第7話 メロディ
僕は大きな身体に包まれていた。
彼の体は温かくて、良い匂いがした。
そう野性っぽい匂い。
僕らは裸で抱き合っていた。ただ欲望のままに、互いの体を摺り寄せて。
僕は互いの肌が擦れあう心地よさで、無我夢中に彼の腕にしがみついていた。
自分の中心が熱くなり、滾ってくるのがわかる。
思わず瞳から嬉し涙が溢れ出す。
あるがままに……。
もうすべてを投げ出し、さらけ出してしまいたい。
彼に欲望のままに好きにされたい。
僕は。僕は……。
日の光を感じ、薄目を開けた。もう朝だ。
目を覚ましたら僕の下着は凄い惨状になっていた。
ねばついた液体の大洪水。
ああ、信じられない……。
はぁ、僕は俯きながら小さくため息をついた。
服に着替えなおしてから僕は改めて夕べ善くんから渡されたメモを見る。
携帯電話は持っていたけど、使った分だけ支払うプリペード携帯。
それをかけようかどうしようか悩んでいた。
冷蔵庫を開けると昨日隆二さんからもらったプリンが残っていて、僕はそれを朝ごはん代わりに食べた。
今日はちゃんとしなきゃ。
あれから実は僕と隆二さんのベッドシーン(キスも含む)は最後に撮るということになり、僕らは芝居の部分だけを収録していた。
季節はもうすっかり秋で、徐々に冬の空気を感じていた。
今日はお昼に撮影所に入る予定だった。少し早めにきてスタジオを覗く。
「おはようー」
瑠璃さんが微笑みながら近づいてきた。今日も笑顔がキラキラしている。
「おはようございます、瑠璃さん早いですね」
「守もだよ、今日は隆二さんもそうだし、みんな来るの早いね? どういうこと?」
「え、隆二さん?」
僕は隆二さんの姿を見回したけれどどこにもいない。
「ああ、彼ならいつものあれじゃない? 時々練習目的で早めにくることがあるんだよ」
スタッフの一人が機材から顔を覗かせて言った。
「あれ?」
「ああ、あれねー今頃練習してるかも」
「何をですか?」
僕は瑠璃さんに邪魔はしちゃいけないという条件で、隆二さんの行き先を聞いた。
そっとこのビルの三階にある使われてないスタジオに向かう。
……第7スタジオ。ここだ。
スタッフの人の話だとここは古いピアノが置いてあるだけ。
時折誰かが練習にそれを使うくらいでほとんど誰も利用してないそうだ。
でも万が一のために一、二年に一度は調律しているらしい。
「彼はねクリスマスになるといつも誰かから借り出されて、ピアノを披露するんだよ。で、腕が錆付いちゃいけないって時折ここに練習しにきてるの。今頃はクリスマスの曲なんかを練習してるんじゃないかな?」
「まだ10月なのに、もうクリスマスの曲の練習しているのですか?」
「彼は繊細かつ慎重だからね、色々なことに用意周到なんだよ」
瑠璃さんの言葉を思い出しながら、僕はスタジオの外で壁越しに聞き耳を立ててしまった。
また僕の知らない隆二さんの一面……。彼は一体どんな人なんだろう。
ちょっぴり興味が沸いた。
彼は音を今確認しているみたいだ。軽く鍵盤を叩いている。
ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド。
音が微かに聞こえる。
僕はそおっと気づかれないように、スタジオの重いドアノブに手をかけると、扉を肩で押して開けた。
思ったよりもドアは静かに開いた。
そして黒い暗幕が入り口を隠していて、僕の姿は彼に見られることはなかった。
床をかがみながら進んで、音響の機材の大きなアンプの後ろに隠れた。思ったより部屋は広い中は当然使われてないから、ピアノと僕の隠れた機材以外何もなかった。
僕がそこからちょっと顔を覗かせてみると、丁度隆二さんはピアノの前の椅子にいた、体は横向きだ。
椅子の背もたれに肘を掛けて、ペットボトルのお茶を口にして完全にくつろいでいる。
