第3話 ボーイズラブドラマ
翌朝ほとんど眠れず、お金は何かバイトをして返すことにして撮影所で今回の事を丁重にお断りしようと部屋のドアを開けると、人の気配がした。
そーっとその方向に顔を向けると、僕の家の前の生垣に見慣れた男が仏頂面で立っていた。その男は僕が出てくるのを見計らったかのように、目が合うと大柄な体を揺らして近づいてくる。太い腕、大きな手、手の甲は毛むくじゃらだ。
片手に小さなブランデーの瓶を持っていた。僕の姿を見留めると、分厚い口元をニヤリと緩める。
「よお、さっさと残りの借金返しな」
「え? だって、この間返したばっかりじゃ」
「あんなしけた金額で足りるかよっ、舐めてんのか?」
男は借用書と書かれた紙を、僕の鼻面まで近づけた。
想像してた以上の金額が記されていて、僕は目を白黒させる。声も出ない。
「だから言っただろ? 早く払っちまった方が身のためだぞ」
「こんな、いつの間にっ、だって!」
その時悟った。僕には今の仕事を断る権利などないという事を。
そして今、僕は指定されたシャワールームで体を洗っていた。
でも、温水が伝う腕に手をそっと触れるともう今から震えていて、思いを巡らすと泣きたくなり、晒された肌に鳥肌が立っていた。
泣きそう。どこか遠くへ行ってしまいたい。誰かこれを現実ではなく夢だと言って。
スタジオ内は暗く、中央に幾つも連なったライトが屋敷内の部屋のセットを照らしている。どこかの部屋らしく脇にベッドが置かれてあり、それを見ただけで心臓の鼓動が否応なしに早くなる。緊張と言う警戒音が僕を押しつぶしそうだ。
何人かのスタッフが機材の準備をしていて、チェック用のモニターも見えている。
僕は養成所でドラマ撮影の話は聞いたことがあるので、なんとなくイメージではわかっていた。
けれど、この空気を感じるのは初めてだ。それは舞台のそれとはやはり少し様子が違う。人の密集度が違っていた。
明るい中央にストライプのコットンシャツを着た滝川さんがスタッフと何か話し合ってる。
すらりとした身長にきめ細やかな肌質、角ばった骨格。脚も腕も長い。お菓子で例えたらお酒入のビターなトリュフかもしれない。世の中には色々な姿かたちの人間がいるけれど、彼の存在は周りから見ると際立って美しい。
男の人に美しいなんて形容詞使ったら、人によっては気分を悪くさせちゃうかもしれないけど、服を着ていても彼の体のラインの男らしい美しさにため息が出る。背も高くてたぶん180cm以上はありそうだ。
僕は170cmちょっとで姉よりも背が低いから少しコンプレックスがある。この妙に細いウエストも嫌だ。
彼も背が高かったな。背中が広くて、優しかった。
僕は今自分が置かれてる状況と、過去の記憶がシンクロしてしまっていた。
同時に辛酸を舐めた思い出がこみ上げる。過去の気持の整理ができていない状況で、流されに流されて、同性愛のドラマをやってくださいなんて、割り切ろうと思ってもなかなかできるもんじゃない。
しかも相手は綺麗すぎる寡黙な石膏像のような人。
ああ。神様は僕を試しているんだろうか。
これは現実ではないよね? 嘘だと、夢だと言って。
そんな僕の気持ちなどおかまいなしに、刻々と準備が整っていく。もう撮影が始まる頃には僕は少しおかしくなっていた。だって開き直って笑うしかないじゃないか。
各シーンをどういう段階で撮るのか、俳優の僕たちはわからない。
撮影ごとにスケジュールや、都合のついたセットが空いた時などを見計らって撮影は行われる。
カメラの人や音声さん照明さんなどが構える。僕は舞台と違い、ドラマは初めてなので、スタッフの人との距離の近さに驚く。
「シーン13カット、用意スタート!」
開始の合図はセカンド撮影助手の人が行う。カチンコが鳴ると撮影がスタートした。
まずは部屋の隣にあるセット、屋敷の部屋の前で滝川さんとすれ違うシーン。
真面目にしなきゃいけないシーンだったのに、僕はこの非現実的な世界に少し笑ってNGを出してしまった。
「春原くん、どうしたの?」
滝川さんがちょっと怖い顔をしてたけど、撮りが終わった瞬間も壊れた時計みたいに笑いが止まらなくなった。
「何が、そんなに可笑しい?」
「え、あ、すいません。なんかこういうのって笑っちゃって」
そうそう、あの時彼も言ってた。
僕は同性愛者じゃないって。そうだよね、そうだ。なんかおかしいや。なのに今この瞬間の僕って何? なんなの?
