第4話 回想者。

気がつくと私は走り出していた。


どこに向かっているのか自分でもはっきりしない。


どうして、こんな事になったんだろう。


 稲森先生の瞳が脳裏にちらつく。怖かった。


なんで、こんな事になったんだろう。私はどこで間違ったんだろう?


分からない。


分からないよ。


どうしたらいいのか分からない。


自分が何がしたいのか、分からないし、どこへ行きたいのかも分からない。


「貴様には自分の意志と言うものがない」


ついさっきぶつけられた言葉が耳鳴りのように響く。


 目の前が水中にいるときのように歪む。怖い。誰か助けて。助けてよ。

助けて、お兄ちゃん!!


私の側にいてよ。私は間違ってないって言ってよ。大丈夫だよって頭を撫でてよ。いつだって兄ちゃんはゆかりの味方だよって言ってよ。


どうして、いないの。どうして側にいてくれないの?











どこに行ったのお兄ちゃん!!


私が物心ついた頃にはもう、私とお兄ちゃんしかいなかった。


両親の記憶はほとんど残っていない。


気がつけばお兄ちゃんと二人きりだった。


 私たち二人を引き取ってくれたおじさんとおばさんは悪い人ではなかったけれど、好きになれるタイプではなかった。


 それに、おじさんは普段は温厚で優しい人だったが、お酒が入ると人が変わったように感情を表に出す人だった。


おじさんが酔っぱらい始めると私たち兄妹は物音をたてないように部屋の隅で小さくなっていた。


 畳のきしむ音ひとつで怒られるのだ。くしゃみをすれば、拳が飛んできた。


私はそれが怖くて息をするのも恐れるほどだった。


おばさんはそんなおじさんを見て止めようとしてくれていたけど、おばさんの力ではとても抑えきれるものではなくて、おばさんも全身に痣を作っていた。


 それを見ると私は全身が震えだして止まらなくなってしまった。


そんな時、お兄ちゃんは私をぎゅっと抱きしめていてくれた。


私の体の震えが止まるまで、おじさんが自分の寝室に行ってしまうまでずっと、抱きしめていてくれた。


耳元で大丈夫だよと言い、おじさんに殴られても笑顔を絶やすことはなかった。


 おじさんは酔っぱらった翌朝、私たちの所へやってきて手を突いて謝っていた。


いつものことだった。


お酒を飲む度に私たちを殴りはしたけれど、必ず毎回謝ってくれた。


涙を流して、誠意を込めて謝ってくれた。だから、私はおじさんが嫌いではなかった。


兄はそんなおじさんがあまり好きではなかったと思う。


誰に対してもにこにこしている

兄だったけれど、おじさんと話すときだけはいつも厳しい顔をしていたと思う。


 おじさんが病気で亡くなったのは私が小学校4年生になった頃だったと思う。


あまりはっきり覚えていない。ただ、私は悲しくて大泣きした覚えはある。


いや、ここで泣いておいた方が周りの大人に良い印象を与えると思ったのも事実だった。


そう思って初めは泣いていたのだ。でも、泣き始めてから、自分でも驚いたのだけれど、本当に悲しくなったのだ。


あんなに怖いおじさんだったけれど、優しいおじさんのイメージばかりが頭に浮かんでは消えていった。


 その時、お兄ちゃんも泣いてたっけ。


お兄ちゃんも本当はおじさんの事が好きだったのかもしれない。


 おじさんが亡くなった後、私たちは二人暮らしを始めた。


元々、私たちの両親が住んでいた家に引っ越したのだ。


今までは親戚の人たちが家を時折掃除していてくれたらしいけど、おじさんが亡くなって時にお兄ちゃんがあっちに住んで良いですかとおばさんに提案したのだ。


 少し喧嘩もしたみたいだったけど、最終的には私たちは生また家に住むことになった。


 生まれた家と言ってもほとんど覚えてなかったから、私はどれも目新しくて、わくわくしていた。

 今日から、ここでお兄ちゃんと二人で暮らせると思うと私はそれだけで、空も飛べそうなぐらい浮き足立っていた。


 それからは、私が学校から帰ると、家の家事や料理をしてお兄ちゃんが大学から帰ってくるのを待っている生活になった。


 お兄ちゃんは大学の勉強も忙しかったけれど、生活のために働いていたので、帰りはいつも遅かった。


おばさんに生活のお金は援助してもらってはいたのだけど、頼ってばかりは申し訳ないだろ? そう言ってお兄ちゃんは一生懸命働いていた。


 私は、そんなお兄ちゃんが大好きだった。


学校では、先生に気に入られる様気を使っていたし、友達の前でも、なんでも率先してやるようにしながら、なるべく悪目立ちしないようにしていた。


クラスの人気者にはならないが、その人気者に好かれる。私はそんな人間だった。 でも、それは私がそういう人間になろうとしてやっていた事なので正直、外での生活は張りつめた糸の様な生活だった。


 だから、お兄ちゃんの為に料理を作って待っているのはすごく楽しかった。


純粋に、打算なしに、好きな人の為に何かをしてあげるというのは嬉しかった。


私の料理を食べて、美味しいと言って笑ってくれるお兄ちゃんの顔を見るのが幸せだった。


 そして、ゆかりは自慢の妹だよと言って、頭を撫でてくれる瞬間がいつまでも続けばいいと思っていた。


 ある日、お兄ちゃんが女の人を連れてきた。


その人は私の目の前でしゃがんで話しかけてきた。


「ゆかりちゃん。初めまして。お姉ちゃんは洋子って言うんだ。よろしくね」


 弾けるような笑顔だった。


「初めまして、遠藤ゆかりです。お兄ちゃんのお友達ですか?」


 私は、そう聞きいた覚えがある。


お兄ちゃんと洋子さんは一瞬顔を見合わせた後、うなずきました。


「そう。とっても仲の良いお友達だよ」


 洋子さんはまた弾けるように笑いました。


お兄ちゃんは少し残念そうな顔をしていたと思う。


ああ、この人のことをお兄ちゃんは好きなんだなと思った。


こういう人が好きなんだって。


私とは正反対のタイプが好きなんだって。


 洋子さんはとても明るく、元気な人だった。


誰とでもすぐに仲良くなれるんじゃないかって思った。


私が目立たないように人を支えようとしてきたのに対して、洋子さんは自分が良かれと思ってやった事が人に自然に感謝される、そんな人だと感じていた。


 この時、二人はもう大学生だったけれど、きっと高校生の時はクラスの中心にいた人なんだろうなと思った。 それから、何度か洋子さんが家に来ることがあった。


洋子さんは私のことを可愛がってくれた。


初めは洋子さんもお兄ちゃんの事が好きで、私に優しくしてくれているのかと思ったのだけど、どうやら違うみたいだった。


 洋子さんはただ本当に子供が好きだったんだろうと思う。


あの頃の私が聞いたら怒る台詞かもしれない。


あの頃の私は子供に見られるのを極端に嫌がっていたから。


 それと同時に安心もしていたんだ。


この人はお兄ちゃんの事が好きな訳じゃないと感じていたから。


この人は私と同じ、人に好かれるように行動しているだけなんだと感じていたから。


それが、私は打算で彼女は誠意だったとしても。


 私は洋子さんの事を仲間だと思っていた。


例え本質が違ったとしても、私がやっていることを肯定してくれているような気がしたから。


洋子さんの態度は私は間違っていないと言ってくれている気がしたのだ。そんな、洋子さんとお兄ちゃんが付き合うと聞いたときは心底驚いた。


おじさんが死んだときよりも驚いたと思う。


洋子さんがお兄ちゃんを好きになっているとは思えなかったからだ。


 それでも、お兄ちゃんは幸せそうだった。


私に洋子さんの事を話す時は本当に楽しそうに笑っていた。


 私には向けたことのない笑顔だった。


お兄ちゃんの笑顔はいつも私を安心させようとするものだった。


それは安心はするけど、ただそれだけのものだった。


私を幸せにはしてくれるけど、お兄ちゃんが幸せな笑顔ではなかった。


私はそれでもいいと思っていた。


おもっていたけど、目の前でこんな笑顔を見せられると私の心は締め付けられるようだった。


 洋子さんは付き合うようになってからも私たちの家に来る回数は増えなかった。


私に気を使っていたのかもしれない。


お兄ちゃんも相変わらず忙しかったし、なかなか二人は会えなかったのかもしれない。


 それでも、お兄ちゃんの帰りはさらに遅くなったのは事実だった。


私は料理を作って一人で待っている事が多くなった。


帰りが遅くなる日はちゃんと先に言っていてくれたので本当は作らなくてもいい日も私は料理を作って待っていた。


 私はまだ、小学生だったから夜の10時を過ぎるといつの間にか眠ってしまっている事が多かったけれど、朝起きるといつの間にかベットに運ばれていて、机の上に置いてあった料理はきちんと食べられていた。


そんな生活が1年が過ぎた頃だったと思う。


お兄ちゃんが暗い顔をして帰ってきた。私が作った料理もほとんど食べずに残してしまっていた。


 私は体調が悪いの? と聞いたがお兄ちゃんは首を横に振るだけだった。


「洋子さん?」


 私が聞くとお兄ちゃんの瞳から一筋の水が流れ落ちた。


それが、きっかけだったかのよに止めどなく流れ落ち始めた。


決して声は上げなかったけれど、涙、涙だ。


涙は止まることがなかった。


 私は椅子から立ち上がるとお兄ちゃんの座っている椅子の隣の椅子にのぼった。


そして、ゆっくりとお兄ちゃんの頭を抱き抱えた。


 昔、私が恐怖に怯えていたとき、お兄ちゃんがそうしてくれたように、私もお兄ちゃんを強く抱きしめた。


 耳元で「大丈夫だよ」と囁く。お兄ちゃんの腕が私の背中に回され、大きな嗚咽を漏らしながら泣いた。


私はお兄ちゃんの背中を優しく撫でながら思った。


 この涙が私の為に流してくれたものなら良かったのに。


 それから、お兄ちゃんは大学を卒業して教師になった。


私も高校生になってお兄ちゃんが勤めている学校に入学した。


 高校生になったと言っても楽しみな気持ちはほとんどなかった。


中学校の頃もそうだったけど、学校が終わるとすぐに家に帰ってしまう私には友達はできなかった。


 高校になっても友達はできないだろうと思っていたし、それでも良いと思っていた。


 そんな時、最初の学校説明会で話しかけてきたのが隆春君でした。


 隆春君は出席番号順で並んだときにちょうど隣になる番号だったので、入学したての頃はよく横並びになったのだ。


 体育館で並んで説明の始まる時間までの待ち時間、隆春君は「なんか緊張しますね」と話しかけてきたのが初めだった。


 それから、同じクラスで隣の席だったので、ちょくちょく話をするようになっていた。


隆春君は変わった人だった。悪い意味ではない。


ぱっと見、派手と言うよりもむしろ地味だったけれど、隆春君の周りには人が集まっていた。


 隆春君はとにかく聞き上手だったのだ。


彼と話していると、いつの間にか自分がどんどん話していることに気がついた人が多かったと思う。


 それでも、私は、隆春君とは時折話す程度の関係だった。


放課後は家にまっすぐ帰っていたし、席替えが行われ、席が隣でなくなると、話す機会はさらに減ったからだ。

でも、一度だけ隆春君と外に出かけたことがあった。


あれは文化祭の買い出しの時だったと思う。


確か、クラスで作っていた文化祭の門の資材がなくなったのだったと思う。


大した量でもなかったので、クラスの誰かが買い出しに行くことになったのだ。


 最初に手を挙げたのは隆春君だった。


一人では大変だと言うことでもう一人行ってほしいと、担任は言ったけれど、皆一様に黙ったままだった。


皆、文化祭の準備で疲れていたので、誰も行きたくなかったのだろうと思う。


 しばらく、沈黙が続いた後、私は手を挙げた。


「あっ」と、どこからか声が聞こえた気がして振り向いたけれど、手を挙げているのは私だけだった。


 このまま、気まずい空気が流れるのは嫌だったし、そんな事でクラスの空気が悪くなるぐらいなら、自分が行けばいいと思ったから手を挙げたのだった。


 私たちは歩いて買い出しに出かけた。


ホームセンターで足りなかった釘や、板を買って足早に店を出た。


外はまだ日が高く、暑い日差しが照りつけていた。


「ちょっと、そこで休憩しない?」


 隆春君が背中に背負った板を担ぎ直しながら言った。


「そうですね。まだ時間はあるみたいだし」


 私はそう答えて、二人でファーストフード店に入った。


大荷物だったので店の隅の方の席に座る。


飲み物とちょっとした食べ物を注文する。


「こうやって、外で話するのは初めてだね」


 隆春君がそう言って笑う。


「私はあんまり、外で遊んだりしないから」


「明弘君…いや、遠藤先生と二人暮らしなんだっけ?」


お兄ちゃんは生徒に明弘君と呼ばれて慕われていた。


教師としての威厳がないという人もいたけれど、お兄ちゃん自身がそれで良いと思っているのなら、私はそれで良いと思っていた。


「そうだね。二人で暮らしてるよ」


「仲良さそうだもんね」


 その言葉にちょっと驚いた。


私は学校ではお兄ちゃんとそれほど仲良く振る舞ってはいなかったからだ。


兄妹を隠しているわけではなかったけれど、それでもそれを敢えて言っているという事もなかった。


「意外そうな顔をしてるね」


 隆春君は苦笑する。


「仲良さそうに見えた? 別に隠しているわけじゃないけど、そんなに仲良くしていた覚えもないんだけど」


「うーん。何となく分かるんだよ。僕の家は自分で言うのもなんだけど、とっても家族仲が良いんだよ。だからかな。何となく分かるんだ」


「そっか。なんか今日は饒舌だね」


 隆春君は人の話を聞いているイメージが強かったので、意外な感じだった。


「はは。僕だってそういう時はあるよ。遠藤さんには迷惑かもしれないけど」


 私は首を振って否定した。


「僕には夢があるんだ。本当は人に話すのも恥ずかしいような夢なんだけどね」

 少し照れくさそうにする。

「僕はね、自分の家族のような家族を作りたいんだ。皆が仲良く笑ってられる家族。そういう家族を作りたいと思うんだよ。女の子みたいでしょ? でも、それが僕の夢なんだ。だから、勉強もがんばってる。仲の良い家族に学歴はいらないと思うかもしれないけど、やっぱり、幸せな家庭には安定した収入がないと駄目だと僕は思うんだよ。


