不思議に思い、隣にしゃがんで下を覗き込みました。

「あっ」

 湯が驚き、思わず声をあげます。足元の黒い多孔質の壁一面に、無数の多肉ウミシダが腕を広げています。地上の乾燥に耐えるため、艶のあるソラマメ型になった色とりどりの羽枝が、朝陽を浴びて輝いています。

「綺麗……。図鑑でしか見たことありませんでした……」

 湯が溜息をつきながら呟きました。

「ここに多肉ウミシダがいること、教えてくれたんですね。ありがとうございます」

 オーメさんはじっとしていますが、肌や管足の動きから満足しているのが湯には分かります。湯たちは谷底からの風に揺れるウミシダをしばらく観察したあと、慎重に崖を歩き出しました。

 断崖を抜けると、お屋敷よりも古くからある水道橋に出ます。凝澪島特産の岩で造られた、古代の遺構です。

「それでは、今度は私がオーメさんをお運びしますね」

 湯は子供が大きな猫を抱き上げるように、オーメさんを抱き上げました。水道橋の凹凸がオーメさんの動きと噛み合わず、歩きにくいからです。何世紀も使われていない石の橋は崖の中腹に空いた孔へ続いています。

 辺りが暗くなり、木造の廊下と階段がつづら折りになっている一角に着きました。崖や石橋に比べ格段に歩きやすいことを湯は有り難がります。壁には歴代の主の肖像画と賞状が飾ってあります。ガラス棚の中にはトロフィーと、湯が昔描いた絵や粘土細工があります。

 湯は自分とご主人様が写っている写真の前で足を止め、しゃがみました。家族同然に育てられた頃と、その前。彼女がまだ人の形をしていなかった頃の写真もあります。湯はバケツや配線で雑然とした研究室を写した、一枚の写真を見つめています。今と変わらない姿のご主人様と、三人の研究員。そして彼らが見ているのは、人工子宮の中で成長している湯です。その頃の湯にはまだ目や鼻がなく、でこぼこしたヒトデの姿でした。御伽話に出てくる人間に似た形の根っこみたい、湯は書庫で読んだ幻想小説を思い出しました。あの根っこは抜くと叫ぶらしいけど、果たして自分は産声をあげたのだろうか、ご主人様がお帰りになったら訊いてみよう、湯はそう決めました。

 湯は、人の形を模して作られたヒトデ、人造ヒトヒトデです。ある特殊なヒトデを元に、外部から薬品や電気刺激などを用いて人の形になるように誘導した、と湯はご主人様から聞いていました。そして、その誘導が想定よりずっとうまくゆき、少女の姿になったということも。

 シグさんのような棘皮知性体の中には、銀行に口座を開いたり戦闘経験を活かした仕事に再就職したりする者がいます。なので湯は、意識だけでなく体が人型の棘皮がいても、特におかしくはないと思いました。

 ご主人様は人間とヒトヒトデの結婚はどうお考えだろう、そんなことを考えていると、先を歩くオーメさんが超信地旋回でこちらを振り返ったので、湯は体内の水管の圧力と筋肉を併用して立ち上がり、歩き出しました。

 廊下を出て、また外に出ました。さっきまでの廊下と階段のように、この露天の階段もつづら折りになっています。日当たりが特に良い場所なので雑草が生い茂っているのを見て、湯が眉を八の字にします。

「ああ……草むしりをしないといけないですね」

 お屋敷が広過ぎるため、イエガゼたちの掃除にも限界があります。オーメさんが管足を伸び縮みさせました。

「ふふ、手伝ってくれるんですね。ありがとうございます」

 オーメさんが尻尾腕を振りました。


 ふたりはご主人様の執務室の前に着きました。扉はやはり希少な木材で出来ています。扉をノックします。

「ご主人様、おはようございます」

 返事はありません。管足で扉の向こうの気配を探っていたオーメさんが、管足を引っ込めました。中で動くものはいない、ということです。湯は鍵で扉を開けました。誰もいないと分かっていても、この瞬間はいつも緊張してしまいます。

 部屋の床や壁、机は艶のある木材で出来ています。カーテンの閉まった大きな窓。生体工学や医療関連の書物が収められた本棚。そして、義足や義腕、棘皮鎧。ご主人様の研究対象である、棘皮の体から作った機械たちです。ご主人様が作った義肢が多くの人を助けていることを考えると、湯は少し誇らしい気持ちになります。また、棘皮の体から作られた義肢は、自分の兄弟姉妹のように思えるのです。

 次に、湯はシグさんと同じ型である第七世代型棘皮鎧キョクヒヨロイの複製品を眺めました。棘皮鎧は凝澪島の軍や、棘皮鎧の製造元の海鼠水工で使われている、棘皮で出来た生きた鎧です。鎧としての機能だけでなく、水圧で動く水管系スイカンケイで装着者の筋力を高めます。第七世代型はその最新型で、表皮は黒と黄色で彩られています。

