海とピンク

 島にはシズカリ海岸という、踏むとキュルキュルと鳴く〝鳴き砂〟で有名なばしょがある。僕は咲と二人きりでこの海に来て、二人きりでコンクリの道に座っていた。僕にとって、この二人というのは非常に重要である。如何せん自分はこれでも春を真っ青に染めることに憧れる年ごろで、ここで僕が彼女を連れ出したとなれば最高にかっこよかったんだが、残念ながら僕は連れてこられた方である。

 僕と咲の関係はこの島の学校におけるクラスメートというもので、当然のように、僕は一方的に本屋の平積みを蹴飛ばして散らかった中から拾い上げたような、そんな片想いを彼女に寄せていた。

 僕が彼女に出会ったのは約一月前。気がつくことができれば一番よかったのだが、気づかないうちに僕は見知らぬ場所にいて、混乱する間もなく島にいた。少し広めの、住民の憩いの場となりそうな広場のベンチに座っていて、後ずさりしても頂上が見えない塔を眺めていた。

「この塔のこと知ってる?」と彼女は言う。

 このときもすぐに気がつくことができれば一番良かったのだが、気づいたときには隣に彼女がいたのだからそれは無理だった。

「初めて見るよ、こんな高い建物」と僕は本当のことを言う。

「初めて?」と彼女は僕に尋ねる。

「うん。初めて」僕は初めて彼女を見て言った。肩を越えた黒髪とそれを掻きあげる腕を、この時僕は初めて見て、そして美しいと思った。

「そっか、君も自分の時間を生きられなかったんだね」彼女は僕から目を逸らして言った。

 それから僕は、彼女の手助けを借りながらも、なんとかこの島で暮らす準備を整え、学校に通うようになった。無理して学校に通う必要はないよ、と彼女に言われたが別に学校は嫌いじゃなかったから通うことにした。僕はそこでナギサに出会う。

「そうか、マサは毎日が楽しそうだね」ナギサはひじを付きながら僕に話しかける。

「ケーキにわさびを入れられたことが楽しそうに思えるかい?」僕は溜め息をつく。「天地がひっくり返るとはまさにあのことだよ……」

「でも、賑やかだったのだろう?」ナギサは相変わらず、微笑みながら微笑ましそうに僕を見ている。

「そりゃあ、もう大騒ぎだったよ」僕は少し大袈裟に言う。

「それは、楽しかったんだよ。喜びがなければ、それはただ〝やかましい〟だけだからね」ナギサは澄ました顔でさらりと言う。

「そんなものかなぁ」

「そんなものさ。この島でこころから笑える人は少ないからね。君はとてもラッキーなんだよ」

 ナギサは僕の硬い髪質とは違い、とてもさらさらした髪を持っている。とても頭がよく、特に数学に関してはお世話になっている。この学校における僕以外の唯一の男子生徒で、話し相手兼相談者だ。

「まーくん、まーくん。今日の放課後空いてる?」僕らがどうでもいい話をしていると、サキは女子同士の会話を切り上げたらしく、こちらへ向かってきた。

「今日はどこへいくんだい?」

 サキは今日も僕をどこかに連れ出すようだ。昨日は彼女の家でケーキパーティ、一昨日おとついは川で魚釣りだった。夏休みでさえ、ここまで遊び尽くしていたことはなかったから、少し疲れてきていた。

 とっておきのところ。まーくんがこの島でまだ行ったところのないところだよ」

 これが、サキに初めてシズカリ海岸に連れてこられた時のことだ。


 ***


「鳴き砂って知ってる?」サキは前方を走る自転車から僕に叫ぶ。「踏むと〝キュルキュル〟って鳴くんだよ」

「何それ」僕も少し叫び気味で返事をする。「知らない」

 学校から下り坂を、自転車の転がるままに下って行った。僕は郵便局のところでサキが右に曲がったので、それに倣ってハンドルを切り、二つ目の交差路で左に曲がって行ったサキを追いかけて行った。

