第2話 独白。
遠藤明弘が遺体で発見されてから数日が経った。
遺体が発見された場所は、学校の体育館ステージ横の準備室だった。
第一発見者は生徒指導の西垣先生だ。朝の見回りの途中に発見したらしい。
遠藤明弘は準備室で首を吊っている所を発見されたが、遺書などは発見されていない為、自殺なのか他殺なのかははっきりしていない。
「稲森先生、遠藤の家に行くんですって?」
西垣先生が私にそう言って話しかけてきた。
「ええ。ちょっと。お葬式には顔を出せませんでしたからご焼香にと思いまして」
「…そうですか」
何か言いたげな西垣先生を置いて私は遠藤家へ向かった。
遠藤明弘は妹と二人で暮らしていたが今はその妹も居ない為、遺骨は親族が引き取ったらしい。
私は、遠藤家にたどり着くとインターホンを押した。中からは白髪交じりの女性が顔をだした。
「すいません。遠藤明弘さんの通っていた学校で教師をしています、稲森と言います。葬儀に顔を出せなかったものですから、ご焼香だけでもあげさせてもらえればと思いまして伺わせていただきました」
「そうですか、お上がりください」
その女性について私は遠藤家に足を踏み入れた。
遺骨に手を合わせてもどると、先ほどの女性がお茶を出してくれた。
「どうも、ありがとうございます。あの子も喜んでると思いますわ」
私は、あいまいな笑顔でその言葉に答えた。
「いい人でしたよ。明弘さんは」
そう付け加えた。女性は俯きながら小さく何度もうなずいていた。
私は、許可をいただいて、遠藤明弘の部屋に来ていた。
部屋は綺麗に整っていて、生きていた頃そのままのようだった。
本やCDはジャンル別に分けられて棚に納まっていた。
部屋の端にあった机に目が行った。中を見てみると教科書や参考書などが入っていた。勉強熱心だったんだなと思わせるほど、参考書は使い込まれていた。
机の一番上の引き出しを開けようとして、鍵がかかっている事に気が付いた。
しばらく考えた後、机の上に置いてあった賽銭箱の形をした貯金箱を逆さまにして振る。
すると、中から小さな鍵が出てきた。私は鍵を引き出しの鍵穴にさして回した。
スッと何の手ごたえも無く、鍵が回る。中を開けると茶色い封筒が入っていた。
中を覗く。そこには少し大きな日記帳が入っていた。
…見つけた。
洋子は日記をつける習慣があった。毎日つけるほど几帳面だったわけではないが、私も何回か見せてもらった事がある。
洋子が死んだ時、日記帳の束の中から、最近の1冊だけがなくなっていたのだ。
散々、探したが見つからなかった。
心当たりは、もうここしかなかった。
その、ハードカバーの日記帳をゆっくりと開く。
私には、これを見届けなければいけない義務がある気がしていた。
…エゴだけど。
洋子の日記は次の一文から始まっていた。
******************
妊娠していると医者から聞いた時、目の前が真っ暗になった。
私と、あの人は、子供は出来てはいけない関係だったのに
産まないという選択はできなかった。私が怖かったし、あの人も許してはくれなかっただろう。
結局、私は彩香を産んだ。そして、彩香は透さんに引き取られて養女になった。
こんな事を思い出すのは、今日が彩香の誕生日だからだろうか。
私と透さんは一緒に住む事はできなかったけれど、私はそれでも幸せだった。
彩香も透さんと一緒に暮らしていて幸せそうだった。私も母親だと名乗る事は出来なかったけれど、時折家に遊びに行って見ることが出来るだけで私はそれでよかった。
今日は、彩香の誕生日なので、透さんの家に行って来た。
家に着くと透さんの息子の泉君が出迎えてくれた。
「いらっしゃい。お待ちしてましたよ」
泉君は礼儀正しく頭を下げると中へ通してくれた。泉君は本当によく出来た子だと思う。さすがは透さんの子供だ。
「相変わらず、すまし顔だなぁ、泉君は。このこの!」
私はそう言って泉君の頭をぐりぐりとなでまわす。
「あ、洋子お姉ちゃんだ! いらっしゃい!」
