第5話 敬愛心

私は、その日生徒会の仕事をする為に放課後になっても学校に残っていた。


生徒会副会長の泉先輩がいなくなってから仕事が山積みだった。


泉先輩は要領が良く、仕事も早い人だったなといなくなって、なおさらそう思った。


生徒会の会長もいたが、あの人は雑用や根回し等には向かない人だ。


もちろん、生徒には人気もあるし、先生方からも支持を得ている。私も嫌いじゃない。


でも、あの人は性格が大雑把なので細かい仕事には向いていない。人には向き不向きっていうものがある。


そういう意味では泉先輩と会長はいいコンビだったんだと思う。


自分の担当している仕事を終えると私は生徒会室を後にした。私のほかには誰も生徒はいない。


生徒会室の鍵を閉めて足早に職員室に向かう。


あまり遅くまで残っていると生徒指導部の西垣に目をつけられてしまうのだ。


廊下から見える夕日が奇麗だった。時計塔が赤く染まっている。


もうそんな時間か。そう思った時、時計塔の屋上に人影が見えた。


あれ? あそこは鍵がかかっていて誰も入れないはずなんだけど?


見間違いかと思って廊下の窓に張り付いてもう一度よく見る。確かに、人影だった。


しかも、見知った人物に見えた。



………ゆかり?

私は、手に持っていた書類の束を廊下に投げ捨てて階段を駆け下りていた。


時計塔に向かうには一度校庭に出なければいけない。階段を一段飛ばしに走る。


何度かバランスを崩しそうになるけれども、足を踏ん張って転倒は避ける。


校庭に出た。見上げると時計塔の上の人影はさっきよりもはっきりと見えた。


やっぱりゆかりだ。


私は、時計塔に向かって全力で走った。近づくごとにゆかりの姿がはっきりと見える。


ゆかりはフェンスを乗り越えていた。


「ゆかり何してるの!!」


私は叫んだ。

ゆかりがこちらを見た気がした。しかし、それはこちらを見たわけではなく、地面に置いてある何かを見たようだった。


ゆかりが携帯電話を拾い上げて、液晶を開いた。私はその時も走るのをやめない。


ゆかりが笑った。そう思った時、宙を舞った。なんの躊躇いもなく身を空中に投げ出したのだ。


一瞬だった。ゆかりはあっと言う間に落下して。ドコッと鈍い音をたてて潰れた。

「ヒッ!!」


私はその音を聞いて体が竦んだ。足が止まる。近づくことができない。


「真理奈!!」


後ろから声を掛けられてビクッと体が震える。振り返ると稲森先生が足を引きずりながら歩いていた。


「先生……ゆかり。ゆかりがっ」


稲森先生は頷くと走って時計塔の下に向かった。しかし、その動きはあまり速くはなかった。


私もその後ろに続く。徐々にゆかりの姿が見えてくる。


ゆかりは赤い水溜りの中に沈んでいた。


手足が、あらぬ方向に曲がっていた。首が一回転してこちらを見ていた。


「………っ」


私はその場に今日のお昼に食べたサンドイッチを吐いていた。


胸の奥から酸っぱい物が込みあがってきた。何度も何度もその場に嘔吐する。


そのうちに胃液しかでなくなった。


ゆかりに、ゆかりだった物に近づいていた稲森先生が言う。


「救急車……いや、警察か…」


そう呟いた。そうだ、救急車を呼ばなきゃ。電話。携帯。



そうだ。携帯電話。

私は時計塔の入り口の体育倉庫に向かって走った。


あの時、ゆかりは携帯電話を見ていた。確か、地面に置くような仕草をしていたはずだ。あの携帯を見れば、何か事情が分かるかもしれない。


そう思って、時計塔に向かって走った。



本当はただ、そこから一刻も早く逃げ出したかっただけかもしれない。

体育倉庫の鍵はなぜか開いていた。南京錠に鍵が刺さったままぶら下がっていた。


中に入る。火事の焦げ跡がまだあちこちに残っている。


梯子を登る。屋上に出た。フェンスの向こう側に携帯電話が置いてあった。


あれだ。

フェンスを乗り越えようとしたが、さっき見た、ゆかりの姿が脳裏にフラッシュバックする。


怖くなって登るのはやめた。フェンスの下から手を伸ばす。ぎりぎり携帯に指が届いた。


指先に神経を集中させてこちらに引き寄せる。


液晶画面を開く。今日の着信はなかった。メールの欄を覗く。あかねと言う人からメールが来ていた。


次に、送信ボックスを開いた。


そこには、長い長いメールが綴られていた。

次の日、学校は大騒ぎだった。ここ半年で事件が起こりすぎていたのだ。


この辺りでは学校で起こった事件を知らない人はいなかった。そして、この地域以外の人もこれらの事件に興味を持ち始めたのだ。


いつの間にか、学校の校門の外にはマスコミがちらほら現れるようになっていた。


何せ、ここ半年で飛び降りが2件、死者を出した火事に遠藤教師の自殺。さらには西垣先生が傷害未遂で捕まったのだ。


ワイドショーの飯の種には充分の様だった。


ゆかりの飛び降りを見た稲森先生は救急車と警察を呼んだ。


警察が到着して、事情聴取をしている所に、ヘルメットを被った西垣先生が襲いかかって来たのだ。


しかし、警官にすぐに取り押さえられた。結局西垣先生はそのまま警察に連行されていった。


私は、ゆかりの携帯をそっと自分のカバンにしまってそれを遠目から眺めていた。

生徒会はマスコミの対応に追われていた。


先生たちも生徒には近づかないよう注意を促したり、敷地内には入れないように見張りを立てたりしていたが、対応は後手に回っていると言わざるを得なかった。


「マスコミの方に何か聞かれても答えないようにクラス全員に注意をしてください」


会長が黒板の前に立って言った。生徒会の役員たちは会長の話を聞いてうなずき合った。


性質の悪いマスコミは生徒を喫茶店等に連れ込んで、そこの代金やお金をチラつかせて話を聞いている所もあるらしい。

学校内でも様々な噂が飛び交っていた。


西垣先生は実は浮気をしていただの。その相手はゆかりで痴情のもつれで自殺したんだの、稲森先生も実は愛人だの。


体育倉庫の火事はどこかの組織の陰謀だの。その数は膨大な量になっていた。


私は学校の周辺を見回りながら生徒に話しかけているマスコミがいたら注意をしてまわっていた。


他の生徒会役員もそれぞれの場所で注意に回っている。


裏門の辺りで数人の男が数人の生徒に話しかけていた。生徒の方も何やら話していた。


「だから、自殺した子は捕まった西垣先生と体の関係があったらしいですよ」


「何しているんですか!!」


私が叫ぶとマスコミの人物らしき数人の男はバツの悪そうな顔をしてそそくさと去っていった。

「なんだよ、お前」


マスコミにインタビューを受けていたらしき生徒が私の方に向かって言った。


「変な噂を流したりしない事っていう注意を聞いていると思いますけど、根拠もない噂を軽々しく口にしない方がいいと思いますよ」


私は冷静に言った。


「けっ、何様だよ。せっかくいい小遣いになると思ったのによ」


男の生徒が唾を吐きながら言う。道路を汚すな。と思った。


「おい、こいつあれだぜ」


隣にいたニキビ面の生徒が肘でつつきながら言った。何やら耳元で囁き合っている。


「お前、飛び降りたやつの友達だったんだってな」


にやにやと笑っていた。


「噂を流すな、なんて言っておいてお前の友達がそんな事件を起こすから悪いんだろう?」


そうだ。そうだ。とニキビ面が後ろから言う。


「いや、案外お前も一枚かんでるのか? 西垣の野郎とやったのか? けけ」


にやけ面が一段とひどくなる。醜い。


「西垣の野郎にはもったいないぜ…」


男がぬっと近づいてきた。


「触らないで」


男の手を振り払おうとして、逆に腕を掴まれた。振りほどこうと力を入れるが、振りほどけない。振りほどこうとすればするほど、腕に込められた力が強くなる。


にやけ面のまま男がもう一方の腕を伸ばしてきた。

 

 

 

「何してるんだ!!」


後ろから声がした。にやけ面はパッと手を離す。


「冗談だよ。冗談。本気にするなよこんな事。おい。行こうぜ」


二人してさっさと行ってしまう。後ろを振り返ると同じ生徒会役員の道羽君が立っていた。

「大丈夫?」


道羽君が駆け寄ってきて言った。私は自分の腕を見つめる。少し赤くなっているけれど特に痛みも残っていない。


「大丈夫。ありがとう」


「気をつけてな。あいつら性質が悪いから。ああやって言いがかりをつけてくるんだ」


道羽君は不機嫌そうに言った。

翌日から、必ず二人以上のペアで周囲の見回りをするようになった。


「マスコミの人間や、考えたくはないが、この学校の生徒に何かされそうになったら、真っ先に逃げてください、自分の身より大事なものなんてほとんどありませんから」

そんな事があってから数日後、私は学校で孤立していた。


周りのクラスメイト達がひそひそと噂話をしている。


私に話しかけてくる人は極端に減った。


私の母は私に多くを期待する人だった。母は自分にできなかった事を私にさせたがった。


母は頭の良かった人だ。周りの男性に比べても母の方が頭が良かったらしい。ただし、母の時代は女が研究や仕事に口を出すんじゃないという空気が強い時代だった。


母がいくら努力しようと、それが報われる事は少なかった。


「私の時と違うから。あなたは恵まれてるのよ」


それが母の口癖だった。

母は子供のころから私に多くの習い事を学ばせた。書道に珠算、ピアノに水泳。生け花に茶道。もちろん塾にも通わせた。


私は母に喜んで欲しくてがんばっていた。すべてを完璧にではないが無難にはこなせていたと思う。



私が頑張れば、母が喜んでくれる。私はそれが嬉しかった。

崩壊は一瞬だった。元々、続くはずがなかったのだ。私には才能が無かった。


才能なんて言葉を使うのもおこがましい。私は努力を続ける事ができなかったのだ。


茶道も水泳もピアノも書道もそれぞれ続けていた。周りの人たちにもついていけていた。


だがそれも中学生になる頃には差ができ始めていた。当たり前の話だ。周りの人間はそれぞれがそれが好きで熱心に打ち込んでいるのだ。


私は、母を喜ばせたい。それだけの為に色々な物を同時にこなしていた。


ほぼ、すべての物についていけなくなったのは中学2年生の頃だろうか。

母は、私の習い事の成績が悪くなっても私を責めたりはしなかった。


「真理奈ちゃんはやればできる子だからね。今はちょっと休んでるだけだもんね。すぐにみんなに追いつけるよ。なんと言っても真理奈ちゃんは私の子どもなんだから」


お母さんの子どもなんだから。そう言われると嬉しかった。お母さんに認められているようで。好かれているようで。


でも、私はいつまで経っても周りの子に追い付くどころか差をつけられる一方だった。

でも、勉強は好きだった。知らない事を知れるのは楽しかったし、勉強はやればやるだけ頭の中に入ってきた。身になった。


勉強をするのにカンやコツはいらなかった。ただ、勉強をすればいいのだ。やればやるだけ結果に繋がる。それが嬉しかった。


勉強の成績も中学校ではトップクラスだった。母もそれを喜んでくれていた。


地元では私は期待の星だった。この地域では初めて、県内最高の進学高に受かるだろうと噂されていた。


母は周りの人たちに私が誉められるが嬉しいようだった。


「私の娘だから。本当に自慢の娘ですわ」


母はいつもそう言って笑っていた。

 

 


でも、私はその進学高に落ちた。


そして、挫折した。どこにでもある、よくある話だ。

受験の日が近づいてくるに従って、私は勉強を楽しいとは思えなくなっていた。


知識を得るために勉強をするのではなく、進学高に受かる為に勉強をしていた。


町を歩けば「真理奈ちゃん。今度あの進学高を受けるんですって、凄いわよねぇ。きっと受かるわよ。がんばってね」

「真理奈ちゃんはこの町の誇りだよ」

そんな声が聞こえてきた。小さな田舎の町だった。馬鹿馬鹿しいと思う。でも、町の人たちは私を尊敬と期待の眼差しで見つめていた。


いつの間にか机に向かうの苦痛になっていた。勉強してもなかなか暗記できない自分を呪った。応用問題が解けなかった日は髪の毛を掻き毟ろうと思った。


白紙の解答用紙を見ると吐き気がするようになっていた。

受験の日当日、私は家を出てバスに乗ろうとした。田舎の方なので受験会場の学校までバスと電車を乗り継ぐ必要があった。


バス停まで歩いていると、「頑張ってね」「真里奈ちゃんなら必ず受かるわよ」「良い報告待ってるわね」と声を掛けられた。


会場に着いて指定された席に座る。周りには沢山の受験者が座っていた。


最後の勉強をしようと単語帳を取り出した。その時「くすっ」誰かの笑い声がした。


周りを見回す。誰も私の方なんか見ていなかった。気のせいかと思って単語帳に目を戻す。「くすくす」


また聞こえた。でも誰もこっちを見ていない。


単語帳に目を落とす。「受かると思ってるのかしら」「身のほどを知れっての」

周りは誰もしゃべっていない。私にしか聞こえてないみたいだった。

テスト中もその声は聞こえ続けた。その内に誰かに見られているような気がして来て辺りをキョロキョロと見回す。


「君、何をキョロキョロしているんだね」


試験官の人に注意された。周りの人がクスクスと笑う。全員が私を見ているような気がして気持ちが悪くなった。


周りを見ないように、声が聞こえなくなるように答案用紙に食い入るように向かいあった。


吐き気を我慢しながらテストを受けきった。

私は進学校に落ちた。母は頑張ったねと言ってくれたが、明らかに落胆の表情を浮かべていた。


町の人達も私に話しかける事は無くなった。変わりに私をヒソヒソと遠目から見つめるようになった。


皆落胆の表情を浮かべていた。


私はその視線から逃げるように県外の私立校を受けて寮に入った。

 

 


あの町には居たくなかった。

高校生になって私は今まで以上に頑張った。


成績も上位をキープしていたし、人の嫌がる仕事も進んでやった。


人と人の仲立ちもやったし人の役に立とうと頑張った。


頑張るしかなかった。また誰かに落胆されるのが怖かったのだ。


頑張らなければ良いのだとも思った。期待されなければ落胆される事もない。


でも、私にはできなかった。私は誰にも期待されないなんて耐えられなかった。


期待されないと言うことは居なくても良いと言う事だ。存在価値がない。


そう思うだけで暗い闇の底に落ちていくような気分になるのだ。


二年生になると生徒会役員に推薦された。クラス委員をしていた私をクラスの皆が推薦してくれたのだ。


私は迷わずその話を受けた。皆が私に期待していたからだ。


生徒会役員は多忙を極めた。やる事が山のようにあった。私は役員の仕事をしながら今まで通り友達の相談を受けていたし、勉強も疎かにならないようにした。


体力の限界に達していた。役員になってからゆかりや利香、紗英と疎遠になっていると思っていたが、あの三人は私に気を使ってくれていたのかもしれないと思った。


気を抜くと意識が飛んでしまいそうだった。


私は頭を振って意識を呼び戻した。しっかりしなきゃ。


職員室に運ぶプリントを持ち直して廊下を歩き始めた。


「きゃっ」


廊下の柱に足を引っ掻けて転びそうになる。


地面にぶつかると思った瞬間、誰かに受け止められた。


「大丈夫?」


泉副会長だった。

「真里奈さん。無理してるでしょ」

 

 


プリントを運ぶのを手伝って貰って、廊下を歩いていると泉先輩が言った。


「そんな事ないですよ。確かに忙しいですけど、無理しているって程じゃ」


「うーん。今どうこうじゃなくて、いつも無理してる感じがする」


泉先輩が苦笑しながら言う。


「誰かの為に頑張ろうとか人の役に立ちたいとか、いつもそんな事考えてるでしょ」


驚いた。まさにその通りだ。私は頷いた。


「僕の妹もそういうタイプの人間だから、なんとなくわかるんだよ。良いことだとは思う。思うけどそれが重荷になったら意味ないよ」


「でも…」


私は言い返そうとして言葉に詰まった。実際言われて重荷に感じていると認識してしまったのだ。


「やめろなんて言わないよ。ただ自分のペースでできる事をしたほうが良いと思うよ。真里奈さんは優しい人だけど、その優しさを少し自分に分けてあげるといいと思う」


「…はい」


ああ、この人は凄いなと思った。

家に帰るとゆかりの携帯を取り出した。


ゆかりが最後に出したメールをもう一度読む。ゆかりも大変な状況だったと思うと少し救われる気分だった。


同時に何もしてあげられなかったと言う罪悪感も沸いてきた。


ゆかりはどうやって孤独と戦っていたんだろう。そう思ってメールを過去に遡って読んでみた。


メールの中でゆかりはあかねと言う人物と楽しそうに話していた。


その会話の中でゆかりは自身が起こした事故や遠藤先生の火事の事も話していた。


誰かに話すと言うのがどれほど楽になるのか今の私には容易に想像できた。


私も誰かに話したい。話すことで楽になりたい。


あかねと言う人物からのメールをじっと見つめる。


私は意を決して返信ボタンを押した。

文面は色々考えたけれど「おひさしぶりです。元気にしてますか」と書くことにした。


他人がいきなりメールを送ったら警戒されると思ったからだ。


返事は期待していなかった。いや、期待してないフリをしていた。


期待したら、返ってこなかった時にショックが大きいからだ。


返って来なくてもいい。でも返ってきたら嬉しい。そんな気持ちだった。


30分ぐらい経過した。やっぱり来ないか。そう諦めかけていた時だった。


ピリリリリリリ。


ゆかりの携帯が鳴った。


「おひさしぶり、こっちは元気にしてたよ。そっちの調子はどう?」


普通の文面だった。相手はゆかりが死んだことをまだ知らないのだ。


このままゆかりのフリをしていても良かったのだが、誰かを騙すなんて事は性格的に無理だった。


だから、素直に本当の事を書く事にした。


「すいません。私はゆかりじゃないんです。あのメールに書いてあった事は全部本当で…ゆかりは自殺しました」


送信ボタンを押そうとして指が震えた。本当にこんな事を言っていいんだろうか? 知りたくないんじゃないか?


