第11話 レッスン
「シャワー浴びてく?」
「ううっ、でもっ」
「それ、ジーンズにまで染みてきてるよ?」
「ええっ!」
僕は咄嗟に下を隠した。今更、もう遅いのかもしれないけど。
その後僕は大人しくシャワーを借りる事にして、今脱衣場にいる。
ジーンズは彼の指示通り、乾燥機と一体型になっている洗濯機の中に入れた。
流石に下着の中を見せるわけにはいかなくて、シャワーを浴びる時に一緒に洗おうと浴室へ入る。
脱ぐとねっとりした液体が下着に張り付いている。
少し身震いがした。
最悪だ……。
僕は下着を洗うと、そっとドアを開け、洗濯機に入れておいた。
「守くん、着替え部屋着だけどここにおいとくね、あ、もう洗濯機回しても大丈夫?」
浴室の透き通ったドア越しに、いきなり隆二さんの声が聞こえて焦る。
「あっ、はい!」
「上着も一緒に洗っちゃおうね」
「い、いえ、いいですっ」
「もう放り投げちゃったよ」
ああ……。
シャワーを付けるとすぐに温かくて柔らかなここちのお湯が出てきた。
借りたフェイスタオルに石鹸で泡立ててから、体を丹念に洗う。
腕を洗っている時に、目の前に鏡があることに気づく。
そこには煙の中に、貧相な僕の体がぼんやりと映っている。
隆二さんの体は、ちらっとだけキッチンで見た上半身裸の姿、抱き合ってる時に見た少しボタンの外れたワイシャツの間からなんとなく見える鎖骨や、胸元の筋肉の盛り上がりで逞しさは感じていた。
僕は自分の体が嫌で、すぐにそっぽを向いた。
「はーー」
浴室から出ると、籐(とう)でできた脱衣かごの二段目にタオルと着替えがきちんと畳んで置いてあった。
柔らかなタオルはとてもいい匂いがしてここちいい。顔を押し付けて胸一杯に吸い込んだ。
着替えは部屋着らしく、つい昔洗濯する時に分けて洗う習慣でタグを見てしまう。
オーガニックコットンかー気持ちいい。
簡単な上下のスウェードなんだけれど、肌触りが僕の持ってるそれとは格段に違う。
そろりと出てリビングを見渡すと、ソファのクッションに寄りかかりながら隆二さんはくつろいでいた。
「大丈夫?」
「はい。すみません……」
リビングの透明なガラステーブルに置かれていたコーヒーの缶を手に取ると、隆二さんは僕に投げてきた。
「ほら」
「うわっ、とと」
僕は慌ててそれを受け取る。
「さっきはちょっとふざけすぎちゃったな。ごめん、まさかあんなことにまでなるなんて」
自分の頭に手を置くと、隆二さんは申し訳なさそうに、俯いた。
そんな改まって言われると恥ずかしい。
僕は大人しくコーヒーを手に、少しだけ距離を置いて同じソファにすとんと腰を下ろすと、缶のプルトップに指をかけた。
目の前に今回の台本が置かれている。
コーヒーの缶を空け、一口飲むと缶なのに思ったより苦い。
前にも増して潤んだ瞳で隆二さんが僕を観察しているような気がして、気まずさにすぐに僕は台本を開いてそこに目を落とした。
今、撮影は僕はまだ隆二さんとは普通に屋敷の中で、仲の良い兄弟としてお互いの相談聞きあうようなフランクな関係だった。
どちらかというと瑠璃さんと僕の関係が良好なところに、瑠璃さんが好きだというライバルの男の子が出てきたという辺りだ。
「ラストだってさ、僕らのキスシーンとあのシーン。……思ったよりも撮影が順調に行ってて、焦らなくても大丈夫になったそうだよ」
台本を開きながら、ぽつりと隆二さんが言った。
キスシーンとあのシーンか。ということは、要するに下着姿で裸で抱き合うというシーンも当然真近なわけで。
で、自分でも、びっくりしたくらい、早漏な僕はやばいわけで。
なんだか改めて二人きりになると少し照れくさくなる。
というかあんな風に隆二さんに醜態を見られたことがとても恥ずかしい。
僕はなんだかそわそわモジモジしてしまう。
そんな僕にお構いなしに、隆二さんは台本から顔を上げた。
「それじゃ折角だから、少し稽古しようか?」
その言葉に僕が少し顔を赤くして固まってしまうと、隆二さんは目を丸くした。そしてすぐに悟ってくれた。
「あー、いや、あのシーン以外のところ」
「あっ、はい、そうか、そうですね、そうしましょう!」
