第38話 笑いの神

 満員なら三〇〇人以上は入ろうかという客席にお客は半分ほど……それでも平日なら良い方だと思った。 

 夏の寄席は冷房が効いているとはいえ、高座の上はライト等の影響で客席よりも数度気温が高い。最初は収まっていた汗も噺の最後の方では自然と汗が額に浮かんでいた。それを手元に置いたまんだら(手ぬぐい)で押さえると、噺の最後のオチを言って頭を下げて高座を降りた。高座の袖に戻る俺にパラパラと拍手が追って来た。まるで終ったことを喜んでいる感じがした。 俺の名は春光亭亮太。昨年、苦節一六年の末にやっと真打になったばかりだ。高座返しをする前座が袖で待っていて

「お疲れ様でした」

 と声をかけてくれた。もとより本音ではない、儀式みたいなものだ。楽屋に帰ると先輩や兄さん達に

「お先に勉強させて戴きました」

 そう挨拶をする。そう、これも儀式みたいなものだが、寄席は勉強の場なのだ。ワリと呼ばれる出演料も驚くほど少ないし、うっかりタクシーなんかで通えば足が出てしまう。落語会や自分の会では自分贔屓の客しか来ない。どうしても笑いに対して甘くなる。だが、寄席はそうではない。自分を聴きに来た客以外に自分の芸を見せることが修行に繋がるのだ。そんな客を笑せることが出きたら一人前さ。今日も半分は俺の噺を聴いているのかいないのか反応が薄かった。

 楽屋の前座に手伝って貰い着替えを始めると、他の一門の先輩が

「今日は良かったんじゃないの? 少しずつだけど上手くなってるよ」

 そう褒めてくれた。この兄さんは俺が入門した時に「立前座」と呼ばれる前座では一番上の先輩だった。何も知らない俺に色々な寄席のしきたりを教えてくれた。ありがたい……。

「ありがとうございます!」

「でも同期にあいつが居るからやり難いよね。まあ俺の一門だけどさ」

「はあ……」

 あいつとは俺と同期で入門した奴で享楽亭祐輔と言う奴だ。大学を卒業して師匠春光亭陽太に入門した俺と違い祐輔は大学を中退して享楽亭遊楽師匠に入門した。

 享楽亭遊楽と言えば落語界では名門中の名門で、代々の遊楽と言えば皆落語の歴史に残る名人ばかりだ。当代もその名声は日本中に響き渡っている。

 当然入門志願者も多いが、一門の決まりで数ヶ月見習いをさせて見込みがなければ辞めさせられる。だから祐輔は師匠の目に留まったのだ。先ほど俺に声をかけてくれた兄さんは祐輔の兄弟子である。祐輔は、やはり昨年俺と同時に真打に昇進した。それも、当初は一人昇進を打診されていたのだが、師匠遊楽師がわざと二年ほど昇進を遅らせたのだ。一人昇進とは抜群の芸がなければ勤まるものではない。その辺を師匠が考慮して昇進を送らせてまで勉強させたのだ。満を持しての昇進という訳だ。だから昇進してからの祐輔は人気が爆発して、何処の寄席でもトリを取らせていたし、大きな落語会でも引っ張りだこだった。今の芝居(興行)もアイツがトリなのだ。


 高座では色物の太神楽が終わりを迎えようとしていた。色物とは寄席では落語以外の芸を朱色の字で書くのでこう呼ばれている。つまり漫才も紙切りも慢談も色物なのだ。

 太神楽の二人の師匠が高座を降りて来ると一斉に「お疲れ様でした」と声がかかる。それと入れ替えに先ほどの兄さんが高座に出て行く。前座に見送られながら兄さんは高座に出て行った。この後は「仲入り」と言って休憩時間となる。その直前に出る噺家はトリと呼ばれるその日の最後の噺家の次に大事なポジションだ。実力がなければ勤まらない。俺などとは違う……。

 まして、仲入り後に出るなら兎も角、その前に出る俺のようなのは単なる数合わせに過ぎないことを俺は感じていた。

 寄席では初日、中日、千秋楽と終わると打ち上げがある。ようするに呑み会だ。トリの真打が費用を持ち、皆を誘って芸の話をしながら呑むのだ。それは建て前で、芸の話なぞはしない。皆自分の芸の不味い所は知っているからだ。