でも、もう引き返せなかった。送信ボタンを押す。


送信中の画面が表示されて完了の画面に変わった。


「送っちゃった…」


ピリリリリ。すぐに返信が返ってきた。


「そうですか。残念です。」


そう書いてあった。それだけだった。数分後、また携帯が鳴った。あかねからだった。


「こんな事を聞くのは無神経かもしれませんが、もしよろしければ、彼女はどうやって死んだのか教えてください」


「屋上からの飛び降りです」


ゆかりの遺体を思い出して吐き気が込み上げてきた。また同時に罪悪感も。友達を見て吐き気がするなんて。


「一度お会いしたかったですね。本当に残念です。あなたも教えてくれてありがとうございます。…もしかして真里奈さんか利香さんですか」


「真里奈です」


「そうですか。あなたも友達を亡くして大変でしょうから無理をしないでくださいね」


「ありがとうごさいます。もしまた何か分かれば連絡します」


そう言ってメールは終わった。

生徒会の見回りは未だに続いていた。


マスコミは一時期に比べれば下火になっていたが完全にいなくなったわけではなかった。


 

 

私も道羽君と見回りをしていた。私はこの前の事であの二人に目をつけられたらしい。


私に対する噂もあの二人が流しているようだった。


道羽君はそれもあって心配してくれていた。


「真里奈ちゃん。大丈夫?」


校舎裏を見回っていると道羽君が話しかけてきた。


「ん?何の事?」


「ほら色々と噂されてるみたいだし」


「ああ。それなら大丈夫だよ。ありがとう」


「でも、一人だと不安でしょ。俺で良ければなんでも聞くよ」


何が言いたいんだろうと思った。


「うん、ありがとう」


「真里奈ちゃんはなんでもできるから、人に頼らないところがあるから、もっと頼って良いんだよ」


ああ、この人は分かってないなと思った。私は一人では何もできない。


私が頑張れるのは人の為だし、私を支えてくれる人達がいるからだ。


でも、私を支えてくれていた泉先輩もゆかりも紗英もいなくなってしまった。


「でも迷惑な話だよね」


私が黙ってしまったので取り繕うように話しかけてきた。


「飛び降りなんてさ。噂を信じるわけじゃないけど、そんな事をするから真里奈ちゃんにも迷惑がかかるんだよ」



こいつは最低だ。

 

 

私はもう道羽君の話しを聞き流していた。本音を言えばさっさとこの場を立ち去りたい気分だった。


「……かな?」


「え?」


突然何かを聞かれ私は思わず聞き返した。


「だから、俺と付き合わない?」


なんでそんな話しになるのか理解できなかった。


「俺なら真里奈ちゃんを守ってあげられると思うし、前から可愛いなって思ってたんだ」


「ごめんなさい」


即答した。ついさっき私の友達をけなした口が何をいうんだ。


「なんでだよ?自分で言うのもなんだけど顔もいいし成績だって悪くない。お前だって守れる!俺が駄目な理由を言ってくれよ!」


吐き気がする。


「性格の不一致」


私はそう吐き捨てるとその場を立ち去った。

学校を立ち去った後、私は広沢医科大病院に向かっていた。


ゆかりがこの病院に通っていた事を思い出したのだ。しずるさんの様子を見ておきたかった。


容態を見てどうしようと言うのだろう。私にも分からなかった。


しずるさんの病室に向かう初めて来るので道に迷ってしまったが、なんとか辿り着く事ができた。


扉の前で立ち尽くしていた。なぜここにいるんだろう。でも逃げちゃいけない。そう思った。

 

 


意を決して扉を開ける。中には誰もいなかった。ベットに近づく。綺麗な女の人が横たわっていた。


まだ意識は戻っていないらしい。枕横の花瓶には新しい花が飾られていた。


「しずるの知り合いかな?」


突然、声を掛けられて驚いて振り返った。そこには一人の男性が立っていた。腕には今水を入れ換えてきたのだろう花瓶があった。


「その制服は稲森先生の所生徒さんかな?」


私は黙ったままだ。


「ああ。ごめん。私はしずるの旦那の静間と言うものだ。君はしずるのお見舞いに来てくれたんだろ?」


静間さんが不思議そうな顔をする。そこで私は我に返って頭を下げた。


「あ、そうです。すいません勝手に入っちゃって。私の友達がしずるさんにお世話になってたみたいで、その友達は今日はこれないんですけど」


私は早口に話した。その様子が可笑しかったのか、静間さんが少し微笑んだ。


「稲森先生と似たような事を言うね。その友達の名前は何て言うんだい?」


「…遠藤ゆかりです」


何となく名前を出すのが躊躇われた。

「ああ。しずるから聞いてるよ。彩香ちゃんと一緒に来てた子だ。いつも楽しそうに話してくれたよ」


懐かしむように微笑む。心がズキンと痛んだ。


「そうですか。ゆかりも聞いたら喜ぶと思います」


静間さんは花瓶を窓際に置いて、カーテンを開けた。夕方でもまだ外の光は明るかった。少し肌寒いぐらいの風が部屋の中を通り抜けた。


「やっぱり犯人は許せないですか?」


私は唐突に聞いた。失礼な質問だとは思ったが聞かずにはいられなかった。


静間さんは最初驚いた顔をしていたが私の表情を見て真剣な表情を向けてきた。

しばらく、見つめ合う。静間さんはゆっくりと口を開いた。


「そうだね。できる事なら殺してやりたい気分だ」


そう言った静間さんの顔は笑っていなかった。


「そう思っていたよ」


静間さんは少し間を開けて言った。


「いた?」


「今でも許せてるわけじゃない。私だって別にできた人間じゃないんだ。…でも今は犯人よりもしずるが目を覚ましてくれれば、それが一番の願いだよ。犯人は今は別にどうでもいいよ。もし、しずるが…」


そこまで言ってその先を口にしたくなかったのだろうそこで言葉を切った。


「そうなったら、私は犯人を絶対に許さない」


ごめんなさい。犯人は私の友達です。




とは、言えなかった。

「容態はどうなんですか?」


私は話題を変えようとして聞いた。静間さんは渋い顔をした。それだけであまり良くないらしいと言うのが分かった。


私はゆかりの携帯をポケットの中で握りしめた。


「あまり良くないね。命に別状はないけど何時目が覚めるかはしずるの体力と運次第らしい」


悲しそうに言う。また心が痛んだ。でも私は知っておきたいと思った。


ゆかりが何をし、その結果がどうなったのか。それを知らないとゆかりの苦しみも分からないと思ったのだ。



 

 


そう、私はゆかりと向き合いたいと思い始めていた。ゆかりが何を思い、苦しみ、どんな気持ちで生きていたのか。それを知ることがゆかりの供養になる気がした。


それがゆかりの最後を見た私の役目なんじゃないかと思った。

「やっぱり二回目が良くないらしい」


静間さんが静かに言った。その顔は無表情だった。


「二回目?」


意味が分からず聞き返した。


「しずるは頭を強く打ってるんだ。しかも二ヶ所。どうやら二回頭をぶつけたらしい。それが良くなかった」


静間さんの目がどんよりと曇る。私の心に言い知れぬ恐怖が沸いてきた。


「ああ。ちょっと暗い話をしてしまったね。こんな話を聞いても楽しくないだろう?ごめん。これに懲りずにまた見舞いに来てくれるかい?」


いつの間にか、柔らかな表情に戻っていた。


「そうですね。また来ます」


私は逃げるように病室を後にした。

私は廊下を足早に歩きながら考えていた。


静間さんの言葉が引っ掛かっていた。心の中にどす黒いものが広がる。


「二回頭をぶつけたらしい」


先ほど聞いた言葉が頭の中で繰り返し再生される。


もうひとつ。頭の中を繰り返されるフレーズがあった。


ゆかりのお兄さん。遠藤先生の台詞だった。


「大丈夫。ゆかりは捕まる事はないよ。絶対にだ」


嫌な考えが浮かんでいた。二回ぶつけた頭。ゆかりは絶対に捕まらない。


まさか。

ゆかりが家に居て、遠藤先生が返ってきた後、どこに行ったんだっけ? 


確か、バイクを捨てに行ったはずだ。事故の証拠を無くすために。


でも、それだけで、ゆかりが絶対に捕まらないかどうかなんて判断はできないはずだ。


なら、なぜ絶対大丈夫なんて言ったんだろう。


遠藤先生にはゆかりは捕まらない自信があったんだ。


嫌な考えが頭の中を駆け巡った。


ゆかりは捕まらない。なぜなら捕まるのは遠藤先生だから。







ゆかりを犯人にしない為に、もう一度、しずるさんを轢いた。


背筋が寒くなった。

私は頭を振ってその考えを振り払おうとした。そんな馬鹿な話があってたまるものか。


私は、病院を出ると足早に寮に帰った。


頭の中にどんよりと暗い靄が掛かって取れなかった。

学校での私の立場は日に日に悪くなっているようだった。


その日、学校に行くと引き出しの中に雑巾が詰め込まれていた。


牛乳か何かを拭いた後なのだろうか、異様な匂いを発していた。


私はそれを取り出すと、ゴミ箱に捨てた。


「うわ、こいつ。腐った匂いがする」


クラスメイトの北川真由が私の方を見て笑いながら言った。


北川の周りに立っていた数人の女子もくすくすと笑っている。


私は無視して席に座った。

体育の授業から帰ってくると制服が無くなっていた。


机の中にもロッカーにも鞄の中にもなかった。体育に出る前に着替えて鞄に入れておいたのに。


「おいおい、誰だよ。トイレ詰まらせたの。困るんだよなぁー」


また、北川が私の方をにやにやと笑いながら言った。


私はトイレに向かった。トイレの前には数人の女子生徒がたむろしていた。


私の姿を見ると逃げるように道を開ける。


トイレの中を見た。個室のひとつの扉が開けっぱなしになっていた。


中を覗くと私の制服が投げ込まれていて皺くちゃになっていた。


私はそれを拾い上げて、その場で絞った。ぼたぼたと水が滴り落ちた。


制服を持ってトイレを出ようとすると遠巻きに見ていた生徒達がひそひそと話をするのが聞こえた。


話の内容は聞く気がしなかった。

教室に帰ってもジャージのまま過ごす事にした。濡れた制服は袋に入れて鞄の中にしまってある。


 

 


先生が教室の中に入ってきて私に向かって言った。


「おい、なんで制服を着ていないんだ」


「すいません。ちょっと汚れてしまいまして」


教室からくすくすと忍び笑いが聞こえる。


「ちゃんと管理しておかないからだぞ。そんな事では社会人になっても社会じゃ通用しないぞ」


「すいません」


先生は一通り説教をして満足したのか、教科書を開いて授業を始めた。


ずしりと心が重たくなっていく。


放課後、生徒会室に向かう。私が生徒会のプリントをホッチキスで止めていると、カシャンと手ごたえが無くなって芯が空になった。


「替えの芯ってどこにありましたっけ?」


私が、近くにいたほかの役員に聞くとその人は私を避けるようにそそくさと立ち去ってしまった。


…ここもか。ここでも私の立場は悪くなる一方のようだ。ほかの人達は数人で集まってわいわいと話をしながら仕事をしている。会長は他の仕事があるらしく今日は生徒会室に顔を出していない。


私は引き出しを適当に開いてホッチキスの芯を探す。数回開いたところで箱を見つけた。


芯を替えようと箱から芯の束を取り出す。ちくりと指に痛みが走った。指先に小さな血溜まりができた。


しばらくそれを見つめる。痛いな。それだけ思った。


私はその後、ひとりで黙々と仕事をこなしていた。


帰宅するまで私に話しかけてくる人は一人もいなかった。

私は誰とも話さない日が数日続いた。


いや、正確に言うと一人とは話をしていた。利香だ。毎日昼休みになると、クラスが違うと言うのに私の所に弁当を持ってやってくる。


「一緒に食べよう?」


そう言うと、何も言わずに私の席の向かい側に座る。クラスメイト達はそんな私たちを見て、またひそひそと話をし始める。


「私に構わない方がいいと思うよ」


私は利香にそう言った。利香は不思議そうに首をかしげた。

 

 


「なんで?」


「私が……無視されている事に気が付いてるでしょ?」


いじめられているとは口に出せなかった。出したくもなかった。


「そんなの関係ないよ。真理奈ちゃんは真理奈ちゃんで私の友達だもん」


利香がそう言って笑う。周りには聞こえないように少し声のトーンを下げていたが。


周りに聞かれたくないというよりは、周りの人間を刺激したくないという私に対する気遣いだろう。


本当に、この子は。ゆかりも同じことを思っていたんだろう。


利香は本当にいい友人だ。でも、だからこそ巻き込みたくないと言う気持ちも強かった。


私と一緒に昼食を食べているだけできっと利香も嫌がらせをされているんだろうという事は容易に想像できた。


でも、それでも、手を差し伸べてくれる。利香の手を振り払う事はできなかった。


私の事を思ってくれる、友人。私にとってそれは今、何にも替え難いものだったのだ。


だから、私は、利香を拒絶するなんて事はできなかった。


利香の好意に甘えていた。


家に帰ると机の上に置いてあったゆかりの携帯がチカチカと光っていた。


あかねからメールが来ていた。メールボックスを開いて内容を見る。


日常的な文章だった。私とあかねは今でもメールのやり取りを続けていた。


ゆかりの話題に触れているわけでもなく、日常の会話をしているだけだった。


初めはあかねはメールが好きなんだろうと思っていた。メールで言うのもなんだけど、聞きじょずだったし、私もあかねとメールをするのは楽しかったから。


でも、私たちは決してお互いのメールアドレスを交換しなかった。


やり取りはいつもゆかりの携帯で行っていた。きっと私もあかねもゆかりの事を忘れたくなかったんだろうと思う。


私たちが連絡を取り合っていたのはこのやり取りが無くなるのが怖かったのではないかと思う。

 

 

少なくとも私はそうだ。あかねと言う人物との人間関係をなくすことはゆかりが生きていた証を、私や利香や紗英じゃなく、第三者が知っている事、それが無くなるのが怖かった。


ゆかりがいなくなりそうで、消えてしまいそうで。


私は、自分とゆかりを重ねているのかもしれなかった。ゆかりが消える事は自分が消える事と同じ。


そう考えていたのかもしれなかった。それに、私の今の現状を知らない人と話をしたい。それも私の本音だった。

学校では相変わらず、利香以外の人が私に話しかけてくる事はなかった。


それどころか、今まで避けるような、腫物を見るようだった視線に変化が起こってきていた。


視線に明らかな嘲りが混じってきたのだ。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだ。


言葉を投げかけられなくても、視線が私に言っていた。目障りだと。生意気だと。


今まで、遠巻きに見ていただけのクラスメイトも露骨に含み笑いをするようになっていた。


私は、無視を決め込んでいた。相手にするから調子づくのだ。相手にしない事が一番の抵抗だった。


私が、席についてノートと教科書を開く、いつの間にか教科書の中に落書きがされていた。


死ねとか、ブサイクとか、淫売とか。ボキャブラリーに乏しい言葉が羅列されている。


私はそれを無視してノートを開いて授業の開始を待った。その時、携帯が震えた。


利香かと思って液晶を開く。知らないアドレスからメールが来ていた。


内容はどこかのサイトのURLが貼り付けてあった。

書かれていたURLを開く。そこはいつかゆかりに教えた掲示板のサイトだった。


このサイトは最初、泉先輩に教えてもらったのだ。メールより気軽に使えて便利だよと勧められたのだ。


私も、利香や紗英、それにゆかりにも勧めた。


懐かしくて、少し、涙がでた。あの時は自分がこんな立場になるなんて思ってもいなかった。


頭を振ってそんな考えを振り払う。弱気になってはいけないと思ったのだ。


サイトに視線を戻す。







……何これ。

そこには私のありとあらゆる悪口が書かれていた。


『あいつがいるせいで教室の空気が悪いんだけど』


『空気読めよな』


『売春してたらしいわよ。あの顔で笑っちゃうわよね』


『俺ならお金払ってもごめんだね』


『2万なら俺はいいな』


『ちょっと男子に人気があるから調子に乗ってるんじゃない?』


『今後も無視、決定で。あいつと話した奴はあいつど同罪な』


『話すわけないじゃん』


『なんかうつりそうだもん』



誰がこれを書いているかは分からない。でも、少なくとも何割かはこのクラスの人物なのは間違いないと思う。


私は席を立ちあがって教室を飛び出した。

言いようのない嫌悪感が体中を巡っていた。キモチワルイ。


何を信じていいのか分からなかった。私を避けるのは仕方がないと思っていた。


誰もが巻き込まれたくないのは分かる。でも、でも、でも。クラスメイトが。少なくとも数週間前まで普通に接していた人たちが。私の横で平然とあんな文章を打ち込んでいる。


そう思うだけで涙が溢れてきた。何度も何度も嘔吐感がくる。吐こうとしても、胃液しか出てこない。胃液が喉を焼く。

 

 


ブルルルルルルルル。


また、携帯が鳴った。液晶を見る。さっきと同じアドレスからメールが来ていた。


内容は、また同じURLが貼られていた。震える指でそのURLを開いた。


『おい。誰かあいつにこのURL教えただろ』


『誰だよ! 裏切り者!』


『……でも、むしろ見られてた方が面白くないか?』


『やっほー見てる?』


『俺は君の事が嫌いです!(笑)』


『私もー!』


『皆言いすぎだよー! 見てる? もう、帰ってこなくていいよw』



私は携帯の蓋を乱暴に閉めて投げ捨てた。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。キモチワルイ。

そのまま、無断で寮に帰った。布団を被ってうずくまる。しばらくして、寮長のおばさんが扉をノックする音が聞こえた。


「あんた居るのかい! 学校から電話がかかってきてるよ! 学校サボるなんて何考えてるんだい!」


うるさいうるさい。私は布団を深くかぶって耳を塞いだ。


どんどんと鳴る扉の音はどこか現実感がなかった。

気がつくといつの間にか窓の外が暗くなっていた。寮長がドアを叩く音ももう聞こえない。


のそのそと布団から這い出る。体が鉛のように重かった。


ブルルルルル。


携帯が振動して着信があった事を告げる。体が震えた。吐き気がまた込み上げてくる。


また、誰かが私に嫌がらせのメールを送ってきたのだろうか?


