第19話 大切な人
車はどこに向かっているのか見当もつかない。ただ、しばらくどこかの高速に乗った気がした。
口を布で塞がれ、手も足も紐で括られてしまったので、僕は何もできない。隆二さんも静かだ。と言う事はたぶん彼も同じ状態なのだろう。
車は途中から砂利道のようなところを走行し、体がガタガタ揺れた。裏道でも通っているのだろうか、随分あちこち車がカーブする。
そのうちアスファルトの道を滑るように走る。車が止ると、その場所に着いたらしい。小一時間くらいかかっただろうか。
けれど何度か止る事が多かったので、あれは信号待ちだと思う。
だから田舎ではなく、たぶん都内なんだろう。
ボックスカーのスライドドアの開く音が聞こえると、車を降りた男達は靴音を立てながら近づき僕らを降ろした。
まだ目隠しも口も足も塞がれたままで引きずられて行く。よろよろとよろけそうで、転びそうになり、冷や汗が出る。
背後で隆二さんが転んだみたいだ。男の「起きろ!」という威嚇する声が聞こえた。
里山らしき腕が僕を自分の肩に抱え込む。
靴音が篭もったような響き音を立てると、体が地下に降りていっている気がした。
建物のドアを開けるキィという音が聞こえる。
そこで体を落とされ、立ったまま脚の紐が解かれる。背中を押されるように歩かされどこかに移動させられた。
沢山の人の気配がして僕は絶望的な気分になる。
靴の下の感触はふかっとしているから、どうやらここはカーペッド敷きみたいだ。
初めてそこで目隠しと塞がれた口が開放される。
僕のすぐ左隣に隆二さんがいる。一人だったらとても心細かっただろう。隆二さんはきっとわざと僕と同行するようにしたに違いない。
目の前には里山と先ほどの子分と思わしき黒尽くめの男達、その中央に二人の知らない男二人、嫌味でもすぐに口に出しそうな若い男に少し年を召した白髪交じりの杖を突いた方が、こちらを値踏みするように眺めていた。
「悪くはないな、特に右のは今すぐにでも店に出せそうだ。左の男も綺麗な顔をしとる好む男が弄びそうじゃ」
「ちょっと待ってください。その、僕の隣にいる人は関係ありません」
慌てる僕に嫌味な顔をした男がはぁ? という反応をして手元にある紙を眺めた。
「里山ぁ、どうなってんだ? これが、岡田と春原とか言う奴らじゃないのか?」
「いや、岡田の奴は……」
その時店の奥でドアの開く音と、大勢の人の気配がした。
男の怒号のような声が複数響くと集団の足音が近づいてくる。
「支配人、岡田の奴見つけやしたぜ」
僕と隆二さんは顔を見合わせ息を呑むと、似たような黒ずくめの男達に生け捕られたのだろう。部屋の中央に放り投げられた善くんはうつ伏せにされた。衣服や髪が乱れ、あちこちに殴打の痕や切り傷などが見える。相当に逆まいたのだろうと思った。
「善くん……!」
僕は彼の存在だけでなく、そのボロボロ具合に狼狽すると、善くんは半分ふてくされた目つきで僕を睨んだ。
「支配人こいつどうしてやりますかね?」
善くんを連れた男は頬に縦傷があり、ジリジリした様子で善くんの背中に土足のまま足を乗せると黒の革靴の先で小突いた。
「とにかく、三人とも部屋の奥へおっ放っとけ」
面倒くさそうな低い声で唸る支配人は、筋ばった手で杖を持ち上げるとダンッと床に落す。
男達は奥の方の狭い部屋に僕らを引きずって行くと、次々とそこへなげうった。
頬に床の絨毯が擦れるように当たる。
控え室なのか下からライトが当たるような薄気味悪いピンク色をした部屋だ。ベッドらしきものが置かれてる。放り込まれた僕らはしばらく無言だった。
一時あって、その沈黙を破ったのは意外にも隆二さんだった。
「守、正直言って今僕は混乱している」
うん。状況をわかってる僕でも困惑しているのだから、最もな意見だと思う。
