第7話 失格者。

本当につまらない人生。

 別に辛かったわけではないけれど、別に楽しかったわけでもない。そんな人生を生きてきました。


物心がついたころには父親と母に引き取られていました。


本当の両親は僕を養子に出したそうです。これを知ったのはもっと大きくなってからでした。


 僕は、母にとても大事にされていました。とてもとても大事にされていました。


母は自分の子供がなかなかできなかった。だから、僕を本当の息子の様に可愛がってくれました。

 父親は僕にとても期待してくれました。医者だった父親は僕にも将来は医者になってほしい。


誰かを救う仕事をしてほしいと思っていました。

でも、それは決して口には出さず、息子の意思を大切にしてくれる人でした。


僕は母に愛されるように、父親の期待に答えられるように行動しました。

その度に母は僕の事を誉めてくれ、父親は僕の事を満足気に眺めるのです。

 でも、僕には分かりませんでした。


僕の行動の何がそんなに母を喜ばせたのでしょうか?


 父親の期待に答える事がなぜそんなに父親を喜ばせたのか。


 僕にはまったく分からないのです。


そんな、僕達の家族を見て、周りの大人たちは羨むのです。


本当に仲の良い家族ね。こんな子供さんがいて自慢でしょう。


優しいお父さんとお母さんでよかったね。などなど。


 僕はその言葉に笑顔で答えていました。


…この人たちは何を持って、僕達を良い家族だと言っているんだろう? 

純粋に不思議でした。


 僕は母と父親の望むとおりに振舞ってきました。


それが幸せな家族と言うならば、僕には幸せというものがよく分かりません。


 夜、布団の中に入っていると急に虚しくなるのです。


誰かが喜ぶ事をして生きていく。


それの何が楽しいのか分かりませんでした。


 そもそも、楽しいという事があまり良く分かりませんでした。


そんな時、心の中が空っぽになった気がするのです。


スカスカで真っ白な空間が僕の中にありました。

 

 


 小学生になった頃、裏庭に一匹の猫が迷い込んでくるようになりました。


僕は病院が忙しく手が離せない父親と母がその手伝いで忙しい時は裏庭で一人で遊んでいました。

 二人に迷惑がかからないような場所にいようとしていたのです。


 その猫はどうやら野良猫のようでした。毛並みもあまり良くなく、すごく汚れていました。


 僕は気紛れにその猫に餌をあげる事にしました。


初めは警戒していた猫も何日かすると、餌を食べてくれるようになりました。


 そんな生活を半年ほど続けていると、その猫は僕に懐くようになって、僕が学校から帰ると裏庭でずっと待っている事もありました。


とても頭の良い猫だったので、僕の言う事は聞いてくれる猫でした。


 病院の方に近づくなと言えば、絶対に裏庭から近づこうとしなかったし、父親や母にはバレないようにと言うと、僕以外の人の気配がするとうまく茂みに隠れる奴でした。


 ある日、僕が学校から帰ると、裏庭に猫が来ていませんでした。


いつまで経ってもどれだけ待っても来ませんでした。


 僕は、諦めて家の中に入ろうとした時、家の中から黒いビニール袋を持った父親とすれ違いました。


 それどうするの? と聞くと、父親は僕に来なくていいと言いました。


それでも引き下がらずしつこく聞くと、裏のとおりで猫が車に轢かれているんだと言いました。


 僕は、それを聞くと、無言で父親の後に付いて行きました。父親は付いてくる僕を一瞥すると、もう何も言いませんでした。


 裏の通りに行くと、一匹の猫が車に轢かれて道に倒れていました。


その周囲にはどす黒い液体が道路にこびりついていました。


 確かに、いつも裏庭に来ている猫でした。


僕はその倒れている猫に近づくとそっと体に触れました。


とても、とても硬くなっていました。


あのごわごわしているけれど、柔らかい毛並みはそこにはありませんでした。


 僕と父親は猫の死体を袋に詰めると、裏庭の隅に埋めました。


父親が墓標代わりに石を上に置きました。


 死んだ猫を見て、凄く悲しい気持ちになりました。


でも、涙一つこぼれません。


だから、ここで悲しい気持ちになるべきなんだと思いました。


 一通り墓標の前にいた後、僕は立ちあがりました。


心の中は真っ白でした。

家に帰って美味しく夕食を食べました。


 この頃になって自分は人と何かズレていると思うようになりました。


その原因は洋子が家に来るようになってからでした。洋子はよく笑い、よく泣き、よく怒りました。


 洋子の行動を見る度に僕は不思議でした。


この人はなぜこんなに感情が激しく変わるんだろう。


僕はそこまで生きてきた中で、感情のブレというものをほとんど感じたことがないんじゃないかと洋子を見て思いました。

 

どうやら、僕は人よりも感情が鈍いらしいと理解したので、それからは人の様子をよく見るようになりました。

 