自分の携帯を見ようとして、着信を知らせるランプがついていない事に気がついた。


さっきなったのはゆかりの携帯らしかった。

ゆかりの携帯を手にとって液晶画面を見ると、あかねからメールが届いていた。


内容は他愛もない物だった。少し気が楽になる。私と普通に会話してくれる人と言うだけでも気が楽だった。


私も、自分の今の暗い気持ちを悟られないように返信する。

 

 

しばらく、そんなやり取りをした後、あかねが言ってきた。


「何かあった?」


驚いた。普通に会話していたつもりだったのに。どこかに私の暗い気持ちがにじみ出ていたのだろうか。


「何もないよ」


私は強がりを言った。

「気を悪くしたらごめんね。ただ、なんか、ゆかりちゃんの時と似たような感じを受けたから。気のせいならいいんだ」


私は、今ゆかりと同じような心境にいるのだろうか?


「あんまり、なんでもかんでも背負わない方がいいよ。自分のペースでできる事をしたほうがいいよ。自分にも優しくしてあげて欲しい」


……泉先輩。昔、泉先輩にも似たような事を言われた事を思い出した。


「私は、何もできないけど、話を聞くことぐらいはできるから。……また、ゆかりちゃんの時のような事になってほしくないから」


ああ、ゆかり。そうだね。もう、ゆかりはいないんだ。


「大丈夫です。心配してくれてありがとう。…本当に助かってます」


私は、そう返信した。そう、私はゆかりと同じ道を辿っちゃいけないんだ。

それに、ゆかりは今の私よりももっともっと辛い状況にいたんだから。私はこんな事で負けるわけにはいかないんだ。


でも、ゆかり。私はやっぱりあなたに生きていてほしかったよ。

次の日、私が学校に行って教室に入るとざわざわと騒がしかった空気が一瞬止まる。


「おはよう」


私は、それを無視して誰に挨拶するわけでもなく挨拶をして席に座った。


北川が私の方を見て、露骨に舌打ちするのが見えた。


私は、席に座りながら考えていた。今、どうしてこういう状況になってしまったのかを考える事にしたのだ。


『何事にも、表面的な原因の他に真の原因って物があるんだ。それを見つけることが物事を解決する第一歩だよ』


泉先輩に教えてもらった事だった。今、私がこんな状況になっているの原因はゆかりの自殺とその噂が原因と思っていた。


でも、それはよく考えるとおかしい話なのだ。ゆかりが自殺してマスコミが騒いでいた頃、私はそれほど、標的にされていたわけではない。


むしろ、そんな話はなかったぐらいだ。


なら、いつからこんな状況になったんだろう?

そもそも、このクラスでのイジメが…イジメと自分で言うのに屈辱感が全身を駆け巡る。


しかし、そこは我慢して認める。私は、イジメられているのだ。

 

 


私が、このクラスでイジメられ始めたのは…そう、北川だ。北川が私の事を露骨にイジメ始めたんだ。


それに、皆が便乗して来た。そんなイメージが強い。もともと、ゆかりの自殺とそれにかかわっていたんじゃないかという噂が土壌としてあったために、一気に私へのイジメが加速した。


そう考えると、クラスメイト全員の流され主義に憎しみを感じるが、人は流されやすい生き物だとも思う。


とにかく、原因は北川にあるのだ。でも、これも真の原因じゃない。



真の原因は、北川がなぜ私を標的にしたのか…だ。


そんな事を考えながら体育の授業から帰ってくると、教室の机の上に落書きされていた。


私はそれを無視してロッカーの上に置いてあった携帯を拾った。その後にロッカーを開ける。中には制服が入っていた。前回の事があるので、鍵の付いているロッカーに入れておいたのだ。


制服に着替えて机に戻る。次の授業の準備をしようと教科書を出すと、教科書がズタズタに切り裂かれていた。


北川達がそれを見てくすくすと笑った。


「はっ」


思わず鼻で笑ってしまう。やる事が幼稚だ。こんな事、ゆかりが体験したことに比べたら大したことではない。


私は教科書をそのまま机の上に置いて席に座った。


教室の端でこちらを見ていた北川が不満げに舌打ちする音が聞こえた。

しかし、なぜ北川は私の事を目の敵にするのだろう。同じクラスメイトではあるが、ほとんど話したことはない。


仲が良かったわけではないが、悪かったわけでもないのだ。

 


そもそも北川はいわゆるギャルの格好をしていて、どちらかと言うと御堅い恰好をしている私とは一緒にいる人たちのグループも違っていたのだ。


そんな北川が私に急に関わってくる意味がよく分からなかった。

放課後になって、帰宅しようと昇降口に向かった。


この学校にはげた箱にも鍵が付いている。一時期靴を盗まれる事件が多発した為に設置されたものだ。


鍵をはずして靴を履いた。昇降口を出ようとしたところで、後ろから急に羽交い締めにされる。


もがもがと叫ぶ。口元を押さえられているのでうまく声がでなかった。


なんとか、逃れようともがいたけれど、押さえつけている力が強く、じたばたとするだけで、拘束が解けることはなかった。


私はそのまま、2,3人の男に引きずられて近くのほとんど使われていない音楽準備室に連れ込まれた。

男の顔には何となく見覚えがあった。よく、北川と一緒にいる男子生徒だ。名前は知らない。


どうやら、北川に好意を寄せているらしいと言う事は見ていて分かる。


音楽準備室の中には予想通りに北川がいた。


「いらっしゃい。真理奈ちゃん」


北川がいやらしく笑う。

「気分はどうかしら?」


私は北川の前にひれ伏すような格好で押さえつけられていた。


「最悪」


私がそう言うと、心底嬉しいと言った表情を見せた。

 

 


「たぶん、もう分かってると思うけと私、あなたの事嫌いなのよ。ウザいのよ」


「私、あなたに何かした覚えがないんだけど」


素直に思っていた疑問を口にする。


それを聞いた北川の顔が醜く歪んだ。ツカツカと私に近寄ってくると、無造作に私の顔を蹴り飛ばした。


その衝撃で口の中に鉄の味が広がる。


「黙りな。このメス豚が!!」


北川の顔は怒りの感情であふれかえっていた。

私は、北川の顔をにらみつけた。それを見ていらただしげに舌打ちをする。


「あんたのその態度がまたムカつくのよ。あんたみたいなメス豚の淫売は学校なんて来なくていいのよ。だから、学校に来たくなくなるようにわざわざしてあげたのに、まだ来てるなんてとんだ厚顔だね」


私は冷ややかの視線を北川に浴びせるだけだ。


「ふん。そんな顔していられるのも今のうちだけだよ」


そう言って、音楽室へ繋がるドアを開ける。


そこから、私と同じように引きずられて来たのは利香だった。

「利香!!」


私が叫んで近寄ろうとすると、頭を床に押さえつけられた。利香はずるずると引きずられて床に同じように押さえつけられる。


「利香。大丈夫?」


利香はぐったりしてまま動かない。


「利香」


私がもう一度、呼びかけるとわずかに体が動いたかと思うと利香が顔をあげる。


「あ、真理奈ちゃん。大丈夫?」


「それはこっちの台詞。大丈夫何もされてない?」


「うん。無理やり引きずって来られただけだから」


それを聞いてほっとする。パチパチと乾いた拍手音が響いた。


「はーい。友情ごっこはお終い」


北川がつまらなそうに拍手をしながら言う。

私と利香は教室の窓の下に二人並べられた。北川と数人の男子が私たちを取り囲んだ。


「さて、ここで問題です。利香さん。あなたはなぜここにいるでしょう?」


北川がにやにやと笑う。すぐにでも飛びかかってやりたかったが、男子数人相手では反撃されるのは目に見えていたのでぐっと堪えた。


「聞こえなかったのかな? どうしてあなたはここにいるんだと思う?」


利香はそう、再び質問されて、首をかしげる。

 

 


「ブブー。正解はメス豚真理奈のせいでーす。あなたはこのメス豚のせいで今からひどい目に会います」


そう言った後、一人の男子に目配せをすると、その男子生徒がおもむろに利香のお腹を蹴り上げた。


「……っ」


利香の口から空気を吐き出す音が聞こえた。お腹を押さえて床にうずくまる。


「利香っ!」


駆け寄ろうとした瞬間。私の横にいた男が私のふくらはぎを踏み抜いた。


足に激痛が走って床に転がる。


「あははははは。可笑しい。何あの格好」


北川が笑うとほかの男子も同じように笑う。

「利香ちゃん。状況はわかったかな?」


北川が利香の髪の毛を引っ張って顔を持ち上げる。利香は苦しそうな表情を浮かべるだけだ。


「辛いよね。痛いよね。分かるよ。ぜーんぶアイツのせいだから」


私を指さして、利香の顔を私の方に向ける。私はもう一度起き上がろうとしたところを男にまた押さえつけられた。


何とか解放されようともがくが、びくともしない。


「何で、こんな目に合うんだろうって思うよね。こんな事に巻き込んだアイツが嫌でしょ?」


北川の笑顔が深くなる。こいつは何が言いたいんだろう。北川は一人の男子生徒にまた目配せをする。


すると、男はペットボトルを1本持ってきた。それを受け取ると北川は必要以上にゆっくりと優しい、猫なで声でしゃべる。


「ここに、トイレの便器の水がありまーす。第二問。これは何に使うでしょうか?」


利香がふるふると首を振る。北川が利香の髪の毛を離した。危うく床に顔面を殴打しそうになるが、なんとかそれをこらえた所を男に支えられた。

利香が引き起こされて私の前に立たされる。私は床に押さえつけられたままだ。


利香は腕を掴まれながら苦しそうにしていた。その目の前に北川が立った。ペットボトルを掲げる。


「巻き添えを食っただけの利香ちゃんにはチャンスをあげるわ」


ペットボトルを振ってみせる。


「これを、真理奈ちゃんにぶっ掛けてあげなさい。私を巻き込んですいませんって言ってもらった方がすっきりするでしょ?」



こいつは下衆だ。

利香がいやいやと首を横に振る。北川はそれに構わずペットボトルを無理やり利香に握らせた。

 

 


「それ、やらないとあなたもメス豚と同じだと思うわよ。ああ、元々ゆかりだっけ? あの不倫娘とも友達なんだっけ? あなたもその同類なのかしら?」


「ゆかりは不倫なんかしていない!!」


私は思わず叫んでいた。直後に男に顔面を殴打される。口の中に鉄の味が広がった。


「豚は黙ってなさいよ」

北川は再び利香に向き直る。利香は男に押されて私の目の前に押し出された。


「さぁ。どうぞ。蓋がついてると駄目ね。取ってあげるわ」


北川がペットボトルのキャップを外して再び利香に渡す。利香は戸惑った表情で立ちすくんでいた。


「ほら、早くしなさいよ」


どんっ。と背中を押されてたたらを踏む。


「利香。いいよ。私のせいで巻き込まれた事は事実だから。気にしなくていい。言う事を聞くのは嫌かもしれないけど。私にそれをかければいいよ。利香は悪くない」


私はそう言って、うつむいた。


「あははは。何こいつ。馬鹿じゃないの」


北川が楽しそうに笑うのが聞こえた。耳を塞ごうにも両手を押さえつけられているので北川の嘲笑を嫌でも聞かされるのが苦痛だった。


利香が震える手でペットボトルを頭上に持ち上げるのが見えた。


私は、覚悟を決めて降りかかるであろう水に備えた。


バシャ。


水が飛び散る音がする。…不思議と冷たくなかった。

 

 



それもそのはずだ。水は私にはかけられてはいなかった。代わりに北川がずぶ濡れになっていた。


利香は私にではなく、北川に水をトイレの水を振りかけたのだ。


「真理奈ちゃん。駄目だよ。そんな事言っちゃ。友達にそんな事できるわけない」


利香がきっぱりと言った。

北川はわなわなと震えていた。怒りに打ち震えているのだろうか。いい気味だ。


「お前っ!!」


北川が利香に掴みかかる。利香が逃げようとすると男たちが利香に飛び掛かって押さえつけた。


「……うっ」


利香が激しく床にたたきつけられた。北川がそれに駆け寄って顔を蹴り飛ばした。


「利香っ!!」


利香がぐったりとして動かなくなる。私は渾身の力で押さえつけていた男を振り払って利香に駆け寄った。


「痛いね」


利香が弱々しく笑う。心の底から何か黒い物が湧き上がってくる。


「北川真由。お前は絶対に許さない」


「あははははは。何を許さないって言うの? あなた自分の状況分かってるの?」


北川はあたりを見回すと余裕の表情を見せる。大仰な動きで周囲を指さしてみせる。


「ここにはあなた達と私達しかいない。私があなたに何をしようと。ここでは何も起こらなかった。彼らがそう証言してくれるのよ」


北川の顔が愉悦に歪んだ。

「あはははははははははは!!!」


今度は私が笑う番だった。可笑しくてしょうがない。


急に笑い出した私の態度に不審な表情を浮かべていた北川の表情が次第に不機嫌なものに変わっていく。


「何がおかしいの? あんた頭おかしいんじゃないの?」


「あはははは」


私はそんな事を言われても笑いが止まらなかった。

 

 