人にもなるべく親切にするようにしているよ。


人を大切にするって事は自分を大切にすることにも繋がるからね。


自分を大切にしない人は他人を大切にはできないし、他人を大切にしない人は自分を幸せにすることはできないと思うんだ。

…ちょっと話しすぎたかな」


 私は少し感心していた。確かに隆春君の語る夢はあいまいで形のないものだったけれど、その夢をここまで真剣に考えられるということは素直にすごいと思った。



「遠藤さんは夢ある?」


 私には話題を振られて、返答に窮する。


「私は、あまり、欲しい物とか、叶えたい願望とかないから」


 子供の頃から、親戚の人たちやおじさん、おばさんの顔色をうかがって生きてきた私にはそもそも、夢を持つと言う発想自体なかった。


「そうなの? 遠藤さんはもう少し、他人に期待する様にした方が良いと思うよ。

いや、別に無理矢理自分の意見を押しつけたりして欲しいってわけじゃないんだ。

 でも、遠藤さんは欲しい物は欲しいって言った方が良いと思うよ」


 なんで、そんな事を言うんだろうと思った。


私は今の自分に不満を持っていたわけでもないし、悩んでいたわけでもなかった。


私は今の私が好きだったし、それで良いと思っていた。


 でも、新鮮な気分でもあった。


人と距離を置いて生きてきた私にとって、こうはっきりと物を言われる経験というのは初めてだったのだ。


 だから、隆春君の言っていることを素直に聞けていたと思う。


そろそろ、帰ろうか。皆待ってるだろうしね」


 私達は店を出ると学校へ向かった。買い出しの品を渡して、皆で門の仕上げにかかった。


あと少しで完成と言うことで皆のモチベーションもあがったのか、日が暮れる頃には門は完成した。


 皆は両手を上げて喜んでいた。


先生が最後に締めの言葉を言う。


「皆、よく頑張りました。こんなに立派な物ができたのは全員で協力してやったからだと思います。今日は早く帰って、よく休んでください」


 その言葉を聞くとクラスの皆が歓声をあげた後、それぞれ鞄を持って教室を飛び出していった。


私も自分の鞄を持つと教室をゆっくりと外に出た。


廊下には夕日が射し込んでいて、オレンジ色に染まっていた。


そのオレンジの床に黒い影が2つぬっと現れた。


その影の持ち主を見る為にゆっくりと視線を上にあげる。


 立っていたのは同じクラスの坂上真里奈と関根利香だった。


「ちょっと、来てよ」


 真里奈が私に向かって言った。


私は初め自分が呼ばれているとは思わず横を通り過ぎようとした。


「どこ行くの」


 利香が私の腕をつかんで引き留めた。


「私?」


 その時の気持ちはびっくりと言うしかなかった。


私はその二人とほとんど話したことがなかったのだ。


私に用があるとは思えなかった。


「こっち」


 利香は私の腕を引っ張って屋上へとつながる階段へと引きずっていった。


「離して、引っ張らなくても行くから」


 私がそう言うと、二人は顔を見合わせた後、素直に腕を放してくれた。


二人についてあがっていくと屋上に出る扉が見えてきた。


普段は鍵がかかっている扉だ。


 真里奈が扉の横にあった少し大きめの窓を横に開く。


特に鍵がかかっていなかったらしく、がらりと簡単に開いた。

そしてそのまま、外に出た。


 しばらく待っているとかちりと音がして、屋上側から真里奈が扉を開けた。


それを見て利香が手で屋上に誘導する。私は素直に屋上に出た。


 二人は私に壁を背負わせて囲むように立った。


「何か用かな?」



 二人が押し黙っているので、私から声を掛ける。



「あんたさ、何様のつもり?」


 真里奈が詰め寄るように言う。


私は言っている意味が分からなかったので首を傾げた。


「何の事?」


「あんまり、調子に乗るなって言ってるのよ」


 今度は利香が私に詰め寄る。


「何を言っているか、まったく分からないんだけど」


 私はもう一度同じ事を繰り返す。すると、真里奈が一呼吸置いた後、言った。


「江口君と仲良くなって調子に乗るなって言ってるの」


 くだらない。最初にそう思った。


この二人はどうやら、私と隆春君と仲良くしているのが気に入らないらしい。


そもそも、この二人は勘違いをしているのだ。


私は隆春君とはそれほど、仲良くはない。


他のクラスメイトよりは話す回数は多いだろうけど、それでも、私より隆春君と話しているクラスメイトはたくさんいる。


「私は隆春君とそこまで仲良くないよ」


「隆春君って呼んでる事、自体が調子に乗ってるって言ってんの!」


 利香がヒステリックに叫んだ。利香を抑えるように後ろから真里奈が肩に手を置く。


「仲が良くないって言うなら、なんで今日二人で買い出しに言ったの?」


「それは…」


 他に誰も行きそうになかったから…、そう言おうと思った。



「紗英が立候補しようとしたのを無視してまで行ったじゃない」


 その言葉に意表を突かれた。


そう言えば、あの時誰か手を挙げようとしていたのかもしれないと思う。


誰かの「あっ」と言う声を聞いた気がしたのだ。


 この二人はその紗英と言う子の友達なんだろうか。


友達のために私に突っかかってきているんだろうか? そう思うと少し、おかしかった。


 よく見ると、二人とも、私にすごんではいるけれど、足が少し震えていた。


こう言うことはやり慣れていないんだろなと思った。


「真理奈ちゃん! 利香ちゃん!」


屋上の扉が突然開いた。


そこには体は私より、一回り小さい女の子が立っていた。


同じクラスの土屋紗英だった。


「何してるの!」


 紗英は私の前に固まったまま立ち尽くしている二人に詰め寄っていく。


「何してるのって聞いてるの!」


「いや、紗英の為を思って」


 真理奈がしどろもどろに答える。きっと睨みつけた後、利香に向きなおる。


「その、こいつが紗英の邪魔をするから」


「そんな事しなくていいって言ったじゃない。私は自分の事は自分でやるわ」


 小さな体を精一杯背伸びして二人に怒鳴りつける。その後に、私の方に向きなおって頭を下げた。


「ごめんなさい。ゆかりさん。二人が大変ご迷惑をおかけしたようで。

その原因は私にあるので私の方からお詫びします」


「いや、私は…」


「二人も謝りなさい!」


 紗英が二人に向かって言う。二人は目を合わせた後、一歩踏み出して、頭を下げた。


「ごめんなさい」


「申し訳なかった」


「あはは、あははははは」


 私は思わず、笑ってしまった。この二人はなんて素直なんだろうと思った。


さっきまで、脅しをかけようとしていた相手にすぐに頭を下げられるなんて。


 そして、この紗英と言う子はなんて自分を持っていてしっかりしている子なんだろうと思った。


 しばらく、笑い続ける私を不思議そうに3人は眺めていた。


「はは。土屋さんは、隆春君の事が好きなの?」


 私はストレートに聞いた。

すると、さっきまで背筋を伸ばして凛と立っていた紗英は急に小さくなって顔を赤くしてうつむいてしまった。


「土屋さん。私もあなたの恋を応援させてくれないかな?」


 私の言葉に3人全員が驚いたようだった。


私はたった少しやりとりだったけれど、この人たちが好きなってしまったみたいだった。


この人たちの友達になりたいなと思った。


ちょうど隆春君の言葉を聞いた日だったからかもしれないけど、その日の私はそう思ったんだ。


 その事がきっかけで、私たちは仲良くなった。


高校生になって初めて友達ができたのだ。


 私たちは放課後に残ってくだらない話や、紗英の恋の話に花を咲かせた。


ただし、紗英の恋は応援すると言ったものの、紗英本人が、何かを手伝ってもらうことを嫌がったので、大抵紗英をからかって恋話は終わることが多かった。


 私たちはそのまま2年生になった。


私は相変わらず、家事をやっていたので、長く遊んでいることはできなかったがお兄ちゃんに言って、

多少ご飯が遅らせたりしていたので、前よりは融通が利くようになっていた。


ある日、真里奈が私に携帯を見せながら言ってきた。


「ゆかり、このサイト知ってる?」


 見せられた画面にはチャットというか、掲示板の用に短い文章が沢山並んでいた。


「何これ? 掲示板?」


「うーん。似たようなものだけど、これはね、自分の好きな時間に好きな事を適当に書き込む掲示板なんだ。

誰かがその文章を見て反応を返したりしてくれるんだよ」


「へぇー」


「とりあえず、登録してみなよ。私も利香も紗英も登録してるからさ、私たちで交流するだけでも楽しいと思うよ」


 そう言われたので私はとりあえず、登録だけする事にした。


「じゃあ、私は生徒会の仕事があるから、またね」


 真里奈は足早に立ち去っていった。


「これを見せるためだけに、ここに来たの? あの子」


 少し、あきれたけれど、真里奈のそう言うところは嫌いじゃなかった。


帰り道の途中、そのサイトを開いてみた。


利香『あー。もう分かんない。なんで居残り学習なのー』


利香が書き込んでいた。


今日、この前のテストで赤点を取った利香は補習を受けているのだ。


紗英『自業自得なんだから、一生懸命勉強しなさい』


利香『うえー』


ゆかり『じゃあ、今日頑張ったら、明日皆でどっか遊びに行くのはどう?』


利香『やったー!!』


紗英『甘やかさないでよ、ゆかり。まったくしょうがないなぁ』


利香『あ、ゆかりも登録したんだ。これおもしろいでしょ?』


ゆかり『まだ使い始めたばっかりだからわからないけどね』


紗英『このサイト個人的にメッセージとかも送れるからいいよね』


利香『紗英は個人的にメッセージ送りたい人がいるもんねー』


紗英『うるさい』


 初めてのやりとりはこんな感じだった。


それから、私はちょくちょくサイトを覗くようになった。


使ってみて分かったのはいろんな人がいるなぁと言うことだった。


暇そうな人、忙しくても覗く人、実に様々な人がいた。


 私は、よく映画の感想を短い文を書いていた。


昔から家で一人でいることが多かった私は映画を見ることが多く、映画を見ていることが好きだった。


 それでも、DVDを頻繁に買えるほど家計が楽だったわけでもないので、もっぱらテレビで放映される映画を見ていることが多かった。


 だから今でもテレビで放送される映画はかなりの数を見ていた。


その感想というか自分が見ていて思った事をなんとなく書き込んでいたのだ。


 誰かからの返事を待っていたと言う訳じゃない。ただ自分が書くことが楽しかった。


 でも、意外なことにいろんな人からそれに対する反応があった。


私もそう思ったとか、私はこう解釈したとか。


あまり長い文を載せるようなサイトではないので詳しく議論をする訳じゃなく、共感したり、自分の意見を軽く言ったりするだけだったけど、そのやりとりは思っていたよりもずっと楽しかった。

 そのやりとりをしている相手の中でも頻繁に交流をしていたのがあかねという名前の人だった。


 もちろん、本名じゃない。インターネット上では本名を名乗る必要性はないのでインターネット上でのみ使っている名前を持っている人は多い。


私は友達たちに分かりやすいように本名をつかっているけど。


 だから、このあかねが本名かどうかはわからない。


でも、あかねは私と映画の趣味があった。


同じ映画が好きだったし、映画の中で好きな台詞が同じだったりした。


 時折、やりとりをしている二人しか見えないメッセージで会話をする事もあった。


ある日、放課後、教室で話をしていると紗英が「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。


「どうしたの?」


 真奈美が聞くと、紗英は何も答えずに携帯を私たちの前に見せた。


「あれ? これ、名前の所。隆春って書いてあるよ?」


 利香が画面を指さしながら言う。


「ダメもとでメッセージ送ってみたら帰ってきた」


 紗英がうつむいたままぼそぼそとつぶやく。


「よかったじゃん」


 私はそう言って紗英の肩を軽くたたいた。


すると、紗英はバネでも仕込まれていたかのように跳ねると私に飛びついてきた。


「どうしよう、どうしよう。なんて返したらいい? なんて返したら嫌われない? どうしようどうしよう」


 目には涙さえ浮かんでいた。私は落ち着くように言って、再び席に座らせた。


「紗英の思ったことを素直に話せばいいと思う。無理して付き合っても長続きしないだろうし」


 本当は、相手の気持ちをくみ取って相手の言って欲しい言葉を返すことができれば一番いいのだけど、紗英にそんな小器用な事ができるとは思えなかった。


「う、うん」


 紗英はうなずくとしばらく携帯の液晶画面とにらめっこしながら文章をうっては、首を傾げたり、頷いたりしていた。


 私たち、3人はそんな紗英を見守るように見ていた。紗英がんばれ。


 その時、私は確かにそう思っていたのだ。




今、思えば、ここで止めておけば、あんな事にはならなかったのだろうかと思う。 いや、でも、私たちにはどうする事もできなかった。そう思う。そう思わないと、耐える事ができなかった。