僕の知らない隆二さんの気のゆるんだ横顔。
自然でやっぱりどこか淋しげで……。
ペットボトルのキャップで蓋を閉じ、側に置くと、ピアノの鍵盤に向かうために背を向けた。
そして徐に曲を弾き始める。
最初は楽しげな曲だった。
いきなり童謡の曲を奏でだして、僕が想像している彼とイメージが違う事にちょっぴりクスッとなる。全体的に曲調はジャズ風にアレンジされていた。
彼は誰もいないのをいいことに背中を揺らし楽しそうに奏でている。
うわっ、可愛い~~。
でも、なんてお洒落なんだろうか。
僕は口元を手で抑えた。思わず笑顔になって拍手を送りそうになるのを堪える。
増々曲が脱線してくる。色々な童謡もジャズ風にアレンジして奏でだす。
あ……この曲は僕が生まれて初めてお芝居をして、褒められた時のお芝居の曲だ。
僕は亀の役だったんだよなぁ……。
ちょっとノスタルジックな気持ちになった。
ふと、手慣らしが終わった様子で、今度は姿勢を正すとまた違う曲を奏でだした。
先ほどとはうって変わって静かな、ゆっくりとした旋律が聞こえてくる。
これは、クラシックだ。以前どこかで、そう、学校の音楽の時間に聞いた記憶がある。
ベートベンの月光だ。
滑らかに厳かに奏でる旋律に、僕は思わず目を閉じ聴き惚れた。
どこか淋しげな曲ではあるけれど、その曲の生演奏の美しさに僕の耳はすっかり奪われ、魂が揺さぶられていた。
今、僕の目の前には夜の真っ暗な広い草原が広がっている。
そこに僕は降り立ってる。
周りは何もなく、藍色の透き通るような空に星空が広がる。
そしてそこには月だけが煌々と浮かび上がっている。
絵本や幻想の世界でよくある、クレーターまではっきりわかるような鮮明なとても大きな月。
僕は月に向かって手を伸ばした。
まるで手で掴めそうに大きい。
このまま降ってくるんじゃないだろうかと思うほど。
選曲はその人の性格が現れるっていうけれど、これを自ら好んで弾くってことは彼は物悲しい曲が好きなのかなと思う。
月光が終わると、突然彼は穏やかな猫が突然猛獣のライオンに変化したかのような、曲調の彩を変え、激しい曲を弾きはじめた。
これは確か……養成所にいる時にピアノの先生が弾いてた気がする。
ショパンのエチュード。
……滑らかに滑るように音がリズムを激しく刻む。
情熱的でそしてどこか物悲しい。
同じ曲でも隆二さんの弾き方には滑らかさと強弱さがある。
彼は表面上は穏やかでもあるけれど、内面は激しい部分もあるんじゃないだろうかと彼の心のひだを探ってしまっていた。
僕は隆二さんがどんな顔でピアノを弾いてるのかとても気になった。けれど彼の綺麗な顔も、鍵盤の上を今激しく跳ねているであろうあの長くて綺麗な指先も見えない。
でも目を伏せて僕はその情景を想像していた。
そして僕はピアノを弾けないのに、何故か彼とシンクロして自分も弾いている気分になった。僕の気持ちのヴェールも広がり大きく揺さぶられる。
ああ、ここちいいな。凄く気持ちがいい。吸い込まれそう。胸が温かくなってくる……。
ああ、この腕ならクリスマスに披露するのをお願いされても当たり前だ。その上に彼のあの美貌だ。女の子だけじゃなくて男だって憧れる。
僕は初めて男の人を綺麗だと思った。それは彼の存在自体が美しいからなのかな。
そしてその美しさは見た目だけでなく、動作や感情からオーラみたいに溢れてる。
今流れているピアノの表現力も一つの才能だ。
僕は増々膨らんだ憧れと同時に、彼を愛する色々な人より得をした気分だ。
今この空間には僕と隆二さんだけ。僕が一人でこの音を独り占めしちゃっている。でもつくづく僕には高嶺の花の人だと思う。
アヴェ・マリアを奏でだす頃には全身が心地よくて僕は次第に眠くなってきていた。柔らかな音色に毛布で包まれてるみたいになる、心地いい。