「気持ち悪いわね!」


北川がそう言うと同時に男たちがこちらに近づこうとしたので私はポケットから携帯を取り出して目の前に掲げた。


男たちは私のやっている事の意味が分からず、動きを止めた。



「最近の携帯って便利よね。色んな事ができるんだもの。…例えば動画を撮ったりね」


私が携帯の液晶を開いて映像を再生する。


そこには私の教科書を笑いながら切り裂いている北川真由が映っていた。

私が学校に来た事が北川真由にとって気に入らないことだったのは一目で分かることだった。


不機嫌な北川はきっと更なる嫌がらせをしてくるんだろうと言うことも明白だった。


そして、事を起こすのなら教室に誰もいなくなる体育の時間だろうと言うことも容易に想像できた。


だから、私は教室の後ろ側にあるロッカーの上に動画を録画状態にしたままの携帯を置いておいたのだ。


幸い私の席は後ろの方なので北川の行動はすべて綺麗に映っていた。


「それを寄越せっ!!」


北川が飛びかかってくるのを利香の腕を引っ張りながら避ける。

「あ、あはは。あんた馬鹿じゃないの。そんなのその携帯を奪えばいいだけじゃない」


北川が引きつった笑顔を浮かべる。


「分かってないなぁ。これ携帯だよ?動画はもうメールに添付して違う場所にも送ってるに決まってるじゃない」


私は北川をまっすぐに見つめながら言う。男たちも北川も貼り付けられたように動けない。


「でも、そんな映像ひとつなんとでも言い訳できるわよ」


『このメス豚がっ!!』


部屋の中に北川の声が響き渡った。その声は私の携帯から流れたものだ。


北川の顔が蒼白になる。


「携帯って本当に便利ね。ICレコーダーにだってなるんだから」

「この学校はすごい進学校ってわけじゃないけど、でもこんなことがバレて良い所に行けるなんて思わないよね?」


私がそう続けると北川がへなへなと座り込んだ。周りの男たちもオロオロするばかりだ。


とりあえず、これで北川達が私たちにちょっかいを掛けてくることはないだろう。


「お前ら何してる!」


私が気を抜いた瞬間、扉が突然開いた。


そこに立っていたのは道羽だった。

道羽が教室の中を見回した後、私に話しかけてきた。


「これはどうしたの?」


私は首を振ってなんでもないと言った。道羽は不審な顔をしながら私と座り込んでいる北川の顔を見比べた。


「北川さん。何があったの?」


道羽が北川に近づく、北川が口元をパクパクと動かした。道羽がそれを聞き取ろうとしゃがむ。


「…携帯…」


ぼそぼそと何事かをつぶやいたのが聞こえた。道羽はそれを聞くと私に近づいてきて言った。


「携帯、見せてもらえる?」


私は、それを拒否しようとしたが、少し強引に手の中から奪っていった。


携帯の動画を再生する。北川が笑っている映像が流れている。しばらく、それを眺めた後、道羽はこちらにゆっくりと近づいてきた。


「本当に役に立たないなぁ…」


そう呟くと、私の目の前で携帯をおもむろにへし折った。

「何をっ!!」


道羽はつまらなそうに携帯を床に投げ捨てる。


「利香っ!」


私は、それを見ると利香の背中を押して教室の扉の方に押しやる。利香は私の意図を汲んでくれたのだろう。扉に向かって走り出した。


そして、扉に手が掛かろうとした時に後ろから肩を掴まれた。先ほどまで、呆然としていた男たちの一人が利香を捕まえたのだ。利香が教室の中央に連れ戻される。


道羽は北川のそばまで歩いて行くと見下したような目で北川を見下ろした。


北川はそれを媚びるようなすがる様な目で見上げる。


「お前もういいよ」


道羽が冷ややかな目をしたまま告げた。北川が目を見開く。いやいやと首を振るが道羽は見向きもしない。


くるりと踵を返すと私の方にゆっくりと歩いてきた。

 


「真里菜ちゃん。やっぱり僕と付き合わないか? さっきの君の啖呵、惚れ惚れしたよ」


眼前にまで迫ってきて、ねっとりとした声で囁いた。


「嫌だ」


私は、道羽を睨みつけながら言う。


「そう。それは残念だね。今回は諦めるよ。今回はね」


舐めまわすように全身を眺めた後、道羽がにやりと笑う。その笑顔は吐き気がするほど歪んでいた。


「じゃあ、またね…」


全身に怖気が走った。こいつはまた私に絡んでくるつもりなのだ。


どういう手段かは分からないがこの先、私が諦めるまで、心が折れるまで私にねっとりとまとわりついてくるつもりなのだ。


腹の底から恐怖と悪寒がこみ上げてくる。そのまま膝をついて座り込こんだ。


道羽が舌なめずりをして待っているようなイメージが頭の中に浮かんだ。


「逃がさないから…」


座り込んだ私の耳元でそう囁いた。

「逃げられないのは貴様の方だな」


突然、教室の扉の所から声が聞こえた。いつの間にか扉が開かれていて、そこに人影があった。


「…会長?」


私は意外な人物の登場に驚いていた。でも、なぜか安心もしていた。

 

 


「どうしたんですか? 会長。こんな所に来るなんて」


道羽が首をかしげる。会長はもたれかかっていた扉から背中を話して道羽に向き直った。


「お前に用があってきたんだ」


「僕にですか?」


「ああ」


「あれ? もしかして、何か勘違いしてますか? 僕は真里菜…いや、坂上さんと関根さんがこの部屋に連れ込まれるのを見て止めに来ただけですよ」


厚顔とはこういう男の事を言うのだろう。そう思った。


「彼女。北川さんの行動は最近目に余るものがあったようですしね。同じ生徒会の役員として当然の事をしたまでです」


「そうか。それは立派な事だな。それで、その北川さんとやらをけしかけたのも、何か意味があるのか?」


会長の言葉に道羽の表情に変化が生じる。

「何のことですか?」


道羽が聞き返す。さっきより声のトーンが低くなっている。北川が慌てて立ち上がるのが見えた。


「道羽くんは関係ないよっ」


北川が叫ぶ。道羽は面倒くさそうに一瞥しただけだ。

 

 

「北川さん。君の好意を持っている相手に望むことをしてあげたいという気持ち自体は素晴らしいことだ。でも、自分のやっていることを冷静に見つめてみるといい。利用されているだけだと気づくだろうな」


淡々と言い放つ。それは救いの言葉でも辛辣に責める言葉でもなく。言うことを聞かない子供に言い聞かせるように事実を話しているだけの言葉だった。


北川はそれを聞き、道羽と会長の顔を交互に見比べた後、またへなへなとその場に座り込んでしまった。


「さっきから、僕が何かしたみたいな雰囲気で話すのはやめてもらえますか?」


道羽が不機嫌な声で呟いた。会長はそれに構わず話を続ける。

「君が坂上君に告白して、それを断られたことは知っている。まことに残念なことだ」


道羽の顔が険しくなる。なぜ、そんなこと会長が知っているんだろうと私は不思議に思った。


「しかし、それは致し方ない事だ。人には好みというものもあるだろうし、相性というものもある。それが合わなければ無理に付き合ってもお互いにつらい目に会うだけだからな。そういう意味では、きちんと断りを入れた坂上君は英断を下したと言えるだろう」


「……っ!!」


道羽が顔を歪め、今にも飛び掛かりそうな勢いだ。それでも、理性がなんとかそれを抑えているのか、前傾姿勢のまま、言葉を飲み込んだ。会長はそれに気づいているのかいないのか言葉を続ける。


「お前も振られたからといってヤケになっていかんな。一度振られたからといってその後、どうなるかなぞ分からないのだからもっと自分を磨いて努力するべきなのだ。諦められないのならな。

それを、相手がこっちを向いてくれないからといって、暴力や嫌がらせでこちらを振り向かせようというのはよくないな。

そんな事をしても、相手はさらに自分との距離をあけてしまうだけだろう。

それとも、何かね。襲われてりるところを自分が颯爽と助けて気を引くつもりだったのかな? 悪い手ではないが、いかんせんユーモアのセンスがないな」


道羽の顔が真っ赤に染まっていく。

「何か証拠があるとでもいうんですか…っ」


僅かに残った理性で何とか反論しようとしているだろうけれど、その口調は怒りで震えていた。

 

 


「証拠が必要かな?」


「あたりまえじゃないですか。ここまで言われて、はい。間違いでしたなんてなったら、いくら生徒会長でも僕は許しませんよ」


会長はそれを聞くと、溜息をひとつ吐いた。わがままを言う子供を見ているように、穏やかで、どこか憐みの入った目で道羽を見つめる。


「しょうがないな。入ってくれ」


会長がそういうと、扉の向こうから二人の男が顔を出した。それは、いつか、私に絡んできていたニキビ面とにやけ面だった。


「道羽さん。もうやめようよ」


道羽の顔が完全にひきつっていた。会長の背後から顔を少し覗かせて、ニキビ面が弱々しい声で言った。


「こんな事になるなんて聞いてなかったよ。ちょっと、絡んでくれれば良いって言っただけじゃないか。ここまでいじめを酷くするなんてやりすぎだよ」


にやけ面がそれに続く。


「しかも、変な噂を流してるのが俺たちみたいなことを言うのもやめてくれ。俺たちは関係ない。これ以上巻き込まないでくれ」


「だ、そうだ」


最後に会長が小さく続けた。


「お、お前らっ!!」


「誰かを子飼いにしたいなら、きちんとそれに見合う報酬なり、良い出来事を与えてやるべきだな。利用するだけ利用して、しかもそれを子飼いの奴のせいにするなんて、それじゃ誰も付いてこないぞ?」


道羽は怒りに打ち震えているのか拳が強く握りこまれてブルブルと震えている。


「残念だが、君は停学だ。他人を使って同級生を追い詰めた挙句に、名誉棄損だ。1,2週間は覚悟した方がいいな」


「あ、ああああああああああ!!!!!」


道羽が我慢していたものが切れたかのように弾かれるように会長に飛びかかった。

道羽が会長の肩に触れようとした瞬間。会長は体を横にひねってそれを避ける。


道羽が横を通り過ぎてたたらを踏む。すぐに振り返って、再び会長に飛びかかろうとする。


その瞬間を狙って、会長は右足を道羽の軸足に向かって出した。


その足に躓いて、道羽は大きな音を立てて床に転んだ。


会長はその上に乗りかかって腕をねじり上げた。道羽の顔が苦痛に歪む。

 

 


「暴力はよくないと思うぞ…ああ、悪い。これも暴力だな。反省しなければ」


そう言いながら、少し力を緩める。それでも、道羽は身動きが取れないらしく、床に顔をつけながら呻いていた。


呆然と成り行きを見ていた男たちと北川に向かって会長が言う。


「君たちも同罪だが、…どうする?」


最後のどうするはどうやら、私に向けられた言葉のようだった。


「こいつらがやったことは咎められて当然のことだが、坂上君が事を大きくしたくないというのなら、この場で納めることもしよう」


「……別にこの人たちに停学とかになってほしいわけじゃないですから、別に咎めなくてもいいです。何か馬鹿馬鹿しいし。でも、次、私や利香にちょっかいを出したら、今度は容赦なく訴えます」


私がそういうと、会長は口角をあげて少し笑った。


「だ、そうだ」


会長がそういうと、北川と男たちは逃げるように部屋を出て行った。


利香と会長と並んで音楽準備室を出た。外は日が沈み始めていて、暗くなり始めていた。


「どうして、会長はあそこに来たんですか?」


「元々、君たちを探していたんだよ。道羽が北川って子を煽っていじめを過激にさせているって言う情報を手に入れたんでね。

 ただ、行くのが遅くなってしまったね。あの二人を説得するのに少し手間取ってしまってね。大丈夫だったかい?」


「ええ。なんとか」


そう答えて、ふと不思議に思った。道羽が北川を煽っているという情報が入った?


誰から?

会長に情報を与えて、会長を動かして、自分は裏方に回る。会長が問題を解決するために尽力を尽くすが自分は表には絶対に立たない。


そんなやり方を私は知っていた。


この学校で、この生徒会で何度も見てきたやり方だった。

 

 

「会長。お先に失礼します。利香も気をつけて帰ってね。私、ちょっと寄る所ができたから!」


そう、早口で言うと私は廊下を掛け出していた。


行く所は決まっていた。左右の足を交互に出すのすら面倒に感じる。


校門を飛び出して、道路を駆け抜ける。道行く人たちが私の方を不審な顔をして見ていた。


私はそれに構わず走り続けた。顔に当たる風すら鬱陶しい。


目的の場所に着いた時には両ひざの上に手を置いて肩で息をしていた。


でも、目的の場所には最短の時間で着いた。そんな自信があった。


河瀬医院。


泉先輩の家だ。

玄関にそっと近付く。中を覗くが電気は点いていない。人の気配はしないような気がする。


玄関を開けてみようとして手を掛ける。がちゃり。やはり鍵は掛かっていた。


「真里菜」


突然、呼びかけられて後ろを振り向いた。


「泉先輩っ!」

振り向いた先に居たのは意外な人だった。予想していなかったと言うよりも、まったく考えの中になかった人物だったのだ。


「稲森先生…どうしてここに?」


庭先の門の前に立っていたのは稲森先生だった。先生も走ってきたのか肩で息をしていた。

 

 


「…やっぱり、ここにいるんだな? あいつ。泉が」

「稲森先生こそ、どうしてここにいるんですか?」


私が聞くと、息を落ち着かせようと数秒間押し黙る。肩の動きがゆっくりになってきたころ、稲森先生が口を開いた。


「ゆかりが屋上から…飛び降りただろ?」


自殺という言葉を意図的に避けるように言った。


「私にはあれが納得いかなくてな。いや、確かに実の兄を手にかけたんだ、それを苦にしたんだと言われれば一応筋は通る気はするんだが、それならばもっと早くてもいいじゃないか。なぜ、あのタイミングで飛び降りたんだ?」


稲森先生にどことなく違和感をさっきから感じていた。何が違和感を感じさせているのかはよく分からない。

「私はなにか手がかりがないかと思ってゆかりの家を調べてみたけれど、手がかりになる様なものは何もなかった。何もなかったんだよ」


先生が強調するように繰り返した。


「それがどうしたんですか?」


私は聞き返す。


「何もないってのはおかしいと思わないか。今の時代の子供が携帯を持ってないなんてありえないだろう? それに、私はゆかりが携帯を使っているのを学校で見かけたことがあるんだ。

その携帯が家にも遺品の中にもなかったんだ」


私からしてみればあたりまえの話だった。


「いつ、携帯がなくなったのか? そう考えた時、真理奈。お前の事が頭に浮かんだ。

 あの飛び降り現場に、お前も一緒にいたんだもんな。私が警察や病院に電話している時、お前は何をしていた?」


屋上にいた。

 

 



「屋上に行ったんだろ? その時に携帯を持って行ったんじゃないのか?」


「そうですよ? それが何か?」

私がそう答えると、稲森先生は意外そうな顔をした。この人は今さら何を言っているんだろう?


「…私は、お前の寮に行ってきたんだ。寮長に許可をもらってお前の部屋の中に入れてもらった」


ゆかりの携帯電話は机の上に投げっぱなしだ。すぐに見つけただろう。


「ゆかりの携帯の内容を読んだよ。特にあかねと言う子に送っていた最後のメールは興味深かったよ。

 でも、読んでいるときに一つ不思議に思ったんだ。

このあかねって言うのは誰なんだ? こいつのメールのタイミングが良すぎるんだ。まるで、側で見ているかのようなタイミングでメールを送ってくる」


そう言って、私の目の前にゆかりの携帯を掲げて見せる。持ってきたのかこの人は。


「初めは泉かと思った。でも、泉が死んだ後もあかねって奴はゆかりとメールを交換している。

後、お前ともだ。ゆかりが死んだあとの日付のメールはお前がやり取りをしていたんだろう?」


その問いに私は答えなかった。他の事で頭がいっぱいになっていたのだ。


「それとな、静間さんにしずるさんの事故の犯人を教えておいた」


「なっ!!」


稲森先生は肩をすくめて見せた。

 

 


「当然の権利だろう。静間さんは知る権利がある」


「むしろ、真里菜。犯人を知っていて教えない方が間違ってるんだ。

お前もあのメールを読んだという事はゆかりが事故の犯人だと知っていたんだろう?」


先生の言葉はほとんど耳に入っていなかった。それよりもっと気になった事があったのだ。


私は、稲森先生をまっすぐに見つめて聞いた。


「さっきなんていいました?」


「静間さんには知る権利がある」


「そうじゃ、なくてもっと前です」


「あかねは誰なんだ? って話か?」


「その後です。泉先輩が…どうのこうのって」


「ああ、泉が死んだ後もメールが続いていたのが不思議だったんだ。

でも、そこでふと思ったんだ。実は泉の奴は生きてるんじゃないかって。

そう思って寮から出てくるとお前が走っていくのが見えるじゃないか。しかも、方向は泉の家の方だ。

もしかしてと思ってついてきたらお前が家の中を覗いてた。

…やっぱり、泉は生きてるんだろう?」


ようやく、違和感の原因に気がつく事ができた。あまりに堂々としてるから逆に気がつかなかったのだ。


「先生。何の話をしてるんですか?」


私はゆっくりと聞いた。


「泉は生きていたんだろ?」


念を押すように稲森先生が言う。


「待ってください。先生。…どうして先生は泉先輩が死んだなんて思ってるんですか?」


稲森先生が不思議そうに首をかしげた。

「どうしてってお前…」


先生が何か言おうとするのを遮って口を開いた。


「泉先輩は学校に来なくなっただけで、誰も死んだなんて思ってませんよ? 先生はどうして、泉先輩が死んだって思ったんですか?」


「………」


先生は押し黙ってこちらをにらみ返している。


「泉先輩が書いた遺書。遠藤先生が死んだ時に置いてあった遺書。ゆかりのメールを読んだ時、不思議に思ったんです。この遺書はどこにいったんだろうって。

遠藤先生が発見された時、そんな遺書は発見されなかったのに。




先生が持って行ってたんですね」

「それは…」


「なんで、持って行ったりしたんですか?」


私が稲森先生に詰め寄ろうとした時、玄関の扉がおもむろに開いた。

 

 

「そこまでにしようか」


玄関を開けた人物が少し面白そうに言った。


「泉先輩っ」


私は叫んでいた。

泉先輩は私を見つめると困ったようなでも、少し嬉しそうな、そんな感情が混じった微妙な表情を浮かべて笑った。


「結構遅かったですね。先生。もうちょっと早くたどり着くかと思ってましたよ。先生より警察の方が早いかと思っちゃいました」


「泉、お前っ。やっぱり生きていたんだな」


泉先輩はそれに当然だと言うように頷いた。


「さっき、真里菜ちゃんも言ってましたけど、僕が死んだなんて思っているのは先生ぐらいですよ。とりあえず、こんな所で立ち話もなんですから中に入りませんか?」


玄関の奥を指さすと私たちの返事も待たずに家の中に入っていく。

稲森先生は無言で泉先輩に続いて家の中に入って行った。


私も慌てて後に続く。私が中に入ると同時に家の中に電気がついた。


電気はまだ通っていたらしい。


「そこに座ってください」


居間のちゃぶ台に私たちを薦める。先輩は台所に行ってヤカンを火にかけた。

 


