第14話 君の笑顔が見たくて

 会社を早退して家に帰ってみると、幸い妻の礼子はまだ帰っていなかった。それは今日の僕にとっては都合が良かった。部屋の明かりを灯して、僕は買って来たものを少しずつ分散して家の中に飾って行く。彼女への精一杯の想いを込めて……。


 僕たち夫婦には子供が出来なかった。

 学生の頃に同級生だった僕と礼子は大学を卒業すると直ぐに結婚した。お互いの両親は反対で「まだ早い」 と言っていたが、当時の僕たちは、その時まで待ちきれなかったのだ。

『何時でも傍に居たい』

『一緒に居られれば幸せ』

 そう思っていたし、僕は常に礼子と一緒に居たかったし、彼女と毎日過ごせるなら、こんな幸せはないと思っていた。

 経済的なことは二人で働けば何とかなると甘く考えていた。彼女も僕も、それで何も疑問を持たなかった……今から思えば、ようするに甘ちゃんだったのだ。

 苦しい時は誰でも無理をすることになる。本業の仕事の他にアルバイトをして凌いだ。親に頼れば簡単だったのだが、「大丈夫だ」と見栄を張って結婚したので、頼れなかったのだ。それでもお義母さん、つまり礼子の母親は隠れて援助してくれていたそうだ。これは随分後から知ったことなのだが。結果として彼女には無理ばかりさせてしまった……。

 昔も今も家庭を持つと共働きの場合、どうしても女性に負担が掛かる。例え男が家事を手伝ったとしてもだ。たかが知れてる……。


 そんな結婚当初の無理が響いた訳ではないだろうが、結婚して五年が過ぎた頃、さすがに妊娠しないのはおかしいと、二人揃って医師の診察を受けた。それによると礼子は妊娠し難い体質らしい。根気よく不妊治療をして行くしかないと言うことだった。

 その後五年も過ぎた頃だったろうか、夜ベッドの中で僕の胸に抱かれながら

「もう不妊治療受けるの辞めようと思うの。辛いばかりで結果が出ないし、後は自然に任せようと思うの。子供が出来ないのは神様が私たち夫婦には子供は授けられないって決めたのだと思うの。ならば、それに甘んじようと……」

 礼子の辛さは良く判っているつもりだったが、治療の辛さを礼子一人に背負わせてしまっている現状では、さすがに自分には何も言えなかった。

「そうか、辛い思いをさせて、ごめん」

「ううん、いいの。あなたが、どうしてもって言うなら人工授精という方法もあるって、先生も言っていたし」

 礼子は遠回しに言ったが、要するに医師から人工授精を薦められたのだろう。自然受精は難しいと宣告されたのだと思った。

「いいよ。そこまで無理しなくても良いよ。二人だけだけど仲良くやって行こう。今までありがとう。君一人に辛い想いをさせてしまったね」

 僕はそう言って礼子を抱きしめた。柔らかい華奢な体が腕の中に収まった。その夜は本気で心の底から礼子を愛おしいと思った。僕にとって大切な人だと改めて感じた夜だった。


 それから更に数年過ぎた頃だろうか、その頃僕たち夫婦は都内のマンションを買って住んでいた。子供が居れば郊外の一戸建てを購入しただろうが、僕たちには子育てということがないので利便性を優先したのだ。その頃にはそれだけのローンを返済する収入もあった。子供が居ないということを除けば幸せな日々だった。

 本当はこの時期をもっと大切に過ごしていなければならなかった。いつの間にか水や空気のような存在となっていたのだ。仲が悪い訳ではない。大切な人だと言う認識はあったが、それが当たり前だと感じていた。

 そんなある日のことだった。礼子が仕事から帰って来ると

「なんだか、今日は目がおかしくて――ゴロゴロするの」

 そう言ってリビングのソファーに座って、買って来た目薬を挿していた。僕は、夕食のおかずをダイニングのテーブルに並べながら

「明日は土曜で休みだから、目医者に行って来なよ。そんな目薬を挿しているより、よっぽど確かだよ」

 何時もは「平気よ」と言うのだが、この時は

「うん、そうする。なんだか段々酷くなって来た感じがするから」

 そう素直に言ったのが妙に印象に残った。

 翌朝、起きるなりに

「目がゴロゴロして開けられない。段々痛くなって来たわ」

 そう言って冷たい水で冷やしたタオルを目にあてている。僕は時計を確認し医者が開く時間を確認して、朝食もそこそこに車に礼子を乗せて目医者に連れて行く。一夜にしてこんなに酷くなるとは信じられなかった。近所では評判の良い街医者だった。

