スピッツベルゲン島物語

小鳥遊咲季真【タカナシ・サイマ】

1st storys

ニノウデの世界

 スピッツベルゲン島。そこは、東京都より少し大きめの面積を持つ島で、周囲をどこかの海に囲まれている。山があり、谷があり、川があり、街があり、そして塔がある。それはとても高く、すごく高い塔だ。その高さはどれ程なのか、測った人がいないから誰も知らないし、住んでいる僕でさえ知らないのだから、きっとだれも知らないと思う。

 このようになんでもあるような気がする島では、人の数だけ腹が減り、眠くなって、エロくなる。うたの数だけ物語は存在し、交錯しながら続いていく。この島に来る人間は、その歩んできた道や程度は異なれど皆、どこかしらはみ出た人間ばかりで、余りものだ。無論、僕もその一人。なぜなら人殺しだからね。世間から隔離されて当然さ。

 僕の部屋の間取りは至って普通の1LDK。内装と呼べるほどの物は殆どなく、最低限の白物家電だけだ。唯一、生活感を感じられるのは清掃が行き届いているところぐらいだろう。 住むだけであれば東京の一人暮らしとなんら大差はなく、異なる点と言えば、この部屋には入り口がなく、窓がひとつあるだけということぐらいだろう。

 僕はたった一つの窓を全開にし、顔を出してなまぬるい風を浴びていた。すると僕は真向かいに何かある事に気付く。高層マンションさえ、後ずさりしないと見上げられないほどの高さなのに、一体何だろう。

「……ああ、窓か」

 窓だった。

 向かい側には確かに窓があって、次第に近づいてくる。さらに僕の理性を飛ばしたのは、その窓から彼女が顔を出してこちらを見ていたことだ。

「」

 彼女は僕に何かを言っているが、僕には聞こえなかった。何を言っているのかすごく聞きたかった。会えないと思っていたのに会えたのだから、おかしくなって落ちそうだった。

 世界一僕の心を揺るがすその顔は、ああ、全く変わっていなかった。艶やかな黒髪にもう一度触れたくて、手を伸ばすが、彼女は遥か先だった。

 手をおろすと、彼女はまだ僕の方をみて笑っていて、綺麗に保護されたニノウデの先の、手首のほくろが目に入った。冷たくって、柔らかだったニノウデを見ていると、僕は彼女の僕を寂しくさせる意地悪を思いだしてしまう。膝枕をするたびに感じていた感情はもう二度と僕に現れないのかと思うと、それがとても貴重に思えてしまい、僕は心の奥に鍵を掛けて大切にしてきたものを握りしめた。

 すると、僕の右隣に僕が現れ、彼女と話を始めた。僕が見ている僕は口を懸命に開いて動かしているが、僕には声が聞こえなかった。彼女は僕の口が変化するたびに表情を変え、その口を動かして会話を続けているようだった。僕は二人の会話をただ見ていることしかできなかった。

 僕が見ている僕は笑っていた。

 彼女も笑っていた。

 僕はこの光景を知っている。僕が定義できる幸せがあるとするならば、きっとこの時しかないからだ。

 このとき、彼女は何の話をしていたんだっけか。

 僕は?

 僕は確かこのとき——。

「あのさ——」

 僕が口を開いたときにはもう、そこに彼女はいなかった。

 何もなかった。ぎこちなく首を動かして見渡しても、何もなく、いつも通りの島の光景で僕は固まった。

 僕の妄想は不意に途切れてしまった。

「無駄なのことを……」

 それは白いカーテンがたなびくだけで、今更思い出を思い出しても、もうどうにもならないのは僕も分かっているはずなのに。

 僕は窓を閉めた。

 窓を閉めるとき、何かが僕の頬に触れた気がして、目を凝らすと見えない何かがいた気がした。それは目の前で伸びてから縮んで、またどこかへ飛んでいった、そんな気がした。

「……!? サキっ」

 意思と意志と遺志で石のように固まっていた僕は、もう一度手を伸ばす。隠したナイフでいつか飛んだ空を切り取るために。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る