稲森先生は無言でちゃぶ台の横に座る。私も座布団の上に座ろうとして、手で埃を払おうとする。


座布団からはほとんど埃は出なかった。この家はずっと使われていたらしい。


ヤカンからシューシューとお湯が沸く音がした。

「先生はコーヒーでいいですよね? 真里菜ちゃんは紅茶の方がいい?」


「あ、はい」


私は急に話しかけられて、驚いた。


泉先輩は至って普通だった。いろんな出来事なんてなかったかのように、いつも通りの先輩だった。


ちゃぶ台の上にコーヒーと私の分の紅茶。そして、自分の分のコーヒーを置くと先輩は私と稲森先生との間に立った。


「それで、ここまで来たって事は僕に聞きたい事があるってことですよね?」


先輩がきりだした。

私は思わずつばを飲み込んだ。


「でも、真里菜ちゃん。引き返すならここだよ。真里菜ちゃんには関係のない話だ。聞いても楽しい話ではないよ。帰るならここだ。僕は止めないよ。むしろ帰る事を推奨する」


私は、それを聞いても腰を上げる事はしなかった。泉先輩をみつめたまま動かなかった。


泉先輩はしばらく私の顔を見つめた後、諦めたような顔で肩をすくめた。


「それで、先生。何が聞きたいんですか? 僕がこの一連の事件にどう関わっていたのかって事から話した方がいいですか」


稲森先生は泉先輩を無言で見つめている。

二人はしばらく無言のまま向き合っていたが、泉先輩は肩をすくめると、口を開いた。


「そうですね、どこから話したらいいのかな。二人ともゆかりちゃんのメールを読んだって事は、彩香が洋子の娘だっていうのは知ってるよね?」


私は無言でうなずいた。

 

 


「僕の父親と洋子の父親は広沢医科大の同期生だったらしい。その頃から仲が良かったから、洋子が生まれてからも、洋子を連れて、父親の所に遊びに来ていたらしいんだ。

 僕が生まれてからも洋子は何度か家に来ているんだよ。僕はあんまり覚えてないけどね。

僕が大きくなってきて、洋子が小学校高学年になったころ、洋子の親父さんも忙しくなってあまり家に来なくなった。

 そうすると、自然と洋子の足もこの家に向かなくなっていったんだ。

 次に洋子が家に来たのは僕が10歳になるかどうかのころだったと思う。

 その頃、洋子は高校で陸上をやっていて、アキレス腱を痛めて、家にやってきたんだ。

 洋子は陸上にかなり打ち込んでいて、大会前の時期に足を痛めたのはそうとうショックが大きかった。

 洋子の落ち込みようは小学生の僕から見てもそれはひどかった。

 ずっと落ち込んでいたと思ったら突然暴れ出したりする事もよくあった。

 僕の父親はそんな洋子を根気よく治療し、リハビリにも付きっきりで付き合っていた。

 それが、父親のやり方だったし、この病院が地元の人に好かれている要因でもあったしね」


先輩はなぜか自嘲的に笑った。


「洋子がまた走れるようになった時は本当にうれしそうな顔をしていた。

 しっかりと地面を蹴って走れる事が本当に楽しいみたいだった。

 そんな洋子を見て、僕もうれしくなったのを覚えている。

 それから、洋子はたびたび病院に通うようになった。

 別に体調が悪かったわけじゃない。時折顔を見せては話をして帰って行くだけだ。

 この頃から洋子は僕の父親を見る目が変わっていたんだと思う。

 洋子は父親を男性として見ていたんだろうと思う。

 その頃の僕には分からなかったけれど、今になって思い返すと思い当たる節があるんだ」


私は衝撃を受けていた。洋子さん、私はほとんど面識はないんんだけれど、人の父親を好きになるなんてどんな心境なんだろうと思った。

 

 

稲森先生は苦笑を浮かべていた。洋子さんの好きな人というのに心当たりのあったのだろうか?

「でも、当然ながらその思いは叶う事も告げられる事もなかった。

 その時、僕の父親と母親は一緒に暮らしていたし、仲も悪くなかった。

 自分で言うのもなんだけど、幸せな家庭だったと思うよ。

 洋子が大学生になって、誰かと付き合う事になったと聞いて、僕は驚きもあったけど、安心もしていたんだ。幸せになればいいと他人事ながら思っていた。

事態がおかしくなったのは洋子が妊娠をした時からだった。

妊娠を聞いた時、父親は素直におめでとうと言った。

 でも洋子はその言葉を聞くと俯いて沈んだ顔をして見せたのだ。

 その子供の父親とは別れたらしいという話だった。そして、子供を産みたいと言った。

 父親は難しい顔をしたけれど、何かを決意したような顔をすると、洋子に優しく言った。

 私も、君を応援しよう。一緒に頑張ってみようじゃないか。君のご両親にも一緒に話をしに行こう。

 それはきっと、医者としての言葉で、子供のころから知っている洋子に対する優しさだったんだろうと思う。

 父親はいい人だった。でも、鈍い人だった。それはとても残酷な事だった。

 父親はきっと、洋子が暗い顔をしているのは旦那と別れたせいだろうと思ったに違いない。

 でも、それはきっと違って、洋子は父親におめでとうと言われた事がショックだったんだと思う

それから、少しずつ何かがおかしくなった。父親は洋子の為に病院が終わった後も家を空けることが多くなった。

 母と父親の会話の数は減っていった。母は元から口数の少ない人だったからその変化に気が付いていたのは僕だけだったと思う

父親は人を信じている人だった。特に、家族には絶対の信頼を置いていたと思う。

 だから、父親は他人の為になる事をするためには家族の事は二の次にする人だったんだよ。

 洋子が妊娠してから、1年間、その間、父親と洋子の間にどんな事が起こっていたのかは僕は知らないし知りたくもない。

 でも、1年後には父親と洋子の間には確かな信頼関係ができていた。

 父親にしてみると、それはただの信頼関係であり、洋子とは友人の娘だという認識は変わっていなかったのだと思う。

 でも、それを母や僕に理解しろというのは酷な事だとは思わないかい?」

泉先輩は手に持っていたお茶を一口飲むと机の上にコップを置いた。

 

 


「お前は父親の事が嫌いだったのか? さっきからお前が父親の事を話すときはまるで他人事のようだ」


稲森先生が口を開いた。泉先輩は少し考える素振りをした。


「そうですね。先生。少なくとも好きではなかったです。

 僕はね、博愛主義者じゃないんですよ。自分の好きな人や周りにいる人、自分の手の平に乗る程度の人を大事にできればそれでいいと思っている人なんですよ。

 極論を言ってしまえば、僕の周りにいる人が不幸にならないのなら他の人がどうなろうと知った事じゃない

博愛主義が駄目だなんて言うつもりもないし、否定する気もありません。

 でも、自分の手に負えない主義なんて意味も価値もないと思っているだけです。

 だから、そういう意味では父親とは絶対に相容れませんでした。

 父親は他人のために自分と家族を犠牲にする人でしたから。

 父親は他人から見れば立派な人だったと思います。親切で面倒見が良くて、誰とでも気軽に話せて頼りになる、素晴らしい人だったと思います。

 でも、父親としては最低だった。

洋子が彩香を産んだ後は、少し落ち着きました。父親も家にいるようになったし、洋子も病院にはほとんど来なくなっていましたから。

 たぶん、大学が忙しかったというのもあったと思います。

 洋子の両親が彩香を産むのを認める代わりにある条件を出しました。

 それは、洋子が大学に行って卒業する事でした。洋子は妊娠した時にすでに大学生でしたから。その大学を辞める事は洋子の父親が許しませんでした

たぶん先生と知り合ったのは、この頃だと思いますよ。そしてたぶん先生は洋子に子供がいる事を知らなかったんじゃないですか?

 洋子は大学を卒業するために忙しかったから、彩香にあまりかまってあげていられなかったらしいですから。

 まだ1歳にもなっていない子供と離れて大学に行っていた洋子はどんな気分だったんでしょうね?

 ああ、大学に行っている間は洋子の両親が彩香の面倒を見ていたらしいです」


泉先輩は先生に向けて言った。先生も子供がいた事を知らなかったのを否定はしなかった。


先輩は再び話し始める。

 

 


「洋子が彩香を家に連れてきたのは2回ぐらいだったと思う。本当はもう少しあったのかもしれないけど、覚えているのは2回だけだ。その時の僕はまだ小学生だったから知らなかっただけかもしれないけどね。

少なくとも僕が知っているのは2回だけだ。

彩香が火傷をしたと言って、深夜に病院を訪れたのと、雨の中ぐったりしていた彩香を連れてきた時だ。その2回目の時に彩香は僕の妹になった

この診療所に連れてこられた時、彩香は酷い高熱を出していた。

 たぶん、肺炎になっていたんじゃないかな。父親は酷い様子の洋子と彩香をすぐに病室へ連れて行った。

 まだ1歳に満たない彩香にその高熱は命取りだった。すぐにでも処置をしなければいけなかった。

 父親はすぐに事情も聞かずにすぐに治療にかかった。

 待合室には僕と洋子だけが残されたんだ。

 母は洋子と彩香が来た時も、その様子を一瞥しただけで奥の自宅に去って行った。

 僕はなんと言っていいか分からず、黙って椅子に座っていた。

 この頃、洋子とはほとんど話した事もなかったから。

 何分経ったか、それとももっと長い時間だったのか分からなかったけど、沈黙に耐えられなくなったのか、それとも別の何かに耐えられなかったのか、洋子は口を開いた。

 それは、言葉というよりも嗚咽だった。

 洋子は声にもならない声をあげて泣いていた

僕は、泣いている洋子にどうしたの? と聞いたよ。空気の読めない子供だったのかもしれない」

先輩はまたしても自嘲的に笑う。先輩はさっきからどこか自分を馬鹿にしているような呆れているような、そんな話し方をしていた。


まるで、懺悔しているようだ。後悔しているようだ。でも、どこか投げやりで挑発的だった。

 

 


「洋子は僕を抱きしめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。洋子の精神はよほど追い込まれていたんだろうと思う。

 そうでなければ、小学生相手にするような話じゃなかったから。

 彩香は洋子の両親、主に父親に虐待を受けていた。

 積極的な虐待というわけじゃなかったみたいだけど。

 ご飯を時折与えない。泣いていても無視する。体調が悪そうでも放置する。

 彩香に何かをするというよりは彩香に何もしないという態度だったらしい。

 洋子の父親は結局洋子を許していなかったのだろう。

 出産を認めてはいたが、許してはいなかった

洋子はそれに気付けなかった自分を酷く責めていた。

 この日彩香が熱を出したのは前日の夜から毛布も布団も掛けられずに床に寝かされていたのが原因だったみたいだった。

 前日から洋子は研究室の実験で大学に泊まり込みだったから、彩香が熱を出している事もそのまま放置されている事も気がつかなかった。

 家に帰ってきて、ベットの上に寝かされている彩香の顔色がおかしかったのを見て、病院に急いで連れてきたんだ。

 当時、洋子の実家からは広沢病院に救急車で運ぶよりも家に連れてきた方が早かったから、家に連れてきたみたいだった。

 そんな事を泣きながら洋子は僕に話していたよ。

 僕は何も言えなかった

そんな事があったから、彩香は家で引き取ることになったんだよ。

 事情を聴いた父親は自分の責任でもあると言って、彩香を引き取ると言った。

 洋子は躊躇っていたが、その提案を受け入れた。あの家に置いておく事はできないし、かといって母子二人で生きていくには収入がなかったし、それに何より、洋子はもう自分が母親だと言う事に耐えられなかった。

 娘をこんな目にあわせた自分を母親だと名乗る事は洋子にはできなかった。

 責任の放棄と言われても仕方がないかもしれないけれど、当時の洋子にはそれが最適だろうというが父親の判断だった。



 

 


当然、母は猛反対したけどね

当時、母は出産したばかりだった。僕も新しい妹ができて嬉しかった。

 そんな時に、父親は他人の女の人の子供を引き取ると言いだしたんだ。

 母は当然、怒るだろう。それが当たり前だと思う。でも、その当たり前の気持ちが父親には理解できなかった。

 人助けのために、ひとり子供を引き取るのが、何が気に入らないんだと、喧嘩をしていたよ。

 財政的には問題ないだろうと父親は怒鳴った事もあった。後で謝っていたけれど、その言葉は母がこの家を出ていく覚悟を決めるには充分だった。

 そして、母はこの家を去って、父親と僕と彩香の3人の生活が始まった」

「ちょっと待ってくれ」


先生が先輩の言葉に割り込むように言った。


「おかしいだろう? それは」


先輩は首をかしげる。先生は胸元のポケットから煙草を取り出すと口に咥える。


火をつけようとして、ライターを探すが見つからなかったのか諦めて、煙草を机の上に置いた。


「なぜ、お前の母親はお前を連れていかなかったんだ? 彩香ちゃんは分かる。他人の子供だからな。

 でも、お前は実の息子だろう?」

「そうですね。その通りですよ」


先輩は苦虫を噛み潰したような顔になった。吐き出すように言葉をつづける。


「母は弱い人でした。それは無理もない話だったのかも知れませんが、それでも、やはり、母は弱かったと言うしかないんでしょうね

母は父親が自分の事をもう愛していないと思っていました。

 父親は洋子と浮気をしていると信じて疑いませんでした。

 浮気をしていたのだったらどれほど良かったのかと思いますよ。

 でも、父親は変わらず母の事を愛していました。

 だから、母が別れようと言った時も納得しませんでした。泣き崩れる母を説得しようと必死でした。

 でも、それが母をさらに追い込んで行く事になりました。

 そして、母はやってはいけない事をやりました」

「…やってはいけない事?」


私は思わず言葉が口を吐いて出た。先輩は私の方に向き直って言った。


「ああ。母は毎日、どうしてこんな事になるだろうと考えていたんだと思う。

 毎日毎日そんな事を考えているうちに、一つの結論に落ち着いた。

 すべては洋子が原因なんだって。洋子がいなければ、こんな事にはならなかったんだ。






 洋子なんていなければいい」

最後の一言を間を置いて吐き出すように言った。

 

 


「結果的に母は包丁で大学から帰宅しようとしていた洋子を刺そうとしました。

 結局それは失敗に終わりました。洋子はこの事件を警察に届けませんでした。

 父親はこの話を聞いて、母の離婚話を受け入れることにしました。

 父親もこの事件を警察に話す事は無かったんです。その代わり条件を付けました。

 それが、僕を連れていかない事。父親が僕が育てると言う事。

 それが離婚をして、事件を警察沙汰にしない条件でした」


そこまで言って、先輩はテーブルの前に座った。立って話す事に疲れたのだと思った。


座った時にポケットから携帯を取り出してテーブルの上に置く、最近では珍しいストレートタイプだ。


そして、自分のコップに入っている液体を一口飲んだ。


「お前の意思はどうだったんだ? いくら10何年前の話だとしても、お前の意思が無視されたなんて事はないんだろ?」


「そうですね、僕の意思。どうだったんでしょう。正直あまり覚えていないんですよ。

 いえ、記憶としては残っているんですけど、その時どんな事を思っていたのかは、はっきり覚えていないんですよ。

 小学生のころですし。正直な印象としてはどちらでもいいと思っていました

疲れていたって言うのが正しいかもしれません。毎日泣いている母を慰めようとするのも、父親の相手をするのも。

 だから、どっちでもいいと思っていました。…たぶんですけど。

 結局、僕は父親に引き取られて、彩香と3人で暮らす事になりました。

 仕事で忙しい父親の代わりに、彩香の面倒をよく見ていました。


 3歳を過ぎるまではほとんど僕が世話の大部分を見ていました。

 彩香を恨んだ事もありました。遊び盛りだった僕は彩香に縛られて自由な時間は大幅に削られていましたから。

 でも、それでもいつしか、彩香は大事な家族だって思えるようにはなっていたんです。

 僕はそんな自分に少し驚きました

彩香はとても聡い子でした。特殊な家庭環境で育ったせいかもしれませんが、とても周囲の人間の感情や空気を読むのが優れていたと思います。

 実は少し、責任を感じてもいるんですよ。今でも、僕が彩香を疎ましく思っていたりした事が、彩香をそういう人間にしたんじゃないかと思ってしまいます。

 そんな歪な家庭でしたけど、それなりに幸せに暮らしていたんですよ。この数年間が僕が生きてきた中で一番心が落ち着いていた時じゃないかなと思いますよ。

 ああ、洋子は時折、僕達の家に顔を出していました。父親の知り合いの人だと彩香には言っていました。

 娘の姿を少しでも見せてやろうと言う父親の計らいだったんでしょう。

 僕は、あまりいい気分ではありませんでしたけど。


 それと、母は家を出て以来、一度も顔を出しませんでした

しかし、そんな日々は簡単に打ち壊されることになりました」



先輩は淡々と言う。その顔に表情は見えない。


「父親が彩香の8歳の誕生日に誕生会をやろうと言いだしたんです。

 それ自体は毎年やっている事でした。でも、それは今まで家族だけでやっていたイベントでした。

 その家族水入らずのイベントに洋子を呼びたいんだけどいいかな?