 礼子の手を引いて医者に入る。受付で保険証を出して症状を説明する。待合室で待っている間礼子は辛そうだった。

「痛むか?」

「うん……ごめんね休み潰して」

「そんなこと気にするな。今は自分のことだけ考えれば良いよ」

「ありがとう」

 気休め見たいなことしか言えない自分がもどかしかった。

 どの位待たされただろうか、やっと順番が来た。礼子を診察をした医師は

「これは、ウチじゃ手に負えないかも知れない。直ぐに紹介状を書いて予約も入れてあげるから、これから直ぐに行きなさい。時間もまだ間に合う」

 そう言って大学病院の眼科の予約を入れてくれた。一体何の病気なのだろうか?

 書いて貰った紹介状を手にして再び車を走らせる。二十分ほど走った場所の大学病院の駐車場に車を停める。痛みが酷くなって来て一人では歩くこともままならない礼子の手を取って、病院の中に入って行く。初めての場所なので右も左も分からないが、兎に角案内の受付で場所を教えて貰い手続きだけは済ませた。長いベンチに腰掛ける。礼子はハンカチで両目を抑えていて本当に辛そうだ。

 随分待たされてやっと順番が来た。礼子に付き添って一緒に診察室に入る。昨夜からの事情を礼子が説明をして医師が診察に入る。色々な機器を使って診察していたが

「角膜炎ですね。ウイルス性かどうか検査してみましょう」

 そう言って検査をすることになった。

「炎症が酷いので炎症を止める注射をします」

 何と目に直接注射をするのだと言う。

「麻酔しますから痛くありませんよ」

 看護師さんも優しく言うが目に注射など僕だったら絶対に嫌だ! きっと礼子もそう思っているはずだが

「この痛みが軽減されるなら何でもいいわ」

 そんなことを言っている。やはり女性は強いと思ったし、彼女の辛さが僕にも伝わって来た。

 検査の為に組織を一部採取した後で目に麻酔が刺された。刺すと言うより目薬みたいに挿入された感じと言った方が間違いないだろう。それから少し時間を置いて、医師が細い注射器を礼子の白目に挿した。ゆっくりと炎症止の薬剤を注入していく。この時はさすがに辛そうだった。礼子の表情でそれは判る。同じ事をもう片方の目に施して注射は終った。

「針が入ったのは麻酔がかかっていたから痛くなかったけど、薬が入って行くのが気持ち悪かった」

 帰りの車で礼子が言った言葉だ。傍で見ていた僕はそれが痛いほど理解出来た。痛みのことを尋ねると、軽くなったと言っていたので、それだけでも良かったと思う。でも不妊のことと言い、今回のことと言いどうして彼女ばかりが辛い目に会うのだろうか、これが彼女の試練なのだろうか? 僕は帰りの車の中で色々なことを考えてしまった。そして、僕にとって礼子は改めて無くてはならない大事な人だと思った。

 痛み止めやら幾つかの飲み薬や目薬を貰って帰って来たので、それを服用する。次回は火曜日だという。検査の結果が出て対処する薬が決まるそうだ。ウイルス性だったら厄介なことになるという。

 所謂、「角膜ヘルペス」と呼ばれるもので、この場合のウイルスは子供の頃に掛かった「水疱瘡」のウイルスが目の奥に潜んで、体の抵抗力が下がると表に出て来て角膜を侵食するのだと言う。酷い時は失明するそうだ。また完治と言うことはなく、このウイルスを殺したり体外に出す方法は無いそうだ。一時は収まるが目の奥に移動して大人しくしてるだけだという。発熱、紫外線被爆、ストレスなどをきっかけに体調が悪くなれば、また症状が出ると言う。困った病だった。


 それから火曜日までが大変だった。礼子は当然会社を休んで休養していたし、僕も家の家事を全てやっていた。早朝から起きて炊事、洗濯、掃除をして出社する。帰って来て夕食の用意。やることは多い。この間、礼子の痛みは酷くなって行った。それを見ている自分も辛かった。