こういう時に人は怒ったり、泣いたり、笑ったりするんだなと観察し、学習しました。


そして、それを真似することで一生懸命、一般的な子供になろうとしていました。


 そういう生活はやってみると、とても楽でした。


人の真似をして生きていくのは、難しい事ではありました。


楽しいとさほど思っていないのに笑ったり、悲しくもないのに泣いてみたり、気に入らない事があるわけでもないのに怒ったりするのは簡単な事ではありませんでした。


 それでも、難しい事に挑戦するのは楽しかったし、何より、真似事をしている時は皆が簡単に喜んでくれたので精神的に楽でした。


 僕に人生最初の壁が現れたのは洋子の妊娠でした。


父親は洋子の出産を応援すると言って家を空ける事が多くなりました。


 すると、決まって母は僕に怒るのです。


あなたが本当の子供じゃないから。あなたがもっとしっかりしていないから、あの人は私のもとから行ってしまうのよ。


そう言って、頬を殴られました。


 冷静に考えれば、僕のせいでは無いと思うのですが、子供だった僕に母の言葉は絶対でした。


それは逆らうことのできない呪縛でした。


 それでも、ずっと責め続けられていれば僕はきっと母から逃げ出していたと思います。


でも、母は僕を殴り蹴り、責め続けた後、必ず泣いて謝るのです。


 ごめんね。ごめんね。泉が悪いわけじゃないのよ。悪いのは私なの。私があの人を繋ぎとめられないのが悪いのよ。


 そう言って、僕を抱きしめながら泣くのです。

僕は母の背中に手を回して、撫でてあげる事しかできませんでした。


洋子が無事に出産して父親が家にいるようになっても母は時折、夜になると僕を殴りました。


そして、また僕を抱きしめて泣きました。


 父親がいつも疲れて寝てしまっている時にやってきたので、父親は僕と母の間にそんな事が起こっているとは夢にも思っていませんでした。


 それでも、それからしばらくは幸せでした。


僕は母の事はそれほど嫌いではなかったし、僕を殴る事で母が喜ぶのであれば、それが僕の役目なんだろうと思っていました。


 だから、僕はその時、確かに悪い気分ではありませんでした。


 それに、この頃母は臨月を向かえていました。


だから僕が自分の役目を全うしていれば母のストレスを軽くすることができると思っていました。


それが、母と産まれてくる妹か弟を守る事だと思っていました。


 それからしばらくして、僕に妹ができました。


父親も母も喜んでいました。名前は…忘れてしまいました。


 その数ヶ月後の深夜に、洋子がずぶ濡れになりながら子供を病院に連れてきました。


父親は子供を受け取ると急いで処置室に入っていきました。


 僕と洋子は待合室に残されました。


洋子は泣いていました。僕はここでも、ただ無言でそこにいる事しかできませんでした。


 泣き疲れて寝てしまった洋子を待合室に残して僕は病室の奥へと入っていきました。


そこには言い争う父親と母がいました。


「あなた何を考えているの!!」


「だから、私たちの子供の××を洋子の子供の彩香ちゃんって事にしようと言っているんだよ」


「なんで、私たちがそんな事しなくちゃいけないのよ」


「洋子ちゃんは今、大変な時なんだ。心も体も弱っている。そんな洋子ちゃんに子供が死んだなんて言うわけにはいかないんだよ。分かってくれ」


「嫌よ! この子は××は私達の初めての子供のなのよ! それもなんで、しかもよく知らない女の為に捧げなきゃいけないのよ!」


「知らないわけじゃないだろう?」


「……まさか、あなた。あの女と…」


「そんなわけないだろう。私が愛しているのは君だけだ」


「じゃあ、なんでそんな事が言えるのよ。あなたの子供でもあるのよ!」


「何も洋子ちゃんに子供を渡すわけじゃない。××はこれからも私たちが育てていくんだよ。ただ、戸籍上洋子ちゃんの娘になるだけだ」


「何が良いって言うのよ。あの女が私達の子供の事を自分の娘だと思って生きていくのよ! そんなの耐えられないわ!」


「そこまで言うなら、もう一人作ればいいじゃないか。私たちはこれからもずっと一緒にいるんだ。まだまだチャンスはある。お金の心配ならしなくても大丈夫だろう」


「分かってない分かってない分かってない分かってない!! あなたは何も分かってないわ!!」


 いつまで続くか分からない言い合いが続いていました。


その後、どういう話し合いがあったのかは分かりませんが、最終的に××は洋子の娘の彩香として生きる事になりました。


 その頃から、母の様子がおかしくなっていきました。


先日まで彩香に、目に入れても痛くないと言った態度で接していたのに、彩香が泣いていても一瞥するだけで放置するようになりました。


 それどころか、夜泣きする彩香に向かって、死ねばいいとか糞ガキ等と言う言葉を投げつけるようになりました。


僕は、母の代わりに彩香の世話を見よう見まねでする事しかできませんでした。


 その日も、夜泣きを何とか静めて布団に戻ろうと振り返ると、部屋の入り口に母無言で立っていました。


 まるで、幽霊のようにふらふらと僕に近づいてくると、また僕の頬を平手打ちをしました。そして、また泣きだすのです。


 僕は、母の背中を撫で、泣きやむのを待ちました。母は僕に寄りかかって来て、僕は思わず尻もちをつきました。


母はそれでも泣きやむ様子を見せずぶつぶつと呟いていました。


 ごめんなさい。ごめんなさい。あなたにそんな事させて。あなただけよ。私の子供は。あの子はもう私の子供じゃない。××は死んだのよ。もう、この世にいないの。なんでこんな事になったのかしら。××帰って来てよ。私を置いていかないで。私を一人にしないで。透さんも私から離れて行ってしまう。




……あなただけは私を置いていかないわよね?


 そう言って、僕の目を見た母の瞳はどこか艶やかでした。


ゆっくりと母の右腕が僕の内腿に触れました。


ゆっくりとその手が太ももの上を上下しました。


 一瞬、寒気が走って、股を閉じようとしましたが、母の虚ろな瞳を見て、僕は閉じようとする事を辞めました。


 母の顔が僕の顔に近づいてきました。


母の舌が僕の唇の上をナメクジの様に這いずりまわりました。

 


母はそれから徐々に何かに侵食されているかのように壊れて行きました。


僕はその頃すでに両親とは違う部屋で寝ていたのですが、時折夜になると、母が僕の部屋に来るのです。


 襖がスッと開く音がすると、僕は体を強張らせました。


母はするりと僕の布団の中に潜り込んでくるのです。


 僕はただ、何も考えずにいました。


母は、父親の浮気を疑っていました。


洋子と浮気をしているのだと疑っていました。


本当に浮気をしていたのだったらどれほど良かったでしょう。


父親は本当に浮気なんてしていませんでした。


 母だけを愛していました。


…でも、母はそれを信じる事ができませんでした。


父親が何度愛しているのは君だけだと言っても、頑なにそれを信じませんでした。


 そういう日は決まって、夜、僕の部屋のふすまが開きました。


 ある日、母は父親に離婚を申し出ました。


今の生活を続けていくのは無理だと泣きながら訴えました。


しかし、父親は離婚を受け入れませんでした。


母を愛しているから別れる事ができませんでした。


 それは、ただ母を苦しめるだけでした。


 それから、しばらくして、僕が学校から帰ってくると、洋子が病院に来ていました。


彩香と会う気はないようでした。


僕は5分ほど世間話をしてその場を立ち去りました。


家の奥に入ろうとすると、突然後ろから羽交い絞めにされました。


母でした。


 あの女と何を話していたの? 


あなたも私を裏切るの?


 母の目は盛んに左右に動きギョロギョロと僕を睨みつけました。


 僕は違うよ。ただ挨拶をしただけだよ。と何度も繰り返し説明しました。


母は何度も何度も繰り返し本当? と聞き返してきました。


その様子はまるで子供のようでした。


僕は何度も何度も本当だよと繰り返しました。


すると母はようやく安心したのか、にーっこりと笑うと僕の唇に自分の唇を押しつけました。


いつも以上に長い口づけでした。


僕がいつもの通りされるがままになっていると、口の中に何かが入ってきました。


母の舌でした。


 言いようもない悪寒が走り、僕は思わず軽く母を突き飛ばすと、自分の部屋に逃げ込みました。


 この時、母を拒絶しなければ、どうなったんだろう? 違う人生があったのかもしれないと今でも考える事があります。


次の日、学校から帰ってきた僕を母が連れ出しました。


どこに行くの? と聞いても答えてくれませんでした。


僕達が辿り着いたのは大きな敷地のある建物でした。


その入り口でしばらく、僕達は立ちつくしていました。


母は誰かの探しているかのように目をギョロギョロさせていました。

 

 人の出入りがまばらになってきたころ、母は突然僕の腕を引いて歩き始めました。


段々、その速度が上がって、最後にはほとんど走っているも同然でした。

 僕達が行く先には洋子と父親が歩いていました。


そういえば、今日は父親は彩香の様子を洋子に報告しに行くと言って出かけていた事を思い出しました。


だから、僕は焦って言いました。


お母さん、どうするの?

 母はにっこりと笑うと僕の腕を話し、鞄の中から包丁を取り出しました。


 そのまま勢いを緩めることなく突進していきました。


洋子が母に気がついた時には母の包丁が洋子の脇腹を切り裂いていました。


驚きと痛みで洋子がその場にうずくまると、母は血まみれの包丁を持ってにっこりと笑いました。


 皆、この女に騙されてるの。


私が今、目を覚まさせてあげるわ。


こいつがいなくなればまた皆帰ってくるでしょ?