 それに真打昇進以来、あちこちでトリを取ってる祐輔とトリどころか、たまにしか寄席に出して貰えない俺とでは既に差が開きつつあった。

「十年に一人」とか「久しぶりの本格派」などと呼ばれて若手真打としてその地位を固めつつある祐輔の酒は気持ち的に呑む気になれなかった。

 先ほどの兄さんから

「打ち上げ行かないのかい?」

 と言われたが

「今日はこの後もありますんで」

 そんな見栄を張って楽屋口を後にした

 外に出るとやっと陽が暮れようとしていた。今日はこの後は仕事も用事もない。家に帰るしかなかったが、素直に帰る気にはならなかった。少し呑んでから帰ろうかと考えが浮かぶ。

 ぶらぶらと当てもなく歩いて良さ気な店を物色していると、不意に後ろから声をかけられた。振り返るとネクタイこそ締めていないがグレーのスーツ姿の男が立っていた。年は俺よりも幾つか歳上だと感じた。

「師匠、お帰りですか?」

 どこか陽気な声で思わず返事をしてしまった。普段ならこんな態度は取らないのだが……。

「ええ、まあ出番は終わりましたからね」

 そう返事をすると男は口角を上げて

「今日の『野ざらし』良かったですよ。久々にあの噺で笑いましたよ」

 俺も一七年噺家をやっていると、寄席にどんな客が来ていたかは高座に出れば判る。今日はこの男の姿は覚えが無かった。

「客席にいらしたのですか? 気が付きませんでしたよ」

 覚えがなくとも今日俺がやったのは確かに「野ざらし」だった。初日から今日まででこの噺を俺がやったのは今日が初めてだ。それから言うとこの男は確かに今日、寄席の何処かに居たのだろう。それだけは間違いがなさそうだった。

「あの噺で笑ったのは久々でした。最近あの噺をやる人は、八五郎がどこか白けていましてね、面白くないんです。噺家自身が自分の心の中で『こんな奴はいない』と思いながら演じてるんでしょうねえ。だからそれがこちらにも伝わって面白く無いのです」

 そんなことを言ったので素人とは思えなかった。

「随分お詳しいのですね」

「いや、これしか趣味がありませんでしてね。ところで、もしお暇ならお連れしたい場所があるのですがね」

 正直、初対面の男と一緒に何処かに行きたくはなかった。出来れば避けたかった。遠回しに断ろうとした時だった。

「師匠、私は決して怪しい者ではありません。それに、お酒とかの誘いでもありません。お見せしたいものがあるんです。決して後悔はさせません」

 見せたいもの? オレには想像がつかなかった。それに怪しい奴が自分から怪しいとは言わないだろうと考えた。ならば着いて行ってもそう悪いことにはならないだろうと考えた。

「何を見せてくれるのですか?」

「それは見てのお楽しみです」

 その時不思議にも、俺は俺は男に着いて行く覚悟をした。

「ではこちらです」

 男が歩き出した道は不思議なことに今まで俺が知らない道だった。この辺りなら寄席に来る度に幾度も歩いた道だが、こんな道は今まで気が付かなかった。振り返るとその光景も見知った街のものではなかった。それにいつの間にか陽が暮れていて商店街の街灯に明かりが灯っていた。

「何処に連れて行くのですか?」

 あまりの不安な気持ちに男に問うと

「大丈夫ですよ。私の後に着いてくれば何の心配もありません」

 そういってドンドン先に歩いて行く。仕方ないので覚悟を決めて後を付いて行くことにした。男は歩きながらも時々振り返り

「きっと師匠に喜んで貰えると思いますよ」

 そんなことを言って俺を安心させようとしていた。

 どれぐらい歩いただろうか? 随分歩いたと思えばそんな感じがするし、短かったと言えばそんな気もする。男はある建物の前で止まった。

「ここですよ師匠」

 そう言って右手で指し示したのはどう見ても寄席だった。おかしい、この辺りには俺が出演している寄席以外は無いはずだった。第一、都内に寄席は四軒しかない。国立演芸場を入れても五軒しかないのだ。