 火曜は半休を取って礼子を病院に連れて行った。検査の結果はやはり「角膜ヘルペス」だった。

「角膜が大分侵食されています。既に視野に影響が出ていますね。今は特効薬があるので症状は収まりますが病そのものが完治することはありません。体の抵抗力が落ちると又発病します」

 そう言って薬を処方してくれた。薬局で貰うとその場で目に挿す。少しでも早く痛みが無くなれば良いと思った。

 結果として痛みは数日で殆ど無くなったが、眼球に濁りが出てしまって、回復にはひと月近くかかるということだった。

「痛みは無くなったけど実は、あなたの顔が良く見えないの……大丈夫かな……いつまでも仕事休めないし、こんな状態でこれから大丈夫かしら?」

 礼子の不安は尤もだと思う。僕だって同じ立場になったら、もっと狼狽えるだろう。それだけは言える。やはり礼子は強いと思った。

 大学病院にはその後は一週間おきに通った。三回目からは「一人で大丈夫」というのでそのまま行かせたが、やはり不安だった。

 僕は今回のことで、改めて自分の人生に彼女が居てくれるということが、どんなに素晴らしいことなのか、やっと理解したのだ。僕の人生は彼女無しでは今までもこれからもあり得ないと……。

 完全に見えるようになるまでひと月。それでも視野に欠損が出ると言う。運転関係の仕事は不安が残るだろうな、と思う。幸い礼子は事務の仕事なのでそれは無いが、PCのモニターを長時間見つめるのも目に良くないのだろう。メガネ屋に連れて行き、PC用のブルーライトをカットするメガネを購入する。何も掛けないよりかは良いだろうと思った。


 何気に部屋のカレンダーを見ていたら、結婚記念日が間近だと気がついた。結婚記念日などは最近は全く祝わなくなってしまったが、今までとこれからは違うと決意した。

 今年の記念日は彼女が喜ぶことをしたいと僕は考え、あることを計画した。

 その日、礼子は大学病院に行く日だった。僕は仕事を早退して、街の花屋さんに頼んであった花をかなり大量に購入した。花を散らせないように大事に持って帰ると、幸い礼子は未だ病院から帰って来ていなかった。

 家中の花瓶や花を活けれる大きな器を出して、水を入れてその花を挿して行く。段々と家中がその花の匂いで埋まって行く。

 全て飾り終えた時に礼子が帰って来た。

「あれ、帰っているの? どうしたの?」

 そんなことを言いながら部屋に入って来ると

「あれ、いい匂い! これ、私の好きなライラックの香りね!」

 礼子の表情が明るくなった。僕が一番見たかった表情だった。そう、僕はライラックの花を大量に買って部屋中に活けたのだった。

「ああ、いい匂い! まるで花に囲まれているみたい」

「どうだい?」」

 僕の質問に礼子は笑みを浮かべて

「目の方は大分戻って来たのよ。でもこの香りを嗅ぐと益々よく見える気がするわ」

「今日が何の日だか知っていたかい?」

「この匂いを嗅いで思い出したわ。ライラックの花の匂い」

「気に入って貰えたかな?」

「当たり前じゃない……あの時、北海道に旅行して満開のライラックのお花畑で求婚してくれたことを、忘れる訳がないわ」

「それで帰ってすぐに親に言ったんだよね」

「そうそう、両親からは怒られたわぁ」

「僕もだよ……それでも一緒になって、ここまでやって来れた。それは君が居てくれたからだ。今度のことで僕は判ったんだ。君無しでの人生はあり得ないと……」

「それは、私も同じよ。今度のことで、どれだけあなたが頼りになったか……私だけならヤケになっていたと思うの」

 僕と礼子は、やはり一緒に生きて行く為に出会ったのだと思った。そして、僕たちは本当の夫婦になった……。



 その後、礼子の目の濁りは元に戻ったが視野の欠損はそのまま残った。それから礼子は車の運転をしなくなった。見えない部分があるということで事故を起こし兼ねないからだ。

 それと外に出る時は紫外線をカットするメガネを掛けることが日常となった。これは紫外線に晒されると角膜ヘルペスが再発する可能性があるからだ。

 でも、外観なんて、どうでも良かった。礼子が礼子のままならば僕は幸せなのだから……

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