 それから、隆春君と紗英の関係は概ね良好だったようだ。


私もその事について深く追求したことはないので分からなかったけれど、それでも笑顔の増えた紗英を見ているときっとうまくいっているんだろうなと思っていた。


「ねぇねぇ。ゆかり。隆春君ってどんな食べ物が好きかな?」


「さぁ?」


「今度、お弁当を作ってあげようと思うんだけど」


「紗英って料理できたっけ?」


「これから、ゆかりに教えてもらうのよ?」


「…そうですか」


 ずっと、こんな感じだった。そんな紗英の様子をあかねに話したことがある。


話すと言ってもメールのやりとりをしたのだけれど。


このころには私はあかねとメールアドレスを交換してメールで話をするようになっていた。


「だから、その友達がすごいのろけてくるの」


「いいことじゃない? うまく行ってるなら」


「それはその通りなんだけど。ちょっと耳にたこって言うか」


「でも、まんざら嫌そうな感じではなさそうだね」


「分かっちゃった? 紗英が笑うとなんかこっちも幸せな気分になるんだよ」


 そんな会話をした。


 ある日、紗英が真っ赤な顔をしてやってきた。


「どうしたの?」


 利香が聞くと紗英はまた小さな声でつぶやいた。


「…う事になっちゃった」


「え? なんて言ったの?」


 今度は先ほどより少し大きな声で言った。


「隆春君と付き合う事になっちゃった」


「ええ!! やったじゃん!!」


「よかった! 長い片思いだったもんね!」


 真里奈と利香が手をたたいて喜んでいる。


「よかったね。紗英」


 私も祝福した。紗英は気恥ずかしそうにはにかんで笑った。


それから、紗英は毎日お弁当を作るようになった。


毎日、昼食の時間になると、隆春君と一緒に中庭で食べているらしい。


「一緒に食べられなくなってごめんね」


 紗英は最初私たちにそう言って謝った。


「そんなの気にしなくて良いよ」


「そうそう。私も彼氏欲しいなー」


「私も、隆春君と紗英が仲良くやって欲しいから」


 そう言って、紗英を送り出した。楽しそうにお弁当を食べている二人を見て、私も幸せな気分になっていた。


 紗英が昼食を中庭で食べるようになった頃、真里奈も生徒会の仕事が忙しくなってきて、昼食を生徒会室で食べるようになっていた。


 そうなると、私たちは、3人揃わないときはそれぞれ個人で食べるようになっていった。


 私は一人で食べるのは嫌いではなかったので、別に気にしていなかった。そうなるのは仕方のないことだとも思う。


 教室で一人でお弁当を食べようとすると携帯が震えた。液晶画面を開いて見てみるとあかねからメールが来ていた。


「昨日のロードショー見た?」


 昨日テレビで放送された映画は二人とも好きで、でも少し古い映画だった。


「もちろん見たよ」


 そう返して、しばらく映画の話に花を咲かせる。


「あ、今お昼休みの時間だっけ? 友達とお弁当食べていたんだったらお邪魔しちゃったかな?」


 そう言えば、お昼は友達と一緒に食べているって前に言っていた事を思い出した。


「大丈夫だよ。最近、友達は生徒会の仕事で忙しかったり、彼氏ができたりで、一緒に食べる機会が減ってるから。今日も一人で食べようと思ってたところ」


「そう、それはそれでちょっと寂しいね」


「そう? そうでもないよ。まぁでもちょっと物足りないかな」「じゃあ、食べる場所を変えてみるのも良いかもしれないよ。教室じゃなくて校庭とか」


 食べる場所か…。


たまにはそれも良いかと思って、校庭へ出てみることにした。


校庭にでると以外と食べられる場所があまりないことに気がついた。


校庭の真ん中で食べるのは暑いし、中庭は紗英達がいるから気まずかった。


私は気がついたら裏門の方を歩いていた。すると、突然裏門の外から子供の声が聞こえてきた。


「洋子お姉ちゃん早くー!」


 裏門の前で小学生ぐらいの女の子が後ろを歩いてくる女の人に呼びかけていた。


「彩香ちゃん、ちょっと待って」


「もう、遅いよー」


 後ろ向きに裏門の階段を登ろうとして、踵が段差にひっっかかって豪快に転んだ。


「大丈夫!?」


 私は思わず駆け寄っていた。


彩香ちゃんは差し出した私の手を取って立ち上がると、深々と頭を下げた。


「あ、大丈夫です。どうもありがとうございました」


しっかりした子だな。それが、彩香ちゃんに対する第一印象だった。


「ほら、彩香ちゃん気をつけて。ありがとうございます。ここの生徒さん?」


「ええ。そちらは?」


 洋子さんは私の顔を見て一瞬息を飲んだようだったけど、すぐに何事もなかったかのように答えた。


「泉って言う生徒さんがいるでしょ? 確か、副会長をやっていると思うんだけど。

この子、彩香ちゃんはその泉君の妹なの。私はその二人のお父さんと知り合いだったんだ。だから、たまに彩香ちゃんの面倒を見てるの」


 きっと、洋子さんはこの時、私がお兄ちゃんの妹だと気がついたんだろう。


でも、私はこの時、洋子さんを見てもお兄ちゃんの彼女だった、洋子さんを連想することができなかった。


 なにせ、9歳ぐらいの頃の記憶だったし、あの頃洋子さんは全体的にボーイッシュだったのだ。


この時の洋子さんはブラウスに膝下の長さのスカートと控えめだけれど女性の魅力をうまく出している服装だったのだ。


印象が違いすぎて私が分からなかったのも仕方がなかったと思う。


「今からお昼?」


 洋子さんが私が手に持っていたお弁当を指さした。


「ええ。ちょっと外で食べようかと思って」


「私たちもちょうどお昼にしようと思ってたんだよね」


 彩香ちゃんがうれしそうに同意を求める。


「どうかしら、私たちもご一緒してもいい?」


 洋子さんが聞いてくる。私は特別断る理由もなかったので頷いた。



「えへへー。お姉ちゃんは良い人だね。私、なんとなくわかるもん」


 裏門の階段に座る。


その横に彩香ちゃんが座り、その向こうに洋子さんが座った。


「そう? そんなことあんまり言われたことないよ?」


 私はお弁当の箱を開けながら首を傾げる


「ううん。お姉ちゃんは良い人だよ。そう言えばお姉ちゃん名前はなんて言うの?」


「私? 私は遠藤ゆかりって言うのよろしくね。彩香ちゃん」


「よろしく!!」


「あっと言う間に仲良くなっちゃったね」


 洋子さんがうれしそうに笑う。自分でも不思議だった。


あまり友人関係のように仲の良い人付き合いが得意な方ではなかったのだけれど、彩香ちゃんは何となく取っつきやすいというか、気負いせずに話せる感じのいい子供だった。


「よく学校には来るんですか?」


 洋子さんは少し考える素振りをした後に答える。


「最近、ちょこちょこ顔出すようになったぐらいかな? 泉君が生徒会の仕事が忙しいらしくて、私がよく小学校に向かえに行ってるから」


「もっと来たい!」


 彩香ちゃんが元気に手を挙げた。


「わがまま言わないの」


「えー」


 あからさまに不服そうに頬を膨らませる。


「あの、もしよかったら、私も彩香ちゃんを見てるので学校につれてきてあげても良いんじゃないですか? 手伝えることは手伝いますよ」


「ほらー!! ゆかりお姉ちゃんありがとう!」


「本当にいいの? ゆかりちゃん?」


「ええ。私が空いている時であればいつでも。一応携帯の番号教えておきますね」


「悪いわね。なんか」


「いいんですよ。私も好きでやるんですから」


「私もゆかりお姉ちゃんの事好きだよ!」


「はい。ありがとう」


 それから、私は放課後空いた時間等に彩香ちゃんが学校に遊びに来ていると一緒に遊ぶようになったのだ。


 そんな日々が続いていたある日、紗英が隆春君と付き合い始めてから3ヶ月ぐらいたった頃、紗英が風邪を引いた。


朝、教室にやってきた紗英の顔は青ざめていて、ふらふらと歩いていた。


「大丈夫?」


 私が声を掛けると、紗英は小さく頷くだけだった。


授業中も苦しそうにしていたが、決して保健室に行ったり、早退しようとはしなかった。


 4限目のチャイムが鳴ると、紗英はゆっくりと立ち上がるとお弁当を持って中庭に向かおうとする。


「ちょっと、本当に大丈夫?」


 真里奈が心配そうに言う。紗英はそれには答えない。


「お弁当作ってきたの? 風邪引いてるのに? 隆春君、そんなひどいことさせてるの!?」


 利香が今にも教室から飛び出していきそうな勢いで叫んだ。


「違うの! これは私が自分の意志で作ったんだよ。隆春君は知らないの。私が風邪引いていることだって知らない」


「今日は隆春君にも言ってもう帰った方がいいよ」


 私もそう言って心配していた。


「ううん。いいの。私は隆春君と一緒にいたいから」


 紗英は私たちの腕を振り切って中庭に歩いて行ってしまった。


私は、しばらく呆然としていたけど、すぐに後を追った。


 中庭につくと、ちょうど二人がお弁当をあけようとしていたところだった。


「今日は、鳥のからあげを作ったんだ」


 それは弱々しい声だった。でも笑顔を浮かべてお弁当を差し出す。


でも、隆春君はお弁当なんて見ていなかった。


「紗英。大丈夫? 顔色悪いよ?」


「大丈夫だよ。皆心配しすぎなんだから」


「心配するに決まってるだろ。早く保健室に行こう」


 隆春君が立ち上がって紗英の腕を取った。


私はそれを見てほっとした。


これで紗英が保健室か病院に行ってくれるだろうと思ったのだ。


 でも、紗英は隆春君の腕を振り払った。


「嫌だ。私は二人でここでお弁当を食べるの。それは変えない。それとも、私とここでお弁当を一緒に食べたくないって言うの?」


「そんな事はないけどさ、また元気になってから一緒に食べればいいじゃないか」


 紗英はいやいやと首を振るだけだった。


「紗英。一緒に保健室に行こう。保健室でもお昼は食べられるよ」


 私は見かねて二人の間に入っていった。


私と隆春君は紗英の両側に周り脇を持って立たせるとずるずると保健室に連れていった。


 紗英をベットに寝かせる。紗英はしきりに隆春君がお弁当を食べるかどうかを気にしていた。


 保健室の先生に解熱剤をもらって紗英に飲ませる。


その後に隆春君が紗英の作ってきたお弁当を食べ始めた。


保健室の先生はあまり良い顔はしなかったが、大目には見てくれているようだった。


「美味しい?」


 紗英が聞く。隆春君は優しく微笑んで答えた。


「美味しいよ」


「そっか。よかった」


 それを聞くと、紗英は安心したように目をつぶりすやすやと寝息をたて始めた。



「紗英…」


 苦しそうな寝顔をしている紗英を見ながらつぶやいた。


隆春君も隣で心配そうに見ている。


「紗英はどうして、あんな事言ったんだろう」


 私は問いかけるように言った。


隆春君は苦しそうに首を振るだけだった。


「ほら、あなた達午後の授業始まるわよ。教室に帰りなさい」


 保健室の先生が私たちに言う。


私は席を立ったが、隆春君は動こうとはしなかった。


「君も。教室に行きなさい」


「お願いします」


 それだけ言うと、また紗英を見つめる。


先生もあきらめたように肩をすくめて私を見た

私は隆春君に会釈して合図すると教室に帰った。


放課後、もう一度保健室に行ってみた。


保健室の先生と隆春君がベットの側でのぞき込むように紗英を見ていた。


「どうかしたんですか?」


 私の声に驚いたのか先生が急にこっちに振り返る。


「ああ、病院に連れていった方が良さそうなのよ」


 私はベットに駆け寄る。


紗英の顔色は青白く苦しそうに息をしていた。


「風邪をこじらせてるかもしれないわね。何か無理でもしてたこの子?」


 私と隆春君は顔を見合わせる。


「とにかく、広沢病院に連れていきましょう。稲森先生が車を出してくれるって言うからあなた達、車まで運ぶの手伝ってくれる?」


 私は黙って頷いた。保健室にあった担架に3人で紗英を移動させる。


「いっせーの!!」


 紗英の軽さに驚いた。


もともと体の大きな子じゃなかったけれど、驚くほど体重を感じなかったのだ。


制服の上から見ただけでは分からなかったが体に触れると紗英の体はかなり細かった。


紗英は昔からこんなに細かっただろうか?


 担架で学校の駐車場まで紗英を運ぶ、車の前で待機していた稲森先生が後部座席のドアを開けた。


担架のまま紗英を乗せる。

「急ごう」


 稲森先生が運転席に乗りこむ。。


助手席には保健室の先生が乗り込んだ。


隆春君も乗り込もうとするが、もう車に乗れるスペースがなかったので引き下がる。


 車は校門を出て病院に向かっていった。


隆春君は駐輪場に行くと自分の自転車に乗って、足早に校門を出ていった。


病院へ行くつもりなのだろう。


 私も自分の自転車にまたがって広沢病院に向かう。


近いとはいえ、自転車では20分はかかる距離だった。


 病院に着くと待合室で稲森先生が座っていた。


「紗英は大丈夫ですかっ」


 私が詰め寄ると、稲森先生がこっちを振り返った。


「肺炎になっているそうだ。しばらくは入院が必要らしい。いま、両親に連絡を取っているところだ。

隆春は病室にいるぞ。病室はそこの階段をあがったすぐ右側だ」


 私は階段を駆けあがる。扉を開けると窓際のベットに隆春君が座っていた。


ベット上の紗英も意識があるみたいで小声でなにかを話していた。


「どう、具合は?」


 私が二人に話しかける。紗英はまだ、苦しそうだったが、少し笑った。


「少し、無理し過ぎてたみたいだね。疲れてるところに風邪をひいたからこじらせたんじゃないかって、お医者さんが言ってたよ」


 隆春君がたしなめるように言った。


紗英が小さく「ごめんなさい」と言う。


「でも、すぐ元気になるから。また明日からお弁当作るからね」


 紗英が明るく言う。私と隆春君は顔を見合わせる。


「紗英。紗英は今日から入院するんだよ」


 隆春君が諭すように優しく言う。それを聞いた瞬間紗英の目が見開いた。









「え? 何それ? 嫌だ。私は入院なんかしないから」


 今にもベットから飛び起きそうな勢いだった。


紗英をなだめるように肩を押さえる。


「無茶しちゃ駄目だってさっき言われたでしょ」


 紗英はその言葉が耳に入っていないかように、いやいやと首を振り続ける。


「私は学校行かなきゃ。行かなきゃいけないの」


私は隆春君を肘でつつく。


「ちゃんと電話するから。病院でも電話できる場所あるとおもうから」


 隆春君の言葉を聞くと少し、落ち着いたのか荒い息をしながらも横になった。


「お見舞いくるからさ。ゆっくり休んで、完全に治してからまた学校においでよ」


 隆春君が頭をなでると安心したように微笑んだ。


 がらりと病室の扉が開く。


後ろを振り返ると、40代ぐらいの女性が立っていた。


「紗英!」


 紗英のベットの側まで駆け寄ってくると、紗英の頬に手を当てて顔色を見る。


「お母さん。…大丈夫だよ」


「入院するって聞いて心配したのよ」


そこで、初めて私たちの存在に気がついたかのように私たちに頭を下げた。


「紗英のお友達?」


「ええ。そうです」


 隆春君が頷いた。


「紗英、私たちそろそろ帰るね。早く治して学校来てね」


 私が手を振って病室を出ようとする。紗英は小さな声で「ありがとう」と言った。


病院を出て、隆春君と別れて真里奈と利香にメールする。


紗英が明日から入院すること、肺炎になっていること等を報告した。


すぐに返信が返ってくる。

お見舞いに行くことや心配する内容のメールだった。

 紗英に見せてあげたかったが、もう気がつくと夕方になっていたので、私は足早に家に帰った。



翌日、3人でお見舞いに行った。


紗英は思ったより元気そうにしていたので、ほっとした。


 4人で馬鹿な話をいっぱいした。


ずいぶんと久しぶりに4人で笑い合った気がした。


その時、紗英の枕元で何かが震えた。


 紗英が枕の下から携帯を取り出した。


「ここ、個室だからちょっと特別に許可してもらったんだ」


 紗英がいたずらっぽく舌を出す。


「誰から? あ、さては彼氏だな?」


 利香がにやにやと笑いながらからかう。


紗英は照れくさそうに笑った。


 翌日の昼休み、中庭にいる隆春君を見つけた。


一人で昼食取っているらしい。


その手には携帯が握られていた。


「紗英から?」


 私が話しかけると、隆春君は顔を上げて頷いた。


少し、顔色が悪いような気がした。


「どうしたの? 体調悪いの?」


「いや、そんなことはないよ」

 弱々しく笑った。私と話をしながらも携帯を操作する手を休めていなかった。


私は隣に座ってお弁当を食べ始めた。


 隆春君もお弁当を食べながら携帯を手放さない。


「そんなに、携帯使う人だった?」


隆春君は答えずに笑い返した。


「ちょっと貸して」


 私は強引に携帯を取り上げる。


メールの受信履歴を見るとそこには画面いっぱいに紗英からのメールが届いていた。


この2日間でメールボックスが一杯になるほどの量だ。


 着信履歴も紗英ばかりだった。


しかも昨日の日付で履歴がすべて埋まっている。


「これは…?」


「紗英も心の支えが必要なんだと思う。だから、仕方ないよ」


 隆春君はそう言うと、中庭を出て教室へと帰っていった。


 その日も広沢病院に行った。


病室にはいると、紗英が携帯電話を片手に操作していた。


「紗英」


 私が声を掛けると、紗英がうれしそうにこちらを振り返った。


「あ、ゆかり」


 私は手を挙げて答えた。

「隆春君?」


 携帯を指さす。紗英はうれしそうに頷いた。


「うん。私のこと支えてくれてるんだよ」


 そう言いながら、やはり携帯を手放そうとはしない。


「うん。でもね、ほどほどにね。相手に無理させたら、紗英も辛いでしょ?」


「だって、私も辛い思いしてるんだよ? 隆春君だって少しぐらい背負ってくれたって良いじゃない」


「本気で言ってるの? それで隆春君が体調を崩したらどうするの?」


「どうするって、知らないよ! そんなの!」


 携帯を枕に叩きつける。でも、そのすぐ後に泣きそうな顔になって私にすがりついてきた。


「嘘。嘘。嘘。嘘だよ。分かってる。こんな事しちゃいけないって。でも、怖いんだよ。怖い。私がいない間に隆春君は誰か別の人を好きになっちゃうんじゃないか。私が隆春君にやってあげてたことをやめちゃったら、嫌われちゃうんじゃないかって」