僕はその温かで柔らかな気持ちよさに、胸がなんだか切なくなって泣きそうになってきた。
凄いな……。
彼の本当の恋人になる人は幸せだろうなぁ。こんな風に人を酔いしれる才能のある素敵な彼と一緒にいられるのだから。
なんて、何思ってるんだろう僕……。
僕の意識が心地よさの中ですっかり遠のいた頃、誰かが遠くから呼ぶ声がした。
「……くん、守くん!」
ふっと意識が遠のいてから誰かの声にうっすらと目を開けた。僕は大型アンプに寄りかかったまま、寝ていたようだ。
「あれ……隆二さん、なんでこんなところに?」
「君こそ、何故ここに?」
彼は少し驚いたように目を丸くしている。僕は寝ぼけ眼で手で目をこしこし擦った。
「あ……ごめんなさい」
あれ、僕なんでこんなところで寝てるんだろう。
「僕のピアノ退屈だった?」
隆二さんは黒いジャケットを抱えて苦笑いを浮かべる。
白い胸元のシャツのボタンが少し外れて、綺麗な鎖骨が見えている。微笑みながらも、やっぱりどこか瞳は淋しそうに見える。
「とんでもない! 凄く、凄く、良かったです!」
「……本当?」
「はい、聴いていてとっても気持ちよかった! 小さい頃お芝居でやった童謡の曲が流れてきて、懐かしくてたまらなかった。最後にその曲をみんなで合唱したんですよ。それがきっかけで、お芝居が好きになったんです」
「……そうか」
僕は素直に自分が思ってる気持を彼に伝えた。
隆二さんは少しだけ驚くと、すぐに熱い視線で僕を見ていた。
そしてどこか照れくさそうに、それでいて嬉しそうに微笑みながら癖のある髪の毛をいじった。
ふっと静まり返る部屋。僕らは思っていたより至近距離で話しているのに気づいた。
隆二さんの瞳がやさしく僕を見下ろしている。なんだか様子が変だ。僕はその瞳に射抜かれたようになぜか動けなくなった。隆二さんは僕に触れようとそっと長い指を僕の頬にかけようとする。
しかし、ためらいがちにその手は頬をすり抜けて大型アンプに置かれた。
僕はふっくらとした彼の艶のある唇が目に入ってしまった。
唇が少しだけ開いている。背中はアンプにもたれかかっているのでこれ以上下がれない。
「ありがとう、そんな風に言ってくれるなんて、嬉しいよ」
「隆二さん……」
隆二さんが僕の唇に自分の唇を寄せようとする。
「……あ」
隆二さんの優しい瞳に包まれたら誰だって動けなくなる。ふわっとコロンのいい匂いがした。僕も彼に吸い込まれるように目を伏せ、唇を寄せた。
「守ー! そこにいるのーー?」
突然トロンとした柔らかな静寂は、少し高めのそれでいて男性だとわかる声にかき消される。
僕は瑠璃さんの声で我に返った。
「もう、どさくさに紛れて何しようとするんですか!」
僕が手で彼の胸を押しのけようとする。
僕が隆二さんに触れただけで、隆二さんががっかりしたような顔をする。
もうどさくさに紛れてキスしようとするなんて。
今日はお屋敷の一室で兄役の隆二さんとお茶をするシーンだった。
キスシーンは後でなんだけど、一度役の『守』はそのまだ撮ってないシーンでは兄を拒絶した。
だから互いになんとなくぎこちないというシーンだ。
このネットの放送は全10話。
撮影期間はおよそ二ヶ月半~三ヶ月なのだそうだ。
スポンサーもついたので、ニッコリ動画というところのBLドラマ枠で配信されるらしい。
隆二さんは芝居に入るとどこかスイッチが切り替わるのか冷酷で独占欲の強い蛇のような顔つきになる。
僕は芝居のなかでは隆二兄さんに強引に、乱暴に扱われる。
芝居とわかっていても、彼の迫力とにじみ出る隠せない色香に戸惑う。
特に困るのは力強く抱きつかれると少しだけ意識が飛びそうになることだ。
とても情熱的だった。
彼は力強く僕を引き寄せ、強引に自分の手中に僕を取り込むのだ。