 透さんも泉も××も。

 その顔は玩具を与えられた無邪気な子供の様な顔でした。


僕は全身が寒気に襲われて、その場に立ちつくしている事しかできませんでした。


 母がゆっくりと洋子の方に振り返って、包丁を振り上げようとした時、父親が母を取り押さえました。


これが、母が僕の家からいなくなった事件の顛末です。


この事件があって、父親は母の離婚を受け入れました。


離婚を受け入れたという形にはなっていたものの母の精神状態は極限まで追い詰められていた為、少し前に書いた、母の離婚届に判を押すだけで離婚は成立しました。


慰謝料も何もかもいらないし、事件の事は表ざたにしない代わりに、僕の親権を父親が取る事で母の親族には了解をもらったようでした。


 そして、母は近くの施設に入る事になりました。


母は結局死ぬまで、その施設から出る事はありませんでした。


父親は離婚が成立した後、僕に何度も何度も謝ってきました。


辛かったろう。


今迄、よく耐えてきたな。


もう、お前は母さんの心配はしなくてもいいんだ。


母さんの事を思って、我慢して母さんの相手はもうしなくていいんだよ。


 ……父親は僕が母の慰み者になっていた事を知っていたようでした。


知っていて。母の為に僕を母に差し出していたのです。


 僕はこの時に、全てを諦めたのです。


諦めれば、全てを受け入れる事ができました。


しょうがないこれが僕の役目なんだと自分に言い聞かせました。


 僕と父親と彩香の生活が始まりました。


相変わらず父親は仕事が忙しかったので、彩香の世話は必然的に僕がする事になりました。


世話は大変でしたが、苦にはなりませんでした。


赤子と言うのは主張はするし、わがままだし、我慢はしませんが、それでも、この子は僕に何かできるわけではない。


僕がそっと鼻と口を塞げばなすすべなく命を落とすだろうと考えると、とても哀れに思えました。

人の命はなんて簡単に無くなるんだろう。


そう思いました。


何年かの月日が流れて、彩香も一人で歩くようになり、お兄ちゃん。お兄ちゃんと懐いてくるようになりました。


僕は、そんな彩香があまり好きではありませんでした。


まるで無警戒に自分の感情をさらけだし、相手の事を無条件に信じる事がどれほど危険なことなのか知らずにいる彩香をみているだけでイライラしました。


それでも僕は妹に優しく接しました。妹思いの兄を演じる事はやめるわけにはいかないのです。


誰かの望む人間でいる事が僕のアイデンティティーでしたから。


 母はまだ、施設に入っていました。


なので、父親は母の施設に足蹴に通っていました。


離婚はしたけれど、父親の中ではまだ母を愛してたのかもしれません。


母は、自分が起こした事件の事をすっかり忘れていました。


洋子を刺した事も××が彩香として育てられている事もすっかり忘れていました。


 だから、父親が母に会いに行くといつも母は××は元気にしてる? 


私は会うわけにはいかないけど、きっと綺麗で素敵な娘に育っているんでしょうね? と無邪気に笑うのです。


 父親はそんな母を見て、そうだねとだけ呟きました。


いつも父親は母に会って帰ってくるとげっそりとした表情をして疲れ果てている様子でした。


それでも、父親は母に会いに行くのをやめようとはしませんでした。


それが自分の義務だとでも言わんばかりに。



僕も時折母に会いに行っていましたが、母はいつも子供の様に無邪気に僕を向かえてくれました。


 一度、僕だけで母に会いに行った時に彩香の事を話そうと思った事があります。


実際、母にその事を話した事があるのです。


××は今は彩香という名前で育っているんだよ。


母さんの子供は洋子の子供と入れ替えられたんだ。そう言いました。


しかし、その話をするとさっきまで無邪気に笑っていた表情が能面のような無表情になり、どこを見ているか分からないような焦点の合っていない目になりました。


 そして、僕の言っている事がまったく耳に入っていないようでした。


その話をやめると母はまた普段通りに戻りました。


 父親はゆっくりとですが確実にやせ細っていきました。


母に会う事は父親にとって苦痛でしかなくなっていました。


この頃から父親はお酒を飲むようになったのです。


今まではほとんど付き合い程度しか飲まなかった父親が毎晩、少量ではありますが飲むようになりました。


 そして、お酒がまわってくると必ず、僕に言うのです。


なんで、私はお前達の父親をやっているんだろうな? 


こんなの家族じゃないだろう? 


偽りだこんなもの。偽物だよ。


私はここから逃げ出したいんだ…。


でも、そんなわけにはいかない…。

 