「なんていうかこういうの僕みたいな普通の男に。ありえませんよねぇ。馬鹿みたいで、笑っちゃいますよねぇ!」
完全に自虐的になっていた。
もう自分でも少し変だと思ってたけど、笑うしかない。
「春原くん……そんな嫌なら止めたら?」
「えっ」
「悪いけど、僕もやる気のない人とは付き合えないよ」
隆二さんはどこか面白くなさそうな顔で、ふいっとその場を離れてしまった。
すぐさま僕の頭にポーンと軽く何かが当たった。振り返ると海倉監督が台本を片手に苦い顔をしている。
「守くんよー隆二にその発言はないだろうよ、あいつ見た目よりナイーブなんだぞ?」
「え、あ? す、すみません」
僕はわけがわからない。
「奴はこういうドラマ久しぶりなんだ。俺との昔のよしみでね、これで最後にするって話で承諾してもらった」
監督はつまらなそうに去っていく滝川さんの後ろ姿を見ながら続ける。
「奴は最近は普通の俳優業の方に進出してるから、もう今回の作品でこの世界からは脚洗うんだ。あれでもかなり大人になったんだぞ。入りたての頃はそりゃもう自暴自棄になっていて酷かったもんだ。まぁ、そんな昔の事はもういいけどな」
このドラマは連続物としてネット公開するそうだ。最近そういうのが流行っているのだろうか?
素人の人もネットで自分の番組を提供するような時代になっているから、プロは大変だ。
そしてとうとうそのシーンが来てしまった。
スタジオの部屋の中のセットは実際入ると思ったよりもこじんまりしていた。 天井には色々な照明があり、音響なども整っている。ベッドが目に入りドキリとする。
先ほど怒られた事もあり、僕は増々彼に対して萎縮していた。
少しだけ恥ずかしいけれど、お、男同士だしっ。
あはは。いや、こんな体験そうそうないじゃないか、そう思えば。
俳優になるんだから、こ、これも経験だしっ。否が応でもやらなきゃいけないのが俳優だしっ。
支度を終えた滝川さんがラフな白いシャツを着た姿ですっと部屋に入ってきた。僕は少し意識してしまう。
ベッドに僕に背中を向けて座った。スタイリストさんが、彼の髪を整えている。
その時僕はその広い背中に、記憶の片隅に押し込めていた、もう忘れ去ろうとしていた想い出が鮮明に蘇った。さっきは笑って誤魔化した。けれどもうそれは通用しない。
こういうのを何て言うのだろうか、古傷が痛むというのだろうか。
滝川さんが僕をちらりと横目で見た。視線が合った僕は思わず俯いてしまう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
でも時間は待ってくれない。
「シーン30、用意、スタート!」
セカンド撮影助手のカチンコの合図音が鳴り響くと、滝川さんの綺麗な指が僕の背中にそっと触れた。
それだけで僕はびくりと反応してしまう。
「こっちへこい」
打ち合わせも何もなく、僕はいきなり彼に引き寄せられた。僕は氷のように動けなくなる。
彼の視線が鋭くて、さっきの事も謝りたくて……。
彼が僕に口付けしようとしたのを僕は思わず避けてしまった。
「……っ」
彼は改めて僕の口にキスをしようとしたけれど、僕はまたするりと避けてしまう。
だ、大丈夫。キ、キスくらいで。
で、でも。だめだ、もう目の前が真っ白で、自然に身体が震えてきて動けなくなった。
情けない。恐い、死ぬほど恐い。自分でも頭の中がぐしゃぐしゃになり、過去の彼の顔が浮かんだ。自分の中で抑え込んだ感情が混ざって自分の中で閉じ込めた感情が暴れ出す。