「ちょっと話を整理させてくれないか?」
「はい」
隆二さんは乱れた自分の髪を気にしながらも、拘束されて何もできない状況に一旦自分を落ち着かせようと深呼吸した。
「まず、なんでお前がこんな目に合わされてるんだ?」
僕は申し訳ない気持ちで一杯で頭を下げた。
「ごめんなさい、僕、借金してて、何度か取立て屋に追い詰められてたんです。実はドラマもそれがきっかけでやろうと決めました。僕には勇気がいることだったんです」
僕が今の状況に至るまでの過程を隆二さんになるべく簡潔に伝えた。
僕が借金を負ったキッカケの顛末まで話すと、隆二さんの視線はボロボロになったままうな垂れている善くんへむけられた。
「で? こいつはなんでここにいる?」
「彼も借金していて、僕と同じ取立て屋さんに追い詰められてたのかと思います。僕がわからないのは、どうしていつ善くんの借金の連帯責任者になってしまったのかと言う事なんですが」
僕が当惑していると、俯いていた善くんがくたびれた体のままくっくっと肩を揺らし笑い出した。
「何がおかしいんだ岡田」
隆二さんが苦々しげに善くんに視線だけ流す。
「お前、本当に馬鹿だな、昔っからそうだ。俺に騙されてんのにぜんっぜん気づかなくてよ」
「僕が同性愛者かどうか掛けしてたって事?」
善くんが僕の言葉に一瞬顔を上げる。なんだわかってたのかって顔だ。
「僕あの日傘を忘れてね、善くんの家に戻ったんだ。そしたら、君とその友達が話してるの聞いちゃった。あの人達、この間僕の控え室にきた人達だよね?」
くっくっと笑うと善くんはまた俯き加減になった。
「ふ、結構あっさりばれてやんの。だからもう少し静かに話せって言ったんだあの低脳どもが!」
「いいよ、もう、君が僕の事どう考えてるかわかったから、どうせマンションの契約書も嘘なんでしょ?」
「ああ、それが俺の借金の連帯責任者の書類だったからな」
呆けた僕の顔を善くんはちらりと見ると口角を上げて微笑む。
「お前、ふざけるなよ」
我慢できなくなった隆二さんが、明らかに内に秘めた怒りを今にも爆発させそうだった。
「るせぇんだよ、部外者は黙ってろ! 大体なんであんたがこんなとこにいんだよ? 俳優なら俳優らしくさっさと現場に戻って芝居でもしてろ!」
善くんが隆二さんの体を足で小突いた。
「お前のせいで守が今までどれだけ苦渋を舐めさせられたか、わかってるのか」
隆二さんが縛られたまま善くんの足をのけようとその足をなぎ払う。
二人の視線がかち合うと、チッと舌打ちして互いの足の蹴りあいの応酬が始まった。
「ちょっと、止めて、善くん、隆二さんを蹴らないでよ!」
「なんだお前」
足を止めた善くんが僕と隆二さんを交互に見る。
「ああ、そういう事」
何が可笑しいのかくすりと笑うと自ら足を引っ込める。
「俺は掛けに勝ったんだからもうどうでもいいさ」
「よくないだろ、お前、騙して守を連帯保証人にしたんだろ? 詐欺じゃないか」
隆二さんは一見冷静そうだが、相当怒っている。目が笑ってない。
「別に、守は俺に惚れてたんだぜ? 後日、本当の事言ってもこいつはいいよいいよって笑ってまた騙されると思ったからさ」
「なんだと、この野郎!」
「止めて!」
僕は善くんと隆二さんの間に割って入った。
「なんだ守、こいつを庇うのか!」
如何にも面白くなさそうな顔で隆二さんが僕を見る。
「そうじゃない、僕は隆二さんに乱暴な事をして欲しくないだけ」
隆二さんの顔が本気で怖い。僕はなんだか泣きたい気持になった。
色々な事がいっぺんにきて、頭の中が整理できないのは僕も同じだ。
僕が泣きそうな顔になると、隆二さんも自分が言い過ぎたと気づいてくれたのか、少しだけ目を潤ますと黙り込んでしまう。
「話し合いは終わったのかよ」