台本を読むのは少しだけ照れくさい気持もあるけれど、折角大先輩の隆二さんとお芝居ができるのだからちゃんとやらなくては。
「守くん、君はもっと役になりきって演技したほうがいいと思うよ。まだ若干照れがある」
「はい」
「今はまだ抑えた演技だからいいけれど、これからは感情を大きくしていかなきゃいけないのだから」
そうだよね、うん。
「僕、実はドラマは初めてなんです」
「うん?」
「舞台の上で少しお客さんと離れた距離で演技をするのは慣れてるんですけど、そのっ、今回は内容も内容ですし、ドラマってスタッフの人とかが近くて、その近い位置で演技しなきゃならないのが、また更に少し緊張してしまうんです」
素直に自分の気持を伝えると、隆二さんは少し納得してくれたようだ。
「そうか……確かに舞台と、ドラマでは少し勝手が違うかもしれないね」
「だから、どうやって演じたらいいのかって悩んでしまうんです」
僕が少し俯きながら考え込んでいると、隆二さんはそっと頭に手を置いて微笑んでくれた。
綺麗な顔でつい見とれてしまいそうになる隆二さんだから、余計気恥ずかしい。
僕がその顔と同じくらい素敵だと思う指長の綺麗な手でそっと触れられてるからかもしれない。
それはちょっぴりくすぐったいような、嬉しいような。
「でも、舞台同様、ドラマだって、画面の向こうにお客さんがいることには変わりないよ。舞台と違ってどれ位なのかはわからないけど、でもたぶん、どこかで誰かが観てくれている。0ではない。そう思うよ、その人達が満足できる演技をすればいいんじゃないかな?」
もうだいぶ陽も傾いてきたのか、窓の外の光が段々オレンジ色に変わって僕らの体を染めていた。
どこかで誰かが観てくれている。
そう信じて観てもらうことがとても嬉しくて、僕はこんな風に芝居をすることを選んだんだと彼の言葉で改めて思った。
それがどんな役でも拒んだらダメなんじゃないかなと。
折角来たチャンスなんだから、それを生かさなきゃ意味が無い。色々な役を経験しなければ、隆二さんのようにはなれない。
「そうですね、舞台とドラマ確かに違うけれど、でも誰かが観てくれてるというのは同じなのですよね、どんな役でもやらなきゃいけないと思うし、これは僕にも凄くいい機会なんです。だから僕、頑張ります!」
僕の決意を感じ取ったのか、隆二さんは優しそうな眼差しで見てくれた。
僕との掛け合いで隆二さんは気になるところを色々言ってくれた。
それこそ舞台とドラマ撮影の違いも。彼は両方経験があるらしく、自分視点でと断ってから色々話してくれた。
舞台は比較的大袈裟な感じで演技しているけれど、ドラマはもう少し自然にとか。
舞台では通用していた大袈裟な言い回しも、ドラマではごくごく日常を演じる感じでとか。
確かに舞台って非日常的な独特な雰囲気があるけれど、ドラマは不思議とアットホームな感じがする。
僕らは現場でやれることを頑張ってその役になりきって、後どう結果が出るかはその後考えればいいと隆二さんは教えてくれた。
舞台はその場で観客の気持がなんとなくわかるけれど、ドラマは全くわからないから、考えても仕方ないと。
色々勉強になった。
でもどうして……。僕はこのドラマを始めてから凄く疑問に思うことがあった。
「隆二さん、一つ聞いてもいいですか?」
「うん?」
「隆二さんは毎回こうやって共演する人と台本をこんなに読む込むんですか?」
「いや、それは……あんまりないな」
「それは、相手が僕みたいな新人でも?」
僕は別の心配事が頭をもたげる。
「もしかして僕ダメなんでしょうか。だから指導しろとか監督から言われたとか」
僕が不安げに彼を見ると彼は、はは、と笑った。
「海倉監督には言われたには言われたけど、でも家にまで連れてとは言ってないよ。これは僕が勝手にしたことで」
「そうなんですか? それじゃ、どうして? 何故ですか?」
僕が質問すると隆二さんは言葉に詰まる。どうしてなんだろう。
「うーん。 なんか放っておけないからかな」
「僕が危ういからですか?」
「そうじゃなくて……」
黙りこむ僕ら。隆二さんが少し困った顔をしている。
……どうして?