父親から自信と余裕を取ったらそこにいたのは唯の矮小な男でした。


僕はこの頃から父親とよく喧嘩をするようになりました。


 それが父親の望んでいる僕だと思ったのです。


父親と僕が不仲になる事で父親はこの家から逃げる口実を作ってあげたのです。


僕は父親との確執を深めていきました。


そして、彩香が8歳になる誕生日に日。


父親は洋子を家に呼んで誕生日会をやろうと言いました。


誕生日会は毎年やっていましたが、洋子を呼ぶのはこの時が初めてでした。


 誕生日会の準備を進めている時に父親が台所に立っている所を見かけました。


父親は懐から何かを取りだすと、スープの中に何か粒状の物を入れていました。


 父親がこの家から逃げ出す手段として選んだのは心中でした。


家を飛び出す事も、投げだす事も出来なかった哀れな父親はこの世から逃げる事を選びました。


洋子を呼んだのは母親と娘を離れ離れにしない為の父親の優しさだったのかもしれません。


 僕はそれを止める気はありませんでした。


つまらない人生がつまらない事で終わる。それも悪くないな。そう思いました。


でも、最後にふとした悪戯心が生まれました。


その結果がどうなろうとそれはそういう物なんだろう。


それが運命と言うものかもしれない。自分で運命と言って少し可笑しくなりました。


僕は、家に置いてあった蝋燭を数本自分の部屋の引き出しに隠しました。


そうすれば、彩香はきっとぐずるでしょう。


きっと、蝋燭を買いに行くという話になると思いました。


結果、彩香は蝋燭を買いに行くと言いだし、それに父親も付いていく事になりました。


 僕はそれを2階の窓から見送ると、携帯電話を取り出して施設に電話をしました。


受付で母を呼び出してもらいました。


どうしたの?と言う母に僕は、今日は天気が良いよ。窓から外をみてごらん? と言いました。


その施設は少し小高い丘の上に立っていたので、受付の窓からは僕の家の方面の道路が良く見えたと思います。


天気が良く空気の澄んでいたその日は、二人で仲良さそうに歩いている父親と彩香もきっと良く見えた事でしょう。



 電話は突然切れました。


 しばらくして、家に電話が掛かってきました。


なかなか二人が帰ってこなかった事で内容は聞かなくても分かる気がしました。


電話の内容はやはり、父親が電車に撥ねられて亡くなったというものでした。

 僕は洋子を置いて、家を飛び出しました。


途中、現場となった踏切に立ち寄りました。


すでに何人かの野次馬がいて、僕はその人込みをかき分けてロープをくぐろうとした時、警察官にここは立ち入り禁止だと止められました。


僕が息子ですと告げると、警察官は僕に同情するような顔を見せて中に入れてくれました。


 中にはスーツを着た刑事であろう人たちがいました。


僕を中に入れてくれた警察官が刑事の人に、被害者の息子さんですと紹介してくれました。


 刑事の人は僕を値踏みするようにしてみた後、少し優しげな声で言いました。


お父さんとお母さんか確認してくれるかな? 辛かったら見なくてもいいんだ。


僕は首を横に振って見せてくださいと言いました。


 刑事さんに促されて先に進むとブルーシートがひいてあって、それがすこし歪な形に膨らんでいました。


 そっと、ブルーシートを持ち上げると、そこには首から下が亡くなった父親の顔がありました。


その顔は酷く歪んでいて、見るに堪えないものでした。その横には母の頭もありました。


こちらは、当たり所がよかったのか顔はそれほど損傷していないようで土に汚れているものの綺麗な顔をしていました。


 良かったですね。お父さん。


あなたの望むとおり、愛する人と一緒に逝けて。今の家族から逃げる事ができて。


 良かったですね。お母さん。


あなたの望むとおり、あなたの愛する人はもうあなた以外と一緒にいる事はできませんよ。


 僕は立ちあがって、刑事さんの方を振り返りました。


とても悲しく、嗚咽の混じった表情をするのも忘れませんでした。


いつまにか、洋子がそこに立っていました。


連れてきたであろうさっきの警察官がこの方も身内だと言うのでと言いわけがましく言うのが聞こえました。


 刑事さんが僕の方を見るので、姉ですとつぶやきました。


刑事さんは身元の確認が取れたので、僕には帰っていいと言ってくれました。


帰ってお姉さんを休ませてあげなさい。と。


僕はそれに頷くと、洋子に肩を貸して歩き始めました。


洋子の体は気絶した人間のように重かったのを覚えています。


 一度家に帰って、洋子を布団に寝かせると、僕は広沢医大に向かいました。


そこに一緒にいた彩香が保護されていると聞いていたからです。


 病院について、彩香の兄ですと告げると、ナースステーションに連れていかれました。


そこには放心したようにぼーっと座る彩香がいました。


 僕が何度か話しかけると、ぼーっとしていた彩香がにっこりと笑いました。


大丈夫だよお兄ちゃん。


今迄の無邪気な笑顔ではありませんでした。


僕と似たような笑顔でした。自然と出てきた笑顔ではなく、笑顔を作ろうとして笑った表情。


そんな顔をしていました。


 僕は、初めて彩香に好感を持ちました。


 もともと、彩香は聡い子でしたので、今まで無邪気に笑っていたのも、きっと僕や父親の様子をうかがっていて、自分にできる事は元気な子供でいる事だと判断したうえでの事だったと思います。



 でも、今の彩香は演技でも、打算でもなく。


ただ自然に、生きる事を演技している。


たった数時間前までの彩香と同じ人物とは思えませんでした。


彩香を連れて帰って寝かせた翌日、早朝に洋子はほとんど何も言わずに帰っていきました。


僕も葬儀の準備やら何やらで忙しかったので特に気にしませんでした。


 大まかな作業や準備は葬儀屋の人達がやってくれたので、僕は忙しくしながらもそれほど大変な目には合いませんでした。


 夜になって、お通夜が始まると、僕は焼香をあげに来る人達の対応に追われていました。


地元では有名な医者だっただけあってか、沢山の人達が訪れてくれました。


中には大泣きする人もいましたし、感謝の言葉を並べたてる人もいました。


僕はそんな人達を向かえる度に、心が卑屈になっていくのを感じざるを得ませんでした。


感謝の言葉を述べる人達に口ではありがとうございます。


そう言っていただけると父も喜びます。と言いながら、心の中では、あなた達には良い人だったかもしれないが、僕の家族を壊したのもまたこの人なのだと言ってしまいたいと言う気持ちがずっとあったからでした。



 そして、僕は知っていました。


焼香の時にどれほど、神妙な顔をしていても、いざ、父親の死因の話になると、皆、一様に声をひそめながら好奇心を働かせた噂話をするのです。


口ではそんな事はあんまり言うものじゃないと言いながら、その顔は好奇心で笑っていました。


表情は笑っていなくても確かにそれは笑顔でした。


 一通りの弔問客が来終わって、僕は彩香の様子を見に行きました。


今日はほとんど布団の中で過ごしていたのです。


昨日目の前で両親が死ぬところを見たのだから無理もない事だったのかもしれません。


 部屋の様子をうかがうと、まだ眠っているようだったので、そのまま戻りました。


 すると、お棺の前に洋子が座っていました。


僕は声を掛けようとしましたが、その場で足を止めました。洋子の頬に涙が流れていたからです。


涙は流れているのに、その表情はまるで泣いていませんでした。


無表情に流れる涙。


僕は、その表情を見て、綺麗だと思いました。


 洋子は、結局焼香もせず、その場を立ち去って行きました。


僕も特に呼びとめはせず、弔問客の対応に戻りました。


 葬儀も終わり、彩香も表面上は元気を取り戻したように見える様になった頃、おかしな事が起こりました。


僕と彩香は親戚の家に世話になるのではなく、そのままあの家に住み続ける事にしていました。


幸い、お金は父親の遺産が彩香が大学に行けるほどの額があったのでそれで当面は困る事はありませんでした。


 二人暮しを初めて1週間ほど経った頃。


僕が夕飯の買い出しに来ていると、道端で突然、声を掛けられました。


いえ、初めは「透さん」と呼ばれたので、自分の事ではないと思っていました。


しかし、その呼びとめた相手が洋子だったのです。


そして、その洋子が僕に向かって透さん…父親の名前で呼びとめたのです。


僕は一瞬、事情が理解できませんでしたが、洋子の瞳を見て、なんとなく理解しました。


それは、施設に入っていた時、彩香の事を話した時の母の瞳にそっくりだったのです。


 咄嗟に、父親のフリをして、洋子を家に連れて帰りました。


こんな精神状態の洋子を放って置く事はできませんでしたし、何より興味がありました。


 思えば、この頃からすでに、僕は洋子に惹かれていたんだろうと思います。


僕は洋子が僕の事を父親の名前で呼ぶのを訂正しませんでした。


というよりも母の時と同じように話しても洋子は理解する事を拒絶してしまうのです。


 彩香は洋子と僕が関わる事を嫌がりました。


何度も何度も反対しました。


でも、僕は洋子を突き放す事ができませんでした。


洋子は僕の事を頼りにしてくれていました。必要としてくれていました。


 僕にはそれは初めての経験だったのです。


僕に何かを望む人はたくさんいました。でも、僕を必要としてくれていて、側にいてくれてるだけでいいと言ってくれる人はいなかったのです。


それは思った以上に僕の心に響きました。


楽しいとか嬉しいと言う気持ちは今までほとんど分かりませんでしたが、この時感じていた気持ちがそういうものなのだろうかと思いました。


そういう気持ちを持てる自分を初めて好きになれそうな気がしました。


 たとえそれが、洋子がその瞳の先に見ているのが父親の事であっても僕は構いませんでした。


洋子が透という人物を求めるのなら僕はその透で良いと思いました。


 そんな生活が1年ほど続いた頃、僕に初めての友人ができました。


名前は隆春と言います。


彼は、人との距離を測るのがうまい人でした。


他人との距離を適度な位置に保ちながら、求められればかなり近い位置に立ちましたし、触れてほしくないところは必ず、深くは踏み込んでこない人でした。


それでも、必ず自分は味方だと思わせてくれる人物でした。


 彼も家庭の環境が複雑だったようで、そこでも意気投合しました。


家族の話をお互い詳しく話した事はありませんでしたが、それでも共通の認識を持っていると言うのはどこかくすぐったくも気持ちのいい関係でした


 洋子の事を隆春に話した事があります。


僕には好きな人がいるんだと。


そう言って、初めて自分が洋子を好きになっていた事を自覚しました。


笑われるかもしれませんがそれぐらい僕にとって誰かを好きになるという気持ちは想像の外にあったものだったのです。


 隆春はそれを聞いて初めは素直に喜んでくれました。


しかし、僕の話の先を聞くと顔を少し曇らせました。


洋子は僕の事を僕として見ていない。


いや、僕の事を僕として見てくれる時もあるのだけれども、その時の洋子は僕を必要とはしていないのだ。


洋子が必要としているのは透であって、泉ではないのだ。


僕はそれを知った上で洋子が好きなのだと言いました。

隆春はしばらく、黙っていた後、僕に聞きました。


泉はどうしたいんだい? このままの関係を続けていきたいのかい? それとも、泉を泉と認識してほしいのかい?