声のするドアの方に僕らが一斉に向くと、そこには赤い布を片手に持ったクマさんがどっしりと立っていた。
「里山さんって言ったよね? 助けてください」
僕は藁にもすがる思いだった。けれど見当違いなところに助けを求めている事もわかってる。
「お前、馬鹿か? 拉致した俺がお前を助けるわけないだろ?」
僕に呆れた視線を送ると、ドスドスと狭い部屋に入り込んでくる。
「お前ら喜べ、早速仕事だ。今から一人だけちょっとヘルプに回れや、あー岡田、お前は外す、客受け悪そうな顔とガタイだからな」
そう言うと、透け透けのご丁寧にフリルまでついた赤いレースのパンティの紐を、里山はその大きな親指と人差し指でつまみ、僕らにひらひらと見せ付ける。
「これが店の制服だ。なかなかキてんだろ?」
里山は大柄な体を揺らして不気味に微笑む。
「カマくせぇ格好」
善くんが吐き捨てるように言うと、自分は関係ないとばかりそっぽを向いた。
「お前らのどっちか着けてさっさと店に出ろ」
あまりに過激な下着に僕はボッと火がついたように顔が赤くなる。
「……」
僕らが黙っていると、里山は出入り口付近で溜まっていた手下に合図する。
手下が部屋に入ってきて僕は焦った。
「俺の縄を解け!」
最初に叫んだのは隆二さんだった。
「俺が出る。それでいいだろ?」
彼の言葉に僕は唖然とした。
ダメだよ、隆二さん!
「守の体を不特定多数におもちゃにされるくらいなら、自分が晒したほうが100倍マシだ!」
男達が隆二さんの方に集まりかけると僕は慌てた。
「ダメっ、隆二さんは関係ない」
「お前は黙ってろ!」
「嫌だ、黙らない。隆二さんの方がずっと大事だ。これは僕がやっちゃったことなんだ。だから僕が責任取るっ!」
泣きたくなったけど、隆二さんは僕にとってもファンのみんなにとっても絶対に誰かに弄ばれちゃダメな大切な人。
「俺はお前が弄ばれるほうがずっと苦痛だ」
「僕だって嫌だ、あなた一人の体じゃないんだ! 僕だけじゃない、沢山の人から愛されてる人なんだ」
傍らで里山が面倒くさそうに小指で耳を掻いた。
「どっちでもいいからよ、さっさとしろ。んーまぁ、春原のが弱っちぃからな。お前でいいか」
「はい」
男達は里山の合図で僕の縄を解いた。
「じゃ、さっさとこれに着替えろ」
僕は赤い透けたレースのパンティと、上にはレースの同色のベストを手に取ると、直ぐにシャツのボタンを外して行く。恥ずかしいからみんなとは違う壁側に向いた。
「守っ! 馬鹿野郎っ、止めろっ」
隆二さんの悲痛な声も僕は目を閉じて必死に我慢した。
僕はトランクスだけになったけど流石に躊躇する。
でも迷ってる暇はない。すぐに脱ぐと、下着を当てがって腰紐を結んだ。チュウチョ結びが縦になっちゃったかもしれない。上も羽織る。
流石にこの姿はかなり恥ずかしい。
立ち上がった僕を見て、里山がニヤニヤしていた。
死ぬほど恥ずかしいけど、今の僕はただ隆二さんを護るのに必死だった。
「守っ」
縛られている隆二さんの表情は悲しみとも怒りともつかない様子だった。
傍にそっと近づき彼の目線までしゃがみこむと、僕は愛しい頬に手を当てた。震えた彼の頬が冷たい。
僕の体も小刻みに震えるけど、隆二さんを温めたい気持ちで溢れてる。
彼の艶やかな唇にそっと自分の唇を抱きしめるように重ねた。
僕らの唇だけが熱い。
隆二さんが好き、大好き、あなたが誰よりも大事で、庇われるのも嬉しいけど、護りたくもあるんだ。あなたのためならなんでもできる。
僕はその時強い視線を感じて、振り返った。
善くんが真っ直ぐこっちを見ている。彼に少しも恥じることなく僕は強い視線で見つめ返した。
大好きな人にキスをして何が悪いんだ。
僕はおもむろに立ち上がり、呼び止める隆二さんの制止を振り切り、出口に向かった。覚悟はもうできている。