 寄席の入り口には噺家の名前を書いた木札や提灯で埋め尽くされている。その名前を見ながら気がついたことがあった。出演している噺家の名前が随分古いと思った。春光亭朝太、確か俺の師匠が今の名前を襲名する前の名だ。それに亡くなって随分経つ大師匠春光亭光春の名もある。この春光亭光春というのは逆さに読んでも同じなので代々目出度い名前とされている。今はこの名は空席となっている。だから出演する訳がないのだ。いったい何時の時代なんだ。

「驚きましたか? 中に入ってみればもっと驚きますよ。さあお入りなさい。この寄席にはテケツ(切符売場)はありませんから」

 気がついて見てみると確かに窓口はなかった。ふらふらとそのまま中に入って行く。入り口を入ると小さなソファーが置いてあり、その先はもう客席に入る扉があった。その扉を引き中に入っる。ほぼ満員だが不思議と立っている者はいない。自然と一番後ろの端の席に腰掛けた。高座では子供の頃にテレビで見た手品師が手品をしていた。懐かしい、あの頃は夢中で見ていた。

 手品が終わると知った出囃子が流れて、前座さんが出てきて高座返しをして出演者を書いためくりを捲った。出て来た名前は「光春」と書かれてあった大師匠だ!

 高座の袖から大師匠がゆっくりと歩いて出て来た。俺の知ってる大師匠ではなく、もっと若い頃の大師匠だった。歳の頃から言うの今の俺とそう変わらない歳頃だと思った。

「え~ようこそのお運びで御礼を申し上げます。良く疝気(せんき)は男の苦しむところ悋気は女の慎むところ等と申しますが……」

 これは「悋気の火の玉 」という噺の出だしだ。かって名人で、黒門町と呼ばれた八代目桂文楽師匠が得意としていた噺で、師の生前時は誰もやり手がなかったというぐらいの噺だ。それを大師匠は平然と高座にかけていた。

 この噺はヤキモチ焼きの奥さんとお妾さんが共に亡くなってしまったのだが、亡くなってからも火の玉となって喧嘩をしているというので、旦那がその仲裁に赴くのだが、その時に煙草が吸いたくなり火を借りようと最初はお妾さんの火の玉に借りる。もう一服というので今度は奥さんに借りようとするのだが、火が付く寸前で奥さんの火の玉が逃げてしまう。どうしたのかと尋ねると奥さんの火の玉が「どうせあたしのじゃ美味しく無いでしょ。ふん!」

 と下げる噺である。大師匠は若いが流石に上手い。この難しくも馬鹿馬鹿しい噺を上手に進めて行く。俺は改めて大師匠の力量に舌を巻いた。俺もこの噺をやるが、とてもここまでは出来ない。

 呆然としているうちに大師匠はサゲを言って高座を降りてしまった。俺は直ぐに楽屋に直行しようとしたが、あの男に止められた。

「何処に行くのですか?」

「いや、大師匠に挨拶に」

 自分で言って気がついた。俺が入門した頃は大師匠はもうかなりの歳だった。あんなに若くはない。

「そうか……俺なんか生まれていない頃なんだ」

「ま、そのあたりの解釈はお任せしますが、今の光春師はあなたのことは全く知りません。それだけは確かです」

 俺もそのことに気がついた。その時、寄席では滅多にかからない出囃子が鳴り響いた。この出囃子は名人の享楽亭遊楽師の出囃子だ。それも今のではない。歴代が名人揃いと言う享楽亭遊楽師だがその中でもとりわけ名人の名を欲しいままにした先代遊楽の出囃子だった。俺はこの時体が震えて来て、膝頭が止まらないほど揺れてしまっていた。

「もしかして、先代……」

「さすがですね。そうです。今日はこれを見せたくてお連れしました。どうぞご覧なさい」

 そう男は言うと何時の間にか姿が消えていた。俺はそれを呆然しながらも気持ちは高座に向いてしまっていた。もうすぐ歴史上の名人の高座を見られるのだ。噺家として笑いに関わる者としてこれが興奮せずにいられようか。

 出囃子に乗って先代遊楽師が登場する。それまで静かだった客席が一瞬で沸騰したように沸き返る。それはこれからどんな素晴らしい噺を聴かせてくれるのかという期待と興奮なのだ。今でも大看板の師匠が出た時は似たようになるが、ここまでではない。

