竜より邪悪な僕たちは
太刀川るい
第1話
喉をかき切られた羊が岩の上に横たわっている。昼下がりの強い日差しで、影はほとんど見えない。
さっきまで吹いていた風が急に止んだ。静寂の中、真っ赤な血だまりが灰色の岩の上に広がっていく。
僕は投槍器を構えた。狙いの先にはぽっかりと空いた洞窟の口。ここまで来たならばもう後には引けない。仲間たちに緊張が走る。
腹立たしいほどゆっくりと時間が流れる。心臓の音が地鳴りの様に耳に響いた。
来た。洞窟の暗がりの中から巨大な影がゆっくりと日の元に姿を現した。
あせってはならない。あれの禍々しい牙がまだ体温の残る羊の死体に食い込み、骨を砕き、肉を引きちぎり、内蔵を引き裂き、そしてその巨大な顎で丸呑みするまで、絶対に気がつかれてはならない。あわれな羊があれの喉を通過し、胃袋へと向かうその瞬間を、僕らは石の様にじっと待つ。
骨が砕かれる音が響き、ヤツの喉が大きく上下したのが分かった。今だ。
僕らは一斉に鬨の声を上げて、投槍器を力一杯振り下ろした。
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「俺はあいつを殺す」
僕の幼なじみ、ゴルドレンドは妹の葬儀の後、僕に向かってそう言った。彼の目から狂気にも似た決意と、決して消えない憎しみを感じ取って、僕は思わず唾を飲み込んだ。
僕とゴルドレンドが生まれたのは山間の小さな村だ。山を抜ける街道沿いにあったので、そこそこ活気はあった。空気は奇麗で、夏になると緑の草原が広がる斜面に真っ白な羊が、空に浮かぶ雲のようにゆったりと草を食んでいた。
僕はそこで鍛冶屋の息子として生まれ、毎日親父の叩く鉄の音を聞いて育った。
対してゴルドレンドの家は小さな牧場をやっていて、主に羊飼いとして羊の世話を行っていた。近くに住んでいたので僕らはすぐに仲良くなった。ゴルドレンドは幼いながらもしっかりとした子で、自分の意見をはっきりと言い、対立を恐れず、そして聡明な子供だった。つまりそれは、生まれながらにして人を引っ張っていく気質の人間であったということで、遊びの中でも彼はいつも中心になった。
ゴルドレンドには妹がいて、よく僕らの遊びについてきた。のどかな村は丸ごと僕らの遊び場だった。広場を駆け回ったり、緑の斜面を上から下まで一気に滑り降りたり、僕らは毎日新しい遊びを考えては、それを全力で楽しんでいた。
でも、そんな遊びをしている時に、突然見張り台から警報の音が聞こえてくると、僕らは慌てふためいて家に帰らなければならなかった。警報装置の音色は子供心にとても恐ろしくて、それが聞こえてくると僕は母親に抱きついて泣いたものだ。
警報が鳴っている間は外に出てはならなかった。家の後ろに掘ってある壕に隠れ、そして死んだように息を潜めなければならない。そうしないと命が危ないからだ。そして、ヤツが僕らの家を壊したり、逃げ遅れた哀れな家畜をその牙で引き裂く間をじっと耐えた。耐えることしか僕らには出来なかった。
一度、壕の入り口近くをヤツが通ったことがある。本来ならば、壕に入るときはしっかりとした鉄製の蓋を閉めなければならなかったのだが、その日は慌てたおかげで蓋がうまく入らなかった。なんとか蓋をはめようと躍起になっていた時、壕の前を何かが横切った。
一瞬で心臓が縮み上がった。
鱗に覆われた灰色の巨体が視界を横切ったかと思うと、一陣の風が吹き、土ぼこりを巻き上げて僕の視界からヤツは姿を消した。
その間、僕は血も凍るような思いをして壕の中に伏せていた。ヤツが去っていってしばらくしてから、ようやく思い出したように体中から汗が吹き出した。
ヤツはある種の災害だった。
それも明らかに悪意を持ってデザインされている災害だった。鱗を持つ体。蝙蝠のような翼と、残忍で狡猾な瞳。そして恐ろしい爪と、牙。ヤツはドラゴンだった。
近くの山にドラゴンが住み着くようになってからもう随分立つ。僕らの祖父の時代にはもう住み着いていたそうだから、少なく見積もっても百年以上前からドラゴンは僕らの村を脅かし続けてきたことになる。
ドラゴンはこの地域の食物連鎖の頂点に君臨していた。いや、この大陸全土においてドラゴンは全ての生き物の頂点に立つ存在だった。
人々はドラゴンを恐れ、その生息地には決して近づかなかった。地域によってはその恐ろしさ故に神聖視され崇められてさえいる始末だった。すなわちドラゴンは神も同然だったのだ。ドラゴンを崇める人々を教会の聖職者は異教徒と呼んで非難したが、彼らを責めるのは酷なことだと僕は思う。
ふんぞり返って救いの手ををよこさない神様よりも、定期的に現れては死と絶望を振りまくドラゴンの方がよっぽど現実味があったからだ。
人々にできることは、せいぜいドラゴンが現れたときに逃げる訓練をしておくか、崇め奉り、定期的に生け贄を捧げることによって、その被害が自分たちに及ばないようにするぐらいのことだった。
もっとも生け贄を捧げたかといって、ドラゴンの襲撃が完全に止む訳ではなかった。
ドラゴンの像を飾り、毎日そこに祈りを捧げていても、ちょっとしたきっかけで町がまるごと炎に包まれることもよくあった。
そんなとき、ドラゴンの信奉者は決まって「私たちの祈りが足りなかったから」と言い、生け贄の数を増やし、またまたドラゴンの気まぐれで町を焼かれる羽目になるのである。
幸運なことに僕らの村では生け贄なんていう風習は無かったけれど、湿っぽい土の中でうずくまって、じっと耐える以上のことは何も出来なかった。それだけドラゴンは絶対的な存在だったのだ。
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