その時だった。店の方向から何か騒しくも物々しい音が聞こえてきた。
ドアの先の廊下から僕と似たような服を着ていた男達が一斉に逃げ出していた。
里山はなんだなんだ? とばかりに周囲を見渡した。
「里山さん、やべぇっす。サツです!」
慌てたように男が叫ぶと、部屋のドアから滑るように駆け出した。
その周りにいた人間達も僕らを取り残して一斉に逃げ出す。
その後すぐに警官と、何人かの刑事が一斉に押し寄せてくる。取り締まりだとばかり言い放ち、雪崩れ込んできた。
どうやらこの店は違法の店だったらしく、関係者がばたばたと目の前で次々に掴まって行く。里山もその一人だった。
しばらくしてスーツを着崩し疲れたような顔をした潮野さんが、廊下からキョロキョロあたりを探すようにうろついていた。僕らの姿を見つけると、「隆二さん! 守くん!」と叫び、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
「潮野、来るのが遅すぎだ」
「すみません、新宿界隈ちょっと入り組んでいてGPSで探すのに時間かかりました」
潮野さんは僕らの腕に縛りつけられていた縄を、他の警察の人と一緒に外してくれた。
「やっぱりな、新宿だとは思ってたが」
隆二さんが縛られた腕の痕を渋そうに見つめながらため息をつく。
えっ。と僕は思った。
携帯がその時鳴り響く。隆二さんが懐から携帯を取り出すと、ああ、うん、大丈夫だ。わかった。すまないと繰り返し対応していた。
「海倉から電話、明日昼には出てこいって、あいつ相変わらず鬼だな」
潮野さんがほっとした顔をした。
隆二さんは苦々しい顔をしながら電話の内容の説明をしてくれた。
監督から言わせれば焦るのも仕方のない事だ。かなり広範囲の人間が隆二さんの失踪に焦ったらしい、ファンに連れ去られたのではないか? という過去の記憶も思い出したそうだ。
というわけで業界の間ではGPS付の隆二さんの話は当たり前になっているらしい。
隆二さんは時折ファンに追いかけられると、潮野さんが囮になって逃げることが多くて、あらかじめ服のボタンにGPS機能をつけててるそうだ。隆二さんから信号を送ると居場所がわかるようにしてある。
隆二さんは店の前で車から降りるときわざとこけて、そのボタンを押したらしい。
でもまさかそれが、届け出られた警察が以前からマークしていた違法の店を摘発する絶好の機会になるとは思わなかった。
なんだかあれよあれよとめまぐるしく時間が流れて、僕らは警察に詳しい事情を説明した後、やっと開放された。
僕はズボンだけすぐに穿くと、隆二さんに長いコートを掛けられる。
もう服を着替える余裕もなかった。
僕の服は潮野さんが持っていて、上着は隆二さんが代わりに着ている。
このどさくさに紛れてか、善くんの姿は僕が気づいた時にはどこにもいなかった。
警察には後日事情説明するという話で解放された。
その後僕らは潮野さんの車で隆二さん家に移動すると、潮野さんからたっぷりとお叱りを受けて、今日はとにかく休みなさいと厳重注意された。少しだけ疲れを見せた彼はそのまま帰宅した。
僕は今の精神状態ではあのボロアパートに帰る気にもなれず、隆二さんにも心配だからと引き止められた。
塩野さんにも悪い事しちゃったな。
隆二さんの車は僕の家の前に止めてあると伝えると、それはもう回収したそうだ。
リビングにある壁掛け時計を見ると、もう午前三時を回っている。
「疲れたな……」
隆二さんが静まりかえった部屋でふとため息交じりで呟いた。
手や腕には暴れた後が痛々しいほど擦り傷やら軽い打撲の痕があった。
僕の大好きな隆二さんの手が怪我をして傷ついてしまった。
「ごめんなさい……」
僕は事の大変さを改めて思い出して、じんわりと目頭が熱くなる。彼のコートを羽織ったまま小さくなっていた。
