家族への必殺宣言

・音楽によってのみ見いだされる誕生の運命というものがあるのではないだろうか。

・原爆はユダヤ民族の誕生を反復するという意味でも西洋のいつも通りのやり方の傑作であった。核によって民族の自己犠牲は封じられたのであり、偽善者や卑怯者も自由競争によって民族の過去を忘却せざる得なくなった。人類に奉仕する種族を作り出すということには西洋の世界史というものがかかっている。

・原爆の成果はそれだけではなく、神々を画面の中に封じ込めることにも成功したのである。これはアメリカが無尽蔵の資源と高性能な通常兵器をもってしても宗教勢力を撃退できなかったことを考えると意義深いものがある。ナショナリストはことごとくコスプレ俳優か正義のヒーローのカリカチュアになった。

・声の伝言ゲームにおけるシニフィアン連鎖。いかにして声は顔に話しかけるようになるのか。なぜ身体が空虚さによって動いているのか。名前をつけることがなぜ顔を見るようにさせるのか。鼓動の誕生における視点を自覚するところからだろう。羞恥心は自分が裸であることを知らなければ生まれない。

・人を辱しめることが可能だと信じるためには、異性の裸を見ることは恥ずかしいことだということを知っていなくてはならない。だがどこに異性などというものがいるのか。これは人間は裸で生まれてくるという発想の飛躍が必要である。子供という概念は異性に対する例外としてしか機能しない。

・結婚とは子供が異性から生まれてくるという説明のためのフィクションだ。というのは誕生がなにものかによって行われたとする証拠などないのだから。もし証拠があるならば、なぜ誰から生まれたのかを記録する必要があるのかまったくわからない。墓を作らなくてはならないのは証拠を残すためなのだ。

・子供を育てることが親によって行われなければならないということを基準にして裸の子供という結婚の概念が作られている。名前をつけることが親の権利であるというのは子供の所有権を主張するためなのだ。これが遺産相続によって兄弟殺しを促進させている。

・自分の声だけで快楽を得ようとすることはパラノイアになる。シュレーバーのように神は私に声によって快楽を強制しているのでなければならない。だからアニメ声優にはキャラクターの媒介が絶対に必要なのだ。だが愛の言葉と快楽が両立するのは兄妹の近親相姦でしかない。家族には性の証拠がないからだ。

・つまりセクシュアリティをジェンダーとして問題提起してはならない。そうすると強姦とそれを喜ぶ女性としてしか定式化ができなくなる。純愛はストーカー殺人にしか行き着かない。恋愛を商品化することは二重の欺瞞を含んでいる。恋愛が不可能であるだけでなく恋愛の気分が詐欺でしかないということ。

・資本主義は子供を産むことの代わりに商品生産に投資することで技術基盤を拡大するのだが、子供を直接生産するには政治的に結婚を強要するか神々からの贈り物として扱うかのどちらかである。前者は恋愛結婚を延命させるために導入されるにすぎない。全体主義のロマンスは革命の悲劇と対になっている。

・後者は科学が不妊治療と人工受精が一般にうまくいくようになるという期待が持てるならなんの問題もない。男は子供の着せ替えごっこや人形遊びに夢中になり、女は子供のための母体として「開発」されるだろうが、なんの問題もない。ただ私にはそういう期待を持てないというだけののことだ。

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