廊下の奥から彩香が顔を出してこちらに突進してきた。彩香を体全体で受け止めるが、その勢いで二、三歩後ろによろめく。
「彩香ちゃんは今日も元気だね」
「うん! ほら、こっち。早く早く」
彩香に腕を引っ張られて奥の部屋に進む。
「お、よく来たね」
部屋の中では透さんがケーキの準備をしているところだった。
「お邪魔します」
頭を下げて挨拶をする。
「ね、ね。蝋燭買ってきてくれた! 私、洋子お姉ちゃんと一緒に吹き消すんだ!」
彩香がはしゃぎながら透さんの周りを走り回る。
「ちょっと、待ちなさい。隣の部屋の茶箪笥の引き出しに入ってるから取ってきてくれるかな」
「はーい」
彩香が楽しそうに隣の部屋に走っていく。
透さんがそんな彩香を見ながらしみじみと呟いた。
「君が、雨の中赤子を連れてこの家にやってきてからもう8年も経つんだね」
「あの時は本当にお世話になりました。いまでも透先生には感謝しています」
「いや、私にできる事はこんな事ぐらいだからね。彩香も元気に育っているしね」
「ええ」
「お父さん、蝋燭5本しかないよ」
隣の部屋から彩香が帰ってきて頬を膨らませていました。
「ああ、ごめんよ。足りなかったか。ちょっと買いに行って来るよ」
「あ、先生。私が行きますよ」
「いや、いいんだ。お客さんは座っていてくれ」
透さんは、そう言うと、手を振って玄関を出て行きました。
そして、そのまま帰ってきませんでした。
先生が家を出て行ってから2時間ほど経った頃、電話の着信音がなりました。
「はい…はい。…はい」
電話に出た泉君の声は低く何の感情も含んでいないような、石綿のような声でした。
「すいません。洋子さん。父が…事故にあtt
何を言っているのか分かりませんでした。
その場所で見た透さんは
バラバラで
赤かった。
嘘。全部嘘だ。
1週間ほど、家から出ずに生活をしていた。
さすがに、食料もなくなったので仕方なく買い物に出かける。
出先のスーパーで見知った顔に出会った。
透さんだ。
私は思わず駆け出していた。透さんを捕まえるように抱きついた。
「…洋子さん?」
透さんはすこし不思議そうな顔をしていた。
「よかった、もう大丈夫なんですね。私心配で心配で。よかったぁ、透さんが無事で」
透さんは少し、怪訝な顔をした後
「洋子、ひどい格好をしていますよ。一度家に来てください」
私の頭を撫でながら穏やかな表情で笑った。
透さんの家に着くと中から彩香が顔を出した。
「あれ? 洋子お姉ちゃん。どうしたのその格好?」
「とりあえず、お風呂に入ってください」
透さんに背中を押されて浴室に入る。
「服は外に出して置いてください。洗いますから。乾くまでの間はTシャツとかしかないですけど」
透さんの足音がトタトタと浴室から離れていく。
その音を聞きながら浴室にあった全身鏡に映る自分を見た。
確かにひどい格好をしてる。自分でもそう思った。
一週間以上お風呂にも入っていないのだ。髪の毛はバリバリに固まっているし、体の垢もシミのようにこびりついている。
これは、ひどい。私はここまで落ち込んでいたのかと自分でも驚いた。
そして、自分の頬をぴしゃりと叩いて気合を入れる。
よし、女の子に戻ろう。そう思って浴室のドアを開けた。
結局、お風呂から出たのは1時間半ぐらいかかってしまった。
浴室にはTシャツとハーフパンツが置いてあった。これを服が乾くまで着ていろと言う事なのだろう。
ありがたく、借りる事にする。
浴室を出て、居間に行くと透さんと彩香が2人でテレビを見ていた。
「あ、すっきりしましたか?」
透さんが笑顔で聞いてくる。
「ええ、おかげさまで。ご迷惑をおかけしました」
苦笑して答える。
「洋子お姉ちゃん。綺麗にしてないと駄目だよー。せっかく美人さんなんだから」
彩香が笑いながら言ってきた。
私も、笑い返す。私達は3人でしばらく笑いあった。
本当に、透さんが無事でよかった。そう心の底から思った。
久しぶりに、日記を書こうと思う。もう、1年近く日記を書くのを忘れていた。筆不精もここまでくると、いっそ清清しい。
前に書いたのはいつだったっけ?
