第6話 プリンと僕

 翌日、僕は瑠璃さんとの撮影があったのでそのままスタジオに行った。

 瑠璃さんは昨日と服装が同じな僕を敏感に察知して、少し冷やかすような意地悪そうな顔をしなから近づいてくる。犬のようにクンクンと僕の周りを嗅いだ。


「守~お酒の匂いちょっとするー? 服も昨日と同じー? もしかして朝帰りとか~?」


 瑠璃さんは目を細めて少し小悪魔的な視線を流す。


 ああ、鋭いっ。


「あっ、これはそのっ」

「昨日隆二さんと一緒にご帰還の様子だったみたいだけどー? もしかして……」


 軽く肘を僕の腕にちょんちょんとつついてくる。


「ち、違いますよ~!!」


 僕は瑠璃さんのホワンとした潤いを帯びた瞳に、顔が火照ってしまった。


「うはー守、耳まで真っ赤だ」

「違いますって!」

「あーあ。出逢ってからたった数日でもう隆二さんにお持ち帰りされ彼の所有物に」

「なんてこと言うんですか! 僕はただっ」


「ただ?」


 瑠璃さんが見透かしたように僕を見るので、僕はコホンと咳払いをしてから正直に話した。


「確かに昨日隆二さんと飲みに行きました。僕酔って彼とそのバーのあったホテルに泊まりましたよ」

「ひゃ~!!」


 瑠璃さんが多少大袈裟に両手で頬を押さえつつ、僕の顔を好奇心でいっぱいな爛々とした目つきで見る。


「いきなり大人の関係?! うそー!」

「ちっ、違いますよ~僕がベッドで、彼はソファで寝ました」

「ひゃー緒のお部屋で寝ちゃったのー! なにもないわけがない!」


 瑠璃さん話聞いてます?


「だから違いますって!」


 僕があまりに単刀直入に話したものだから、瑠璃さんも流石に嘘を言っているようには思えない様子だった。

 でも、小さな声で「信じられない……」と口を尖らせる。


「隆二さんに誘われただけでなく、一緒にお酒飲んで、しかもホテルに泊まったのに、なんにもないなんて、ありえないよ」

 瑠璃さんは顎に手を当てつつ合点がいかない顔をする。


「どうしてですか?」

「だって、彼が狙ったターゲットは一晩で落ちるよ。俺知ってるもん」


「……え?」


 僕は少し考え込んでしまった。

 だって昨日彼は「試しに付き合ってみない?」って僕に言ったけど、言っただけでそのまま満足して寝ちゃったし……。

 でもその事はなんだか今は言っちゃいけないような気がした。


「それはそのっ、僕がターゲットじゃないからじゃないですか?」

「そんな事ってあるのかなぁ?」


 瑠璃さんは不思議そうな顔のままぶつぶつと何か言いながら廊下の先の控え室に戻ってしまった。


 そっか、夕べのあれはただ単に僕をからかっただけなんだ。

 僕の事、田舎者だと思ってからかって遊んだんだ。隆二さん、酷いなっ。


 僕がスタジオに行くと善之助くんが遠目で僕を見ていた。


 やっぱり昨日言い過ぎちゃったかな。

 でもその日の僕らの距離はそれ以上縮まる事はなかった。



 僕は午後からのん気に現れた、僕を弄んだ張本人を睨んでやろうと思った。

 でも隆二さんはしれっとした顔で僕と目が会うと微笑む。

「守くん」

 隆二さんは僕を犬でも誘うように手招きする。

 

 なんだそれっ!


 僕は無視しようとしたけれど、彼が何度もちょいちょいと僕の顔を見ては手招きするので仕方なく傍に行った。


「なんですか?」

 僕が少し膨れっ面なのもお構いなしに、隆二さんは僕の楽屋に行こうと言い出した。


「これ、プレゼント」

「えっ……」

 僕の楽屋に入ると、隆二さんはさっきから後ろ手に持っていた白い箱を差し出した。

 テーブルに置いて一緒にその中を見ると。

 

 あ……。プリンだ……。


 くうぅぅ。僕はプリンが三度のご飯よりも好きだ。


 あの柔らかな少し肌色っぽい丸いフォルム。頭の上にちょこんとのったほろ苦いカラメル。

 それらが混ぜ合わせになって口に入れると滑らかで僕の舌の中で踊りだす。


 そのまったりとした瞬間をずっと気持ちよく浸っていたいのに、あの子達はそんな僕の口の中で軽く微笑みながらのどの奥にすぅって、あっという間に、信じられないくらい切ないスピードで滑り落ちてゆく。