 私は紗英の背中をゆっくりとなでる。


「私は、私に自信がないの。どうして隆春君が私の事を好きなったのか分からないの。だから、私は精一杯やってきたつもりだったの。でも、だから、それをやめるのが怖い。私は隆春君を失いたくないの」


 最後の方は鳴き声と混じって聞き取りにくくなっていた。


「大丈夫。大丈夫だよ。紗英」


 私はそう言ってあげることしかできなかった。



病院の帰り道、メールを受信する音がした。


液晶画面をみるとあかねからだった。


「最近、連絡してなかったけど、調子はどう?」


「調子ね…あんまりよくないかな」


「なにかあった?」


「うーん。そうだね」


 もう、どうしたらいいか分からなくなっていた。


紗英の言っていることも分かるのだ。


私もお兄ちゃんに嫌われると思うと気が狂いそうな気持ちになるのだ。


 でも、今の状態が、とても良いとは思えない。


誰かに相談したかったが、身近な人に相談するのも気が引けた。


 言ってみれば見ず知らずのあかねに相談するのは悪くない話のような気がした。


私は、個人情報や、地名などはごまかしながら紗英と隆春君の話をした。


一応、たとえ話としてだ。

「そうだね。もし私がゆかりと同じ立場にいたらどうするだろうなぁ。

なるべく、紗英ちゃんと一緒に居てあげるぐらいしかできないと思う。でも、一つだけ気をつけるな」


「気をつける?」


「その隆春君って言う子にはなるべく近づかないようにする」


「なんで?」


「そうしたほうが良いと思う」


 そこから、メールは返ってこなくなった。


 あかねの忠告を無視する気はなかったのだけれど、結果的に忠告を守ることはできなくなった。


 昼休みに隆春君が話しかけてきたのだ。


「僕はどうしたらいいんだろう」


 顔はげっそりとしていて青白くなっていた。


「大丈夫?」


「大丈夫。もう2日ほど寝てないだけだから」


 ブルブルと携帯が震えた。反射的に携帯を開いてメールを返信し始める。


「紗英を支えてやりたいと思う。でも、僕には紗英の気持ちを落ち着かせてやることも、喜ばせてあげることもできないんだ」


頭を抱えながら言う。私は何も言ってあげることができなかった。


隆春君が私にすがりつく。

「少し、少しだけでいいんだ。少し、泣かせてほしい」


 私は紗英にしたように、背中を優しくなでてあげた。


 その日の放課後、私はまた紗英の病室を訪れていた。

紗英はまた嬉しそうに迎え入れてくれた。


「ゆかりいらっしゃい。毎日来てくれなくてもいいのに。でも、嬉しいよ」


 ベットの上のテーブルには教科書やノートが開かれていた。


「ああ、これ? やっぱり入院すると勉強遅れちゃうから」


 ベットの横のテーブルの上にはやはり携帯が置いてあった。


その横には綺麗な花が飾ってある花瓶が置かれていた。


真里奈や利香がお見舞いに来たのだろうか。


「調子はどう?」


「うん。少し良くなったみたい。あと、2、3日で退院できるだろうって」


「そっか、よかった」


 私がそう言うと少し、顔を曇らせた。


「ゆかりは私の友達だよね」


「当たり前じゃない。なんでそんな事言うの?」


「そうだよね。ちょっと入院で気が参っちゃてるみたい」


「紗英も、真理奈も利香も友達だよ」


「隆春君も?」


「隆春君もだよ」


「嘘つき」


 紗英の声が急に低くなった。


「嘘付き。嘘付き。うそつき、うそつきうそつきうそつきっッ!!」


 気が狂ったように叫び続ける。

私には意味が分からずどうすることもできずに呆然としていた。


「信じてたのに! 信じてたのに! 裏切り者ッ」


私では、どうする事もできなかったのでナースコールを押そうと手を伸ばすと、その腕を捕まれた。


 ギリギリと締め付けられる感触がする。


指先の感覚がなくなるほどの力で握りしめられていた。


「紗英、落ち着いて。何の事かまったく分からないよ」


「分からないなら教えてあげる。ゆかり、あなた昨日の昼休み誰といた?」


「誰とって」


 そこで言葉に詰まった。

まさか隆春君と一緒にいて抱きつかれていたなんて言えるわけがなかった。


「私は、全部知っているんだから。私から隆春君を奪うつもりなの? どうしてそんな事するの? ゆかりは私のこと嫌いなの? 私がゆかりに何かしたって言うの?」


「落ち着いてよ。そんなつもりはないよ。隆春君はただの友達だよ」


「うるさい。うるさい。うるさい。出ていけ。出ていって!!」


 携帯を投げつけられた。私の体にぶつかった携帯が床に落ちて液晶画面が開いた。


私はただ、病室から黙って出るしかできなかった。


2日後、紗英が退院したと真理奈から聞いた。


私はあの日以来病院には行っていない。


誤解は解いておいた方が良いとは思っているのだけれど、どんな顔で会えばいいのかわからなかったのだ。


 学校に紗英が来ても話しかけることができなかった。


こちらから話しかけようとしても、露骨に無視されるのだ。


利香や真理奈が「どうかしたの?」と心配して聞いてきてくれたが私は苦笑いをしてごまかすことしかできなかった。


 紗英と会話ができなくなって1週間ほど経った頃、学校から家に帰る途中で隆春君が話しかけてきた。


「ちょっと話があるんだ」


「私にはないよ」


 私はそれだけ言うと立ち止まりもせず先に進もうとする。


それでも隆春君が追いかけてくる。


「少しだけ話を聞いてくれ」


 腕を捕まれて無理矢理足を止められる。


私はその腕を振りほどきながら振り返った。


「もう、私に近寄らないで。隆春君が私に近づく事で傷つく人だって居るの。それぐらい分かるでしょう。あなたが行かなければならない場所はここじゃないの。わかった?」


 それだけ捨て台詞のように言ってその場を立ち去る。


後ろでまだ私を呼び止めようとしたのか声が少し聞こえたが、その声も隆春君の喉に飲み込まれたようだった。


私は振り返りもせず、家路についた。


これで、良いんだ。


初めからあかねの言うとおり隆春君に近づかなければよかったんだ。


 さらに、2週間が過ぎた。


紗英は学校を休みがちになっていた。


まだ、病気が完全に治ってないんだろうか? 利香と真理奈も心配してお見舞いに行ったらしいが、会えなかったようだった。


 利香と真理奈も私と紗英が微妙な関係になっているのになんとなく気がついていたので、あまり私の前で紗英の話をしなかったので詳しいことは分からなかった。


 ある日、稲森先生におかしな事を聞かれた。


「最近、紗英と一緒にどこかに出かけたりしたか?」


 私は、出かけていないと答えた。


それどころか会話すらしていないのだ。


もちろんそれは黙っていたが。


「そうか、わかった。ありがとう」


 それだけ言うと、その場を去っていった。


なんだったんだろう?


次の日、隆春君が時計搭の屋上から落ちた。


隆春君は病院に運ばれて一命は取り留めたけど、意識は戻っていないらしい。


私はそれを聞いても病院に行く気はしなかった。


友達として心配はしていたけれども、お見舞いに行くことでまた紗英が怒るかもしれないと思ったからだ。


…いや、本当は怖かったのだ。あんな冷たい態度を取った直後に飛び降りたなんて、もしかしたら私のせいかもしれない。


そう思うと、怖くて病院には行けなかった。


学校が終わって家に帰るとお兄ちゃんともほとんど話をせずに自分の部屋にこもって膝を抱えていた。


シンと部屋の中は静まり返っていた。静かな部屋に一人でいるとどんどん暗く沈んでいくので意味もなくテレビを付けた。


テレビの音が鳴り響いていたけれど、私の耳にはまったく入ってこなかった。


ピンポーン。


突然、インターホンが鳴った。


ゆかり、友達が来たぞー」


一階からお兄ちゃんが呼ぶ声がする。


誰だろう、真理奈か利香が来たのだろうか?


誰にも会いたくない気分だったけど、気力を振り絞って立ち上がった。


一階に下りて玄関に向かうとそこには紗英が立っていた。


「どうしたの?」


そう聞こうとしたけれど、声がでなかった。なぜ、ここに紗英がいるんだろう?


こんな時こそ、隆春君のお見舞いに行っているはずの紗英がここにいるんだろう。


「ゆかり。助けて! 助けて! 助けて!」


紗英はすがりつくように私に抱きついてきた。


「と、とりあえず私の部屋に行こう」


取り乱している紗英をなだめながら二階にのぼった。


私の部屋に案内して座らせる。


紗英は少し落ち着いたのかさっきほど慌てた様子はおさまっていた。


「一体どうしたの?」


「私、ゆかりに謝らなきゃいけないと思って、ごめんなさい。ゆかりと隆春くんの仲を疑うなんてどうかしてた」


少し驚いた。


「誤解だって分かってくれたんならいいんだけど」


「私、退院した日ね、隆春くんに電話したんだ。でも繋がらなかった。私嫌われたかと思ったの。何度も何度も何度も電話したんだよでも繋がらなかった。

だから私は隆春くんの家に行ったんだよ。鍵がかかってたからドアの前で待ってたんだ。隆春くんが帰ってくるまでずっと待ってたの。結局その日は帰って来なかったけど。それから毎日待ってたんだよ。

あのアパート古いから窓の立て付けが悪いんだよ。知ってた?窓をガタガタ揺らすと鍵が開くんだ。だから私中に入ったの。隆春くんの部屋はシンプルで綺麗だったよ。

机の上に家族で写っている写真があったからもらっちゃった。隆春くんが驚くといけないから書き置きしてきたんだよ。私はいつでも見守ってるよって。

その日に隆春くんから電話がかかってきたけど、出なかったの。だって私をこんなに待たせてるのに電話で済まそうなんて都合が良いと思わない?それにちょっと怖かったの。別れようって言われるんじゃないかって。だから次の日机の上に手紙が置いてあったのは嬉しかったよ。会って話がしたいって。でも会ってあげないんだ。かわりに部屋を掃除してあげたんだ。これがね、隆春くんの髪の毛なんだ。見る?あ、見ないの?残念。それから毎日掃除をしてあげたんだよ。平日だけだけどね。あと、ご飯も毎日作ってあげたよ。一緒にお昼を食べられないからせめて手料理をって思って。次の日、料理の皿が空で置いてあると嬉しかったな。

 手紙でやり取りもしてたよ。メールや電話は私出ないことにしてたから、文通みたいだった。この時代にだよ? ちょっと笑えるよね。

 会話の内容はたわいのないものばっかりだったけど、私は楽しかったな。でも、隆春くんは文通じゃ満足できないみたいで、会いたいってよく書いてたよ。可愛いよね。でも会ってあげなかったの。まだ許したわけじゃないからね。

 ある日、平日なのに隆春くんが一日中部屋にいた日があったの。私を待ち伏せしてたのかな? そんなのに引っかかる私じゃないから、その日はそのまま中に入らずに帰ったんだ

そんな日が何日か続いたんだけど、ある日、隆春くんが誰かを部屋に招いたんだ。

 私は直接見たわけじゃないからそれが誰なのかは分からなかったよ。女の人だと思うんだけどね。

 どうして、そんな事が分かるのかって? そりゃ分るよ。だって私は隆春くんの事が大好きなんだもん。隆春くんも私のことが好きなんだから、手紙で聞いたら、私のこと好きだよって書いてくれたんだ。自分で言うとなんか恥ずかしいね。

だから、誰かがいた痕跡をわざと残していてくれたんだよ。私に分かるようにって。

具体的に? そうだね。最初に気がついたのは匂いかな。いつもと違う匂いがしたんだ。だから食器棚を見たんだよ。

隆春くんっていつも同じカップを使ってるんだ。友達とかが来た時の為に何個かカップを持ってるけど基本的にいつも同じものを使ってるんだよ。あの日はね、いつも使ってる横にあるカップの位置が違ってたんだ。確かにきれいに洗って置いてあったけどいつもと置いてある場所が数センチ横に動いてたから誰かが来て使ったんだと思うよ。それにね、掃除をしたら隆春くんより長い髪の毛が落ちてたんだ。分かりやすい痕跡を残しておいてくれるなんて隆春くんは優しいよね

え? なんで女の人か分かるのかって? そりゃ分るよ。ああ、大丈夫。ゆかりの事疑ってるわけじゃないよ。確かに初めはゆかりかと思ったよ。殺してやろうかと思った。どうしたの? 顔が青いよ? 大丈夫だって。明らかに髪の毛の長さが違ったし。ゆかりってボブぐらいでしょ? 部屋に落ちてた髪の毛は明らかに肩より長い感じだったから。それに、もうひとつあるんだ。

 さっき、どうして女の人か分かるかって聞いたよね? さっきも言ったけど、あのアパートって結構古いからすぐ埃が溜まるんだよ。だから、私玄関は掃除してなかったんだ。すぐに埃がたまっちゃってキリがないから。あの日、玄関に足跡が残ってたんだよ。三角形の先端に後ろは小さな丸がある足跡。これってピンヒールだよね? ピンヒールを履いてる男の人って私見たことないよ

誰が来てたのかはすぐに分かったよ。一昨日久しぶりに学校に行こうと思ったの。退院してから2、3回しか行ってなかったから。だから制服を着て準備してたら、朝にね稲森先生が私の家に来たんだ。

 私の部屋に通すと先生は自分のポケットから携帯灰皿を出して煙草を一服吸うと私に言ったんだ。

 お前、隆春にストーカー行為するのやめろって。

言ってる意味が分からないよね。私はストーカーなんてしてないのにね? なんでこんな事言ってるんだろうって思ったよ。私は何度も言ったんだよ? そんな事してないって。でも先生は信じてくれなかった。隆春は迷惑してるって言い張ってたんだ。

 そんなわけないじゃないね。だって嫌がってるなら、私が部屋に入るのをやめさせればいいんだから。窓にカギをつけるだけで私は中には入れなくなるんだから。

 それに、手紙のやり取りもしてるんだから、一言そこに書いてくれればよかったんだから。

 それがなかったって事は隆春くんは私のこと嫌がってなかったって事でしょ?

 でも、先生は隆春くんが心労でやつれてるって言うんだ。確かに最近、姿は見てなかったなって思ったよ。先生が、隆春くんに謝ってストーカー行為をやめろってしつこく言ってくるから、しょうがないから、直接会って謝るって言ったんだよ。

 そう言わないと先生帰ってくれなさそうだったし。

 それに、そろそろ直接会ってもいいかなって思えてきたから。

 だからね、隆春くんに電話したんだ。明日、学校の時計塔の屋上で会おうって。

 時計塔の屋上はね、中庭で二人でご飯を食べてた時に、あそこから見える景色が二人とも好きなんだって話をよくしてたんだ。思い出の場所ってやつかな。

ロマンティックでしょ?