ああ、透さんが事故にあった直後の日記が最後になっているみたいだ。
今日から、日記をまたつけ始めようと思う。
日記をつけ始めてから、もう何年にもなるが、3ヶ月以上続いた事がない。書いては止め、書いては止めをくりかえしている。
今度こそは長く続けてみようと思う。
そうそう。今日は早速書く事があるんだった。
今日は久しぶりに友達の稲森涼子に会ったんだった。
涼子は全然、変わってなかったな。
涼子と再会したのは意外な場所だった。
泉君が通っている高校の先生をしていたのだ。私は、今日、彩香を連れて泉君の通っている学校に行ったのだ。
そこで、偶然にも涼子と再会した。
涼子は驚いていたようだったが私が泉君のお父さんから泉君と彩香の事を頼まれている事。
昔からの知り合いである事を言うと納得したようだった。
学校の仕事が終わった泉君に彩香を預けさせてもらって、私達は積もる話を喫茶店でする事にした。
涼子とまともに会うのは大学を卒業してからなので、もう5年になるだろうか。
昔から、私の相談によく乗ってくれていた。私も涼子によく相談していた。隠し事なんてほとんどした事が無い。
彩香の事を除けばだけれど。
喫茶店で涼子と話をしていると学生の頃に戻った気分だった。
私が色々と話して、涼子がそれに落ち着いた声で答える。
私は、涼子の物静かだけれども芯のある声が好きだった。
でも、好きだからこそ。言えないこともあった。
彩香の事は黙っておく事にした。心配をかけたくないし、今の状況に不満があるわけでもない。黙って、懐かしい友達として話しているほうがお互いにとって良いことだと思う。
「今は、何をしてるの?」
私が物思いにふけっていると涼子が話しかけてきた。
「今は、仕事をしながら気ままな1人暮らしだよ。あの兄妹の世話もたまにしてるけど」
「そうか、元気にやっているなら、それに越した事はないね」
涼子が微笑む。
「私は、元気にやってるよ。元気だけが私のとりえみたいなものだからね」
そう言って、笑う。
「でも、また涼子の学校に遊びに行ってもいいかな、彩香ちゃんを連れて。そのほうが泉君も安心するだろうし」
「ああ。騒ぎを起こしたりしなければ問題は無いだろう。他の先生方には一応話を通しておいてあげる」
「ありがとう」
やっぱり、持つべきものは友達だね。
今日は、本当に良い1日だった。
今日、透さんの家に行くと彩香が1人暗い部屋の隅で震えていた。
私はどうしたのと声を掛けるとただ小さく震えて首を振るだけだった。
部屋の明かりを点けようとスイッチを探して電灯を点ける。
「やめて!!」
彩香が突然大きな声で叫んだ。
その声を聞きつけて透さんが部屋にやってきた。
そして、すぐに部屋の電気を消して、彩香の背中をゆっくりとなでる。
しばらくすると、彩香は震えが収まってきたのかゆっくりと呼吸をし始めた。
透さんは一通り彩香が落ち着いたのを見るとベットに運ぶ。
しばらく、手を握っているとすうすうと寝息が聞こえてきた。
透さんは、そっと足音を忍ばせながら私に部屋を出るように目で合図をしてきた。
「彩香は私が事故にあったのは自分の責任だと考えているんです」
透さんは私にお茶を入れながらそう言った。
「…あの日、蝋燭を欲しがらなければ事故には合わなかった。彩香はそう考えているんです」
「そんなの偶然じゃないですか」
「私もそう言ったんですけどあの子は自分が許せないようです。…頭のいい子ですから。しばらくは、そっとして置いてあげてください」
透さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
別に透さんが悪いわけじゃないのに。
彩香と泉君の通っている高校に行って来た。
昼間に泉君から連絡があって今日は帰りが遅くなるから彩香を向かえに行ってくれと頼まれたのだ。
最近は、そういう生活に慣れてきていたので私も快く承諾した。