 僕はその問いに答えられませんでした。


いえ、本当は答えられたのです。


僕の答えはこのままで良い。でした。


僕は別に泉として認識してくれなくても僕を必要としてくれさえすればそれで良かったのです。


 でも、それを答える事はできませんでした。


そんな事を言う事は求められていない気がしましたし、それを否定される事が怖かったのです。


この考えが一般的ではない事は自分でも分かっていましたから。


 隆春は黙り込んでいる僕にそっと笑いかけると、そのままで良いんじゃないかな。泉は泉なんだしさ。と言ってくれました。


今思うと、そのままの君で良いと言うのはなんという甘美で心地よい言葉なんでしょうか。


でも、この言葉は麻薬でした。


そのままで良いと言うのはその場で立ち止まっても良いと言う免罪符にもなりえるのです。


 そこからの成長を止めても誰も咎めない。


先に進まなくても良い。弱っている人間にとってこれほどの言葉があるでしょうか。


言っている本人にそういう気持ちはなくとも受け取る人間によってはそういう風に取られても仕方のない事だと思うのです。


 しかし、隆春はその後に続けました。


でも、変化を恐れる気持ちは分かるけど、そこに停滞し続けると言う事は現状を維持するんじゃなくて、ゆっくりと腐り衰えていくって言う事でもあると思うんだよ。


努力する事を忘れたらゆっくりと後退していくだけだ。


後になって努力しておけばよかったと思っても時すでに遅しなんて事は良くある事だよ。


 隆春はそう言って自嘲的に笑いました。


自分にも何かしら心当たりがあったのかもしれません。


僕は隆春の助言に耳を傾ける事にしました。


隆春。お前は僕の友達だよな? 僕は聞きました。


当然だろ。と彼は答えました。


じゃあ、明日、もう一度この放課後の教室で話をしよう。


そこで、僕は腹をくくる。


洋子に本当の事を話そうと思う。


それで、この恋が終わろうとも、僕がショックで自分を保つ事が出来なくなっても、それでも隆春は友達だよな? そう聞きました。


隆春は大げさだなと笑いましたが、僕にとって、大げさでもなんでもありませんでした。


僕にとって僕を必要としてくれている人と言うのはかけがえのない人で、それを失うと言うのはそれはとてもとても恐ろしい事でした。


 だからこそ、それを失うぐらいなら、自分を偽ってでも今の関係を保ちたいと思ったのですから。


 僕の真剣な表情を見て隆春も、真剣な顔で頷きました。


ああ、俺はいつでもお前の友達だよ。


その表情と言葉を聞いて、ほっとしたのを覚えています。とても心強い言葉でした。

 

 隆春は大げさだなと笑いましたが、僕にとって、大げさでもなんでもありませんでした。


僕にとって僕を必要としてくれている人と言うのはかけがえのない人で、それを失うと言うのはそれはとてもとても恐ろしい事でした。


 だからこそ、それを失うぐらいなら、自分を偽ってでも今の関係を保ちたいと思ったのですから。


 僕の真剣な表情を見て隆春も、真剣な顔で頷きました。


ああ、俺はいつでもお前の友達だよ。


その表情と言葉を聞いて、ほっとしたのを覚えています。とても心強い言葉でした。


 次の日、僕は教室で隆春を待っていました。


心の中は洋子になんと言って伝えようかとそればかり考えていました。


伝えることで嫌われたらどうしよう。


それならまだしも憎まれるかもしれない。


洋子は透という人間がこの世にもういないと言う事に耐えられるだろうか?


 それを耐えた上で、僕に心を開いてくれるだろうか?


 そう思うと心が、心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられるようでした。


 でも、それでも、洋子がすべてを受け入れてくれて、僕を受け入れてくれた時、洋子や彩香や僕が三人で笑っている瞬間を考えると少し、心があったかくなった気がしました。


それも、やはり、初めての感覚でした。


僕は、少し人間に近付けたのかもしれない。


他の人達の様に笑ったり怒ったり泣いたりできるかもしれないと思うと、それだけで、気分が晴れやかになるのでした。


しかし、隆春は待っても待っても教室には現れませんでした。


 隆春はその日大けがをしていました。屋上から落ちたのです。


僕はあの日以来、洋子に本当の事を伝えられずにいました。一度挫けた心は中々治ってはくれないものなのです。


 今のままの関係はよくないと思いながらもずるずると月日を重ねて行きました。


 そんな時、一本の電話が僕に掛かってきました。


それは僕を産んだ両親からでした。


その両親は娘、つまり僕の妹にあたる人物から僕の様子を聞いて心配しているようでした。


 確かに、その頃の僕は周りから見ても情緒不安定と分かるほど悩んでいたのかもしれません。


両親は僕にもう一度、私達の子供にならないかと提案してきました。


 それはとても魅力的で甘美な提案でした。


今の状況から離れる絶好の機会でした。でも、その提案を受け入れる事はできませんでした。


その提案に彩香は入っていませんでしたし、それに今の状況から逃げると言うのは、家族から逃げると言うのは父親と同じだと思ったのです。


 僕は父親と同じにだけはなりたくなかったのです。


 その提案を丁重に断った後、僕は彩香と真剣に向き合う事にしました。


彩香と二人だけで向かいあって話し合う事にしたのです。


僕は洋子が好きな事、洋子が僕の事を父親だと認識していても好きだと言う事。


僕は彩香と、洋子と3人で一緒に暮らしたい。


その為なら洋子に本当の事を話す気がある事。


それで嫌われたのなら、それはそれで受け止めると言う事を話しました。


 彩香はしばらく黙っていましたが、ゆっくりと重い口を開きました。


お兄ちゃん。お兄ちゃんがそれでいいなら、私は反対しないよ。


お兄ちゃんが洋子お姉ちゃんに本当の事を話したくないと言うなら今のままの関係でも良いと思う。


私も反対したりしないよ。皆で幸せになれるならそれでいいんだから。


 笑顔で言いました。


僕の言って欲しかった言葉を。



 それは、とても凄い事で、とても悲しい事でした。


だから、少し強引は手段を使う事にしました。


彩香を少し追い詰めて、情緒不安定になっている所に洋子が遭遇するように仕向ける事にしました。


それは彩香にとってはとても辛い事だったでしょうが、それぐらいしないと彩香は本音を話さないだろうと思いました。


 二人が本音で話し合っているところに僕も後から合流して、三人で話しあえればいいと思っていました。


そこで、その場所を体育倉庫に決めました。


彩香は暗い場所の方が本音が出やすいでしょうし、あそこは昼間でもあまり人が来ない場所なのでちょうど良いと思ったのです。


それで、あの日、僕は彩香に学校が終わったら僕の学校に来るように言い、洋子にも彩香を向かえに言ってくれるように頼みました、体育倉庫に向かうと、稲森先生が何かをしていました。