 電話で久しぶりに隆春くんの声を聞いて、少し涙が出たんだよ。

 それで、再確認したんだ。私は隆春くんが大好きなんだって。次の日、要は昨日だけど。私は時計搭の屋上で隆春くんを待ってたんだ。隆春くんは時間通りに来てくれたよ。

確かに先生の言う通り少し痩せたみたいだった。顔色も真っ青だったよ。それは私が屋上のフェンスの向こう側に立ってたからかもしれないけど。

隆春くんはフェンス越しにすぐ側まで来てくれたよ。フェンス越しに繋いだ手は暖かかった。

私は素直に謝ったよ。もし迷惑をかけてたならごめんなさいって。隆春くんは迷惑なんか受けてないよを泣きそうな顔をしながら首を振ってたよ。

そして、ゆっくりと手をほどくとフェンスを乗り越えてこっちに来たの

そんな所にいると危ないよ。隆春くんはそう言った。

私は近づいて来るのを手で制すると聞いたの。私の事好きって。隆春くんは好きだよって言ってくれた。

でもその後に苦しそうな顔で言ったの。でも愛してないって

紗英ちゃんが入院して色々あって気が付いちゃったんだ。紗英ちゃんの事は好きだけど、この先ずっと一緒にいられるとは思えないんだ。

それに気が付いちゃたんだ僕は紗英ちゃんとは違う人が好きなんだ。

目の前が真っ暗になったよ。それは誰って聞いても教えてくれなかった。私は気がついたら足を踏み外してた。

落ちたって思った瞬間、手を捕まれた。体が起き上がったと思ったら私の横を隆春くんが落ちていったよ

なんでこんなことになったんだろうね?私には分からないよ。

一晩中悩んだけど分かんなかった。でね。分かったんだ。やっぱり隆春くんはゆかりの事が好きだったんだと思う。

ごめんね。もう一回謝ろうと思うの。

だって、ゆかりとはここでお別れだから」


紗英が私に飛びかかって来た。私は何が何だかわからなくて手を無茶苦茶に振り回す。


急に息が苦しくなった。首元に違和感を感じる。一瞬何をされているのか理解できなかった。


紗英の手が私の首を絞めつけていた。


苦しくて、ばたばたと暴れる。結果として紗英の体のあちこちを殴りつけたが、手は首にめり込んできた。


メリメリと首が鳴っている気がした。


意識が遠くなる。鼻にツンとした煙草の匂いが届いた。


そして、目の前が白くうっすらと消えていった。


「ゆかり!!」


お兄ちゃんの声が聞こえた。


ドンと鈍い音が聞こえて、喉に空気が急激に送り込まれて来る。


喉がヒューヒューと音を立てながら酸素を脳に送り込んでいくのが分かった。


その辺りで、ようやく意識がはっきりしてきた。眼前ではお兄ちゃんが紗英を取り押さえて床に組伏せていた。


「ゆかり、大丈夫か?」


私は何度もせき込みながらうなずいた。


紗英はお兄ちゃんから逃れようと暴れていたが、お兄ちゃんがそれを無理やり抑え込むと静かになった。


「いったい何があったんだ?」


お兄ちゃんが私に向って言った。


私は答えようにも自分でも何がなんだか分かっていなかったので答えられなかった。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。こんな事するつもりじゃなかったの。ごめんなさい。ゆかりの事大好きなのに。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。本当よ。信じて。だからごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」


紗英が泣きながら繰り返した。


吐き気がした。


私は、部屋を飛び出して、トイレに駆け込む。


嘔吐感が激しく、何度もえずいたが胃液しか出てこなかった。


紗英の表情を思い出す。私は怖くなってそのままトイレに座り込んでいた。


結局、紗英はお兄ちゃんが紗英の両親を呼んで引き取ってもらったようだった。


私は、その場面をトイレに座り込んでいたので全く見ていない。


初めお兄ちゃんは警察沙汰にするつもりだったらしいが、私がそれはやめてほしいと言った。

友達とそんな事になるのは嫌だったのだ。


…紗英はまだ私の事を友達と思ってくれているかな?


そんな事を思った。


お兄ちゃんはなかなか納得しなかったけれど、紗英を病院へ連れて行く事と、学校を転校させる事を条件に、今回の事は黙って置く事になった。


「ゆかり。怖かっただろう? ごめんな。少し助けるのが遅れてしまって。でも、これからはもっとちゃんとゆかりの事を見てるよ。兄ちゃんがゆかりの事を守ってやるからな」


トイレに座り込んでいた私を優しく抱きしめながらお兄ちゃんはそう言ってくれた。


……お兄ちゃんは優しいね。


何で、今更こんな事を思い出しているんだろう?


私は、全力で走りながら思っていた。


後ろに稲森先生の姿は見えない。振り切ったのだろうか?


気がつけば学校の体育倉庫前に立っていた。


頭の中にまた過去の事が思い出されてくる。


まるで、ゆっくりとした走馬灯を見ているような感じだった。


あの、紗英とのやり取りの後、約束通り、紗英は転校していった。


私は、何を間違えたんだろう…。そんな事ばかりを考えていた気がする。


やっぱり、友達なんて作らなければ良かった。


紗英がいなくなった後、真理奈と利香の二人とまた遊ぶようになった。


二人は何となく、私と紗英に何かあったんだろうと感じてたのかもしれない。


だから、私たちはまた一緒に遊ぶようになったんだと思う。一緒に遊ぶことで、絆を確かめようとしていたのかもしれない。


お兄ちゃんもなるべく早く家に帰ってくるようになった。


私のことを心配してくれているのだろうと思う。少し嬉しかったけど、子供みたいに心配されているようでくすぐったかった。


お兄ちゃんはタバコを吸わなくなった。もともとは結構煙草を吸う人だったんだけど、ほとんど禁煙している。


私が煙草の匂いを嫌がったからだ。


あの時なぜ、紗英の制服から煙草の匂いがしたのかはわからないけど、あれ以来私はタバコの匂いが苦手になっていた。


煙草の匂いを嗅ぐと首が締め付けられるような感覚がするのだ。


それでも、私は徐々に普通の生活に戻って行った。


紗英の事は忘れたわけじゃないけど少しずつ折り合いをつける事ができるようになっていた。


日常って大事なんだ。そう思った。


でも、あの事故を起こしてしまった。


あの日の朝、私はいつもの通り朝ご飯をつくって兄を送り出した。


「今日は、職員会議があるから帰りは遅くなるよ」


兄はそう言って、家を出て行った。私もすぐに制服に着替えて家を出ようとしたとき、携帯のメールが鳴った。


差出人はあかねだった。


「おはよう。ゆかりは今から学校? 私もなんだ。今日も頑張っていこうね」


あかねとはすっかり仲の良いメル友だった。


紗英の事やお兄ちゃんの事で悩んだ時、よくメールで相談していたからだ。


こういう時、相手が見えないというのは便利だった。


私も、現実で知らない人間だから少し、気が楽に悩み相談ができたし、あかねも、現実の知り合いではなかったから、思い切ったアドバイスや意見が言えると言っていた。


私たちは、適度な距離感を持ったいい関係だった。


朝、学校への道を歩いていると利香とばったり出くわした。


「おはよう! ゆかり!」


利香が元気よく挨拶をしてくる。


「おはよう」


私も挨拶を返した。


「ねぇ、今日一緒にカラオケに行こうよ! 真理奈も誘ってさ! 最近3人で行ってないでしょ? 行こうよ!」


私は、しばらく考え込む。でも今日はお兄ちゃんも帰りが遅くなると言っていた事を思い出してうなずいた。


「いいよ。久しぶりにいこうよ」


「やったー。じゃあ、真理奈にも後で私が言っておくね。あ、そうだ、朝練に遅れそうなんだった。じゃあ、放課後にね」


利香はそう言うと走って行ってしまった。


利香は良い子だなぁとしみじみと思った。自分に素直に生きていると思う。


私みたいに、周りの人の顔色をうかがいながら生きてない。


そう思うと、素直に感心したし、うらやましかった。

授業が終わって放課後になった。教室に利香が飛び込んでくる。


「ゆかりー。カラオケ行くよ! カラオケ!」


「わかった。分かりました。真理奈は?」


「さっき、生徒会室に呼びに行ったらすぐ来れるって」


私たちは連れだって校門へと向かった。利香はすごく楽しそうにしていた。


「なんか、こうして皆でカラオケ行くのも久しぶりだね。楽しみ」


素直にそう言える利香は良い子だなって思った。


校門ではすでに真理奈が待っていた。


「どこ行く? どこ行く?」


利香が子供の様にはしゃぐ。


「一回、家に帰って制服は着替えた方がいいかも。最近生徒指導の西垣先生がこの辺りを見回りしてるみたいだし。みんな家近いからそんなに時間掛からないと思う」


真理奈が言った。


「そうだね。私も一回帰りたいかな」


空を見ると少し曇ってきていて朝干した洗濯物が心配になったのだ。


「じゃあ、駅前のカラオケに着替えて集合ね」


「うん。分かった」


私たちはそう言って一旦それぞれの家に帰った。


家まではそれほど遠くない距離なのですぐに着いた。


玄関の鍵を開けて中に入る。ベランダに干してあった洗濯物を急いで部屋の中に取り込んだ。


そう言えば、お兄ちゃん今日は職員会議で遅くなるって言ってたっけ?


私もあの二人と遊んでいると帰りが遅くなるかもしれない。

そう思って、すぐに食べられるようなものを軽く用意することにした。


お兄ちゃんはインスタント食品でさえ自分で作ろうとしない。もしかして、作れないのかもしれないけど。


何かしら作っておかないと、私が帰ってくるまで何も食べてないなんて事も充分に考えられた。


すぐに料理に取り掛かる。料理は昔からしているのでお手の物だ。


それでも、ひとつ作りだすとあれもこれも必要な気がして、最初考えていたよりも多く作りすぎてしまっていた。


時計を見ると、二人と別れてから1時間半ほど過ぎていた。


急がなきゃ。


私は急いで私服に着替えて家を出た。


もう、カラオケに先に入っちゃってるかもしれないな。


あれだけ、楽しみにしていた利香の顔が浮かぶ。


急がなきゃ。でも、駅までの距離は徒歩では結構な距離があった。


自転車は今日はお兄ちゃんが乗って行っているらしく駐輪場に止まっていなかった。


どうしよう…。


ふと、お兄ちゃんの原付が目にとまった。


家の中に戻って原付の鍵を取り出す。免許は学校に内緒で取っていた。


兄と二人暮らしでは原付の免許があった方が何かと楽だったのだ。


早く行かないと遅れちゃう。そう思って原付にまたがった。


確か、駅前にはバイクも止めれられる駐輪場があったはずだ。


私は、鍵を回してエンジンをかけた。


庭を急いで出て、道に出る。


普段、それほど原付には乗らないので感覚が戻ってくるのに少し時間がかかった。


でも、しばらく走るとすぐに思い出した。正面から吹く風が心地よかった。


大通りまで出ようとして、考え直した。久しぶりに乗る原付だし、大通りを走るのは少し怖い気がしたのだ。


大通りに出る前に路地に入る。確か、この路地を走って行っても駅前に出られたはずだ。


くねくねと道を曲がる。


そう言えば、家の鍵閉めたっけ? 慌てて出てきたので鍵を確認するのを忘れていた。確認に戻った方がいいかな…?






そう思った瞬間。ドンと衝撃が走った。


私はバランスを崩して路地横の土の上に原付ごと倒れ込んだ。


幸い地面が柔らかかった事もあり、体にそれほどの痛みは感じなかった。


「痛たた…」


倒れた原付を何とか起こしながら自分も立ち上がる。


縁石にでも乗り上げたかな…そう思って正面を見ると、女の人が倒れていた。


「え……?」


何が起こったのか分からなかった。なぜ、あの人はあんな所で眠っているんだろう? そう思った。


…え? 今、私、あの人とぶつかった?


恐る恐る、女の人に近づく。


女の人は横向きに倒れていて、微動だにしない。


顔を見て驚いた。しずるさんだ。彩香ちゃんと何度かしずるさんの家に遊びに行ったことがある。


なんで、こんな所に? これは夢だ。夢だったらいいのに。違う。現実だ。現実なの? 信じられない信じたくない。


しずるさんの頭の下から赤い液体が流れ出てきて横に落ちていたウサギのぬいぐるみを赤く染めていた。


私は、すぐに踵を返して原付を起こすとエンジンをかけた。スロットルをひねって発進する。


何も考えたくなかった。怖かった。家に帰って布団にもぐりこみたかった。


なんで、私ばっかりこんな目に合うんだろう? 私何か悪いことしたかな?


家にたどりついて玄関を開けようとすると鍵が掛かっていて開かなかった。


ポケットから家の鍵を探す。手が震えてポケットに入らずうまく鍵を取り出せなかった。


何度か鍵穴に鍵を入れるのを失敗しながら鍵を開けて中に入る。


自分の部屋のカーテンを閉めて毛布をかぶって部屋の隅にうずくまった。






しずるさん死んじゃったのかな?


生きているかどうかも確認しなかったなとここに至ってようやく考え付いた。


頭から血が流れていたのを見て怖くなって逃げてきてしまったけど、もしかして、しずるさんはまだ生きてるんじゃないかな? そう思うと、今すぐ助けに戻らなくちゃと思った。


でも、もし、生きていたとして助かった後にしずるさんは私がしずるさんをはねた事を責めるだろう。誰かに言うかもしれない。警察に捕まるのだろうか?


もしかしたら、一瞬のことだったから私のことを見ていなかったかもしれない。


………でも、見られていた気がする。私は事故をした時しずるさんの姿を見ていなかったけど、よく思い出してみると視線を感じていたような気がする。

 しずるさんは事故の時、私を見ていたんじゃないだろうか?


そう思うと、体がまったく動かなかった。


ピリリリリリリと、突然鞄の中から音がした。


びくりと体が震える。何の音だろうと思って、すぐに携帯電話の着信音だと気がつく。


もう、警察が私の事を捕まえに来たのだろう?


恐る恐る鞄を開けて携帯電話の液晶画面を見る。






お兄ちゃんだった。


慌てて通話ボタンを押そうとする。指が震えてなかなかボタンが押せなかった。


このまま、電話が切れたらどうしよう。怖くてしかたなかった。


なんとか、通話ボタンを押して電話にでる。電話の向こうからはのんきな声が聞こえた。


「あ、もしもし…」


「お兄ちゃん助けて!!」


「……どうした」


「私、お兄ちゃんのバイクに乗っちゃって、それでぶつかって転んで赤い血が…どろどろって」


自分でも何を言っているか分からなかった。


「落ち着いて。ゆっくり話して。バイクに乗ったんだね」


「うん」


「それで? 事故したの?」


「私……。バイクで人をはねちゃった」


「………ゆかりは今どこにいるの?」


「家にいる。全部そのままにして、バイクも乗って帰ってきちゃった」


「すぐ帰るから大人しくしていなさい。大丈夫だから。兄ちゃんがなんとかしてやる」


そう言って、電話が切れた。


それから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。ものすごく長かった様な気がする。


いつまでも、お兄ちゃんが帰ってこない時間がずっと続くんじゃないか。そう思い始めた頃、玄関が開く音がした。


スタスタと足音が聞こえて私の部屋の扉が開いた。

お兄ちゃんはうずくまっている私をそっと抱き締めると背中を優しくなでてくれた。


「もう大丈夫だ。兄ちゃんがお前を守ってやる」


そう言われた後、いくつか質問をされた。原付はどうした? 事故現場はどこ? どれぐらい前に事故を起こした? そんな事を聞かれた気がする。私はその質問になんとか答えていた。


最後にお兄ちゃんが言った。


「お前は友達の所へ行きな。約束してるんだろう?」


私はかぶりを振った。とてもじゃないけど、遊んでいる気分じゃなかった。


「行きなさい。こっちは大丈夫だから。何も心配しなくていいから。絶対にゆかりが捕まるようなことにはならないよ」


お兄ちゃんがそう言って笑うと少し安心した。


私は歩いて駅前のカラオケに行った。


約束の時間より大分遅くなってしまった。二人はカラオケに入って待っていたので、私の遅刻に怒っていたけど、すぐに笑って許してくれた。


あの事故の事を知ってもこの二人は私のことを許してくれるだろうか?


