ビー玉

「まーくんにお願いがあります」

 五度目のキスをし終わった後、彼女は地に足を付けて歩きながら僕に言った。

「な、なに?」

「――私を、山崎咲を殺してください」

 僕はぽかんとして、ただ聞き返した。

「何? えっと……? サキ?」

 サキはそんな僕を見てまた笑い、コンクリから飛び降りて後ろに手を組みながら砂を鳴らし始めた。サキは僕の質問に答えずに話しを始める。

「まーくんにこの島のこと、教えてあげるね」そう言ったサキのその瞳は、とても淋しそうだった。それを僕に見えないように一度拭ってから、サキは話を続けた。「この島に来た人たちはみんな過去の記憶がないの。まーくんもまだ、自分のことが、どうしてここに来たのかが分からないでしょ?」

 そういわれて僕は、確かに自分が何者で、何をしてきたのか、本名さえ思い出せなかったからその通りだと思った。皆がまー君、マサなどと呼ぶから自分の名前がマサだと思っていたが、何かが違う気がした。

「ここに来る人間はみんな、自分の時間を生きられなくて、生きることが辛くなって逃げ出してきた人ばかりなの。まー君も私もそう。現実世界で生きることを諦めて、死を選択して、だけど世界に拒否された人間が流され辿り着く島――それがスピッツベルゲン島なんだよ」

 この島は、死んでも、死後の世界に行けず、まだ生きているのか死んでいるのか分からない中途半端な人間がいる島。

 サキはそう言う。 

 さらに僕がサキの言葉をそのまま信じるのならば、僕も現実世界で自殺を図っていることになる。

「この島を出るためにはそれを思い出す必要があるの。そして、再び自分の時間を生きる覚悟が出来た人だけがその資格を得られる。その覚悟がない人はいつまでもこの島に残ったままだし、出ることは一生出来ない」サキは僕だけに微笑み続けている。

「思い出すことさえできれば、この島から出られるの?」僕は不安な声で尋ね、案の定サキは首を振った。

「殺されないといけない。この島の住人に自分の過去を話して、それから殺してもらうこと。私はまーくん、あなたに私を殺してほしい」

「な、何で殺さなきゃ……」

 僕は何とか否定しようとするが、

「だって、私はここにいるから。ここにいる限りは、私は元の世界には戻ることは出来ない。現実で生きるためには、ここに居る私は死なないといけない」

「ずっとここに居るわけには――」

 サキはただ僕を見つめ返すだけだった。

「あたしは現実世界では九年も生きた。こっちの世界ではすでに八年経ったことになるわね――まー君は十六だっけ? 今は私の一個下だね」

 彼女の話すことを鵜呑みにすれば、サキは九歳ですでに自殺を図ったらしい。

「思い出したことはとても少なかったわ。父が『そうか』って私に言うことと、母が『そう』って私に言うことだけ。どれだけ私が父や母に小言を言っても相手されなかった、それが私の過去」

 僕は下を向いて聞いていた。ただ聞いてあげることしかできなかった。胸ポケットのナイフを必死に隠しながら、ただ聞いていた。

「その当時の私の世界は、私と母さんと父さんでできていたから、まるで生きた心地がしなかったわ」

 生きている意味が分からなかったから、だから生きることを諦めた。

「この島ではね、たくさん世の中を知ることが出来たの。これでもほんの一部で、まだまだ見ていないところがあるとか知ったら、おちおち死んでなんていられないと思ったの」

「九歳に戻るの? それともいまのまま?」

「さぁ、それはやってみないと分からないな。やったことないから」

 このとき、僕はサキのことを何も知らなかったんだと思った。知りもせずにあれこれ考えていたのかと思えば、それはあまりにも愚かだった。

 サキは砂浜に寝転がった。大の字になって寝転がって、それからこちらへ両手をのばしてもう一度言った。

「お願い、私を殺して自由にして」

 僕は空色のナイフを取り出し、鞘を放り投げてサキの上にまたがる。サキの服が湿ってシミになり、僕はその目印にタマシイを見つけた。まるいビー玉にナイフをしっかりと当てて、それからそのまま力で突き通した。感触は一切なく、ただ僕の下に居た、僕の一生を狂わせた彼女がバチンと割れて夢のように消え去っただけだった。後には真っ赤に染まった海と虹を描いて転がっていた僕だけが残った。

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