娯楽産業への必殺宣言
・人間は何度失敗しても諦めない限り成長することができる。ぶっ壊れた玩具は成功することも失敗することもできないし認められるために努力したり諦めたりするということが理解できない。ただひたすら自分が生まれていないということを考え続けるために狂い続ける。被害妄想と敵の撲滅は対症療法である。
・人間の身体と精神をバラバラにすることをゲームとして練習することで人間をどのように殺戮すればいいのかを攻略法として定式化すること。メディアミックス商品とプラモデル。切り刻んだ死体はどこに保管すべきなのか。カードとして召喚するためにイラストとして封印しなければならない。エクゾディア。
・自然の豊穣さとメディアという幽霊はありとあらゆる殺戮に無限の生成を持って対抗したためあらゆる民族の絶滅にも関わらず人類は永遠の生命を保持していた。こういったものが危機に瀕したのは核兵器のお陰でありしかも地震と津波による原発のメルトダウンによって遺伝子から人間の本能が切り刻まれた。
・原発事故でたぶん神々は次のことを悟ったのだ。つまり人間の支配を終わらせるには人間を殺し合わせるのではなくて人間という概念を腐蝕させたり壊変したりするような立法や事故を人間にゲームとしてシミュレートさせればよいということを。壊れた玩具を神々の器にするのは人間の義務ではないだろうか?
・戦争が発明の母であり父なる神が愛を説くために敵を殺していくことが進歩や発展であるという普遍的歴史というものは人類という救世主の大量生産を相互理解の名のもとでテロリストを排除してきたのだが、過去の野蛮さをコンピュータで追憶にすること自分は猿でないと教育しているのだ。
・人間の死を数えることは人生の対価を表現するということである。労働が賃金と何の対応関係もないと認めることは商品生産を否定するということになるだろう。ところで市場がとっくに終わっているのは事実だとしても人々を効率的に命令を聞かせるための口実として貨幣の評価はまだ意味を持っている。
・貨幣の欠陥は買いたいものしか買うことができないということにある。だからプレゼントが宣伝として成功するのである。プレゼントは交換可能でありかつ貨幣であってはならないという制約がある。しかし貨幣以外のプレゼントは常に押し付けになる可能性がある。だから親しい人以外には消費財を渡すのだ。
・人間同士の交換ではお互いの理解を越えるようなプレゼントを渡すことはできない。もちろん命令なら話は別なのだがこれはカリスマがないと主従関係になる。商品の販売は貨幣が媒介になっているからこそ労働力を代用した象徴として人間同士の平等性が担保される。職業が特権になるのはこのためだ。
・しかし誰にでも配布されるものが二つある。広告とカードである。広告はそれが購入の期待を与えるという意味で無の価値を持つ。カードは人間とお客様の区別を可視化するという機能を持っている。ただしここがカードの特徴なのだが一般人から隔離されるのであれば区別されるのはお客様である必要はない。
・カードがトレーディングカードゲームになるのは構築済みスターターとブースターパックという一般化した商品を販売しなくてはならないという制約ゆえである。しかしたとえそうだとしてもTCGは商品とは独立した形でカードを使用できるようになっている。つまりカードに出会えるようになるのだ。
・テレホンカードや図書カードがプレゼントとしての価値を持つとしてもこれらは出逢いとしての意味を持っているわけではない。電気の普及によってカードが電波変換されると電話番号というコードを元にして無数の神々の回帰もイラストによる声もアプリによる複製によって担保できるようになる。
・だがこれでは一般化は避けられるが機械の意識として普遍化されるだけにすぎない。個性はあくまで一般化からの過剰なのだから普遍性においては個性は貨幣で購入されてしまう。だから人格の分裂から融合エネルギーを生産するのではなくメルトダウンによってキャラ崩壊を起こして運命を壊変させるのだ。
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