 確かに、僕は南側を訪れたことが無かった。

 学校の男子寮は北側だし、以前魚釣りをした川も東側の山の中だった。

「ほら、みえた。海だよ」

 学校はやや高台にあるので、海はさっきから見えていたのだが、サキが言いたいのは着いたということだろう。

「ほら、すごくきれい」

 サキは自転車から降りて、靴を放り投げると砂浜へと駆け出していった。僕はサキの靴と靴下を一緒にまとめて自転車のそばにおいて置いた。きっと彼女は何度もここに来ているはずなのに、ここまではしゃぐのはこの景色を僕に見せたかったからだろう。確かに美しい砂浜の海岸だった。

「……あ、ほんとうだ。キュッキュッって鳴ってる」

 僕も裸足になって砂浜に足を突っ込んだ。小さな玉砂利がこすれ合って悲鳴を上げている。

「ね、不思議だよね」

 僕とサキは互いに足踏みを繰り返し、その音が鳴るたびに互いに笑いあった。僕はサキのその笑顔に夢中になって、追いかけて、走りながら海をチラリと見た。

「おそいぞー、おいてくぞー」

「あっ、ちょっと待って」

 神様が退屈になってあくびをしそうなぐらい、この時の僕は楽しかった。


 ***


 サキは今日、学校を休んでいた。風邪を引いたのだと担任は言っていて、ナギサは彼女の体のことを心配していたが、ぼくは何か違うような気がしていた。僕の積もる想いは余計な感情ばかりを生み出し、伝えたい気持ちがなぜか溢れそうで狂いそうだった。

 サキが学校に来たのは、放課後になって僕が帰り支度をしていた時だった。突然、教室の戸を開け放ったと思ったら、実はそんなに注目されるつもりじゃなかったらしく、少し戸惑いながら僕のところへ来た。

「ここじゃ話せない大事な話があるから、この間の海岸に来て」

 その表情は僕に拒否権が無いことを示していた。サキはそれだけ言い放つと、早足ですぐに教室を出て行ってしまう。

「きっと、君にとっていい話だよ。ほら、早く追いかけないと」

 ナギサは僕にそう言って僕を走らせたのだ。


 ***


「ここに来るのは二回目だね」

「そうだね。わたしはここが好き。何度だってここに来たい。だって、綺麗だもん。波とか砂がキラキラを隠しているんだよ」サキは頑張っていて、それは嘘つきだった。

「なに、それ」

「実は私って、ロマンチックなのよ」サキのこえは僅かに震えており、僕にはそれが分からなかった。

「どっちかというと、ポエマーじゃないかな」

「詩人とかステキっ」

 僕はギリギリで作った愛想笑いを向けられて、同じようにギリギリでいることしかできなかった。


 僕とサキは砂浜には一切下りず、まだコンクリの道の上に座っていた。どうにもしがたい空気の中、どうしようもなく足をプラプラさせて、僕は彼女の様子をチラリと伺いながら話し掛けようとした。

「その、大事な話っていうのは――」

 いきなりだった。いきなりだと思ったが、けっこうベストタイミングかもしれないと、すぐに思い直した。僕の愚問は彼女のキスによって塞がれ、無かったことにされた。

 そして僕はここで、やっと気づく。

 僕はもっと早く気づくことが出来ればよかったし、気づくべきだった。でもそんなこと考えても、今気づいたのでやっぱり無理な話だった。

 いや。

 多分、僕は気づいていた。心の底でどこか、熱望して、それに気づかないピュアなふりをしていたのだ。

 あれ、そうなのかな?

 ……もう、分からなくなってきた。でもすぐにそんなのどうでもよくなった。

「わたし、あなたのことが好き――マサが好きだよ」

 僕は彼女を見た。潮風に流されている黒い髪と、それを控えめに抑える腕。制服が波を打って揺れ、チラリとおへそが覗いていた。

 それから僕は、逸れるようにちょっと海を見て、今度はサキの両目をきちんと見て言った。

「僕もサキのことが好きだよ」

 二度目のキスは不思議な、謎の光に包まれながらだった。神様はきっと、また退屈してあくびでもしてるんじゃないかな。


 

 僕がサキを殺したのは、この告白の四十二分後のことである。

  

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