最近困るのは自分の意思とは関係なく、彼のシャツ越しの肌に触れると心がどうしても熱くなる。
こんなこと肌越しに見抜かれたら恥ずかしい。
だから僕は悟られないようにするので精一杯だった。
そして撮影後……。
「お疲れ守!」
「あ、お疲れさま」
忙しそうにしながらも膳くんが機材を抱えながら、僕に微笑み、足早に廊下を去っていく。
さりげなく僕の肩に手を触れていく善くん。
僕はなんとなく今朝の夢の事を思い出して少し恥ずかしくなった。
あれが善くんなのかはわからないけど。
周りがバタバタしてきた。
スタッフも数が少ない中での撮影準備だから兼任者が多くて、みんな忙しそうだ。
邪魔になってはいけないので、僕らは早々に控え室に戻り、帰り支度をする。
「……トイレに行ってから帰ろう」
僕は廊下の先にある少し古臭いトイレに向かった。
「守の奴大丈夫か?」
トイレまでの廊下の途中、会議室のドアが開いていて、奥のパーテーションから海倉監督らしき声が聞こえ、僕は動きが止まる。
「大丈夫です。少しでも僕に慣れてもらうようにしてますから」
と、続けて聞き覚えのある声。間違いなく隆二さんの声だ。
「慣れてもらうようにって何をしてんだ……?」
「ええ、まぁ、ちょっと」
その会話をきいて僕は悟った。
そっか……。
なんで隆二さんが恋人になろうだなんて言い出したかわかった。
今僕らはBLドラマを撮影している。
ということは隆二さんは僕と慣れることで撮影を円滑に進めようということなんだ。
疑問に思っていた事が、ここでなんだかすっきり晴れた気がした。
僕が同性愛者であるかどうかなんて事は口実で、やっぱり役者としてちゃんと芝居を完成させたいと思っての事だったのかも。
ピアノですらあれだけ用意周到な人なんだ。
そりゃ慣れてない僕を慣らすために、さりげなくそんな提案をする計画を立ててもおかしくない。
そっか……。別に本気ってわけじゃなかったんだな。
僕は合点がいった。と同時に何故かちょっぴり心の中に隙間風が吹く。
なんで心がしくしくしたんだろ……。僕は胸に手を置いて自分の体が変になったような気がした。
それならむしろちゃんと、恋人のような役に徹する事をしてもいいんじゃないだろうか。
トイレに行った後、僕はこっそりと会議室の前を通り過ぎようとしたのだけど、いきなり隆二さんと目が合った。
パーテーションはいつのまにか開かれていて、会議室に海倉監督の姿がない。
もうどこかへ行ってしまったようだ。
「守くん!」
どきり
「なんですか?」
僕はさっきの事もあったので、なんとなく身構えてしまった。
「そんな冷たくしないで、僕ら恋人同士だよね?」
「はいはい」
僕のそっけない態度にも隆二さんはめげない。
「結構本気なんだけどな」
大体こんな綺麗な人が僕を本気で好きなんて言う訳ないじゃないか。ほんとに、意地悪な人だな、これはお芝居、お芝居っ。
「僕、隆二さんの魂胆わかっちゃいましたからね」
「え?」
僕は胸を張って言う。
「いいですよ、恋人ごっごしましょうよ!」
「恋人ごっこじゃないんだけどな……」
「どっちだっていいですよ、あ、そうだ」
僕は左の手のひらを右の拳骨で叩き、閃いた。
「この間プリンご馳走になりましたよね? だから今度は僕が何かご馳走させてください」
「えっ?!」
隆二さんがくれたプリンみたいな高級な物ではないのだけど。
思わぬ僕の反撃に隆二さんは少しだけ目が泳ぐ。
からかい返した気分になって、僕はなんだか面白くなってきた。
「今度何か美味しいもの作ってきます!」
「君、料理できるの?」
「たいしたものじゃないですけど」
「へぇ~」
隆二さんも面白くなってきたのか、結構いい感じに演技入ってる。
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