 僕が「待って! お願いっ、行かないでーー!」と叫んでも、彼らは僕に気持ちよさを残したまま、またねーーって去っていくんだ。


 ああ、切ないっ。でもそんな彼らが愛しくて僕はたまらなく好き……。


 僕が今にも涎をたらしそうにそれらを見つめていたら、隆二さんがくすりと笑った。

「銀座で有名なお店のプリンなんだけどね、すごく美味しいんだ、一度は食べなきゃ損な物だよ」

 隆二さんはにっこりと笑って僕にそれを箱ごと渡してくれた。


「さっ、全部君のだ」


 僕は満面の笑みでそれを受けと……。

 とととっ。危ないっ。


「う、受け取れませんっ、そ、そんな人をからかうような人にっ」

「え?」


 僕はうっかりまた騙されるところだった。


「隆二さん、昨日僕をからかったんですね? 瑠璃さんから全部聞きましたよ!」


 僕が軽く睨むと隆二さんは不思議そうな顔で僕を見る。


「何言ってるんだ? 僕ら恋人同士だよね?」

「はい?!」

「違うの? 今日から僕ら付き合うって話しだったよね?」

「話しだったって……」

「好きな人にその人の好きな食べ物プレゼントして何が悪いの?」


 一体どうしちゃったんだ、隆二さん。

 ていうかどうして僕がプリンが好きだって知ってるのだろう……。


 隆二さんが箱の中身を見ろ見ろとばかりに誘う。

「ほら、見てご覧。普通のプリン以外にも、抹茶プリンに、バナナプリン」

「抹茶、バ、バナナ……」


 僕は彼と箱の中を覗き込んで思わず唾を飲み込んだ。


「ほら、そしてこれは、フルーツたっぷりのスペシャルプリンだよ」

「ス、スペシャルっ……」


 プリンの周りにクリームだけでなく、メロンとかチェリーとか桃とかがそれぞれ主張しあってツンと立ち上がって主張してる。

 芳しい香りに乗せ、それらは透明な蜜と一体になって妖しくも艶やかに僕を嬉しそうに見上げながら誘っていた。


「ああ、プリンが笑ってる……」

 僕は思わず喉が鳴り、頬を赤らめてしまった。

 隆二さんはそれを聞くとポットのお湯を急須に入れながら満足そうに笑みを浮かべていた。


「はい、お茶」

 隆二さんは笑顔で僕にそのスペシャルをまず一つ、と勧めてくれた。

 ドライアイスの真横にあったそのプリンは、手に取るとひんやりと冷たい。スプーンを持つ手が震えた。


 結局僕はプリンを裏切る事などできなかった。


 スプーンですくって少しバツが悪そうに、でも内心嬉しい。

 口に入れた瞬間に舌に広がるクリームとプリンの食感に思わず目を閉じると、そこはまるで夢の国だった。

 僕はそこですっかり骨抜きになる。ひたすら舌鼓を打つ。プリンをすくう手が止まらない。

 ああ、まさに至福の時。

 これは別に隆二さんが好きだからじゃない、プリンを裏切れなかっただけなんだ。

 でも僕がプリンを食べるのがそんなに楽しいのか、彼は凄く嬉しそうだ。

 自分の好きなことしてくれた相手を嫌う人っていないよな。


 ああっ、騙されちゃいけない。こうやって彼は自分のペースに相手を嵌めちゃうんだ。ダメだ。

 そんな簡単に人の心は動かないぞ。


 隆二さんはにっこりとしながら、僕の目の前の椅子に座って、頬杖をついた。

「僕は色々な悦に浸る君が見たいんだ。どう? 今の気持ちよかった?」

「なっ」

 低く耳元で囁くように問いかける隆二さんに思わず、体の芯がぞくりとし耳が真っ赤になった。


 恥ずかしげもなく、なんてこと言うんだこの人は!