拒絶された世界に僕は納得したはずなのに、どうして今はそれが正当化されている世界にいるのか……。いや、でも今はそれは芝居だ芝居だから、この人も芝居だと思っているんだ。
ならいいじゃないか、できる芝居は偽の感情だ偽の感情なら作った物だそれならできるはずだ。なのにどうして? 体が固まってできない。心が拒絶する。
滝川さんは、目を伏せると小さく僕にしか聞こえないようにため息を漏らした。
僕はなんだか泣きたくなってきた。
そしてさっと綺麗な長い指がぐっと僕の顎を少し乱暴に掴んだ。真剣な眼差しで見つめてくる。
僕は口の中が次第に乾いて来て、震えて歯がガチガチした。滝川さんにそのガチガチが聞こえているんじゃないだろうかと思うと、情けない。
彼の手がとても温かい、ということは随分僕の体が冷たいのだと思う。唾も飲み込めない。
あまりの緊張にセリフもうまく出て来ない。身体も緊張してすでに涙声。
その声も震えてセリフも上手く言えずに、どうしたらいいか頭が真っ白になった。
滝川さんは僕のシャツのボタンを一つ一つ外していく。僕の肩が露になる。スタジオの中は暖かいはずなのに、僕の手足は冷たくなっていた。
体は石みたいに固くなるばかりで、恐怖心で死にそうだ。
恐い。とても恐い。誰か。
そしていよいよ彼が僕のズボンの前を外し、軽く降ろした。下着姿になる。
……神様!
僕は普段はトランクスを穿いているのだけど、その時はブリーフを穿かされていた。
で、でももう意識が真っ白で半分パニックになっていた。
色々な感情が押し寄せてきて混在し、自分が何がなんだかわからなくなっている。
「俺がどれだけお前が好きかわからせてやる」
滝川さんのセリフが入るけど、それにすら反応できなくなっていた。
一旦止められた。リテイク1。カチンコの音がスタジオに響いた。
「緊張しているんだな、仕方ないね~!」
カメラを構えている撮影スタッフと海倉監督が笑い、他のスタッフも笑う。
けれど、僕には同じように笑う気持ちの余裕がなかった。
そして何度も同じシーンをされる。
りテイクが7を超えると流石にスタッフの間から重苦しい空気が立ち込めて来た。
みんなの雰囲気が恐い。できないよ。
滝川さんのシャツ越しの胸板の厚さや、男特有の汗の匂いで、男の人とこれだけ至近距離にいたのはあの頃以来だと、僕はふわっと時間が二年前に遡った。
滝川さんの僕の顎を掴む手が緩む事はなく、僕は引き寄せられ、今度こそ、キスされそうになる。
僕らの互いの吐息が聞こえてきそうなほど近くにきたその時、思わず目を硬く閉じた。
その時、甘酸っぱくも辛く切ない昔の思い出がこみ上げ、抑え付けていた感情の片鱗が唇からつい漏れてしまった。
「……善くんっ」
もう少しでキスしてしまいそうだった滝川さんの吐息だけが感じ、彼の動きが止まった。
更にスタジオが重苦しい雰囲気になった。
消えてしまいたい。目の前の世界が滲んで、声も掠れて出ず僕はもう体の震えが止まらなくなってしまった。
「ストップしてください」
「え?」
「どうしたんだ? 隆二」
海倉監督が不思議そうな顔で隆二さんを見た。
「すみません、今日はどうも僕の体調が悪いみたいで」
えっ、えっ。
滝川さんは側にあったタオルをそっと僕にかけてくれた。
そして軽くふっと体の力を抜いたような息を吐きながら、初めて僕に素で柔らかく微笑んでくれた。僕は緊張の糸が切れたみたいに、じんわり涙が滲んでしまう。
滝川さんは立ち上がると、そのままスタッフのところへまた話をしに行ってしまった。
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