 そう、父親は笑顔で言いました。



殺してやろうかと思いました」

私は背筋がぞっと寒くなった気がした。先輩の言葉にではなく、その表情にだ。

 

 


先輩の表情は能面の様だった。でも、その瞳は、その黒い瞳はどこまでも深い深い穴の様に暗かった。


まるで、そこに何かが映っている事すら気づいていない。気づく気もない。


そんな瞳だった。

「もちろん、僕は反対したんです。彩香の誕生日には僕達3人で写る写真を毎年、撮る事にしていました。

 その写真は母に毎年送られていました。

 それを母が見ていたかどうかは分かりません。でも、その写真に洋子を写そうというのかと反対しました。

 でも、父親はがんとして言う事を聞いてくれませんでした

そして、彩香の8歳の誕生日になりました。洋子は申し訳なさそうに、でも嬉しそうにやってきました。

 仕方のない事だと思います。娘の誕生日なのですから。この日あった事はもう知っていますか? 先生はきっと洋子の日記を読んでいるでしょうからしってますよね」


「ああ。お前の父親が死んだ。母親もだ」


もぞもぞと先生が動きながら答える。どうやらライターをいまだに探しているようだ。

先輩は頷いた。私は知らない事だったが、説明をしてくれる様子はなかったので、黙って話の続きを待った。


「その日、母は父親と彩香を巻き込んで心中をしようとしました。

 おそらく計画的なものではなかったと思います。場所は人気の少ない踏切でしたし、計画的というにはずさんすぎる、心中でした。

 母は、後ろから父親と彩香に抱きつきながら線路に飛び込んだのです。

 彩香は腕を掴まれましたが、その手が外れ、線路に入るまでには至りませんでした。

 そして、彩香の目の前で父親と母は死んだのです

僕は警察から連絡を受けて、彩香が保護されている警察に向かいました。

 洋子には家で待っていてもらうように言って飛び出しました。

 家を出て、走って警察に向かいました。家からそう離れた場所ではなかったので走るのが一番早いと思ったのです。

 彩香は、警察で震えていました。抱きしめても、どれだけ頭を撫でてあげても震えが止まる事はありませんでした。

 僕はただ、彩香の震えが止まるまで撫でている事しかできませんでした」

かちりと音がした。稲森先生がやっと見つけたらしい。ライターで煙草に火をつけた。


「それで、洋子が壊れた」


 

 


先輩は無言でうなずいた

「ええ。そうですね。父親の葬儀の時はまだ、平気でしたけど。

 父親の葬儀から一週間ほど経ったころだったと思います。たまたま外で、洋子と会ったんですよ。

 ただの偶然でした。でも、洋子は僕を見て、透さんって父親の名前を呼びました。

 僕と父親は正直言ってあまり似ていないっていうのにです

親子だから持っている雰囲気や空気が似ていたのかもしれません。

 それは僕には分かりません。でも、洋子は僕の事を透と呼び、嬉しそうに笑ったんです。

 僕にはその洋子の笑顔を壊す事はできませんでした。

 彩香にも、お願いして、僕の事を洋子の前では父親と思って接してほしいと頼みました。

 彩香はとても複雑そうな表情をしましたが、最後にはゆっくりと首を縦に振ってくれました

そうして、僕達は再び歪な家庭を築きあげました。

 歪な家庭で歪な幸せを」


私は初めて聞く話ばかりだった。稲森先生の方を見ても先生には特には驚いた様子はなかった。

 私の知らない事を知っているようだった。

「話がそれてしまいましたね。どうも、僕は話の脱線癖が抜けないらしい。一応気をつけてはいるつもりなんですけどね。

 先生が知りたいのはこんな事じゃないですよね。先生が知りたいのはここ最近あった一連の出来事ですよね

先生は、一連の事件に自分から関わっていったと思っているでしょう?

 でも、それは違うんですよ。先生は、この事件の底の底の方で、とても深く関わっているんですよ」



先輩がうっすらと笑った気がした。

先生は黙ったまま首を動かして先を促した。先輩はそれを見たからか、それとも元から気にするつもりもなかったのか、言葉をつなぐ。


「真里菜ちゃんもいる事ですし、少しおさらいしておきましょうか。

 まず、洋子は僕の事を父親の透と認識して生活をしていました。僕の事を泉として認識していたのは、僕が制服を着ていたときだけです。なぜ制服を着ていた時なのかは正確には分かりませんが、おそらく、父親の制服姿というのは見た事がなかったから認識できなかったのかもしれません。

 洋子が僕を父親と勘違いしているのを彩香も知っていました。

 そして、僕は洋子に対して、好意以上の言ってしまえば恋愛感情を抱くようになっていたという事。

 これは、僕が書いた遺書を持っている先生は知っている事ですよね?

 なぜ、僕が洋子に恋愛感情を抱いたのかは、個人的な事なので話したくありません。

 ここまでが大前提です

彩香と洋子は放課後、学校に来ていました。僕の生徒会の仕事が終わるまで待っていてくれたのです。

 それは、先生も知っていますよね。稲森先生が他の先生方に口を聞いてくれた事は知っています。

 素直に助かりました。ありがとうございます。

 ゆかりちゃん。彼女は洋子と一緒によく彩香と遊んでくれていました。

 彩香もゆかりちゃんに対して好意を持っていました。

 僕はこのゆかりちゃんが洋子の付き合っていた男、明弘君…いえ、一応先生もいますから遠藤先生と呼びましょうか、遠藤先生の妹だって知っていました。


 

 


 僕がなぜ、遠藤先生が彩香の父親だと知っていたのかはここでは置いておきましょう。

 事件とは関係の無い話ですから

僕は、ゆかりちゃんが洋子の事を覚えているのか探りを入れてみることにしました。

 ゆかりちゃんが、洋子の事を覚えていれば、すぐに遠藤先生に洋子と彩香がこの学校に来ている事がばれるだろうと考えたんです。

 そこで、とある方法を使って、3人を偶然を装って遭遇させてみることにしました。結果は知ってるかもしれませんが、ゆかりちゃんは洋子の事を覚えていませんでした。

 正確に言うと同一人物だとは認識できませんでした。

 正直、ほっとしました。あまり掘り返して欲しくない話ですから。

 後は、遠藤先生と洋子が遭遇しないように気をつかうだけですみました。

 遠藤先生は元々、放課後はあまり学校に残っているタイプではなかったので、それほど難しい事ではありませんでした。

 でも、遠藤先生も気が付いていてわざと洋子と接触を避けていたのかもしれません。

 本当の所は分かりませんが、どちらにせよ、僕が知っている限りでは洋子と遠藤先生が接触した事は一度もなかったはずです」


「それで、いつ核心に入ってくれるんだ?」

 

 先生が煙を吐いて言った。しばらくまた自分のポケットを探るように手を動かす。

 


 何度か自分のポケットを叩いて中に入っているものを確認した後に、胸元から携帯灰皿を取り出して、煙草のフィルターを押しつけて中に捨てた。


「さっき、お前が言ったじゃないか、私が知りたいのはそんな事じゃない」


 先輩はまた苦笑いを浮かべる。


「まぁ、そう言わないで下さいよ。僕はこう見えておしゃべりが好きなんですよ。

 少しぐらい付き合ってください。

 先生が知りたい話までそんなに時間はかかりませんよ」


 先輩は台所に行ってヤカンを持ってきたかと思うと、私と先生の前に置いてあった湯呑にお湯を注ぎなおした。


 私はほとんど口をつけていなかったが、先生はお湯を注がれると、それを喉に流し込んだ。


「彩香と洋子の関係は割と良好だったと思います。洋子は母だと名乗れないながらも彩香を可愛がっていてくれましたし、彩香も洋子になついていました。

 そもそも、彩香は人懐っこくて、割とすぐに人と仲良くなる子でしたから。

 きっと、それは彩香にとっての処世術だったんだと思います。

 彩香は人の顔色をうかがって生活する事を余儀なくされていましたから。

 それに関しては僕が全面的に悪かったと思っています。

 僕はどうしても父親が好きになれなかった。

 他人を大事にして、家族を顧みない父親を、自分の正義の為に家族を知らず知らずのうちに犠牲にする父親を好きなる事ができなかったんです。

 だから、僕はいつも父親と喧嘩ばかりしていたんです。それを横で見ていた彩香は、他人の顔色をうかがって自分がどういう態度でいるのが、周りの人にとって都合がいいのか、喜んでもらえるのか。

 そういう事ばかりうまくなってしまった。

 そんな彩香が僕は嫌いでした

お兄ちゃん、お兄ちゃんと寄ってくるのも鬱陶しかったし、媚びるように僕にお願い事をする彩香も嫌いでした。

 僕が願い事を聞いてあげると、嬉しそうにありがとうと言って笑う彩香も嫌いでした。

 素直に誰かに笑いかける顔も嫌いでした。

 嬉しさを全身に表すように行動する姿も嫌いでした。

 僕に、理不尽な事を言われてそれでも、それを自分の中で飲み込み、引きつった笑顔を浮かべながらも、まっすぐな瞳を向けてくるその視線も嫌いでした。

 でも、顔から大粒の涙を流しながら悲しんでいる泣き顔も嫌いでした

だから、父親と母が死んだ、あの事件の後から彩香が笑わなくなったのがすごく嫌でした。

 いえ、見た目は笑っていました。本当に楽しそうに笑っていました。

 おいしいご飯を食べている時も洋子やゆかりちゃんと遊んでいる時も本当に楽しそうに笑っていました。

 でも、それは明らかに作られた笑顔でした。

 なぜなら、それは鏡に映った僕の笑顔にどこまでもそっくりだったからです。


どこまでも、彩香は僕の妹でしたところで、彩香は人前で服を脱ぐのを極端に嫌がる子でした。知ってますか?それは父親の教育でした。女の子は簡単に肌を他人に見せるものじゃないとか、そう言う事ではありません。

彩香の体には消えない火傷の痕があったので父親が彩香がその事でいじめられないように教えた事でした」


「火傷…?」


先生が一瞬怪訝そうな顔をしけれど、すぐに先輩が話を続けたので視線を戻した。


「さきほど言った、彩香を初めて病院に連れてきた原因の火傷です

彩香はその教えをきちんと守っている子でした。でも先生は一度彩香が服を脱いだところを見たことがありますよね?」


「ああ、一度急な大雨が降った日、ずぶ濡れで校庭にひとりで入って来た時があってな、風邪をひいてはいけないと思ってストーブの置いてあった理科室に招き入れた。

服もずぶ濡れだったから嫌がったが、多少強引に脱がしてストーブで乾かしたんだ。

ああ、もちろん乾かしている間、白衣なんかの着るものとバスタオルは貸したぞ?」


「いい加減にしろ。私がそんな話を聞くためにここにいるわけじゃない」


今にも立ち上がりそうな先生を遮るように先輩が声を大きくした

 

「先生。これは大事なことなんです。いえ、肌を見たこと事態じゃなく、見せてはいけないと言われていた肌を見られてしまった先生に対して彩香が苦手意識を持ってしまっていた。

それが話の要なんです。その事実はあの日、あの火事の日僕がやろうとしていた事にとても重要な関連性があるんですよ。

僕は彩香と洋子は本音で話し合うべきだと思っていました。

 でも、彩香は本音を言う事はほとんどと言っていいほどなかったし、誰かに感情をぶつけると言う事もほとんどしない子でした。

 そんな、彩香が唯一本音を話す時がありました。

 それは、精神的に弱っている時、暗闇の中でうずくまっている時でした。

 父親と母親が死んだのを目の前で見て以来、時折嫌な事、精神的に辛い事があると、彩香は暗い所に隠れるようになっていました。

 まるで、何かから自分を隠しているような。

 でも、その時の彩香はいつも饒舌でした。

 だから、僕はその時の彩香と洋子を話しあわせようと目論んだのです

あの日、僕は学校に彩香を呼び出しました。放課後、洋子より先に学校に来てくれるように言ったのです。

 僕は、学校にきた彩香に辛い事を言って、体育倉庫に隠れるような精神状態にしようとしました。

 でも、あの日、体育倉庫には先客がいました。

 稲森先生。あなたです

「先生はあの日、あそこで何をしていたんですか?」


「…私は…」


 先生が言葉に詰まる。何か逡巡しているようだ。


「隆春の飛び降りの事を調べていた」


 先輩が断言するように言った。


「先生はあの日、体育倉庫で隆春の飛び降りについて調べていたんじゃないですか?

 先生は隆春が飛び降りたというのが信じられなかった。

 自分はあのストーカー行為をしていた紗英ちゃんを見つけ出し、謝らせようとしたはずです。

 その謝りに行くと言った当日に隆春が飛び降りたんです。何かあったと考えていたんでしょう。

 実際は隆春は飛び降りたというよりも紗英ちゃんをかばって落ちたというのが本当のところですけどね。

 でも、その時はまだそんな事を知らなかった。

 だから、隆春が飛び降りた所の側の体育倉庫を調べていたんでしょう。

 でも、それは僕にとってとても都合が悪いものだった

僕は彩香はおそらく、体育倉庫に行くだろうと考えていました。 

 前にも一度、体育倉庫に隠れていた事があったからです。

 だから、先生が体育倉庫にいるのは邪魔以外の何者でもありませんでした。

 先生がそこにいると、彩香と洋子が二人きりで話し合う事ができなくなってしまう。

 洋子にはすでに今日、彩香の面倒を見てもらうように頼んでいました。

それほど時間も残されていませんでした。

 だから、僕はあの日、先生を体育倉庫から連れ出す為に先生に理科準備室の掃除を手伝いますよと自分から言い出しました

「正確にはあの日先生と接触するためにわざわざ体育倉庫に見回りにいきました。

そうやってその辺りをうろうろしていれば先生の方から声をかけてくると思ったんです。

先生だって他の先生達に調べていることを知られたくなかったはずですから。

学校としては掘り返したくない事件を調べている先生は邪魔だったとおもいますよ。

だから先生は案の定僕に話しかけてきた、僕を体育倉庫から遠ざけたかった。僕は先生を遠ざけたかった。利害の一致でした」


「確かにそれはその通りだ。認めるよ。だが、そもそもお前の気持ちが私には分からないよ。

本当にそれが二人の為になると思ったのか?

それ以前にどうやって彩香ちゃんを精神的に追い詰める気だったんだ?

言うほど簡単なことじゃない」


 

「簡単ですよ。裏門で待っていた彩香に一言言っただけです。

彩香は僕の妹じゃなくて本当は洋子の娘だって」


「お前っ。それでも兄貴かっ!!」


 先生が立ちあがって、泉先輩に飛びかかろうとした。


「先生っ!!」


 私はこの家に入って初めて大きな声を出した。先生はその声に驚いて中腰の態勢まま固まっていた。


「先生。座ってください」


 私がゆっくりとお願いすると、先生は渋々といった感じで座りなおした。


 先輩はそれを見ると、お茶を一口飲むとまた話し始めた。


「彩香はその話を聞いて、呆然としていました。何を言われたのかはっきりと理解できていない表情でした。

 僕はそんな彩香を置いて、先生の所へ戻りました。覚えていますか? 僕は体育倉庫から科学準備室に向かう途中、生徒会の人たちに先に帰るように言ってくると言って先生を待たせましたよね。あの時の話です。

 先生と連れだって歩きながら時計を見ました。ちょうど、洋子が来る頃だと思ったんです。

 思っていた通りに洋子とすれ違ったので、体育倉庫の鍵を閉めて置いてくれるように頼みました。

 彩香を探している洋子は体育倉庫で彩香と遭遇する。

 僕はそう思っていました」


「でも、予想外の事が起こりました。しずるさんの事故です。しかも、その事故は彩香の目の前で起こりました。

 確かに、僕の狙い通り二人は体育倉庫で本音を言い合ったみたいです。内容は…まぁ、それは今は置いておきましょう。

 予想外の事は立て続けに起こりました。体育倉庫が燃えたんです。

 焦りました、それ以上に何が起こっているのかわかりませんでした。

 気が付いたら駆け出していました。僕の目に飛び込んできたのは黒煙をあげて燃えている体育倉庫と時計塔でした。 

 その時の事はあまり覚えていません。むしろ、その時の事は先生の方が覚えてると思います。

 僕が気がついた時にはすでに先生に取り押さえられていましたから。

 僕の目の前で、彩香は燃えていきました」

「でも、予想外の事が起こりました。しずるさんの事故です。しかも、その事故は彩香の目の前で起こりました。

 確かに、僕の狙い通り二人は体育倉庫で本音を言い合ったみたいです。内容は…まぁ、それは今は置いておきましょう。

 予想外の事は立て続けに起こりました。体育倉庫が燃えたんです。

 焦りました、それ以上に何が起こっているのかわかりませんでした。

 気が付いたら駆け出していました。僕の目に飛び込んできたのは黒煙をあげて燃えている体育倉庫と時計塔でした。 

 その時の事はあまり覚えていません。むしろ、その時の事は先生の方が覚えてると思います。

 僕が気がついた時にはすでに先生に取り押さえられていましたから。

 僕の目の前で、彩香は燃えていきました」

「彩香の葬儀が終わって、洋子の様子は一変しました。まるで抜け殻でした。

 僕は、葬儀の手続きや後片付けなんかで、忙しくしていたので洋子とはほとんど会っていませんでした。

 家に帰っても誰もいない日々が続きました。全てが終わった時、空っぽの家に僕は呆然と座っていました。どうして、僕はひとりなんだろう」

 

「ああ、そうだ。彩香は死んだんだ。真っ黒になって死んだんだ。

 一週間経った頃。ようやくその事が実感できました。父親と母が死んだ時はすぐに受け入れられたのに不思議なものですね。

 やはり、僕自身が彩香の死の原因を作っていたというのが心にこびりついていたんだと思います。

 忘れようとしても無理でした。彩香が死んだ事を実感する度に思いました。

 僕が、二人をあの場所で合わせようとしなければ、父親と母が死んでいなければ、彩香が洋子の娘じゃなければ、彩香が生まれてこなければ、洋子が遠藤先生と出会っていなければ、洋子が生きていなければ、彩香は死ぬ事がなかった。

そう思っていた時。洋子が自殺しました」

「彩香が死んだ事は洋子をそこまで追い込んでいたのかと思いました。

 僕はそこまで洋子を追い込んだと思うとずしんと心が重たくなりました。

 洋子の葬儀が終わってから、僕は洋子の部屋に行きました。

 そこで洋子の日記を見つけました。引きつけられるように、その日記を読みました。

 そこには洋子が死んだ理由が書いてありました。

 洋子の日記を読み終わって、僕は思いました。

 なんで、こんな事になったんだろう?