私が仕事を終えて彩香の小学校に行くと彩香が校庭から走ってきた。
「洋子お姉ちゃーーん」
叫んで私のお腹に体当たりをする。ぐっと息が詰まる。
「彩香ちゃん。痛いわ。何するのよ!」
そう言って頭をぐりぐりとしてやる。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
彩香はそう謝りながらも楽しそうに笑う。
「今日も、お兄ちゃん、帰り遅いの?」
「うん。そうみたいね。お姉ちゃんとまた遊んでようか」
「鬼ごっこね! 洋子お姉ちゃん本気でこないとずっと鬼だよ!」
その日は、一日中鬼でした。
「洋子お姉ちゃん。しずるさんに会いに行きたいんだけどいい?」
鬼ごっこを終えて、息も絶え絶えな私に彩香が話しかけてきた。
「…しずる…さん?」
「うん。学校の裏の家に住んでる人なんだけど。ものすごく優しい人なんだよ。私も、よく遊そんでもらってる」
「ご迷惑じゃないの?」
「いつでも来ていいよって言われてるの!」
「まぁ。そのしずるさんが迷惑じゃないなら」
「じゃあ、決まり! ほら、早く行こうよ!」
私は彩香に手を引かれて校舎を出て行った。
しずるさんの家は学校の裏門を出て、大通りを渡った先の路地にあった。
彩香が元気よく走って玄関に向かい、インターホンを鳴らした。
しばらく、すると扉が開いて背の高い女の人が顔を出した。髪が長く、綺麗な人だなと思った。
「あら、彩香ちゃん。いらっしゃい」
「お邪魔します!」
彩香が挨拶をすると、しずるさんの足元から何かが飛び出してきた。その何かは彩香に飛び掛るとそのまま彩香を押し倒した。
「わわわ。こら、トト。ちょっと落ち着いてよ。よしよし」
「ああ、もう。ごめんなさいね。ほら、トトいい子にしなさい」
そう言って、しずるさんはトトと言う名前の柴犬、だと思う。を抱きかかえた。
そして、その時、初めて私と目が合った。
「あ、どうも。こんにちわ」
私が頭を下げると、しずるさんも丁寧に頭を下げ返してくる。
「どうも、こんにちわ。彩香ちゃんのお友達ですか?」
「洋子お姉ちゃんはね。私のお母さんみたいな人だよ!」
心臓がドキリと跳ねた
しずるさんの案内で室内に通される。部屋全体がシンプルで綺麗にしているようだった。
勧められるがままにソファに座っているとしずるさんが紅茶を運んできた。
あまり、紅茶には詳しくなかったけれど、少し甘くて美味しかった。
「うははー。ちょっと、なめないでよー」
彩香は楽しそうにトトと遊んでいる。
「彩香ちゃんはいい子ですね」
しずるさんが向かいのソファに座りながら話しかけてきた。
「トトが一度家から飛び出しちゃった事があったんですよ。どうやら、学校に逃げ込んじゃったらしくて。そのトトを見つけて連れてきてくれたのが彩香ちゃんなんですよ」
「そうなんですか」
どたんどたんと大きな音がした。彩香がトトと勢い余って棚にぶつかったのだ。
「こら、あんまりはしゃぎすぎないの!」
「はーい…ごめんなさい」
私が注意すると、小さな声で謝る。そんな様子を見てしずるさんがにっこりと微笑んだ。
「なんか、本当に親子みたいですね」
「いえ、私は透さん…あ、彩香ちゃんのお父さんに頼まれて…」
そう言ってもしずるさんはただ微笑むだけだった。
「ね、ね。しずるさん良い人でしょー」
しずるさんの家から帰り道、彩香は楽しそうに言った。
「そうね。綺麗な人だったね」
「私も将来あんな風になれたらなー」
「んー。彩香はちびすけだからなー」
「…洋子お姉ちゃん、うるさいー。これから、これからだもん!」
また、しずるさんの家に行ってみたいなと思った。
今日、予想外の事が起きた。明日の土曜日に透さんと映画を見に行く事になったのだ。
彩香の面倒は泉君が見てくれるらしい。普段疲れている父親をねぎらうつもりで映画のチケットをプレゼントしたらしい。
1人で行くのはつまらないだろうからと言う理由で泉君は私にもチケットをくれた。