 そ、そりゃ、これは確かに僕にとっては凄く嬉しい事だけど。


「おーお前らやっぱりここにいたか。守、明日はちゃんと隆二とチューしろよ」

 ひょっこりと通りがかった海倉監督が顔を覗かせる。

「うあっ」

 監督がいきなり出てきて驚かすから、思わずプリンに鼻先を突っ込んだ。

「おー隆二、早速餌付けか? やるなぁ」


 隆二さんはめんどくさそうに監督にあっちへ行けという態度をした。

 ああ、監督だ僕がプリンが好きだって、隆二さんに教えたの。確か履歴書に書いたんだっけ。


 監督は含み笑いをすると直ぐにどこかに行ってしまった。


 気を取り直した隆二さんがこちらを振り返ると僕の顔をじっと見る。

「あ、守くん、鼻先にクリームついちゃってるよ」

 隆二さんが微笑んで指で軽く鼻についたクリームをすくうとペロリとそれを舐めた。


 あ……。


 僕はなんだか気恥ずかしくなって俯いた。

「今チューの練習したら、プリンと沢山の甘い果実の味の、スペシャルなキスになりそうだね」

「うっ、あ」


 はー。なんか調子狂うな。


 と、海倉監督が開けっ放しにした控え室のドアから半分怒り顔の男の人がじと目で隆二さんを睨んでいるのに僕は気づいた。

 どうやら監督のいきなりの登場はその人の道案内ついでだったらしい。


「隆二さん」

 隆二さんはその人影に気づくと、焦ったように机の下に入り込もうとした。


「今更隠れても無駄です。どこで油売ってると思ったらっ、これから写真撮影とファンクラブ代表の人と会わなきゃいけないんですよ、その後は東都ラジオ!」


 その人は懐から手帳を取り出すと、立て続けに今日のスケジュールらしきものを読み上げだした。


 佇まいは穏やかそうな30代くらいの髪の短い男の人で、スーツをきちんと着こなしている。


「潮野、もう少しだけ待ってくれ」

「待ちません! 今日の午前中だっていきなり体調悪いからってキャンセルして、確かに延長できる仕事だったからよかったもののですね!」

「台本はもう覚えたよ」

「覚えればいいってもんじゃないでしょう!」


 彼の勢いに僕もスプーンを持つ手が止まった。

 僕の存在に気づいたのか、潮野という人はコホンと一つ咳をして、僕を見た。


「あ、すみません、私はこういうものです」


 名刺を差し出され、僕は慌ててプリンをテーブルに置いて、受け取った。


「プロダクションY.T、マネージャー潮野陽一」

 この人隆二さんのマネージャー?!


 潮野さんの勢いに流石に隆二さんも折れたのか、彼に手綱を掴まれるような勢いで部屋から連れ出されようとしていた。

「守くん、またね」


 一体なんなんだ。

 僕はそのまま帰ることにした。

 隆二さんはそういえば有名な俳優さんらしい。

 らしいというのは僕の家にはテレビが無いからここ数年まともにテレビを観てない。


 帰り支度をしてスタジオの玄関口から表に出たとき、僕の目の前に善之助くんが待っていた。

 一瞬体の奥がどきんとなったけど、ここで逃げ去るのも不自然な気がした。

 善くんはこちらに肩を揺らしながら歩いてくる。思わずその姿に学生時代の制服を着た彼が重なった。


「守……」

「善くん……」


 二人で黙ってしばらく帰り道を歩いた。

 僕は善之助くんになんて声をかけたらいいのかしばらく悩んでいた。


「守、この間はごめんな、その、何か俺気に入らない事また口走っちゃったみたいでさ」


 僕は黙ったまま首を横に振る。


「昔からそうだよな、俺ついつい好奇心からはっきり物言っちゃって、結構相手を傷つけてる……」


 僕が袋をがさがささせて歩いていたので、ふと彼はそれを見つめた。

 ボロボロの僕のカバンとは似つかわしくない高級そうな紙袋だったからだろうと思う。


「ところで、それ、何?」

「あ、これ、プリン」


 僕が箱の入った袋を上げると、善之助くんは顔をくしゃりとさせた。


「お前、相変わらず好きなんだなプリン、昔よく作ってたよな」

「うん。でもこれは美味しいお店のだよ、あ、そうだ善くんも一つ食べる?」

「いいよ、お前大好物なんだろ? お前が全部食えよ、もらったんだろ?」

「いいって!」


 僕が袋を開けて善くんに中を見せる。

「好きなの選んで」


 僕の様子を見て、善くんはほっとした顔を見せる。


「よかった。俺すっかり嫌われたかと思った」

「え……」

「今更なんだよな、本当に。でもさ、どうしても聞いて欲しくて。俺、本当はあの後謝ろうとしたんだ、何度も。だけど、まごまごしているうちにお前が女の子と付き合いだしたから……声をかけるきっかけなくしちゃった」

「そう、だったんだ……」


 なんだかこの距離感が懐かしい気がした。


「卒業した友達とかみんなどうしてるの?」

「あ、ああ。結構上京してきてる奴多いぜ、同じ大学に通ってる奴もいるし、そういう俺も実は実習でさ、来年大学卒業するんだ」

「そっか……みんな凄いんだね」

「そんなことねぇよ、お前のが凄いよ」

 彼は腕を後ろ頭に組みながら空を見上げた。空はどこに行ったって色は違えど同じだ。


「なんか懐かしいな、時間が戻ったみたいだ」

 僕は彼の言葉に胸がきゅっと締め付けられる。


 少しだけ彼は周りを気にしだす。誰もいないことを確認すると、不意に手を握られた。

 とくんと胸の鼓動が早くなる。

 体が思うように動けない。

「……もう卒業したんだし、何がどうなっても誰もはやし立てないよな?」

 そう言って笑顔を向ける。


 え……。

 僕は心臓が高鳴った。


「よかったら、また守に色々して欲しいな……ダメかな?」


 ぎゅっと手を強く握られた。振りほどこうとしても体力に差があることはわかっていたからできない。動揺も止まらなかった。

「ぜ、善くん……」

 体の芯がきゅんとなる。切なくて滾ってくる。

 どうにもならない隠せない気持が表に出てきそうで怖くなる。


 駅に着くとそっと名刺を渡された。

「もしよかったらここに連絡して」

 そう言って背中を軽く撫でられた。方向の違うホームでそれぞれが違う電車に乗る。僕はしばらく彼の手のぬくもりが忘れられなかった。



『君のこと、なんか昔の自分を見ているような気がするんだ。君はどこかで何かを否定しながら生きているような気がして……』


 僕は隆二さんが言っていた言葉を思い出した。

 僕は自分の心に蓋をしている。その先を見るのが怖かったから。


 でも逃げたらいけないのかな。僕がこんな風に芝居に関わるのも、神様がそっぽをむいたらいけないって言ってるのかもしれない。

 そんな風に少しだけ前向きになれたような気がした。




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