 そこに先生がいると僕の予定がくるってしまうので先生を遠ざけるために先生がいつも使っている部屋の掃除を提案しました。


先生はその提案を受け入れました。


先生が体育倉庫をでた後、僕は中の様子をうかがいました。


そこで、体育倉庫の奥にある、時計塔に登る階段がある事を思い出しました。


三人で話している時に誰かが邪魔されては嫌だなと思った僕は、奥に誰もいない事を確認すると、その扉に鍵をかけました。


 先生と歩いていると、校庭で洋子とすれ違ったので、体育倉庫の鍵を渡しました。


僕は、先生に先に行っていてくださいと言うと、裏門へ向かいました。


 そこで、待っていた彩香に僕は彩香が本当は洋子の子供だと伝えました。


本当の本当の事を言えば、彩香は洋子の子供ではないのですが、彩香がショックを受ける事実であれば何でも良かったので、そこは深くは言いませんでした。


 彩香は衝撃を受けた表情をしていました。僕はその彩香を置いて、稲森先生の所に帰りました。


そして、先生と一緒に掃除を終えると、先生の入れてくれたコーヒーを飲んでいました。


そろそろかなと思いながら。


そろそろ、洋子と彩香が体育倉庫で遭遇して、本音の言い合いをしている事だろうと思っていました。


そう思って、体育倉庫の方を見ると、どす黒い煙がもうもうと立ち上っていました。


 僕は驚いて、思わず、椅子を蹴飛ばして、立ちあがりました。


とても、嫌な予感がしたのです。


急いで、部屋を飛び出して、体育倉庫へ向かいました。


 体育倉庫の前には洋子が尻もちを付いて、体育倉庫の方を眺めていました。


僕が走って近づくと、ブツブツと何かをつぶやいていました。彩香がまだ中に…。


 頭が真っ白になりました。


何が起こっているのかまったくわかりませんでした。


でも、僕は気がつけば燃え盛る体育倉庫に向かって駆け出していました。


 扉の取ってを掴むとジュウと鈍い音がして、皮膚の焼ける匂いがしました。


僕はそれに構わず、扉を引き開けようとしました。


しかし、扉はガチャガチャと音をたてるだけで開く様子を見せませんでした。


それもそのはず。


体育倉庫には鍵が掛かっていたのです。


 咄嗟に鍵を壊そうと何か硬い物を探しました。


近くにあった石を拾おうとして、取ってから手を離すと、皮膚がベリベリと音を立ててはがれました。


痛みはほとんど感じませんでした。石を拾って、南京錠に向かって振りおろしました。


一回…二回…三回…。


そこで、稲森先生に後ろから羽交い絞めにされて、地面に抑えつけられました。


僕はうーうーと唸りながらどす黒い煙をただ眺めている事しかできませんでした。


それから、1時間後ぐらい経った頃になって、稲森先生が呼んだ消防車が火を消し止めました。


僕は消防隊員を押しのけて、体育倉庫に向かいました。


そこには、彩香が大事にしていたウサギの人形がススまみれになって転がっていました。



 彩香はそれを大事に抱えるようにして、転がっていました。


酷く嫌な匂いがしていました。


皮膚が焦げる匂い。


真っ黒な姿の妹を見た時。僕の中で何かが壊れる音がしました


彩香の通夜が取り行われました。


一年前と同じように僕は忙しくしていたものの、葬儀屋の人が多くの事をこなしてくれたので、それほど大変ではありませんでした。


それともこれはお葬式を行うのが2回目だと言う慣れでしょうか?


 お通夜には色々な人が来てくれていました。彩香の同級生や、小学校の先生、近所の人。皆一様に悲しそうな表情を浮かべて、彩香の死をそれぞれがそれぞれで受け止めているようでした。


そんな皆の態度を見て、彩香は愛されていたんだろうなと思いました。


 それだけ、彩香が一生懸命、人と関わって生きてきたんだと思いました。


 彩香の友達が、彩香の為に泣いてくれるのは嬉しくはありましたが、僕はそれをただ眺める事しかできませんでした。


 彩香が死んだ事が実感できないのではありません。彩香が死んで、もう二度と会えないし、彩香が笑う事も泣く事も困ったように怒る事も、もう二度と無い。


 それは分かっていました。完全に理解していました。でも、涙一つ出てこなかったのです。


 僕の中はカラカラの空っぽでした。なにも感じない。彩香の為に泣いてくれる人を見ても、またこの家族から死者が出たのよ。呪われてるんじゃないかしら。という、ひそひそ話をされても何も感じませんでした。


 ただ、心の底まで空っぽでした。


淡々と通夜をこなしていた時、稲森先生が顔を見せてくれました。


 先生は、焼香をあげて、僕の事を心配してくれていました。


咥え煙草で。


彩香が死んだ小火の原因が煙草のポイ捨てだと言うのにです。


皮肉や嫌味にしても露骨すぎました。



でも、先生は一切の悪気も害意もなく、やっていました。


先生には感謝しているのです。


だってカラカラだった僕の心に何か黒く蠢く渦の様な感情が芽生えたのです。


それが何かはよく分かりませんでしたが、僕の中でそれは確かに大きくなっていきました。


お葬式が終わっても洋子はどこか呆然としていて、ふわふわとしていました。


 自分の子供が死んだと言うのに悲しめない自分が許せないのでしょうか?


 それとも、自分が殺した事に罪悪感を感じているのでしょうか。


 あの日、体育倉庫に鍵がなぜ掛かっていたのか。僕は不思議でしょうがなかったのです。


 確かに、洋子に鍵を渡しはしましたが、あの時まだ体育倉庫には鍵を掛けていなかったのです。


 それはつまり、体育倉庫に鍵を掛けて彩香を閉じ込めた人物がいると言う事でした。


 そして、それが出来たのは洋子しかいませんでした。


でも、不思議と洋子には恨めしい気持ちや憎しみは湧いてきませんでした。


 彩香を死に追いやった原因の一つを作っていると言うのに僕には洋子を憎む事はできませんでした。

 

 それほど、僕は洋子の事を大切に思っていたのかもしれません。


 それは、彩香には悪いとは思いますが、僕にとってはそれほど誰かに好意を持てる自分と言うのが少しだけ好きでした。

僕は彩香の葬儀から数日たってから洋子の家に行きました。


さすがに時間がたったからなのか、洋子は大分しっかりとしていて、まだ暗い顔をしていましたが、今までの洋子と変わりないように見えました。


僕が玄関を開けると洋子が


「泉君いらっしゃい」


と言いました。

洋子は制服を着ていない僕の事を泉と呼び、透と呼ぶ事はありませんでした。


彩香と死ぬ前になにか話したのでしょうか。なにか憑きものが落ちたかのように、僕の事を泉と認識していました。


そして、恐らく父親が死んだ事も認識していたんだと思います。


話している感じからそう思いました。


子と話していると、とても不思議な感じがしました。


洋子が僕の事を泉として認識している。僕の事を正面から見て、受け止めて話してくれている。


それは僕の望んでいた事でした。


でも、話せば話すほど、どこか冷めていく自分がいました。僕は確かに望んでいたんです。でも、洋子が僕の事を認識すると言う事は、それはつまり洋子は僕の事を必要としていないと言う事でした。


 洋子が頼りにしていたのはあくまで透であり、泉ではなかったのです。

考えもしていなかった事でした。


いえ、洋子が僕の事を必要としなくなることではありません。


それは、あり得る事だと思っていました。だからこそ僕は打ち明ける事を悩んでいたのですから。


予想していなかったのは自分の気持ちでした。


僕の事を必要としてくれていない洋子には僕はまったくもって興味が持てなかったのです。


つまり、僕が好きだったのは僕の事を必要としてくれている人だったのです。


別に洋子である必要性は無かった。


洋子でなくても僕を必要としてくれている人がなら誰でもよかったのです。


僕が生まれて初めて人に持った好意。愛情。恋はその程度のものでした。


僕はそんなくだらない。とてもくだらない事で彩香を殺したのです。


あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは。


ああ、やっぱり僕は僕なんだ。


そう思いました。





僕は洋子に言いました。


「どうして、洋子は生きているんですか?」


洋子は答えませんでした。


「洋子。僕は彩香と三人で暮らす事を望んでいたんだよ。

 でも、君はそれから逃げたんだ。いや、それは僕もか。全ては偽りだった。君も、彩香も、僕も、全てが偽りだった。

 洋子、彩香が死んだ事がピンと来ないんだろう?