私はいつも通り二人と笑い会話して遊んだ。


事故の事は話してないし話す気もない。本音は話したい。話して楽になりたい。でも話して嫌われるのは嫌だった。


本音を隠したまま誰かと付き合うのは慣れてる。


これでいい。


二人と別れて家に帰ろうとすると学校の方が騒がしかった。


胸騒ぎがした。


事故の事がもうバレたんだろうか。私は気がつくと走り出していた。


校庭の入り口に人だかりができていて中の様子がわからなかった。


無理矢理人混みを押し抜けようとすると会話が漏れ聞こえてきた。


「火事ですって」


正直に言えばほっとした。私の事じゃないと思ったからだ。人を押し分ける腕の力が抜ける。


「誰か中に居たらしいわよ」


なんとか校庭が見える所まで来るとまず消防車が見えた。その向こうに焼け落ちた体育倉庫が見えた。


私はそれだけ見ると踵を返して家に向かった。


これで私の事故の事が忘れられればいいのに。


そんな薄汚いことを考えながら家に帰ると原付が無くなっていた。


玄関を開けて中に入るとお兄ちゃんがコーヒーを淹れてくれていた。


「おかえり。楽しかったかい?」


私は素直にうなずいた。


「そっか。よかった」


「原付はどうしたの?」


「誰にも分からないような所に捨てて来たよ。あと、しずるさんだけど…」


びくんと心臓が跳ねた。


「一命は取り留めたらしい。まだ意識は戻ってないみたいだ」


「そっか…」


ほっとした。生きていてくれた事に。






嘘。




意識が無いって事にほっとした。


意識がないってことはしゃべれないって事だから。


「そうだ、今日学校で火事があったみたい」


私はわざと話題をそらして言った。お兄ちゃんはそんな事はもとから知っていたとも言わんばかりに平然としている。


お兄ちゃんが私の座っている前にコーヒーカップを置いた。


「知ってるよ。それ燃やしたの俺だから」








お兄ちゃんは笑ってた。


「なんで!!」


私はテーブルを叩いて立ち上がった。


「なんでって。今日は職員会議があっただろ?

 俺がその職員会議に出なかったら不審に思われるじゃないか。でも、バイクを捨てに行ったり、事故現場の処理もしなくちゃいけなかったからそんな時間はとてもなかったんだよ」


「…え? 意味が分からないよ」


「だから、職員会議に出られないなら、職員会議を無くせばいいんだよ。

 前に、時計塔の屋上から飛び降りた子がいたろ? あの日も職員会議があったんだけど、あの事件で職員会議はなくなったんだ。

 だから、今回も何か違う事件を起こせば職員会議がなくなるって考えたんだよ。例えば小火とか」


冗談ではなさそうだった。単純に驚いた。お兄ちゃんがそんな事をしているなんて。


「そんな事までしなくてもっ…」


そこまで言って、事故の時の記憶がよみがえった。私はそれよりももっとひどい事を起こしてしまったんだ。


そう思うと、体が震える。寒い。しずるさんの怪我が治って私が犯人だって言ったらどうなるんだろう?


学校にはもういられなくなるだろう。刑務所にも行かなくちゃいけないんだろう。


それに何より、しずるさんが私の事を許してくれるとは思えなかった。


「大丈夫。大丈夫だよ。ゆかり。心配するな。例えどんな事があってもお前が捕まるなんて事だけは絶対にさせない。絶対にだ。だから心配するな」


お兄ちゃんが頭にポンと手を置いて言った。その力強くて大きな手に少し安心した。


「子供扱いしないでよ」


私はそう言って少しすねて見せた。


「それぐらい元気があれば大丈夫だな」


お兄ちゃんは笑った。私も少しだけ笑った。でも私は忘れていたのだ。


学校で聞こえてきた言葉の事を。


次の日、学校へ行くと真理奈の姿が見えなかった。


私は不思議に思って利香に聞いてみた。


「今日、真理奈どうしたの?」


「なんかね、生徒会の副会長さんの妹さんが昨日亡くなったんだって。それで、生徒会の仕事を代わりにやってるから今日はちょっと忙しいみたい」


「へぇ…そうなんだ」


私は、特に気にもせず、自分の席に座った。一時間目は英語だったなと思って、教科書を机の上に出した。


「昨日火事で亡くなったんだって、その妹さん」


利香が何気なくそう続けた。






「…え?」


「それ、どういう事?」


私は利香に詰め寄った。利香は驚きながら答えてくれた。


「昨日、体育倉庫が燃えたのは知ってる?」


私は頷いた。利香は襟を正して私の机の横に立った。


「その中に副会長の妹さんがたまたま居たんだって。ほら、よく放課後に校庭で遊んでいる子いたじゃない」


思い当たる人物がいた。


「それって、彩香ちゃん?」


「うーん。確かそんな名前だったかな? え? 何? ゆかり知り合いなの?」


「私、よく放課後一緒に遊んでた……」


利香はそれを聞いて言葉を失っていた。急に空気が重くなる。


そう言えば、昨日、家に帰る前に廊下で彩香ちゃんを捜している洋子さんに出会った事を思い出した。


あの時は、すぐに見つかるだろうと思って一緒に捜さなかったのだ。彩香ちゃんが一人でこの学校に来るのは珍しくなかったから。


よりにもよって体育倉庫にいたなんて。


お兄ちゃんが火をつけた体育倉庫に。


私は教室を飛び出して、職員室に走った。お兄ちゃんはこの事実を知っているんだろうか?


階段を駆け下りて、人とぶつかりそうになるのを避けながら職員室の目の前まで来た。


扉を開けて中に入ろうとすると、稲森先生と出くわした。


「どうした? もうすぐ授業だぞ?」


「お兄ちゃ…いえ、遠藤先生はいますか?」


稲森先生は苦笑いを浮かべると私に耳打ちした。


「いま、職員会議にかけられてる。昨日の火事の原因が遠藤先生のたばこらしいんだ。ほかにも色々と要因はあるみたいだが、最大の要因はたばこだからな」


私がよほど不安な顔をしていたのか、稲森先生は優しくほほ笑んでくれた。


「そんなに心配するな。確かに火事の原因は遠藤先生だが、わざとやったわけでもないし、逮捕されるなんて事はないだろうよ。さ、とりあえず教室に戻りな」


私はそう言われて、しぶしぶ教室に帰った。

その日の授業は何ひとつ身に入ってこなかった。お兄ちゃんの事が心配で仕方がなかったのだ。


最後の授業のチャイムが鳴ると同時に職員室に向かう。職員室には先生が数人いたが、お兄ちゃんの姿は見えなかった。


「遠藤先生は?」


私が、聞くとそばにいた先生が気まずそうに答えてくれた。


「自宅謹慎だそうだ。今は自宅にいるはずだ」


私はありがとうございますと言うと同時に踵を返して自宅に向かって走っていた。


家に着くと、玄関のカギが開いていた。中をそっと覗く、少し暗くなってきているにも関わらず家の電気は消えていた。


「お兄ちゃん?」


恐る恐る、家の中に入る。返事はなかった。リビングを覗くとテーブルにお兄ちゃんが座っていた。


「…お兄ちゃん?」


もう一度呼びかける。お兄ちゃんの反応はない。そっと近付くとお兄ちゃんがぼそぼそと何かをつぶやいているのが聞こえた。


耳を近づけて聞いてみる。小さな声が聞こえるほど顔が近付いてもお兄ちゃんに反応はなかった。


「なんでこんな事に。こんな事にはならないはずだった。おかしい。おかしい。こんなはずじゃ。どうしてなんで、どうしてあの子があんな所に。小火だけなら僕の謹慎ぐらいですんだはずなのになぜだ。どうしてあの子がいる。なんで、誰もいないはずだ。あそこは鍵がかけてあるはずなのに」


「お兄ちゃん!!」

私はお兄ちゃんの肩を激しく揺さぶった。椅子から転げ落ちる。


ごとんと鈍い音がした。お兄ちゃんはのそりと起き上がる。


「ああ、ゆかり帰ってたのか。大丈夫だ。お兄ちゃんが守ってやる。お前の事故の事は誰にも知られてないぞ。大丈夫だ。お前カラオケの約束してたはずだろ? 行ってこい」


「それは昨日の話だよ。しっかりしてよお兄ちゃん」


「大丈夫だよ。何言ってるのさ。俺は大丈夫だ。それより早くバイクを捨てにいかないと。誰かに見つからないうちに」


「それも昨日の話だよ!」


「そうか。分かった。洋子だな。もう大丈夫だ。ゆかり、何も心配するな」


お兄ちゃんはブツブツ言いながら部屋に戻って行った。

ピリリリリリ。


突然携帯が鳴った。私は慌てて鞄を漁る。こんな時に限ってなかなか出てこない。


携帯を取り出して電話に出る。真理奈からだった。


「今日、彩香ちゃんのお通夜があるんだって。…ゆかりも来る?」


私はお兄ちゃんの事が心配だったけど、行かなきゃいけない。そう思った。

真理奈に彩香ちゃんの家の住所を聞いて向かう。彩香ちゃんの家に行くのは今日が初めてだった。


彩香ちゃんの笑顔が頭に浮かぶ。賢い子だったと思う。まだ小学生だというのに、相手にそれと気づかれず気を使うのがうまかったような気がする。


彩香ちゃんの家は診療所だった。このあたりで大きな病院は広沢大病院だったけれど、彼女の家は個人医院としてこの辺りでは重宝されていたらしい。


過去形なのは、ここの医者をしていた彩香ちゃんのお父さんが去年亡くなって、この診療所が閉鎖したからだ。


病院の裏手にある家の方でお通夜は執り行われているようだった。

診療所の横を通り抜けてお通夜の場所に向かう。周りには沢山の人が来ていた。


しかし、その空気は異様だった。お通夜だと言うのに誰も悲しんでいる様子がなかった。


それどころか、ひそひそと噂話をしているようだった。火事に巻き込まれて死んだのだ。

話の種になっているのかもしれないと思った。


時折聞こえてくる声には「またよ」とか「呪われてるのかしら」なんて心のない言葉が混じっていた。


そんな異様な空気の中、私は芳名帳に名前を書いて部屋に上がろうとする。


「ゆかり…来てたのか」


後ろから声をかけられて振り返るとそこにはくわえ煙草をした稲森先生が立っていた。

「先生…」


「ああ、なんでここにいるのかって? 一応、泉、ああ、彩香ちゃんの兄貴な。あいつはうちの学校の生徒だしな。あの火事の現場にいた者として焼香ぐらいは上げようと思ってな」


「そうですか」


「私は、これで失礼させてもらうよ」


先生はそう言って、足早に玄関を出て行った。私は先生と入れ替わるようにして家に上がった。


家の中はシンと静まり返っていた。家の中からは下世話なひそひそ話は聞こえてこなかった。


棺の置いてある大広間に入ると棺の横に泉先輩が正座して座っていた。


私はあまり泉先輩と面識があるわけではない。彩香ちゃんと一緒に遊んでいた時に泉先輩が迎えにきてくれて、その時、礼を言われる程度の関係だ。


だから、緊張した面持ちであいさつをする。


「この度はお悔やみ申し上げます」


泉先輩に頭を下げて焼香する。線香の匂いと焦げたような匂いが鼻の奥をツンと抜けていった。


「ありがとう」


押し黙って沈黙していた泉先輩が頭を下げた。私はあわてて先輩に言う。


「やめてください。私は礼を言われるようなことはしていません」


「彩香はいっしょに遊んでくれたと言っては喜んでいたよ。僕はあまり相手をしてあげられなかったから。今、彩香の代わりにそして僕自身が礼を言いたいんだ」


私は何も言えなかった。


「今日は来てくれてありがとう。彩香もきっと喜んでいるよ」


泉先輩はそう言ってそっと微笑んで見せた。

彩香ちゃんの入った棺の中は見る事が出来なかった。もしかしたらまだ帰ってきていないのかもしれなかった。


それとも、見れるような状態じゃなかったんだろうか。


私は、泉先輩に頭を下げると部屋をそっと出た。廊下をゆっくりと歩く。気が重たかった。


廊下の隅で何かが動いたような気がしてそちらを振り返る。


そこには洋子さんが立っていた。


「洋子さん」


私が声を掛けると初めてこちらを向いた。その顔はどこかぼーっとしていて表情がなかった。


「洋子さん」


もう一度声を掛ける。そこでようやくこちらに気がついたのか目が合った。


「ゆかりちゃん」


声に生気がなかった。よほどショックが大きかったのかもしれない。


心がまた重くなった。私は上唇と下唇が引っ付いて離れない唇をなんとか開いて言った


「彩香ちゃん残念ですね。まだ小さいのにこんな事になっちゃって。可哀想ですね。泉先輩も彩香ちゃんも」


「え?何が可哀想なの?」


心底不思議そうに聞いてきた。

「だって亡くなったんですよ。もう会えないんですよ」


「その通りなんだけど、いまいちピンと来ないって言うか。彩香と会えないのってそんなに嫌なこと?」


カチンときた。


「それは洋子さんが身内じゃないからですよ。他人事だからそんな事言えるんです!!」


感情的に言葉をぶつける。洋子さんはそれを全部受け止めて、数舜の間を開けた後、極めて冷静に、さっきと変わらず抑揚の無い声で言った。


「彩香は私の娘よ」


私は言葉を失った。

「ちょっと事情があって先生…いえ、泉君の家に預かってもらってたのよ。だから彩香は間違いなく私の娘。でもやっぱり悲しくないのよ」


頭がおかしいんじゃないかと思った。娘が死んで悲しくないなんてどうかしてる。


「小さな頃、本当に小さな頃よ。そんな時、彩香が間違ってヤカンのお湯を胸元に被って火傷をしたことがあったわ。

その時は病院を駆けずり回ったわ。彩香に死んで欲しくなくて。あの時の気持ちはどこに行ったのかしら。

結局、一命は取り止めたけど胸元には火傷の後が残っちゃってね。彩香は人前で絶対に服を脱がなかったわ。だから、彩香はきっと私の事恨んでいたでしょうね。私もそんな罪悪感を持って彩香に接していたから。だからかしら、彩香が死んでほっとしてる」


洋子さんはいまいちどこを見ているか分からない焦点の合わない目で言った。


私は、気がつくと洋子さんに飛びかかっていた。胸ぐらを掴んで廊下に引き倒す。


「あんたが、あんたがしっかり彩香ちゃんを見てないから。彩香ちゃんは死んだんだろう!