 僕のせいか? ああ、そうだ。確かに僕のせいだ。

 それは否定しない」

部屋の窓がガタガタと揺れた。風が窓に当たっているのだろう。


その風に合わせるように部屋の中の空気は重く、肌寒ささえ感じるような寒気を私は感じていた。


「先生は、洋子の日記を読みましたか?」


先生は頷いた。


「僕はあの日記を見て、あの火事の日、裏門の前の通りで事故があった事を知りました。

 でもね、不思議に思った事があるんですよ。彩香は事故を目撃してる。でも、その事故を起こした本人の事はまったく口にしていないんです。

 そして、彩香はこう言ってるんです。

私がいるとみんな不幸になるの

みんなって誰のことでしょうか?」

 

「しずるさんの事だけを指しているならみんなと言う表現はおかしいと思ったんです。

 初めは父親と母の事を言っていたのかと思いました。

 でも、父親と母が亡くなったのは一年も前の話です。

 だから、この時、彩香の好きな人で不幸になったのはしずるさんだけじゃないんじゃないかって思ったんですよ。

 この事故を起こした犯人を知っているからこそ彩香は犯人の事には触れなかったんじゃないか。

 そう考えると、事故を起こした人は一人しか浮かんできませんでした。ゆかりちゃんです」

「ゆかりちゃんを疑えば、遠藤先生の行動にも不自然さが際立ってきました。

 そもそも、遠藤先生は禁煙していたんですよ。

 その遠藤先生が煙草の不始末という時点でおかしいんですよ」

「遠藤先生が禁煙をしていた理由は妹のゆかりちゃんが煙草の匂いを嫌がったからです。

 それ以来、遠藤先生は煙草を完全にやめる事は出来なかったようですが、人前では煙草を吸わなくなりました。

 時折、体育倉庫の側の空き地で一人で隠れて吸っていたようですけどね。

 先生はなぜ、ゆかりちゃんが煙草の匂いを嫌がるか知っていますか?」


「…紗英のせいか?」


「ご名答。でも、正確に言うと先生のせいです」

「私のせいだと…?」


「紗英ちゃんは煙草は吸いません。じゃあ、なぜ紗英ちゃんから煙草の匂いがしたのか?

…先生は隆春が屋上から落ちたあの日の前日、紗英ちゃんに会っていますよね。紗英ちゃんにストーカー行為をやめるよう説得する為に。

説得の為に紗英ちゃんと決して短くない時間話していたはずです。そして、先生は長い時間話していたなら必ず煙草を吸っていたはずです。

そして、その日紗英ちゃんは学校に行こうとしていましたから。制服を着ていたはずです。」


「あ、制服に匂いが残ってた…?」


私が言った台詞に先輩はうなずいた。


「紗英ちゃんがゆかりちゃんを襲った時も制服を着ていました。

煙草の匂いって意外と残るものなんですよ。特に吸わない人は煙草の匂いに敏感ですから。

そのうえ、制服のブレザーなんてほとんど洗いませんから匂いが残っていても何も不思議じゃない」

 

「まぁ、その辺りはともかく遠藤先生は禁煙をしようとしていたんです。本人の口から聞いたことがありますから間違いありません。

こう見えて仲良かったんですよ、僕。

でも、煙草と言うのは簡単にやめられる物じゃないみたいですね。

遠藤先生も我慢できずに体育倉庫横で吸っているのを何度か見かけました。

職員室で吸うともしかしたらゆかりちゃんに見つかってしまうかも知れませんからね。

でも、それもそれほど数が多かったわけではありません。月に一回か二回あるかないかというところでした。

それなのに、ゆかりちゃんが事故を起こした日に限って煙草を吸っていて、それが小火になるなんて、できすぎでしょう?

僕は先生が故意に火をつけたとしか思えませんでした」

「僕は次の日、遠藤先生の家のポストに洋子の日記をいれました。

そして、僕は隣の空き家から遠藤先生を監視する事にしました。

日記を読んだ先生は目に見えるほどうろたえていましたよ。

その行動は小火を起こしたのは故意だと雄弁に語っていました。

先生はうろうろと室内を歩き回ったり、時折奇声をあげていました。

あまりに醜かった。なぜ先生は生きているんだろうと思いました。なぜこいつは動いているんだ?

なんで彩香はもう、動く事も話すこともできないのに、あれは醜く動いて音を発しているのか?

理解できませんでした。許すこともできませんでした」

「数日後、僕はゆかりちゃんが学校に行っている間に遠藤先生の家を訪ねました。

遠藤先生は狼狽していました。そりゃあ自分が殺してしまった子の兄が訪ねてきたのです無理もないと思います。

遠藤先生は僕に聞いてきました、彩香は俺の子供なのか?って。たぶん彩香の年齢を逆算して考えたのでしょう。僕はその質問に無言で答えました。

重たい沈黙が流れた後、遠藤先生はそうかと呟いて崩れ落ちました。

それから遠藤先生は泣き叫び狼狽えながら僕にすがりついてきました。

そんな先生を見て僕は言ってあげたんです」


ごくり。誰かが唾を飲み込む音がした。もしかしたら私かもしれない。


「楽に死ねる方法をおしえましょうか?」


「僕の家はもともと病院ですから睡眠薬も簡単に手に入りますよ。

遠藤先生は笑いながらその提案を受けました。

この家にはもうすぐゆかりちゃんが帰ってくるから学校の体育館準備室で待ち合わせしましょう。僕は家から薬を取ってきますと言ってその場で別れました」

「家に帰った後、準備をし始めました。遠藤先生も許せませんでしたが、僕にとってゆかりちゃんも許せない人物でした。

そもそもあの子が事故を起こさなければ遠藤先生が火をつけることもなかったはずですから。

遠藤先生は妹を事故の犯人にしたくない。そんな、その程度の事で彩香を殺したんです。

だから僕はゆかりちゃんを犯人にすることにしました。

兄を殺した殺人犯として」

「僕は彩香を殺した遠藤先生もそんな兄にした自分を省みず兄をただ慕い、洋子を追い詰めたゆかりちゃんもどちらも生きている事を許容できなかったんですよ」


先輩が何を言っているのか数秒理解できなかった。


言葉として意味はわかっていたけれどそれがどうしても実感できない。


先輩の顔を見つめる。表情は全く無かった。それはただシンバルを叩くだけの子供のおもちゃを見ているようだった。


無表情に淡々と言葉を繰り返し紡ぎ続ける。


それは不気味で背筋が寒くなるような光景だった。


それでも、先輩の話しはまだ続いていく。

「真っ暗な家の中で遺書を書きました。内容は先生は読んで知っているとは思いますが、要約すれば火事のあった日の事を書いて読んだ人間を追求するものでした。

その遺書と睡眠薬を持って学校に行きました。遠藤先生は僕を待ちわびていたように歓迎してくれました。

僕は遠藤先生に致死量には微量に足りない睡眠薬を飲ませました。

そして、準備室にあったロープを輪っか状にして吊るし、そこに遠藤先生の首をかけ台の上に立たせました。

少し不安定でしたが気にしないことにしました。

そして、ゆかりちゃんにメールを送った後、遠藤先生の前に遺書を置きました」

 

「そんな手紙一枚で本当にゆかりが遠藤先生を殺すと思ったのか? 実の兄だぞ」


先生が不快感を隠そうともせず言った。


「まさか。あの遺書はただの最後の一押しですよ。大事なのはそこまでの準備です。

先生はインターネットに自分の発言を載せて複数の人間が閲覧できる掲示板みたいなサイトを知っていますか?

この学校の生徒も結構利用している人多いんですよ。真理奈ちゃんも利用しています」


先生が私の方を見たのでうなずいて答える。


「ええ。私もゆかりも利用してました。前に先輩に薦められて…友達にも教えてあげるといいよ…って」


まさか。と思った。先輩は私がゆかりの友達と知っていて薦めてきたのだろうか?


「さっき言った洋子とゆかりちゃんを引き合わせた方法と言うのは、このサイトを使って二人を学校の裏門に誘導しただけの事です。

今回もこのサイトを使うことにしました。遠藤先生を殺そうと決めた後、僕はこのサイトの生徒が見ていそうな所に噂を流しました。あの火事は実は事故じゃないとか、誰かを殺そうとしたんだとかそんな話です。

すると、みんなこういう話が好きなんでしょうね。すぐに話題になりました、そして遠藤先生の妹であるゆかりちゃんもどんどん孤立していった。

ここで肝心なのはゆかりちゃんを完全に孤立させないこと、人は追い詰められ過ぎるとなにもできなくなる。自殺する気力も誰かを恨む気力もなくなる。それでは困るんです。

だから、ゆかりちゃんが一人きりにならないように、あかねをあてがいました」

「あかねはゆかりちゃんに付かず離れずの距離感を保ちました。

これでゆかりちゃんは学校で孤立しながらもあかねと遠藤先生に支えられる状況になりました。

特に遠藤先生は実の兄でもあり事故の事を庇ってくれているのですから、ゆかりちゃんの中で大きな存在でした。

もともとゆかりちゃんは偏執的に遠藤先生の事を慕っていましたから、普段押さえ込んでいた感情に大きく自分を委ね始めました。

これで準備は整いました。後は精神的に不安定になっているゆかりちゃんの大きな支えを崩してやればいい」


「ゆかりちゃんをメールで呼び出して僕は準備室の隣のステージ脇に隠れていました。

 しばらくすると、ゆかりちゃんがあたりを窺うように中に入ってきました。そして、目の前の遺書を読み始めました。僕はそれを黙って見続け、遺書の最後の方に差し掛かった時、ゆかりちゃんの表情が一変しました。

 あの遺書には魔法の言葉が書いてありました。

 それを見たゆかりちゃんは兄を許す事が出来なかったでしょう。

 それほどにゆかりちゃんは遠藤先生を愛していた。愛してしまっていた。それは思慕なんてものではなく、まして、愛情なんて言うものですらなく、それは妄信でした。妄執でした。

 僕はたった一言、言っただけなのです。


 あなたの信じた男はあなたよりも大切な人がいたんだと、あなたよりも、洋子が、彩香が大切だったんですよと暗に言ってあげたんです」


「それでも、もし、それでも、ゆかりが遠藤先生を殺さなかったらどうするつもりだったんだ?」


先生が聞く。心なしか声に抑揚がなかった。


「先生。これは、僕がゆかりちゃんにあげたチャンスなんです。

 彩香は確かに死んだ。でも、それは色々な原因が重なっての事なんです。

 誰も、彩香を殺したくて殺したわけじゃないんです。

 だから、ゆかりちゃん。火事を起こした直接の原因を起こしたとは言え、彩香を手にかけたわけではないゆかりちゃんにはチャンスをあげたんですよ。

 ゆかりちゃんが、遠藤先生を助けたり、殺さなかった時は僕はゆかりちゃんを許すつもりでした。

 ここで、ゆかりちゃんの事は忘れようと思っていたんです。

 ゆかりちゃんが殺さなければ、直接的な方法で僕が遠藤先生を殺す気でしたから、別にゆかりちゃんが実の兄を殺そうと生かそうと、どちらでもよかったんですよ」


「結局、ゆかりちゃんは実の兄を手にかけてしまった。

僕が思っていた以上に彼女の思いは深かったのかもしれません。

ゆかりちゃんは遠藤先生を殺した後、ふらふらと立ち去って行きました」


 ゆかりが殺した。先輩があっさりと言ったその言葉に寒気がした。異様だった。


なんで先輩はまるで、世間話をするかのように人を殺したなんて話をしているんだろう。


先生もそれを真剣な顔で聞いてはいるものの、それは話の内容を吟味しているようで、誰も人が死んでいる事に対して気を払っていないようだった。


 殺したのは私の友人で、先輩の後輩で、先生の教え子だって言うのに。


先輩の話はただ淡々としていて、そこにある感情はほとんど説明されずに、起こった事実だけを話されている。


 だから、そこには人間が見えてこなかった。


先輩の話の中に出てくるゆかりも、遠藤先生もただの記号だった。


「ゆかりちゃんがいなくなった後、僕もその場を立ち去ろうとしました。

でもそこで、また予想外の事が起こったんです。稲森先生。あなたが体育館準備室に来たんですよ」


 私にも予想外の話だった。ここで稲森先生の名前が出てくるとは思わなかったのだ。


先生は何も言わずに黙っている。


「ここからは僕の想像です。なんの根拠もありません。先生が不愉快だと思って止めれば僕はこの話をすぐにやめますし、そんな話聞きたくないと言われれば、話す事はしません」


 先輩はそう言った後、数秒間先生を見つめていた。


先生は何も言わずただ見つめ返していた。先輩はそれを肯定と受け取ったのか話を続けた。


「先生は、彩香の火事の事と洋子の自殺の事を調べていたんじゃないですか?

 洋子は先生の友達ですし、何よりあの火事のあった日、自分があの場所を離れなければ、あんな事件は起きていなかったんじゃないか、そして彩香が死んでいなければ洋子が死んでいなかったんじゃないかという罪悪感もあったんだろうと思います。

 先生は洋子の死の理由を探していた。本当に死の理由が彩香が死んだ事なのかどうか調べたかった。

洋子の自殺の原因に自分が関わっていたのかどうかを知りたかった。…関わっていなければいいと思っていた」


 そこまで言ったところで先生が右手を挙げた。


「火事の事を調べていたのは認める。洋子の自殺の理由を知りたがっているのも認めよう。でもそれに関わっていなければ良いとは思っていない。そこは認めない」


 先輩は肩をすくめて見せた。


「…そうですか。そこは僕の思い過ごしという事にしておきましょう。先生は彩香の事件の事を調べていた。

そうすると、当然火事を起こした遠藤先生に注目する。

しかし、遠藤先生はあの火事以降、停職処分中で学校に通ってきていなかった。

かといって、家に直接押し掛けて火事の話をするわけにもいかない。

 家に帰ればゆかりちゃんがいるはずですし、それに先生は他の先生、例えば西垣先生等に目をつけられている。

それは隆春の事件の事を調べているという前科…という言い方もおかしいですが、そういう事実がある。

だから、特に生徒指導部の西垣先生みたいな学校側の立場に立っている先生にしてみれば、この火事の事も大騒ぎしてほしくないに決まっていますからね。稲森先生が事件をほじくりかえさないかと多少目を光らせていたはずです。

 そうなると、稲森先生が遠藤先生と接触する機会はそう多くなかったという事です。

そんな時、遠藤先生が学校の入っていくのを見かけた。稲森先生は話をしようと遠藤先生を追いかけたはずです。

 しかし、あの日は冬と言う事もあって、あの時間には辺りは暗くなっていて、遠藤先生を途中で見失ったんじゃないですか?