「…がんばってくださいね」
泉君は私にそう小さく呟いた。
「何のこと?」
「いえ、別に…」
含み笑いをする泉君は少し感じが悪かったけれど、それでも私はびっくりしていた。
どうしよう、嬉しい。
昨日の夜はほとんど眠れなかった。洋服はなにを着ようか? 今日はどんな話をしようか。高校生かと自分でも思ってしまうほどのはしゃぎ様だった。
でも、朝かかってきた電話でそんな気分は吹き飛んでしまった。
その電話は透さんからで、内容は彩香が風邪を引いてしまったので、今日は出かけられないというものだった。
私は、その電話を聞いて、透さんの家に向かった。
家につくと中はにわかに騒がしかった。頭を冷やすための水をかえたり、お粥を作ったりと忙しそうだった。
「あ、洋子さん。今日は申し訳ない。無理矢理つきあわせたのに、急にキャンセルしてしまって」
「しょうがありませんよ。風邪はこじらせると大変ですから。それより、何か手伝いますよ」
私は、そういって家にあがった。彩香は顔を赤く上気させて苦しそうに布団に横になっていた。
「彩香、大丈夫?」
声をかけても苦しそうにうめくだけだった。
「病院は行ったんですか?」
頭にのっていたタオルを水につけてしぼりなおしてあげる。
「まだ、行っていません。車がないのでつれていこうにも起こすわけには行かなくて」
「とりあえず、私の車を出しますので病院に行きましょう」
「ああ、お願いします。色々申し訳ないね」
「いいから、行きましょう」
彩香の体を濡れタオルで拭いてあげる。意識が朦朧としているのか、目の焦点が合っていない。それでも、なんとか服を着替えさせる。
彩香を透さんに抱えてもらって、車に乗せた。
病院まではそれほど距離はない。あまり揺らさないように車を走らせた。
待合室で待っている間も彩香は苦しそうで、それを見ている透さんも苦しそうだった。
私もそれを見て、心が苦しくなる。
診察を終えるとまた、車に乗せて家に帰った。
点滴をしてもらったおかげか、彩香の症状は多少、落ち着いてきていた。
家に帰って、彩香を布団に寝かせる。しばらくすると、すうすうと寝息をたて始めた。
それを見ると、安心したのかほっとした表情で居間に座る。
「今日は本当に申し訳なかったね」
透さんが、今淹れたコーヒーを目の前においてくれる。インスタントコーヒーだったが、美味しかった。
「いいんですよ。困ったときにはお互い様です。それに、彩香は私の子供ですから」
透さんは何も言わず、ただ頭を下げただけだった。
「映画は、また今度行きましょう。…やっぱり、ご迷惑ですか?」
「そんな事、あるわけないじゃないですか。…でも、やっぱり、彩香が大きくなるまではやめた方がいいかもしれませんね」
私はそういって、コーヒーを口に運ぶ。思っていた以上に苦かった。
コーヒーを一気に飲み干すと私は席に立った。
「私、彩香の様子を見てきますね」
襖を開けて、音を立てないように、隣の部屋に入る。彩香は静かに寝息を立てていた。
頭をそっとなでる。心なしか、顔の表情がゆるんだ気がした。
「大きくなったね…」
小さく呟いた。
「…う…ん」
むずがるように彩香が寝返りを打った。
「…彩香」
彩香がゆっくりと目を開けた。
「お姉ちゃん、もう無理しなくていいんだよ」
目はうつろなままで、でも、口調だけははっきりと彩香が言う。
「お姉ちゃん一緒にいたいんでしょ? 私が邪魔してるの? 遠慮しなくていいの。私は、お姉ちゃんの事、全部知ってるから」
目の前が歪む。頭がぐらぐらしてきた。
「私、協力するよ。お姉ちゃんの為なら、このままでも良いと思う。お兄ちゃんは怒るかもしれないけど、私は、お姉ちゃんの味方になるよ。でも、ひとつだけお願いがあるの。…私を捨てないで」
…怖い。
今日は、長い日記になりそうな気がする。
自分でも気持ちの整理がまだついていない。