「お前が謝ることじゃないさ、酷い目に合わされる前になんとか止められてよかった」
薄く微笑みながら、そっと僕の頭を撫でると、いつも僕がここでお泊りの時に借りてる服を、隆二さんはぽんと渡してくれた。
コートを脱ぎ着替えようとズボンを下ろすと赤いランジェリーを付けたままだという事に気づいた。
隆二さんは途端に目を見開き、さっと視線を逸らした。
この間の時より殊更に慌ているようすだ。
顔が真っ赤で、後ろを向いても湯気が立上ってるんじゃないかとわかるほど耳まで真っ赤になっている。
あ、しまった。僕あのランジェリー着たまま帰ってきちゃったんだ。通りですぅすぅすると思った。
「くしゅん」
小さくくしゃみをする僕におろしたての下着を箪笥から取り出してきて僕の姿を見ずに放った。
「風邪引くから早く着替えろ」
「うん」
隆二さんはテッシュを徐に鼻に詰めている。まだ少し頭から湯気が出ているみたいだ。
僕はそろそろと着替えはじめる。
隆二さんはどうしていつも僕が着替えるところで目を逸らすんだろう。まぁ、穴が空くほどじっと見られても恥ずかしいけれど。
そして、翌日! 色々な事があったけれど、とうとう僕らは最終の演技。そう、散々初っ端に苦労していたベッドでのキスシーンをした。
あれからたった二ヶ月くらいしか経ってないのに、あんなに恥ずかしくてできなかったのに、今は自分でも信じられないくらいに堂々とできる。
隆二さんの傷ついた手は上手く肌色のファンデーションで隠してあって、改めてメイクの人の上手さを感じたけど、僕はそれを見るたびに胸が痛くなった。
ほとんど隆二さんにリードされての演技だったけど、僕は抵抗することなく素直に彼に体を預けられた。
でもキスはあきらかに情熱的に演じたキスだ。
でもあの時のキスとは違って、どこかよそ行きに感じられる。演技のキスだ。
「カット!」の声が聞こえると、これで撮影はクランクアップだ。
周りからスタッフの拍手が沸き起こる。ガウンを羽織ると小さな花束を渡された。
僕にとってはこの二ヶ月本当に長く感じられた。
最初はあんなに不安だったのに、今は名残惜しい気すらする。
「終わった……」
「終わりましたね」
先に上がっていた私服姿の瑠璃さんがラストカットを見にきてくれていて笑顔で僕らのところにきた。
「お疲れさま~!」
「瑠璃さん、ありがとうございました」
「またしばらく会えなくなると思うと淋しいよ」
僕は一気に緊張の糸が切れて、涙が零れた。
スタッフのみんながとっても優しくて……。
「守、よく頑張ったな、なかなかいい感じに撮れたぞ」
海倉監督もニヤニヤしてたけど、でも今の僕にはそれは最高の褒め言葉だ。
もう馴染みのスタッフみんなに代わる代わる頭をぐしゃぐしゃに撫でられた。
そんな僕にちょっとした事件が起きた。
今日の夕方、隆二さんの車でこれから借金をどうしたらいいのかと、潮野さんの紹介で弁護士法人の法律事務所に行く事になってる。
隆二さんの車と姿を駐車場の遠くで見つけ笑顔で近づこうとしたら、彼が誰かに突然キスされていた。
まるでその光景はデジャブみたいだった。
それが隆二さんの元彼であることに気づくのにそう時間はかからなかった。僕は一瞬何が起きたのか血の気が引くような気がした。
彼は涙ながらに凄い勢いで隆二さんにすがっている。
人の心はわからない。あんな風につんけんしている彼でも本当はとっても隆二さんを心から愛していたのではないかと思ってしまう。
隆二さんの横顔が無表情で何を考えているかわからない。
僕は自分の唇を抑えた。さっきの演技のキスなんかじゃ物足りない。今すぐ本当のキスが欲しい。そう控え室でも思っていたのに。
胸は不安で一杯になった。
どうしよう……。
隆二さん、どうして抵抗しないの?