あんたが早く彩香ちゃんを見つけてればこんな事にはならなかった!あんたが!あんたがしっかりしてれば!」



そう続けたかった。

我に返った時には泉先輩に羽交い締めにされていた。

「離してください!」


「もういいから。ゆかりちゃんが彩香を思ってくれるそれだけで充分だから」


私はそう言われて脱力するように洋子さんの上から降りた。


洋子さんは相変わらず虚ろな目を天井に向けていた。

一週間後。洋子さんが自殺した。



私の心に黒いしこりが落ちた。



私があんなこと言ったから?

洋子さんのお葬式には出席しなかった。住所も知らなかったし、たとえ知っていてもいけなかっただろうと思う。


洋子さんが死んだというのも、

学校で真理奈から又聞きしたものだったから、行こうにも行けない状況だった。


ホッとしなかったと言えば嘘になる。お葬式には行けない理由がある。だから行けないんだ。私は行かないんじゃない。行けないんだ。


そう思うと、すっと心が楽になるのは確かだった。

学校から帰ると、家の中は相変わらず真っ暗だった。お兄ちゃんはほとんど自分の部屋からは出てこない。


外に出かける事もほとんどなくなった。学校からの謹慎期間は1か月に延長されたようだった。


「ただいまー」


部屋に向かって声をかける。扉が開いていたので中で何か本を読んでいるお兄ちゃんの姿が見えた。


「…ああ」


息がこぼれるような小さな返事が返ってくる。あの火事の直後のような淀んだ目はもうしていなかった。


それでも、やはり口数はかなり減っていたし、動きは緩慢だった。毎日、寝て起きて食べるをただ淡々と繰り返している。


私は帰り道に買ってきた食材をテーブルの上に置いて冷蔵庫の中に入れ始めた。


「……くッ」



時折、嗚咽ともため息とも取れるような声がお兄ちゃんの部屋から漏れ聞こえてきたが、私は気にせずに片付けを進める。


ここ2週間。そんな声が聞こえるのは珍しくなかったからだ。

夕食の準備をしようとまな板と包丁を出して、鍋を火にかけた。


「…っく」


お湯が火にかけられている音とお兄ちゃんのうめき声だけが家の中に響く。


「……っ。あはは。ひゃは」


珍しいなと思った。お兄ちゃんのため息はいつも陰鬱で重い音をしていたのに、今日は時折、笑い声が混じっていた。


「あははは。くっくっく。そうか。そういうことなのか」


本に何か面白いことでも書いてあったんだろうか。そう言えばあの本はいつ買ったんだろう。


家にハードカバーの様な大きな本は無かった気がしたんだけど。


そう言えば、数日前に郵便ポストに小包が届いていた。インターネットで注文したんだろうか?


そんな事を考えているとお湯が沸騰する音が聞こえてきたので、慌てて火力を弱めた。

次の日、私は広沢大病院に来ていた。あの事故からすでに2週間近くが過ぎようとしていた。


しずるさんの意識はまだ戻っていない。あの事故から何度かこの病院を訪れて確認している。


いつも、病室に誰もいない時を見計らって中に入ってチューブに繋がれているしずるさんを眺めて帰る。


今日もそうするつもりだった。病院の中はさほど迷わず、しずるさんの病室に辿り着けるようになっていた。


初めて来た日に、何度も道に迷ったせいか、この病院の中にはそれなりに詳しくなってしまった。


病室に近づく。窓から見える冬の空は透き通っていた。病室の前で立ち止まる。番号を確かめてそっと扉に近づいた。


この時間に旦那さんはいないはずだ。それも何回か通ううちに分かってきた事だ。


夕方のこの時間は旦那さんはいつも席をはずしている。自分の夕食を食べに行っているのだ。


規則正しく行動をする人らしく、多少の時間のずれはあるものの、毎日ほぼ決まった時間に病院の地下にある食堂に夕食を食べに行くようだった。


私は、今日もしずるさんのベットの横にそっと立った。

見た目は奇麗な顔をしていた。チューブにつながれてはいるものの顔や首などの見えるところには大きな傷は無いようだった。


私はそっとしずるさんの頬を触る。ほんのり暖かかった。


「……目を覚まさないでください」


私は小さくつぶやいた。今、お兄ちゃんがあんな状態でしずるさんが目を覚ましたら…。


想像するだけで恐ろしかった。

今の生活を保つ事はできないだろう。学校にもいられなくなる。


それに、お兄ちゃんが事故を隠そうとしている事が分かれば、お兄ちゃんはもう家に帰ってこれないかもしれない。



それが一番怖かった。


学校で私の居場所はだんだんと無くなっていった。お兄ちゃんが火事を起こしたのは全校生徒が知っている。それはタバコの不始末で火をつけた事故という事になっているけれど、そんな事は関係なかった。


お兄ちゃんと私が兄妹だというのもほとんどの生徒や先生が知っている。


それは初め小さな声だった。廊下を歩いているとき、掃除をしている時、トイレの中。


それは好奇心だったのかもしれない。遊び心だったのかもしれない。他人の不幸の味を覚えただけなのかもしれない。


でも、確実に、真っ白な布に黒い染みが広がっていくように、それは広がっていた。


教室では一人でいる事が増えた。誰もが、私を遠巻きに見ることが増えた。


直接、何かを言われることはなかったけれど、向こうから話しかけてくる事もなかった。


これで、良いと思った。私は、こんな仕打ちをされるような事を本当はしているのだ。


しずるさんを原付で跳ねて入院させている。そして、私のせいでお兄ちゃんはひとごろしになった。


だから、私は非難されるべきなのだ。


ふと、自分がお兄ちゃんの事をひとごろしと呼んでいたことに気がついて、可笑しくて笑った。


私はお兄ちゃんをひとごろしと思っているんだろうか?

私の為に動いてくれた。お兄ちゃんを。


どうやら、私は最低の人間らしい。


そんなのは知っていたけど。

「ゆかり大丈夫?」


利香が私に話しかけてくる。このクラスで私に話しかけてくるのはもう利香ぐらいだ。


「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」


利香は首を横に振る。本当に良い子だなと思う。紗英の時もそう思ったがこの子は友達を大事にする子なんだろうと思った。


それとも、紗英の時何もできなかった自分を責めて、私に優しくしてくれているのだろうか?

どっちでもよかった。それが本物でも偽物でも、好意を向けられるのは素直に嬉しかった。


私は偽物だから。ここにいる私は偽物だから。本当の私は紗英を壊し、しずるさんを病院に送り込んで、お兄ちゃんをひとごろしにした、人間だから。


「そう言えば、稲森先生が…あのお兄さんの火事の事調べてるらしいよ」


利香が恐る恐る口に出した。私の肩がびくんと跳ねた。


「調べてる?」


驚いた表情をしないように気をつけながら利香に聞いた。


「うん。なんかあの日の事をいろいろな生徒に聞いて回ってるみたい」


あの火事は一応事故という事になっているはずだ。いまさら何を調べようというのだろう。


まさか、お兄ちゃんがわざと火を付けた事を知ったのだろうか?


いや、それならもっと大騒ぎになっていてもおかしくないはずだ。


「そっか…あんまり騒ぎだててほしくないんだけどな」


そう、落ち込んだ表情を作ってみせる。


稲森先生の動向に気をつけなければいけないかもしれない。そう思った。


もし、お兄ちゃんがわざと火を付けた事が分かれば、お兄ちゃんは逮捕されて帰ってこないだろう。


それだけは阻止する必要があった。

そんな時、クラスのホームルームで隆春君に千羽鶴を作って持って行こうと言う話になった。


提案者は利香だった。そう言えば、隆春君のお見舞いには一度も言っていないことを思い出した。


クラスの皆は賛成するわけでもなかったが、誰も反対はしなかった。


特にする事も無いなら千羽鶴ぐらい作ってもいいかな。皆そんな感覚だったのだと思う。


実際、クラスの皆の記憶から隆春君はだいぶ薄くなっている感じがする。


薄情だろうか。高校生なんてそんなものだろうとも思う。眼の前にいない他人の事をいつも気にかけていられるほど、高校生の生活に余裕はないのだ。


特に、隆春くんはこのクラスで目立った友達がいたわけではないのがさらに、記憶を薄れさせる原因だった。


隆春くんがいる時は、皆が隆春くんに色々相談していたのに、勝手なものだなとも思う。私も同じかとも思う。


学級委員が担任の稲森先生に「それでいいですか?」と聞くと稲森先生は「ん、ああ。それでいいよ」と気のない返事をして、ホームルームは千羽鶴作りになった。

千羽鶴が出来上がった後に持ち上がった問題は誰がこれを持って行くかだった。


誰も立候補はしなかった。嫌がっているわけではなかったと思う。ただ、自分が行かなくてもいいだろうと思っていたんだと思う。


私は沈黙している教室の中で手を上げて立候補した。隆春くんに会うちょうどいい機会だと思ったのだ。


稲森先生はその時にはもう教室にはいなかった。学級委員長に後を任せて、職員室に帰っていたのだ。


私が、手をあげると委員長は「他に立候補がいないならゆかりさんにお願いしたいと思います」

そう言って、私に千羽鶴を渡してホームルームを終わらせた。

次の日の放課後私は広沢医科大病院に向かった。もう、通い慣れた道のりだった。


家を出る時に夕食はすでに作ってきていた。お兄ちゃんは相変わらず部屋から出てこない。


でも、大分しっかりしてきている感じがしていた。火事の後の時ほど、ボーっとしている事は少なくなったし、口数は増えてきていた。


病院に着いた。正面玄関を抜けてしずるさんの病室に向かう。そっと病室のドアを開けて中を覗くと、いつもと変わらずしずるさんがチューブに繋がれたまま眠っていた。


私はそれを見ると、ほっと安心して、隆春君の病室へ向かった。看護師さんに病室を聞くと601号室だと教えられた。


それほど、道に迷わずに病室に辿り着いた。ドアを開けようとして腕を伸ばした所で体が硬直した。


手のひらにじっとりと汗がにじむ。しずるさんの病室に初めて行った時はこんな事はなかった。


隆春くんに会うのが怖かった。

病室の扉を意を決して開けた。部屋の中はしんと静まり返っていた。


病室の窓が開いていて、入ってきた風が私の頬をなでた。そっとベットに近づく。


千羽鶴をベットの横の棚に飾った。棚の上に置いてある花瓶には花が入っていた。


誰かが見舞いに来ているのだろう。家族かもしれない。


そこで、ようやく隆春くんの顔を見た。隆春くんの顔は奇麗な顔をしていた。本当にただ眠っているようだった。


紗英の事を思い出した。急に吐き気が襲ってくる。首がぎりぎりと締め付けられているように。


鼻の奥にツンと煙草の匂いがした気がした。頭が痛くなって座り込みそうになる。


紗英の言葉が頭に響く。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


うるさい。


ごめんなさい。


うるさい。


ごめんなさい。


ごめんなさい。本当は私が謝るべきだった。


隆春君ごめんなさい。紗英ごめんなさい。しずるさんごめんなさい。お兄ちゃん。ごめんなさい。



がらりと病室の扉が開いて稲森先生が入ってきた。

稲森先生とは少しだけ世間話をした。この病院に来るのは初めてだと嘘を吐いた。


しずるさんを見に来ている事を知られたくなかったからだ。


それを知られてしまったら。お兄ちゃんの苦労が水の泡になってしまうかもしれない。


他には、私が来月引っ越す事を先生に話した。


「兄もあんな事になってしまいましたし」


私はそう言った。


「ああ、私も焼香をあげてきた所だ」


先生がそう言った。




あれ? なんで私は引っ越すんだっけ?


おかしい。


焼香? 誰の?


記憶がこんがらがっていた。






お兄ちゃんが死んでる?