日記に書くことで少しは落ち着くかもしれないと思って、今、これを書いている。
今日、何があったか。それから振り返る事にしようと思う。
今日は朝から良いことがなかった。出かけるときは晴れていたのに、会社に着くまでに大雨に打たれたし、仕事でも平凡なミスを繰り返してしまった。
今日はものすごく疲れていたというのが本音だった。仕事が終わって携帯を見たときに泉君からメールが来ているのを見たときに少し、心が重たくなったのを覚えている。
でも、気を取り直して彩香の学校へ向かった。会えば気が晴れると思ったのも事実だった。
この前の事があってから、なんとなく気まずくはあったけれども、あれ以来、彩香は何もいわないし、私も何も言ってない。
学校に着いて、職員室に向かう。
もう何度も来ているので先生達とも顔見知りだ。先生達も事情を知ってくれているので、彩香も授業が終わると職員室で待っていることが多かった。
今日も、職員室に行くと顔見知りの先生がいたので、会釈をする。
「あ、洋子さん。彩香ちゃんなら、お兄さんの学校へ行ったみたいですよ」
「あれ? そうなんですか? どうも、ありがとうございます」
私は、教えてくれた先生に頭を下げる。彩香は一人で泉君の学校へ行ったようだった。別に珍しいことではなかった。
今までも、何度か彩香がひとりで泉君の学校に行くことはあった。
距離も近いし、何より職員室でひとりで待っているのは退屈するのだろう。
私は、泉君の学校へ向かった。学校へ行くと校庭で泉君と涼子に会った。私を見ると泉君は
「あ、洋子さん。良いところに。僕これからちょっと用事があるので体育倉庫の鍵を閉めておいてもらえませんか?」
鍵を投げ渡されたので慌てて受け取った。
彩香を見かけいないか聞こうと思ったときにはふたりは、すでに遠く離れていた。
仕方がないので自分で彩香を捜すことにする。
校庭を一周してみたが姿は見えなかった。
しずるさんの家にまたおじゃましてるのかと思って、裏門から学校を一旦出た。
しずるさんの家の前に着いたが、誰もいないのかしんと静まり返っていた。
インターホンを押しても返事がない。
「ここにも居ないの? どこに行ったのかしら」
もう一度、学校に戻って見る。昇降口でゆかりちゃんとすれ違ったので、聞いてみる。
「彩香ちゃん。見なかった?」
ゆかりちゃんは、時折、彩香と一緒に遊んでくれる生徒さんだ。人懐っこく可愛らしい。
「うーん。今日は見てませんねー。この学校に来てるんですか?」
「たぶん、来てると思うんだけど」
「一緒に探しましょうか?」
「ううん。たぶん、すぐ見つかると思うから大丈夫」
そうですかと呟くとゆかりちゃんはぺこりと頭を下げて立ち去っていった
「どこに、行ったのかしら?」
ふと、思い出したことがあった。前に泉君が言っていたこと。
「彩香は父の事故以来、嫌なことがあったりすると、暗い場所に隠れる事があるんですよ。学校なんかだと、体育倉庫とかね。前にも一回あったんですよ。体育倉庫に彩香が隠れてて見つからなかったこと」
私は、体育倉庫に向かった。
ここから先は、はっきりと覚えていない。
確かに、彩香は体育倉庫に居たんだと思う。
体育倉庫の扉を開けようとしたときには先日感じた恐怖をまた感じたのだ。
理由は分からなかった。私は実の娘の何に怯えているのだろう? 頭ではそう思っていても手が動かなかった。
中に彩香が居ると思うだけで怖かったのだ。
それは5分だったのだろか? それとも数秒だったのだろうか。私には分からない。
でも、私は意を決して扉を開けた。
初めは誰もいないのかと思った。
それぐらい、中は暗かった。目を凝らすと、部屋の隅に彩香がうずくまっているのがうっすらと見えた。
「彩香ちゃん?」
おそるおそる近づく。近づいていくと肩が小刻みに震えているのが分かる。
そっと、肩に手を置いた。彩香の体がビクンと跳ねた。
「…大丈夫?」