僕は急に胸がキリキリ痛み、悲しい気持ちと感じたことのないチリチリした心の炎に戸惑う。
これが嫉妬だと言うのに気付いたのは少し経ってからだった。
隆二さん、違うのに。善くんなんかとあなたは全然違う。
僕のあなたへの気持ちは誰にも持った事がない、焼け焦げる太陽みたいな気持ちなんだよ。
僕は苦しくて苦しくて思わず涙が溢れてきた。
でも彼がどんなに隆二さんを切望したって、嫌だ、離れて欲しいっ。
もう僕は自分に嘘はつきたくない。これからは素直に生きるんだ。
僕は言葉よりも先に駆け出していた。
もう誰にも渡さない、隆二さんは僕のものだ。
僕の気配に気づいた二人が振り返る。
息を切らして僕は元彼、蓮くんを睨んでいた。
「離れてくださいっ」
「……」
彼に睨まれたって構わず、僕は叫んだ。
「隆二さんは僕のものだ、離れて!」
僕の必死の形相が可笑しかったのか、蓮くんはふふっと淋しげに笑う。
「新しい彼氏必死だね。なかなか健気で可愛いじゃん」
「ああ、お前の100倍、1000倍健気で一途な可愛い男だよ」
隆二さんは僕の方を向いてこれ以上ないほど柔らかく微笑む。
「安心しろよ、今のは別れのキス。ちゃんと隆二さんとお別れしたかったからさ」
僕の必死さに呆れたように蓮くんは肩をすくめると、黒いコートの裾を揺らしながらその場をすっと離れた。
蓮くんは僕にバトンタッチでもするように軽くポンっと僕の肩を叩くと、振り返ることなく去っていった。
「隆二さん!」
僕はじんわりと涙が溢れてきて隆二さんの懐に飛び込む。彼の温かな胸に額を押し当てた。
隆二さんも僕の背中に腕をすっと伸ばし、力強く抱きしめてくれる。
「ごめんな、変なところ見せちゃって」
「そうだよ、隆二さんの馬鹿、馬鹿!!」
そっと隆二さんに顎を掴まれると引き寄せられ、隆二さんからキスされた。
今度はさっきのキスとは違う。熱くて蕩けそうなキス。
僕の大好きな彼の唇と滑らかな舌だ。僕はそれを懸命に受け入れた。キスすると体だけじゃなくて心まで安心する。
こんなに切なくて熱くて愛おしいキスを教えてくれたのは彼。
しばらく僕達はキスに酔いしれる。互いが欲しくてたまらない。
そっと唇を離すと、隆二さんは僕の頭を撫でながら、囁くように言う。
「なぁ、僕の事、呼び捨てでいいんだぞ守、これからは隆二って呼んで欲しいな」
凄く嬉しそうな笑顔で言うものだから、それだけで僕は顔が真っ赤になる。
隆二さんはいたずらっ子みたいに笑った。
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