更に隆二さんに問い詰めようとしたのだけれど、その時ちょうど洗濯機の完了知らせを告げるベルが鳴った。
「あ、守くん、洗濯物乾いたみたいだよ、もう夜遅くなるから、今日は帰ったほうがいい」
「あ、でもっ」
「子供はもう寝る時間だよ」
さっきよりもぐっと柔らかな布で包み込むような顔をされて、僕は少しドキリとした。まさか僕がまるきり童貞だって事見抜いちゃった?
隆二さんまさか千里眼とかあるとか?! いや、まさか、そんなんあったら怖い。
僕は言葉を返せなくて、そのまま素直に脱衣場で服を着替えると、帰る支度をするためリビングへ向かった。カバンに台本を入れる。
ふと、リビングからキッチンを見ると、壁に女の人の写真と、その傍に小さな子供の姿が写っているのに気づいた。
「隆二さん、この人は……?」
「ああ、それは僕の母だよ」
「お母さん! どおりで綺麗な人だと思いました」
隆二さんは少し微笑むだけでふと一瞬だけ淋しそうな顔をした。
「大分前に死んだんだけどね」
「えっ……」
それきり会話が途切れた。僕は掛ける言葉が見つからない。
「君がしょんぼりする事じゃないのに」
隆二さんは思いのほか落ち着いていた。
自分のバッグを手に持つと、靴下を履いて玄関に向かった。僕のくたびれた靴だけがこの洒落た玄関から浮いて見えた。
それだけの事なのに、やっぱり隆二さんとの大きな距離感を感じて淋しくなる。
「あの、それじゃ……」
「うん、また明日」
僕がドアを開ける外に出ようとすると、隆二さんは躊躇いがちに呼び止める。
「守くん」
「はい」
「あ、いいや……お疲れ」
「お、お疲れさまでした」
互いになんだか少しだけ変な空気が漂う。
僕は玄関で隆二さんに見送られた。ドアが閉じた時、なんとも言えずちょっぴり切なさを感じた。
外が寒いせいだろう。肌に冷たい風がぴりりと当たって、僕は上着のジャンパーの前を留めた。
そして、次はいつこうして会えるのかな? なんて思い始めていた。
マンションから出ると、ふと隆二さんの部屋のある最上階を見上げた。
風は次第に寒暖を繰り返し、次第に冬が近づきつつある。
そっと自分の唇に指を押し当てた。さっきのキスを思い出すと不思議な胸の疼きを感じた。
家に帰ってから僕は大変な事に気づいた。
ここのところ食料を奮発しすぎて、田舎から送られてきた材料が思いっきり減っていた。
うわ~明日から節約しないと。次の報酬まで日にちがある。
布団を敷いてごろんと転がった。
まだ唇に隆二さんの唇の感触が残っている。
僕は布団にしがみついた。
隆二さんの唇、柔らかかったな……。
思い出しただけでまた胸が熱くなる。まるで風邪をひいた時みたいな熱に浮かされる。
額に手の甲を当て、天井を見た。きっとまだ顔も体も熱い。
「子供は帰る時間だよ、か……。なんだよ、最初は僕をホテルのバーに誘って、更に泊めた癖に……」
やっぱり童貞だという隆二さんの千里眼が働いて、少し引かれちゃったかも。
はぁ、もう少し大人の経験してから出直して来い。みたいな感じだったのかな?
恋愛ごっこみたいなのは引き続きやってくれるのかな?
僕は押し寄せる得たいの知れない何かを堰き止めるので精一杯だった。
僕、どうしちゃったんだろう。風邪でもひいたのかな。
熱にでも浮かされたみたいな、このふわふわした感情の出所がわからなくて、まるで迷路にでも彷徨ったみたいだ。
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