 それは当たり前だよ。だって、僕達の関係は希薄で偽りのものだったんだから。

 僕達の中には何もなかった。初めから。何も」


「それはどういう意味かな。泉君は私が彩香を殺したと思っているの?」


「思っています。彩香を殺したのは洋子。君だと。そして、彩香を殺したのは僕でもある。

 人殺しって言うのはなんなんでしょうね? 命を奪う。それは確かです。でも、命を奪わなければ、それは人殺しではないんですかね?

 生きているように死んでいる。死んでいるように生きている人はたくさんいると言うのに。僕の母のように。

 僕には、よく分かりません。人を殺すと言う事が。でも、そんな僕にも確かに分かる事があります。

 彩香を殺した人物を許す事ができません。許す事ができないのです。

 不思議ですよね。彩香の事は嫌いだったはずなのに。鬱陶しいと思っていたはずなのに。

 僕と彩香は血の繋がりさえ無いって言うのに。

 僕は、昔から想像力と言う物が欠けているんですよ。人の心を想像する事ができないんです。

 いえ、想像する事は出来るんですが、それを実感する事はできませんでした。

 いつも、心の中はカラカラの空っぽでした。

 でもね、皮肉なものですよね。今は、心の中に確かな何かがある。それが、例え憎しみであろうとです。

 だから、洋子。僕はね。あなたの事も許す事が出来ない。

 洋子、あなたの事は今でも好きです。でも、それは許す理由にはなりえない」


洋子は黙って、僕の話を聞き終えると、一言呟いた。


「そう。じゃあ。私を殺してくれるかしら」


「そうですね。じゃあ。明日」


「そうね。明日」


僕達はそう言って別れました。


洋子は次の日に死にました。


でも、殺したのは僕ではありませんでした。


僕が洋子の家に行った時、洋子はすでに息絶えていました。


 部屋には一言書かれたメモが置いてありました。


「ごめんね。泉君。私はあなたに殺される価値すらない人でした」


僕は風呂場で血を流している洋子を横目にして、机のある部屋に向かいました。


洋子がなぜ自殺をしたのかが分からなかったからです。


洋子が日記をつけていたのを覚えていましたのでそれを見ればなにか分かるかもしれないと思ったのです。


日記は机の中央にぽつんと置いてありました。


僕はそれを手に取りぱらぱらとページをめくりました。


内容は僕の父親が死んだ頃から始まっていました。


それには洋子の心の移り変わりがかかれていました。


日記の終わりの方に今日の日付が書かれた日記がありました。


それを読んで僕の手が止まりました。




また、あなたですか。稲森先生。


今日の日記には昨日稲森先生と話した内容と洋子が何かに気がついた事が書かれていました。


そして、その気がついた事と言うのは十中八九、彩香が自分の本当の子供ではないと言うことだと思いました。


洋子にとって悲劇だったのはその事実を自分で気がついてしまったと言うことです。


教えられたわけではないのです。


つまりそれは自分が最愛の人だと思っていた透さん、僕の父親に騙されていたと言うことです。


そして、死ぬまで騙され続けた。


洋子は衝撃を受けたはずです。でもきっとそれ以上に衝撃を受けた事があった。


ここから先は僕の推測でなんの根拠もありません。でも、大筋は間違ってはいないと思います。


洋子は彩香が死んで精神的に追い詰められていました。


自分の実の娘を殺してしまって悔やんでも悔やみきれなかった。


放心してしまうほどに。


でも、彼女は知ってしまった。死んだのは自分の娘ではないと。


そして、それは同時に誰の子供かも簡単に想像できると言うことです。


なぜ、僕の母が父親と彩香と一緒に死のうとしたのか。


その本当の意味に気がついた。



そして、それを知った洋子は




ほっとしてしまった。


洋子は安堵の溜め息をついた時気がついてしまった。


自分の醜悪な感情に。自分が殺したのは実の娘ではなく恋敵とも言える人物の子供だった。


ほっとした以上に、その事実に喜んでしまった。愉悦を感じてしまった。


それは洋子にとって耐えられない事実で感情だったと思います。


僕は日記のページをそっと閉じました。


日記を読んで洋子が自殺に至った理由を想像できた事の他にわかったことがありました。


それは彩香が見た事故の犯人はおそらく遠藤ゆかりちゃんだと言うこと。


そして、遠藤明弘はその妹を庇うためにわざと火をつけたと言うこと。


つまり、彩香を殺してのうのうとしている人物はあと三人いると言うことです。


僕の周りにはもう誰もいませんでした。


僕を育ててくれた両親は死に、一緒に育ってきた彩香も死にました。


そして、偽りだったとはいえ、一度は最愛の人だと思った洋子も死にました。


ああ、どうして僕は生きているんだろう。


そう思ったとき、ふと思ったのです。彩香の為になにかしてあげよう。


僕の事を大事に思ってくれていた彩香に僕は随分冷たい態度をとってきました。


だから、彩香に何かしてあげたかったのです。


僕が思い付いたのは復讐でした。何の罪もない彩香を殺して置いて何事もなかったように過ごしている奴らに復讐してやろうと決めました。


彩香はそんな事望まないかもしれませんが、復讐することが僕の義務のような気がしたのです。


 手始めに遠藤明弘が本当にわざと火を付けたのかどうかを確認する為に遠藤家のポストに洋子の日記を投函する事にしました。


そして、隣の空き家に忍び込んで遠藤明弘を観察する事にしました。


 遠藤明弘は思った通り、その日記を読むと急に顔色が悪くなり行動がおかしくなり始めました。


おそらく、洋子の日記を呼んで、彩香が洋子と付き合っていた頃にできた自分の娘だと想像したんだと思います。


 彼は自分の娘を殺してしまったと思い悩み苦しんでいました。本当は彼の娘でも何でもないのに彼は苦しみ続けていました。


 数日後に僕が彼を訪ねた時にはすでに、彼の心はほぼ崩壊していました。


僕は彼を楽にしてあげる事にしました。


彼が守ろうとした妹の手で、その人生を終わらせてあげようと思いました。


 日記をポストに入れると同時に学校中に遠藤明弘の噂話をある事ない事言いふらして広めました。


こういう時、携帯電話やインターネットって便利ですね。


自分の顔をさらさずに噂を簡単に広める事ができました。


 遠藤明弘に睡眠薬を飲ませて体育館準備室に吊るしました。


その顔は安らかな表情をしているような気がしました。


 しばらく、待っているとゆかりちゃんが準備室に入ってきました。


僕は、ゆかりちゃんがどう行動するかをただ見ていました。懐にはゆかりちゃんが殺さなかったり、もしも遠藤明弘が抵抗した時の為に買ってきた大振りの登山用ナイフを持っていました。