 第七世代型の特徴は、発表時にカマドウマと揶揄された下半身です。

「カマドウマの何がいけないんでしょうね」

 湯は少しだけ怒った様子で、半ば独り言のようにオーメさんに尋ねました。オーメさんもカマドウマは特別嫌いではないようです。カマドウマ、かっこいいのにな、別にカマドウマ呼ばわりされても抵抗はないな、と湯はあの脚の長い虫のことを思い浮かべます。足回りはご主人様が研究に力を入れていた場所です。膝の上に強力な水管と筋肉、推進器が集中し、従来の棘皮鎧よりも高い脚力を発揮できます。

 上半身は現在普及している第三世代型とあまり変わりません。棘皮の皮で出来た骨とキャッチ結合組織、筋肉からなる鎖帷子です。首には首輪を思わせる部品があります。装着者の頭と首を守る緩衝用空気袋や緊急除装レバーなどが格納されています。除装レバーのことを考えた湯の表情が、少し動きました。胸を包む装甲は薄く、軽くなっています。代わりに前腕から手首に、多角形の鱗からなる厚い装甲があります。

 左胸には棘皮知性体キョクヒチセイタイ用の発声部位があります。湯は、今この瞬間もお屋敷中に張り巡らせた人工神経で、異常や侵入者がないか監視しているであろうシグさんについて考えます。シグさんは棘皮鎧に宿る意識、棘皮知性体です。シグさんはマメに袖を通してもらわないと眠くなる、などと言うのですが、本当かは分かりませんし、ちょっと人間臭すぎるようにも湯は思えました。

 ただ、彼女に命を助けられたことは事実です。

「ありがとうございます。かわいい」

 オーメさんが作った折り紙のカエルを受け取り、湯は少し嬉しそうな表情を浮かべ掃除を始めました。


 執務室とその周りの部屋の掃除を終え、湯は機密扉のある部屋にやって来ました。着ている物を脱ぎ、籠に入れてゆきます。

「今日も、いつも変わらなかったですね」

 そう言いながら下着を脱ぎ、靴や鞄も籠に入れます。籠に鉤付きの蓋をして、部屋の隅の小さな戸を開けました。中から風が吹き出てきます。中に張られたワイヤーに籠を引っ掛けて軽く押すと、籠は台所区画へワイヤーを滑ってゆきました。

「オーメさん、私たちも台所に帰りましょう」

 戸を閉めてオーメさんを抱き上げ、湯は機密扉をくぐりました。空気が蒸し暑くなります。何本もの配管が並んでいて、染み出した渾水のにおいがします。起きたときに嗅いだにおいです。湯はオーメさんを抱いたまま梯子を登り、太い渾水管の整備用扉を開けて、中を覗き込みました。ここから台所区画へ、下へ向かって渾水が勢いよく流れています。異常がないことを確認して、配管の内側の梯子を降り、ぬるい渾水の流れに身を浸しました。

「さ、行きますよ」

 オーメさんがしっかり自分の腹に貼り付いていることを確認し、湯は梯子から手を離しました。渾水に背中を押され、次第に加速してゆきます。配管が太いため天井は高く、内側は棘皮素材で常に新陳代謝を行っているため滑らかです。途中に分岐もないため、オーメさんとはぐれる心配もありません。湯はオーメさんの弾力のある肌に顔を埋め、うねる渾水の流れに乗って長い配管の中を流されてゆきました。

 ドーム型の天井に六つの孔から、床のほとんどを占める池に轟々と音を立てて渾水が注いでいます。その一つの孔から、渾水とともにオーメさんを抱いた湯が飛び出し、放物線を描いて滝壺のような池に落ちました。水柱が立ちます。

 池の渾水は冷たく、うとうとしていた湯はすぐに目を覚ましました。もう少し冷たい水に浸っていたいと思いましたが、息が苦しくなってきたので水底を蹴って水面へ向かいます。あらかじめ空気を飲み込んでいたオーメさんが浮き袋となり、ふたりはスムーズに浮上します。池の縁まで対流で流れ着くのを待ち、水から上がるとき特有の強いだるさを感じながら、上陸します。

「行く道もこのくらい楽だといいのに」

 湯が火照った顔で独り言をこぼし、オーメさんが体を震わせて水分を飛ばしました。ヒラジオカヒトデは湿度を好みますが、体が濡れた状態は嫌いだと言われています。

 執務室までゆく日課を終え、湯たちは玄関区画まで戻ってきました。送り迎えを済ませたオーメさんはお疲れ、とでも言うように右腕を振り、床下へ入ってゆきました。その背中に湯も感謝の言葉をかけて頭を下げます。湯はそのまま浴室でぬるい淡水のシャワーを浴びました。髪が痛まないよう、よく洗います。さっきまでオーメさんが貼り付いていた腹を見ます。湯はヘソと、ヘソを通り腹を斜めに横切る傷痕を触りました。

「もう、二年前か」

 その傷痕は生々しさは薄れたものの、恐らく一生忘れることは出来ないであろう記憶に繋がっています。

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