声をかけると、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「洋子お姉ちゃん…」
彩香の顔はげっそりとしていた。
「やっぱり、私駄目みたい。私がいるとみんな不幸になるの」
「何言ってるの?」
言っている意味が分からず、聞き返した。
「…私と、一緒にいると、私の大好きな人は不幸になる運命なの」
「そんなわけないじゃない。何があったの?」
私が彩香の肩をゆっくりつかんで聞いた。
「…しずるさんがね。バイクにはねられたんだ。今さっき、私の目の前で」
驚いた。そんな事が起こっていたなんて。
「そんなの、彩香のせいじゃない」
私がそう言っても頭をかたくなに横に振る。
「私にぬいぐるみを届けようとしたみたいなんだ。このウサギのぬいぐるみ。
前にトトが噛んじゃって破れたのを直してくれてたんだ。私がしずるさんの家に行こうと裏口を出たところで、しずるさんが大通りの向こうに見えたんだ。
私を見つけてぬいぐるみを掲げて、こっちに渡ろうとしたときに…横からバイクが…。
本当についさっきまで元気だったんだよしずるさん」
「でも、やっぱりそれは偶然でしょ?」
その言葉を言った私を強く睨みつけてきた。
「偶然なんかじゃないよ。偶然じゃない。1年前のお父さんの事故だって偶然じゃない。
お姉ちゃんも本当は分かっているんでしょ?」
私は何も答えない。
「…ごめんね、お姉ちゃん。私、黙ってたことがあるんだ。本当はね。
私、知ってるんだ。私の本当のお母さんの事……ね、お母さん」
「な、何言ってるの? 彩香?」
彩香の表情は暗がりでよく見えない。
「あれ? いつもみたいに、彩香ちゃんって呼ばないの?
私はいつもみたいにお姉ちゃんって呼ぶことにするね」
今、私はどんな表情をしているんだろうと思った。
「ねぇ、お姉ちゃんはさ、お父さんの奥さんって知ってる?
写真でしか見たことないんだけど、とっても綺麗な人だよ。
昔、お父さんに聞いたことがあるんだ。どうして、私にはお母さんがいないの?って。
お父さんは悲しそうな顔をして言ったよ。お母さんは遠いところに行ったんだよって。
私、その時は分からなかったけど、後になってきっとお母さんは死んだんだろうって思ってた。
お父さんはだからそう言ったんだって。…でも違ってた。
お母さんは生きてたんだよ。お母さんは家を出て行ってただけだったんだよ。
なんで、家を出ていったか。お姉ちゃんなら分かるよね?」
私は、思わず耳をふさぐ。頭が痛くなってきた。
「お父さんはね、私のことでお母さんと喧嘩したんだって。
お母さんは私を引き取ることに反対だったみたい。理由は…なんとなく、分かる気がする。
私も女の子だから。でも、ちょっと悲しいかな」
「誰にそんな話を聞いたの?」
声が震えているのが自分でも分かった。
「お兄ちゃん。でもね…お母さんはきっとお父さんの事本当に好きだったんだよ。
だから、あの日。あんな事をしちゃったんだと思う。私がお父さんと一緒に楽しそうに歩いているのが許せなかったんだと思うんだ。
だから、あの私の8歳の誕生日、あの時、私がお父さんと蝋燭を買いに行ってるのを偶然見てしまった、お母さんは…」
「やめて!!」
「お姉ちゃん。もうやめようよ。現実と向き合おうよ」
「やめて、何言ってるの。あの事故の事はもう終わったことでしょう!!」
彩香は小さく首を横に振る。
「あれは、事故じゃないよ。あの時、お父さんとお母さんは死んだんだよ」
頭を抱えてぶるぶると横に振る。
「何言ってるの! 透さんは生きてるじゃない」
「だから、現実を見ようよ。お姉ちゃん。お父さんは、あの1年前のあの日、踏切でお母さんに突き飛ばされて電車にひかれたんだよ。
お母さんと一緒に!! 私の目の前で!!」
「やめて!!!」
怖い。怖い。怖い。この子が怖い。この子の言葉が怖い。
「お姉ちゃんが、透さんって呼んでる人は、お兄ちゃんなんだよ!!