 それで、校内を探していた。あと十数分早く準備室にたどり着いていたら、遠藤先生もゆかりちゃんも死ぬ事はなかったかもしれませんね」


 酷く毒のある言い方だった。それが妙に気にかかる。

 

「結局、先生がどういう経緯であそこにたどり着いたのかは想像でしかありませんけど、事実先生はあの場所に来た。

そして、すでに息を引き取っている遠藤先生を見つけた。

僕はその時まだ身を隠していましたが、すぐにでも先生が僕の存在に気がつくんじゃないかと冷や冷やしていましたよ。

 でも、先生は目の前の死体と遺書と書かれた紙に目を奪われていて、僕の存在には気がついていませんでした。

そうそう。言い忘れていましたが、僕の書いた遺書はその場に残されていました。

ゆかりちゃんがそのまま放置していきましたからね。

 僕はその遺書を回収するつもりはありませんでした。もし、先生がこの場所に来なければ明日の朝にでも西垣先生が遠藤先生の死体を発見するはずでしたから。

 僕は、西垣先生が校内の見回りをしているのを知っていました、この体育館準備室も巡回ルートに入っている事も。

だから、この場所を選んだのです。めったに人は来ないけれど確実に発見される場所だったからです。

 そして、第一発見者になった西垣先生はこの遺書を警察には届けずその場で廃棄すると考えていました。

その為に、西垣先生があの日、学校にいた事を書いたわけですから

あの文を読んだ西垣先生は自分の浮気がバレる事を恐れて握りつぶすと考えていました。

 後ろめたいことがある人間っていうのはその事に関して敏感ですからね。あの程度の文章でも、周囲に悟られる事を恐れる」


「西垣まで巻き込むつもりだったのか?」


「僕はね、彩香と洋子の死に関わったものはすべて許せなかったんですよ。だから、あの場所に火種を置く原因を作った西垣先生も同じ事です。

 当然、西垣先生にもチャンスはあげるつもりでした。僕の書いた遺書を握りつぶしたりしなければ西垣先生には何の処罰もないはずでした。

でも、それを捨てたりしたらどうなるんでしょうね? 何もしなければ誰も気づかないものを用心の為に取った行動がそれをきっかけにバレてしまうなんて言う事は良くある事ですよ。

 この場合、ただの第一発見者になるはずだった西垣先生が、その現場にあったものを捨てたとなれば、必ず疑われるでしょう。

そうすれば、浮気は少なからず暴かれることになるでしょう。

 生徒指導部の先生が浮気なんてバレれば少なくとも今の地位にはいられなくなるでしょうし、家庭がどうなるかというのは僕の知った事ではありません。

 でも、実際はそれらの思惑が全て外れました。

なぜなら、その遺書は西垣先生の目に触れる事はなかったからです。…稲森先生が持って行ってしまいましたから」


 先輩は真っ直ぐに先生を見つめていた。


…先生が泉先輩を死んでいると思っていたのは先輩が書いた遺書を持っていたからなのだろうと思った。


「…ああ、私は確かにあの遺書を持って帰った。

私はあれを最初に読んだ時、お前は彩香ちゃんを死に至らしめた遠藤先生を憎んで、殺した後、自分もどこかで自殺しようとしていると思ったんだ。

 お前を探すためにこの遺書は手がかりになると思った。

…そして、それ以上に洋子の死の理由について、何か分かるかもしれないと思ったんだ。

結局、分かったのは西垣が浮気していた事ぐらいだったが」


 先生は自嘲的に言った。先輩がそれをじっと見つめる。


少し口角が上がった気がした。気のせいだろうか?


「僕が、行動を起こしたのはそこまでです。後は稲森先生…先生がよくやってくれました。

先生はその持前の正義感と好奇心で事件の真相に迫っていきました。

僕がやろうとしていた、西垣先生の浮気も暴いてくれました。結果、西垣先生は今は塀の中です。

それどころか、ゆかりちゃんの事故の真相まで突き止めてしまった。

 そして、よりにもよってそれを問い詰めた」


 先輩の口調がどこか挑発的なものに変わった。先生が睨みつける。



「そんなに、睨まないでくださいよ先生。僕は事実を話しているだけですよ。僕は確かにゆかりちゃんを追い詰めました。でも、最後の最後まで追い詰めたのは先生なんですよ。

 僕はゆかりちゃんに死んでほしかったわけじゃない。兄を殺した罪を背負って生きながらえてくれた方が僕の溜飲は下がるってものですから。

 でも、先生はそれを許さなかった。事故の犯人としてゆかりちゃんを追い詰め、そして兄殺しとしてさらに追い詰めた」


「ゆかりは犯罪を犯していたんだ。ゆかりは罪を償うべきだった」


「それは否定しませんよ。でもね、先生。あの一言は良くなかった。

良くしてもらっていた知人を重体にさせ、親愛なる兄を殺してしまって、情緒不安定だったゆかりちゃんに言ってはいけない事を言ったんです。

 だれにそそのかされた?

 先生はそうゆかりちゃんに言ってしまった。

ゆかりちゃんを支えていたのは実の兄を殺したという事実だけだった。兄を殺してしまった自分は生きなければいけない。

その気持ちだけが、ゆかりちゃんを支えていた。

 それを先生は全否定したんですよ。お前は兄を殺したんじゃない。

それすら、自分の意思なんかじゃないんだって先生は言い渡してしまった。

 ゆかりちゃんを支えているものはその時、全て崩れ去ったんです」


 先輩の口調が明らかに変わっていた。


淡々としたものではなく、稲森先生を責め、非難し、糾弾していた。

 

「…ふざけるな! 何が人を殺した事が支えだ! そんなものは欺瞞でまやかしでいつわりだ! どんな理由があろうと人殺しは人殺しでしかない!」


 先生は机をバンと叩いて言った。私は驚いて机から離れた。


「先生は何も変わっていないですね。隆春の時からなにも成長していない」


 先輩が冷たく言い放った。

「先生の言っている事は正しい。正しすぎると言ってもいい。でもね、先生。

人はそんなに正しく生きられないんですよ。

隆春の時もそうです。隆春はね、紗英ちゃんの事で僕に相談してきていました。

 僕はその相談を聞いてやるしかできなかったけれど、隆春は確かにあの紗英ちゃんを受けとめようとしていた。

例え、それがどんなに辛く、苦しくても、隆春は紗英ちゃんと向き合おうとしていたんですよ。

 どんなに紗英ちゃんの心が壊れても、それを受け入れようとしていた。

ゆっくりとでも確かに紗英ちゃんと距離を近づけていた。でも、先生がそれを壊した。

 先生が、その正義感で紗英ちゃんを追い詰めたから。

少しずつ近づこうとしていた二人を先生は紗英ちゃんを問い詰め追い詰め、先走らせた。

結果、隆春は寝た切りで意識が今も戻っていない。

 確かに、先生は正しかったですよ。ストーカー行為は誉められたものではないし、やってはいけない事です。でも、先生がその正義感を貫いた結果がこれだ」


 先生は押し黙った。

「ゆかりちゃんの事でもそうです。先生が事件の事を知らなければ、ゆかりちゃんを追求しなければ、死なずにすんだはずです。先生が殺したも同然だ」


「ふざけるな。ふざけるなよ。そんなのは貴様の言い分だ」


「…先生は、洋子が死んだ原因を知りたがってましたよね。教えてあげますよ。

 だって、洋子が死んだ原因は…稲森先生。あなたですから」

 

「なっ」


 稲森先生と私の声がハモった。稲森先生が洋子さんの死んだ原因?


私は思わず先生の顔を見る。先生の表情は、大きくは変化していなかったけれど、それでも意外そうな顔をしているのが見てとれた。

「先生。僕の書いた遺書の冒頭を覚えていますか?」

「先立つ不孝を許してください」


「ええ。でも父親と母はすでに死んでいます。おかしいでしょう?

 もう死んでいる人に先立つも何もありませんからね。

でも、僕は嘘は書いてないんですよ。これは本当の気持ちです。

 たぶん、これは言ってなかったと思いますが、実は僕、養子なんですよ。父親と母の間にはなかなか子供ができなかったらしいです。

その時に、子供を抱えて生活に苦しんでいる夫婦がいた。

父親の友人だったらしいんですが、詳しい事は知りません。

 僕はその夫婦から父親と母に渡されて、養子になりました。その夫婦もそうとう悩んだそうですが、今では新しい子に恵まれて幸せに暮らしているそうですよ。

僕はその夫婦とはほとんどあった事がありませんから聞いた話ですけど。幸せになってくれたほうが僕としても嬉しいですよ。

 あまり興味はありませんけどね」


 先生はイライラと机を指で叩いた。それがどうしたと言いたげだった。


「先生は今までの話の中で違和感を感じませんでしたか?

 僕が明らかに嘘を吐いていると思った所がありませんでしたか?」


 私には心当たりがなかった。


聞いていた話の中ではつじつまが合っていた様な気がする。


しかし、先生には心当たりがあるらしく、神妙な顔をしていた。

 

「…火傷…火傷だ」


 先生は思い出すように頭に指を当てて言った。


「お前は何度も彩香ちゃんに火傷の跡があると言っていたな。…私の記憶では彩香ちゃんにそんな跡はなかった。

人前で服を脱ぐのを禁じられていたのならそんなに小さな跡ではないんだろう?」


 先輩頷いた。


「さすがに先生は優秀ですね。その通りです。彩香に火傷の跡なんて本当はなかったんです」


「なぜ、そんな分かりやすい嘘を吐いた? 私は彩香ちゃんの着替えを手伝った事があるって言うのはお前も知っていた事実だろう?」


 先輩は黙ったまま先生を見つめている。

「いや、待てよ。私に嘘を吐いているわけじゃないのか。嘘を吐いていた相手は…洋子か?

 なぜ、そんな事を…。洋子に知られたくなかった? 火傷の跡がない事を…? …それはつまり…」







「彩香は洋子の娘なんかじゃない」


 先生の言葉を引き継ぐように先輩が言った。私は驚いてしまった。


だって、この事件は彩香ちゃんの死から始まっていて、それは洋子さんの娘で…。


だから洋子さんは自殺したんじゃ?


「………」


 先生の顔が青ざめていく。

「誰の子だって言うんだ?…」


先生が呻くように言った。


「本当は先生も気がついてるんじゃないですか?

…まぁ、いいでしょう。ヒントをあげます。

ひとつ。母は彩香を養女にすることに執拗なほど反対していた。

ひとつ。彩香にはあるはずの火傷の跡がない。

ひとつ。父親は洋子を不憫に思っていて幸せになって欲しいと思っていた。

ひとつ。父親は医者」


そこまで聞いても私には解らなかった。


先輩が少し間を開けて人差し指を立てながら言った。

「ひとつ。彩香は二回目、病院に連れてこられた時、すでに手の施しようがないぐらい衰弱していた。





ひとつ。彩香はあの時に死んだ」

 


私は絶句していた。


先輩は構わず続ける。その瞳は虚ろに中空を眺めていた。


「ひとつ。その時、母は出産したばかりだった」


死んだ彩香ちゃんと生まれた子供。


私の中にひとつの考えが浮かんだ。それはとても残酷で、救いようのない考えだった。


背筋がぞっと寒くなる。


先輩が私と先生の表情を交互に見た。そして、言葉を繋げる。


「そう。父親は彩香と自分娘を入れ替えました」


先輩の言葉で自分の想像が当たっていた事を知らされる。


気分が悪くなってきた。頭も痛い、視界がぼんやりとぼやける。


「洋子が2回目、家の病院に自分の娘を連れてきた時、肺炎を患っていて、まだ一歳にもなっていなかったあの子はそのまま亡くなりました。

それを父親は洋子に伝える事ができなかった。

 これ以上洋子が不幸になって欲しくなかった。自分の両親が自分の子供を放置していた事実を知ったばかりの洋子に、子供が死んだなんて報告すれば、自殺しかねないと思ったんでしょうね」


「そんな子供を入れ替えるなんて、洋子が気がつかないわけがないだろう?」


 先生は毅然として言う。


「先生。そのあたり、父親はきちんとしていたというか狡猾だったんですよ。

父親の娘と洋子の子供は出産の時期はほとんど同じ時期でした。

そして、洋子は大学に忙しく通っていて世話は両親に任せきりだった。

そして、生まれてまだ半年経っていない頃だったんです。実際、洋子は自分の娘と一緒に過ごした時間はわずかしかなかったはずです。

 そして、父親はそのまま洋子の娘を病院に入院させると言いました。

同時に養女にする事を提案しました。辛いだろうが、しばらくは会わない方が良いと言って。精神的に追い込まれていた洋子はその提案を受け入れました。

 その後、母が洋子を襲った為に洋子はさらに、僕達の家に近付けなくなりました。

離婚が成立するまで洋子は僕の家に来る事もありませんでした。

結局、1歳も半ばになるぐらいまで洋子は彩香と対面する事はなかったんです。

 その頃になって、この子はあなたの娘ですと言われれば洋子にそれを疑う事はできませんでした。

それに、父親を全面的に信頼していた洋子がそんな事を疑う事もなかったんです」

 

「死んだ本当の洋子の娘はどうなったんだ」


「父親と母の娘として死亡届を出されて処理されました。父親は医者でしたから。何度も言っていますが母は猛反対していました。やっと、やっとできた本当の子供だったんですから。

母は僕の事を可愛がっていてはくれていましたが、それでも自分の本当の子供ができた時は嬉しかったはずです。なかなか子供のできなかった母としては、神様の授かりものだと思っていたはずなんです。反対するのも当たり前でしょう。でも、父親はそう反論する母に対して言いました。

 洋子は可哀想な子なんだ。もう、あの子には娘しかいないのに、その娘を失うわけにはいかないだろう? 僕達には泉もいるし、お互い夫婦もいる。それに、子供はまた作ればいいじゃないかって」


イカれてる。


そう思った。


頭痛がさらにひどくなってきた気がする。


先生も先輩の言葉に絶句していた。


「先生は、洋子と最後に会った時、何を話したか覚えていますか? 洋子の日記を読んだのなら少なくとも覚えているでしょう? その時は何げなく言ったセリフなのかもしれませんが、今なら分かるんじゃないですか? 自分が言った言葉の意味が」


 先生の顔が引きつっていた。顔色は蒼白と言ってもいい。


「傷一つない綺麗な透き通った肌をしていたな、あの子は」


 先輩が間を開けてその言葉をゆっくりと言った。


「先生はそう言ったんですよ。彩香が死んで、ゆかりちゃんに責めたてられて追い詰められている洋子に」

 

「元々、何かしら感じている所があったんでしょうね。だから、彩香が死んでも実の娘が死んだと言う事にピンと来なかった。事実、実の娘じゃないから当たり前なんですけど。

 そんな時に、先生が言った言葉は決定的でした。洋子の娘である証、皮肉にも自分が付けた火傷の跡が彩香には無いと言ってしまったんですから。

 だから僕は、今回の件で一番許せないのは先生なんですよ」


「先生の誰かを救おうなんて傲慢な正義感が紗英ちゃんを追い込み、隆春を重体にさせた。

先生が紗英ちゃんに煙草の臭いをつけたせいでゆかりちゃんは煙草の臭いが嫌いになり遠藤先生は禁煙をするようになってそのせいで体育倉庫の横で煙草を吸うようになり、体育倉庫で小火を起こせる既成事実を作ってしまった。

そして、彩香は死にゆかりちゃんは兄を殺し、そのゆかりちゃんも、先生に追い詰められて死んで、洋子も先生の不用意な言葉で死を選んだ。

先生あなたの傲慢な正義感はひとりを重体にし四人もの人を死に至らしめたんですよ。自分の罪深さが分かりますか?」

声を荒げて先輩は言う。口調が強くなるのに反比例するかのように先輩の瞳は暗く色を失っていく。


頭が痛い。ぼーっとする。すぐ側にいる先輩の顔がぼやけて見えなくなりそうになったので頭をぶんぶんと振る。


「それはお前だって同じことだろう?」


ずっと押し黙っていた先生が低い声をあげた。


「お前だって、その復讐心なんていう自分だけの自己満足で遠藤明弘を死に至らしめ、ゆかりを犯人にしたてあげたんじゃないか。

貴様のその身勝手な自分の信念と貴様の言う、私の傲慢な正義感の何が違う。

貴様が私を責める為にやった事はそのまま貴様が許せないと言った事だ。

それと忘れるな。貴様が彩香ちゃんと洋子を体育倉庫に誘導しなければ。皆死ななかったんだ。まさか、それに気がついていないわけではないだろう?」

 

「もちろん分かってますよ。始めから言っているじゃないですか。

僕は自分自身を許せないって」


また頭がぼんやりする。こんな時に。まぶたが重く開けていられない。


「なんでわざわざこんな話をしたと思ってるんですか。先生は人が死ぬって事が分かっていない。いつも先生は死の側にいながら直接的な関係をもっていなかった。だから先生は人が死ぬって事が想像できない。

それを僕が教えてあげようって言ってるんです。

真理奈ちゃんに飲ませた睡眠薬も効き始めたみたいですし、頃合いでしょう」


睡眠薬? …さっきのお茶…?

意識を保とうとすることができない。


気を抜くと意識が飛んでしまいそうだった。


体が鉛のように重い。先輩が何かを取り出すのが見えた。


暗い蛍光灯に鈍く光る刃物が見えた。


「お前っ!」


先生が立ち上がった。

 

先生が身構える。先輩は一歩大きく踏み込んだ。


先輩は手に持った包丁を持ち上げると


自分の首に当てた。


「先生が殺したのはこれで五人目」


先輩が陰惨に笑って包丁を横に引いた。


首から鮮血がほとばしった。

先輩の血が赤く紅く全てを染めていく。


稲森先生の顔も。私の意識も。


衝撃で床に落ちた携帯が通話と表示されて暗くなった。

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