もう一度、よく思い出してみる。思い出さなければいけない。


私が事故を起こして、火事があって、洋子さんが亡くなった。その時、お兄ちゃんは確かにいた。部屋で本を読んでいたはずだ。


そこまでの記憶は確かだと思う。


でも、そこからがよく思い出せない。そうだ、確か、あかねからメールが来たんだ。


私は今回の事もあかねに話していたと思う。誰かに話せる。それが私の心の支えだったんだ。


見たことも会ったこともない。でも、そこに確かにいる相手に話すことができる。それが私には救いだった。


そのあかねからメールが来たのきっかけだった。


「お兄さんの様子をきちんと見てあげた方がいいと思うよ。人って追い詰められると何するか分からないから。

自分から命を絶つ…なんて事はしないと思うけど、何があるか分からないから、刃物とかは隠しておいた方がいいと思う」


そんなメールが来ていた。私もお兄ちゃんがそんな事をするとは思えなかった。


思えなかったけれど、ここ数日のお兄ちゃんを見ていると絶対に無いとは言い切れなかった。


だから、私はお兄ちゃんが出かけた時、部屋に入ったのだ。


今思えば、急に外に出掛け始めたお兄ちゃんに違和感を持つべきだったのかもしれない。


でも、その時の私はそんな事考えつきもしなかった。


お兄ちゃんの部屋の中は奇麗に片付けられていた。


片付けられていたというよりもほとんど物を動かした形跡がなかった。


本棚には教科書が並んでいたし、机の上にも筆記用具等が奇麗に片付けられていた。


机の引き出しをなんとなく開ける。お兄ちゃんは昔から大事な物や人に見られたくない物は机の引出しに入れる癖があった。


引き出しを開ける。鍵の掛かる構造だったけれど、鍵は掛かっておらず、すんなりと引き出しが開いた。


中には1冊の本が入っていた。数日前届いた本の様だった。表紙は真っ黒で金色の文字でダイアリーと書かれていた。

私はパラパラとページをめくる。



気がついた。


これ、洋子さんの日記だ。

それは、壊れた心の物語だった。


バラバラで散り散りで粉々な物語だった。


ゆっくりとページを捲りながら私はその物語を読む。そして、私は知っていく。


泉先輩の家庭が崩壊していたこと。


彩香ちゃんが洋子さんの子供だって事。


彩香ちゃんが私の事故を目撃していたこと。


そして、それを誰にもしゃべらず死んでいったこと。


唯一聞かされた、洋子さんも死んでいったこと。


私は全てを読み終えると、ページを閉じて引き出しにその日記を片付けた。


お兄ちゃんはまだ帰ってこない。

その日の夜になってもお兄ちゃんは帰ってこなかった。


私は二人分作った夕食を一人で食べた。


ずっとお兄ちゃんの帰りを待っていたのですっかり冷えてしまった夕食はパサパサしてあまり美味しくなかった。


お兄ちゃんの分の夕食を残して、食器を片づけて、皿洗いが終わってもお兄ちゃんは帰って来なかった。


私は、お兄ちゃんを探しに外に出た。

当てもなく路地をさまよう。辺りはすっかり暗くなっていて、外灯もあまりない路地は薄暗く気味が悪かった。


冬の冷たい風が私の体をすり抜ける。コートぐらい着てくればよかったかなと思う。


私は、やはり当てもなく歩く。どこに向かっているのか自分でも分かっていなかった。


お兄ちゃんの行きそうな所が分からなかった。お兄ちゃんの事が分からなかった。


泉先輩の家だろうか? そう思って立ち寄ってみたが、電気は消えていて、人の気配はしていなかった。


どれぐらい歩いただろう。お兄ちゃんの行先は分からず、かと言って帰る気にもならず、ただひたすらに歩いていた。

ピリリリリリリと携帯電話が鳴った。


メールが届いているようだ。差出人のメールアドレスを確認する。


見た事のないアドレスだった。

タイトルは無題。本文には一言だけ書かれていた。


体育館準備室。

私はそのメールに導かれるように学校の体育館準備室に向かった。


正門には、当然鍵がかけられていたので私は裏通りの方からフェンスを乗り越えて校庭に入った。


体育館を目指す。ここからは近いはずだった。体育館の目の前まで来る。昼間は大きくて明るい場所だったが、夜見ると、ただその大きさと静けさが不気味だった。


体育館の扉を開ける。重いドアだったので開けるのに少し時間がかかってしまった。


鍵はかかっていなかった。私はそっと体育館の中を覗く。相変わらず暗い。


2階席の窓から月明かりが差し込んできていて、体育館の中を照らしていた。


ゆっくりと体育館準備室に向かう。ここにも鍵はかかっていなった。

まず初めに目についたのは椅子だった。どこの教室にもある、私たちが普段使っている椅子だ。


その次に目にはいったのは足元に置いてあった白い封筒だった。


そして、最後に目に入ってきたのは。最初から目に入っていたけれど、認めたくなかったんだろうと思う。


お兄ちゃんの首にロープが巻かれて吊るされていた。


ゆらゆらゆーらと揺れていた。

頭の中が痺れたように動かなかった。霧がかかっているように考えがまとまらなかった。


私はゆっくりと、白い封筒を手に取った。封筒の外側には「遺書」と書かれていた。


ああ、やっぱり。初めはそう思った。お兄ちゃんは自殺したのだ。そう思った。

白い封筒をゆっくりと開ける。ゆっくりとしか、開けられなかった。


手が震えてうまく動かすことができなかった。


中に入っている紙を取り出して、読み始める。冒頭は「お父さんお母さん、先立つ不孝をお許しください」から始まっていた。


読み進めていくうちに違和感に気がついた。それはお兄ちゃんが書いたものではなく、泉先輩が書いたものだったのだ。


そして、これは遺書なんかじゃなかった。遺書と銘打った、批判だった。嫌味だった。文句だった。叫びだった。訴えだった。恨みごとだった。憤りだった。


妹が殺されたことに、洋子さんが死んでしまったことに。泉先輩は怒っていた。

二人の死を止められなかった自分に。追い込んだ人々に。

泉先輩の遺書が終わりに差し掛かった。


そこで、私は気がついた。お兄ちゃんは死んでない。この遺書はお兄ちゃんが書いたものじゃないのだから。


遺書は言う。


「あなたには罪を背負ってもらいます」


遺書は言う。


「あなたには僕を殺してもらいます。この男は僕だ。洋子の為に人生を捧げ、妹の為に全てを投げ捨てた。この男は僕だ」


遺書は言う。


「今、あなたの目の前で僕は寝ています」


遺書は言う。


「あなたはきっと殺すでしょう。僕は確信しています」


遺書は言う。


「だって、あなたは彩香が遠藤明弘と洋子の子供だと知ったら許すことはできないから」



何かが弾けた。

気がついた時には私はお兄ちゃんに近づいていた。そして、迷わず、お兄ちゃんの立っている椅子を蹴り飛ばした。


首にロープがかかり吊下げられて立っているお兄ちゃんの足もとの椅子を蹴り飛ばした。


ガラガラを大きな音がして椅子が転がる。同時にロープがギシリと軋んだ。


お兄ちゃんがバタバタともがき始めた。私はお兄ちゃんの足を抑え込んだ。


しばらくして、お兄ちゃんは動かなかくなった。

その後、自分がどうしたのかは今でもはっきり思い出せない。


そのまま、体育館準備室を立ち去った気がする。次の日、西垣先生がお兄ちゃんを見つけた。


私は変わらず、学校に通っていた。周りの視線は冷たかったし、噂話も色々されていたと思う。


でも、私は気にしてなかった。どこかフワフワとした気分だった。現実感がないと言うか、記憶がはっきりしないというか。


そんな生活をしている時に千羽鶴の話になって、病院に行った。そして、稲森先生に会ったんだ。


少しづつだけれど、記憶がはっきり蘇ってくる。


この頃の私の記憶は本当に曖昧だった。お兄ちゃんはもういないと、口では言っていたのに、頭の中ではお兄ちゃんはずっと生きていた。


お兄ちゃんが死ぬなんて事こそが現実感がなかった。


自分で殺したって言うのに。

私は今の生活を守ろうと必死だった。例え、学校に居場所がなくても、学校に通えて、普通に生活する。それがお兄ちゃんが私に望んだものだったから。


だから、稲森先生が火事の事を調べているのは気にかかっていた。


もしかして、先生が火事の真相に気が付いてしまうんじゃないかと、気が気じゃなかった。


それに、病院に先生が来ているのも気になっていた。しずるさんのお見舞いにも行ったらしい。


しずるさんとも面識があるようだった。


私は、先生の行動を見張る事にした。

稲森先生を見張り始めてから数日経った頃、生徒指導室に入っていく、稲森先生と西垣先生を見た。


そっと、近付いて行ってドアの側に立った。中の声は辛うじて聞くことができた。


中では二人が何やら話をしていた。どうやら、西垣先生が浮気をしていたらしい。


どうでもいい話だった。


稲森先生が立ち上がる音が聞こえたので私は慌てて扉から離れた。


しばらく、様子をうかかがっていると稲森先生が生徒指導室から出てくるのが見えた。


それから、しばらくしても西垣先生は出てこなかった。私はそっと生徒指導室の中を覗き込んだ。


初め西垣先生はただ茫然と立っているだけに見えた。しかし、異様な雰囲気が生徒指導室の中を漂っていた。


どのような雰囲気かと言われると説明が難しい。ただ、私と同じ、追い詰められた人間が出す空気だった。


もしかしたら、私自身が追い詰められていたから感じられたのかもしれない。


今ならそう思う。

私は、西垣先生に声をかけたりはせずに職員室を後にした。稲森先生を追いかけるためだ。


稲森先生は思った以上に真相究明にのめり込んでいるようだった。このままでは、あの事故の犯人が私だと気がつくのは時間の問題かもしれない。


そこで、ふと思った。稲森先生は彩香ちゃんはともかく洋子さんとは仲がよかったはずだ。日記にはそんな風に読み取れる場所がいくつもあった。


すでに、稲森先生は私が犯人だって気が付いているんじゃないだろうか? 彩香ちゃんの言葉から洋子さんが犯人に気がついたかもしれない。それを稲森先生に話したのかもしれない。


背筋が冷たくなった。

先生の後をついて歩いた。別に何か目的があったわけじゃない。


ただ、先生から目を離してはいけない。そんな気がしたのだ。

目を離しているうちに誰かに事故の犯人をしゃべってしまうかもしれない。


そう思うと私は稲森先生から視線を切ることができなくなっていた。


稲森先生は私に気が付いているのかどうか分からないが、普通に家路についているようだった。


私は、先の事なんて考えずに稲森先生の後をついて行く。


途中でおかしな事に気がついた。私は先生に気づかれないようにとそれなりの距離を置いて後ろを歩いてた。


その私と、先生との間にもう一人、人影が絶えずある事に気がついた。



さっきまでは、人ごみが多かったので気がつかなかった。その人物もどうやら、稲森先生の後を付いてまわっているようだった。


人通りが少ない通りに来ると、突然、稲森先生が走り出した。

私の前にいた人影…男だ。男も走り出した。私も慌てて後を追う。


何度か路地を曲がった所で二人の姿を見失った。辺りをキョロキョロ見回す。


遠くで稲森先生と男、いつの間にかヘルメットをかぶっている。その男が鉢合わせしているのが見えた。


直後、稲森先生が膝をつく。ヘルメットの手には金属バットが握られていた。

ヘルメットの男が金属バットをもう一度振り上げた所で先生は逃げ出した。ヘルメットはすぐに後を追う。


私も二人について行こうと駆け出していた。


しかし、自分の行動とは裏腹に心境は複雑だった。これで、稲森先生が事故の事や火事の事を嗅ぎまわらなくなればいいと思っていた。


きっと、あれは。西垣先生だろう。浮気がバレたから、口封じをしようとしているのだと思う。


短絡的だ。そう思った。でも、私にはできないことだった。





いっそ、このまま稲森先生がいなくなっちゃえばいいのに。

次に二人を見つけたのはヘルメットを被った西垣先生が曲がり角に佇んでいる所だった。


地面には稲森先生が倒れている。西垣先生は稲森先生の足を金属バットで殴る。ビキッと鈍い音がした。


私はその場所から動けなかった。ただ、その様子を呆然と見ていた。西垣先生はかつんかつんと何度も金属バットを地面に当てている。


その音が聞こえるたびに強気な稲森先生の顔が歪む。稲森先生が何かを話しかけていた。


顔は強気だったが、その声は震えていて、この場所からは何を言っているのかは聞き取れなかった。


直後、西垣先生が咆哮を上げた。叫びでも鳴き声でもない。喉が裂けたような声だった。


西垣先生がバットを振り上げる。稲森先生の顔が恐怖に歪んだ。


私は気がつくと駆け出していた。

稲森先生も立ち上がって西垣先生に突進していた。


間に合わない。そう考えたとき私は叫んでいた。


「何してるんですか!!」


西垣先生の動きが一瞬止まる。それが決定的な隙だった。稲森先生が勢いを落とさず西垣先生に体当たりをする。


西垣先生は大きくバランスを崩してその場に倒れ込んだ。稲森先生は倒れ込もうとする自分の体を無理やり踏ん張ってこらえるとそのままこっちに向かって走ってきた。


「稲森先生!!」


私は稲森先生に声をかけると腕を引っ張って走り出した。


私、いったい何をしているんだろう? 自分でも訳が分からなくなっていた。

路地を走り抜けて家の近くの公園に先生を連れて来た。西垣先生も上手く捲けたようだし、この場所にはたどりつけないだろうと思った。


稲森先生は苦痛に顔を歪めながらベンチに座っていた。ハンカチを水で濡らして渡す。


「ああ、ありがとう」


そこで、ようやく落ち着いたのか初めて私の顔を直視した。その目が私の中を見透かそうとしているようで、私は思わず目線を逸らす。


案の定なぜ私があそこにいたのかを聞いてきた。私は下手に嘘をつくよりいいだろうと思って、二人の話を立ち聞きしてしまったと言った。


嘘は吐いていない。ただ、故意に聞いたとも言っていないだけだ。

私は稲森先生が何を知っているのかが気になっていた。事故の犯人は私だと気が付いているのだろうか?


私は、とりあえず西垣先生の浮気の話を振ってみることにした。


稲森先生のした話は痛快で爽快で恐ろしい話だった。決して論理立ってはいないし、穴だらけの推理だった。


でも、それで西垣先生の浮気まで辿り着いてしまったのだ。それは怖い話だった。


でも、それだけだった。話の中身は西垣先生の話だけだった。私は少し、ほっとしていた。

そして、稲森先生は言った。



「どうして、しずるさんを跳ねた事を黙ってるんだ?」

そこから先のやり取りはあまり思い出したくはなかった。


というよりも、必死にその場を取り繕っていただけで、自分でも何を言ったかほとんど覚えていない。


でも、気がついた時には私は稲森先生に問い詰められていた。


私は、素直に認めていた。事故の犯人は私だと。それで、良いと思った。私がずっと逃げ続けられるわけがないのだ。

ここで捕まった方が楽になれる気がしたのだ。もう、私を守ってくれるお兄ちゃんはいないのだ。


私の話を聞き終わった後、稲森先生がおかしな事を言い出した。


お兄ちゃんの口を封じる為に私がお兄ちゃんを自殺に見せかけて殺した?


馬鹿にしてるのかと思った。

そこからはただの感情の垂れ流しだった。思ったことを次々と口に出す。


自分の中にあった黒い染みが大きな黒い濁流になって、外に流れ出しているようだった。


心の中に遺書に書かれていた言葉が響く。


「あなたは彩香が遠藤明弘と洋子の子供だと知ったら許すことはできないから」


うるさい。


「あなたは彩香が遠藤明弘と洋子の子供だと知ったら許すことはできないから」


うるさい。うるさい。


「あなたは彩香が遠藤明弘と洋子の子供だと知ったら許すことはできないから」


うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。五月蝿い。五月蝿いウルサイウルサイ五月蝿いうるさい!!!


お兄ちゃんが私以外と家族を作るはずがない。だって、私を守ってくれるんだもの。いつまでも守ってくれるんだもの。


だから、他に家族を作ったあの男はお兄ちゃんなんかじゃない!!!

だから、私はお兄ちゃんのフリをしているお兄ちゃんを殺してやったんだ。

「誰にそそのかされたんだ」


突然、稲森先生がそう言った。



そそのかされた?


「私は、私の意志で兄を殺したんです!!」


私は叫んでいた。あの男を殺したのは私の意志だ。お兄ちゃんを殺したのは私の意志だ。


それは誰にも譲らない。譲るわけにはいかない。

稲森先生から返って来た言葉は辛辣だった。


言葉のひとつひとつが私の心に突き刺さった。


でも、そのおかげか少し、冷静になれたのも事実だった。冷静に考えると、なぜ私はあんな事をしたのか。自分でも説明できないんじゃないかと思う。今ならそう思う。


私はそう気が付いた時、頭の中が真っ白になった。何もなくなった。すべてがどうでもよくなった。


私は、大好きなお兄ちゃんを殺した理由すら持っていないのだ。


それは絶望的なまでの絶望だった。虚無だった。



私には何もないんだ。


私は駆け出していた。


どこに向かおうと決めていたわけじゃなかった。


ただ、足が学校の時計塔に向かっていた。


だから、私は今ここにいる。


時計塔の屋上に。

私は、パタンと携帯を閉じた。液晶画面には「送信しました」と表示されている。


さっきまで、私が考えていた事全てを、メールに書いて送信した。


送りつけられた相手にしてみればいい迷惑だと思う。


でも、私はそれでも何かを残したかった。私がここにいたという事を。私の中にも何かがあったんだと言う事を誰かに言いたかった。


たとえそれが読まれなくてもいい。そのまま捨てられてもいい。


でも、私は残したかった。

携帯電話を地面に置く。


ゆっくりとした動作でフェンスを乗り越えた。


目の前に見える景色はとても奇麗だった。夕焼けが街全体を赤く染めている。


ああ、紗英。これが紗英の好きだった景色なんだ。隆春君と見たかった景色なんだね。


なんとなく。そう思った。紗英は私の事を覚えていてくれるだろうか?


紗英だけは私の事を忘れないかもしれない。そう思うと少し、嬉しかった。


皮肉な話だけど。


ああ、奇麗だな。


私は、足を一歩前に踏み出そうとする。


ピリリリリリと携帯が鳴った。


足を出すのをやめて、液晶画面を開く。そこにはあかねからの返信が送られてきていた。


「がんばったね。ゆかり。もういいんだよ。これからは明日を見て行こうよ。後ろを向かずに前を向いて。いつでも、目の前には開けてるんだよ。さぁ、新たな大きな一歩を踏み出そうよ」






そうだね。



私は、携帯の液晶を閉じた。




そうだね。大きな一歩を踏み出そう。






私は、屋上の縁から一歩を踏み出した。何もない空間へと。




私の体を支えるものは何もなくなって。


私も居なくなった。

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