「待ってました!」

「名人!」

「たっぷり!」

 幾重にも声がかかる。その中を遊楽師は悠然と歩いて座布団の上に座った。

「え~、噺家として声をかけて戴き本当にありがとうございます! この声ってものは本当に嬉しいものでございますよ」

 客席を笑わして枕に入る。

「昔は浅草の北方に吉原という大変素晴らしい場所がありまして、余りにも素晴らしいのでそこに行った者は帰って来られなかったなんてお話がありまして、なかんずく若旦那と世間で呼ばれるようなお人は、もう何日も居続けなんかしまして、それが幾度も繰り返されるとさすがに親戚一同が集まりまして親族会議となります」

 ここまで聴いて夏の人情噺「唐茄子屋政談」だと直感した。この後若旦那は親戚の忠告を聞かず。勘当になってしまう。だがどこも頼れる身がないことが判り身投げしようとした所、本所の伯父さんに助けられる。この伯父は一番若旦那のことを心配してくれたのだった。

 伯父の忠告で翌日から唐茄子売りとして働く事になった若旦那。慣れないながらも手伝ってくれる人も現れて何とか売って歩く。昼になって長屋に売りに行くと貧乏で困っている母子を見て、可哀想になり、それまでの売り溜めと残った唐茄子をあげて帰って来てしまう。疑った伯父さんに事情を言って、伯父さんと二人で確かめに戻って来ると、長屋は大騒ぎ。訊くと若旦那があげた売り溜めの金銭を大家が全部持って行ってしまったという。女将さんは若旦那に申し訳ないと首をくくってしまったのだと言う。その騒ぎの真っ最中だった。

 事情を聴いた若旦那は大家の家に乗り込んで行き、大家を懲らしめるのだった。このことがお上に判り大家はきついお仕置きを受け、女将さんは一命を取り留めたと言う。またこの善行が親の知れる事になり勘当が解かれると言う噺なのだ。

 遊楽師匠はさすが上手い。若旦那の改心のシーンも聴いている者が涙を流してしまうほど完璧に演じている。

 もう観客は噺の若旦那と一緒の気持ちになっている。終盤の大家に対する怒りも全ての客が共有している感じだった。ここまで高座と客席が一体となった状況を俺は見たことがなかった。

凄まじいばかりの熱が寄席全体を包んでいた。

「……という訳で勘当が解かれるという。唐茄子屋政談でございました」

 サゲを言うと場内から凄まじい拍手が沸き起こる。座布団を降りて挨拶をする遊楽師匠。

「ありがとうございました! ありがとうございました!」

 何度も礼をしている師匠の上に緞帳が静かに降りて行く。それを見送るとお客は一斉に帰り支度にとりかかる。俺も興奮の内に寄席の外に出た。表で先程の男が待っていた。

「如何でした。名人の高座は」

「凄かったです。余りにも凄くて、それ以上は何も言えません」

「そうですか」

「今の俺には出来ない領域です。でも俺も噺家の端くれです。決して一生を通じて出来ないとは言いたくありません。いつの日か、俺が噺家である限り、きっと遊楽師を乗り越えて見せます。そう決意出来ました」

 俺の言葉を聴いた男はニッコリと笑い

「そうですか、それは良かった。安心しました。あなたに頑張って貰わないと後の世で困るんですよ。頑張って下さいね。名人の系譜は絶えさせてはなりませんよ」

 男はそう言って俺の前から消えて行った。気が付くと寄席の前だった。後の世……いったいどのような意味だろうか?


「あれ師匠、まだ居らしたのですか? もう祐輔師のトリですよ」

 表の様子を伺いに出て来た前座に声をかけられた。

「そうか、ならば祐輔なら聴いて行くかな」

「珍しいこともありますね」

 そんな口を利いた前座の頭を軽く叩くと俺は楽屋に戻って行った。そうさ、まずは祐輔の噺を聴いて俺に何が足りないかを考えることからだと思った。焦らなくても良い。じっくりと考えて稽古して行けば良い。結果と評判は後から付いて来る。覚悟は出来ていた。

 高座では、祐輔の出囃子が陽気に鳴っていた。



                                <了>

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