お父さんはバラバラになって死んだの! 私の目の前で!
バラバラに飛び散るお父さんとお母さんを私は見たもの!!」
私はきびすを返して体育倉庫を飛び出していた。
重厚な扉を閉めて鍵をかける。
すべて、無くしてしまいたかった。
彩香も彩香の言葉も暗い空間にすべて閉じ込めてしまいたかった。
それから自分がどうしていたかはっきり覚えていない。
気が付いたら校庭の隅の木陰に座り込んでいた。
呆然としていた。その時、体育倉庫の方から煙が上がっているのが目に付いたのだ。
私は驚いて、急いで体育倉庫の方に向かった。
体育倉庫はもうもうと煙が上がっていて近づくのも無理なほど熱くなっていた。
私は驚いて、その場に座り込んでしまった。
だって中にはまだ、彩香がいるのだ。
私が掛けた南京錠が異様に輝きを放っているように見えた。
後ろから足音が聞こえてきた。振り返ると泉君と涼子が走ってきていた。
「洋子!? これは…?」
「中に彩香が…」
私がそう言うと、泉君は顔色を変えて体育倉庫の扉に突進した。
鉄の取っ手を握った瞬間に肉の焼ける音と臭いがした。
「おい!やめろ!」
涼子が叫ぶけれど、泉君は取っ手から手を離そうとはしない。
それでも、涼子が体育倉庫に近づこうとする泉君を無理矢理押さえつけた。
泉君は泣きながら必死に抵抗していた。
その両手は赤く焼けただれている。
私は…怖くなって逃げた。
人生最悪の日だった。
今日、彩香の葬儀に行ってきた。
葬儀の空気は何度行っても慣れるものじゃなかった。
会場では、あちらこちらで、好奇心が溢れ出たような話しが飛び交っていた。
「またよ」「この家いくらなんでも人死にが多すぎるんじゃないかしら?」「呪われてるんじゃないの?」その人たちの顔は同情的な目をしながら、口元は笑っていた。
吐き気がする。
私は、その人達に食ってかかっていった。
「あなた達、葬儀の場でそんな話しするなんて失礼と思わないんですか」
私が、そう言うと、その人たちは気まずそうにそそくさと逃げていきました。
「あなたが、そんな事を言うんですか?」
突然、背後から声をかけられた。振り返るとゆかりちゃんが立っていた。
「彩香ちゃんが死んだのはあなたのせいだって言うのに」
その言葉は鬼気迫るほどの迫力があった。
「あなたが、ちゃんと中を確認しないで鍵を閉めたから、姿が見えなかった彩香ちゃんを探してたんでしょう? それなのに! 全部! 全部! あなたのせいじゃない!」
心に突き刺さる言葉だった。
本当は中にいるのを知っていたのに、彩香を閉じこめたのに。
本当はもっと酷いことをしているのに。
「あなたが代わりに死ねばよかったのに」
私はまた逃げ帰った。
今日で日記は最後になると思う。
私は知ってしまった。
できれば知りたくなかった。
でも、知ってしまった。
もう、この世界に私の大切な人は一人もいないのだ。
ここにいる理由もない。
だから、ここでおしまい。
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