ずしりとその重さを感じました。


数分後にはこれを使っているかもしれないと思いましたが、それは正直どうでもいい事でした。


 結局、ゆかりちゃんは実の兄を殺害してしまいました。


自分を守ってくれた兄を。


裏切られたと思っていたはずです。


それは僕が用意した偽りだとも知らずに。


 その一部始終を見ても、僕の心は空っぽのままでした。


まるでテレビを見ているかのように傍観していました。


遠藤明弘が死んだ時、何かしら、気が晴れるかと思っていましたが別にそんな事もありませんでした。


僕は昔から、感情の振れ幅が少ないと言うか、何かに心動かされると言う事が非常に少ないのです。


情操教育に決定的に失敗していると言うか、どこかで人生を完全に失敗してしまっている感じ。


 世の中と自分がズレている、一人取り残されて、それでも、自分は何も感じない。


焦りもしなければ怖いわけでもない。もう終わっている感覚。


どこかで、もう終わってしまっている感覚。


それだけがいつも僕の中にありました。


僕の復讐はここで終わるはずでした。


火をつけた遠藤明弘は死にその原因をつくったゆかりちゃんも兄殺しの罪を背負った。


あとは自分自身を殺せば終わりでした。


どうやって死ぬかそんなことを考えながら準備室を出ようとすると人の足音が聞こえてきました。


僕はとっさに再び隠れました。中に入ってきたのはまたしても稲森先生でした。


どこまでも縁がある。そう思いました。


もう少し早く来れば遠藤明弘を助けられたのに残念でしたねとそのときは思いました。


先生はすぐに警察を呼ぶだろうと思っていましたが、予想に反して先生は無言で僕の書いた遺書を持って立ち去りました。


不思議には思いましたが深くは考えないことにしました。


先生が何をしようとさほど興味がなかったのです。


僕の頭の中はどうやって死ぬかでいっぱいでした。


いざ死ぬとなると色々考えてしまうものなのです。


この僕にふさわしい死に方はなんだろうと思いました。


無意味に生きてきた僕には無意味に死ぬのが一番似合いな気がしました。


しかし、僕の死には意味がありました。


彩香の復讐。


復讐なのだから満足して死んではいけないと思いました。


後悔して、死にたくないと思いながら死ぬ。


それが理想でした。


しかし、それはとても難しい問題でした。


復讐はしたい。しかし、僕が死ぬと言うことは復讐が達成してしまう事なので、それでは僕が満足して死んでしまう。



いくら考えても答えは出ませんでした。


気がつけば遠藤明弘が死んでから一週間以上が過ぎていました。


その日僕が知らされたのはゆかりちゃんが自殺したと言う事実でした。


その可能性を考えていなかったわけではないのでそれ事態には驚きませんでした。


それよりも僕をひき付けたのはゆかりちゃんが送ったメールでした。



彼女が自分の痕跡を残そうとした文章。その中にまた稲森先生がいました。



なんだこれは。


メールの中で先生は雄弁に語っていました。


持論を振りかざしその責任感からゆかりちゃんを追い詰めていました。


あははははは。


思わず笑いがこぼれました。


そうか。全てはこの人から始まっているんじゃないか。


この人を殺す。それをしなければ僕は死ねない。


先生を殺すとは言っても物理的に殺す気はありませんでした。


先生の心を折らなければ意味がない。


ただ殺しても先生はただ死ぬだけで後悔も反省もしないだろう。


先生の中心にある芯。先生を支えているものを僕の全てで否定する。


生きながらにして殺す。


そう決めました。


その為にしなければいけないことは先生を僕に辿り着かせることでした。


先生はゆかりちゃんをそそのかした人物を探しています。


しかし、先生は僕の遺書を見てしまった事で僕が死んでしまっていると思い込んでいるようでしたので犯人が誰か分からないようでした。


僕が生きていれば真っ先に疑うべき人物ですから。


だから、僕は先生に生きていることを教えてあげる事にしました。


ただし、それは直接教えるわけにはいきません。あくまで先生が自力で僕に辿りついてもらう必要性があるのです。


自分の意思でここまで来た先生でなければ心を折る意味がない。


その頃、学校では真理奈ちゃんがいじめにあっているようでした。


ゆかりちゃんが死んで、悪口を言う標的がいなくなると、サイトを利用している人達は、次の標的を探し始めたようでした。


人を誹謗中傷する。しかも、相手にはそれをされても仕方がないと思えるような事実がある。


 そういう相手を責めるのはとても気持ちのいいものだったのかもしれません。


そして、そういう気持ちを一度知ってしまうと、なかなかそれを止める事は出来ないのです。


ゆかりちゃんの友達だった。それだけで、人々に中傷される理由としては充分だったんだと思います。


だから、真里菜ちゃんは標的にされてしまった。


真理奈ちゃんがいじめられているのは僕がそういうやり方を与えてしまったからかもしれないと思うと、申し訳がありませんでした。


だから、知り合いの生徒会の会長に真理奈ちゃんがいじめの標的にされている事を伝えました。


その首謀者が道羽と言う男で、北川と言う女を使っていると言う事を僕は聞いて知っていましたので、それも伝えました。


あの生徒会長は優秀ですので、それでうまく解決してくれるだろうと思っていました。


その連絡をしてから数日後、真理奈ちゃんが僕の家の前にやってきたのが見えました。


どうやら、真理奈ちゃんの方が先に僕の存在に気が付いたようでした。


同じ生徒会の仕事をしていた事があったのでそれで気が付いたのかもしれません。


初めは、居留守を使ってやり過ごそうと思っていました。


しかし、真理奈ちゃんの背後に僕は稲森の先生の姿を見つけたのです。


先生。やっぱりあなたは優秀です。


二人が言い争いを始めた時、僕は玄関を開けて表に出で二人を家の中に招き入れました。


それから、僕はゆっくりと今回の事件の中身を僕の知っているかぎり話していきました。


それは、僕の家族の話であり、僕の過去の話でもありました。


話しながら、どこか懐かしく、遥か昔の事のように思えました。


話が進んだところで、真理奈ちゃんに出す飲み物に粉状の睡眠薬を入れました。


なるべくなら、この先起こる事を見せたくなかったからです。


真理奈ちゃんは僕が出した飲み物を何の疑いもなく飲み干しました。


そこから、僕は睡眠薬が効き始めるのを待つためにもさらにゆっくりと話をしていきました。


話が終盤に差し掛かった頃、ゆかりちゃんが自殺した理由を僕は先生に話しました。


先生はそれを否定してきました。人殺しは人殺しで、殺した人物が悪いんだと。


まったく、その通りだと思います。


それが、正論です。


でもね、先生。正論では生きていけない人と言うのも確かに居るんですよ。


僕はそう思いました。


だから、僕は先生に言ってあげました。


洋子が死んだのはあなたのせいなんです。と。


明らかに先生の態度が変わりました。


それまでの雄大不遜な態度から一転して、イライラとしたものになりました。


そして、僕が先生の言った不用意な一言を指摘すると、先生の顔は蒼白になっていました。


僕はたたみ掛けるように先生の言ってきた正論が招いた結果を並べたてました。


先生の全てを拒否するように、先生の考え方全てを認めないと言うように。


先生が震える声で反論してきました。


お前も同罪だろう?


要約するとそういう事でした。


その通りだと思います。僕はその言葉を待っていたのかもしれません。


僕は先生の目の前に立って、包丁を首に押し当て、一気に引きました。


先生。これが人間が死ぬってことです。


正論なんかじゃ説明できない。これが、死ぬってことです。


先生の顔が恐怖に歪むが見えました。


僕はその顔が見たかったんですよ。先生。


首元から暖かい液体が出ていく感覚がしていました。


痛みは最初だけで、すでに感じなくなっていました。


僕の頭はもうおかしくなっていたのかもしれません。


真理奈ちゃんが何かを叫びながらこちらにふらつきながら走ってくるのが見えました。


僕の体を支えるようにして、泣いているのが見えました。


それは、好意でした。僕に向けられているもの。


恋愛でも親愛でもなく。ただただ純粋な好意。













…ああ。なんて煩わしいんだ。


僕には好意なんていらないんです。


愛も恋もいらないんです。


僕の事なんて誰も覚えていてくれなくていいんです。


僕の心はまた空っぽでした。


彩香への罪悪感も先生への嫌悪感もなくなった僕の心はやっぱり空っぽでした。



本当につまらない人生でした。



でも、誰かの腕の中で死ぬのは悪くない。



そう思いました。


 

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