俺はもうアサシンじゃない
小鳥遊 独
プロローグ
窓から差し込む月明りが、二人の男女を照らしていた。男は
「んひぃ~飲み過ぎちゃった。司祭様に怒られちゃうよぉ」
その声音は酷く甘えているようだった。男の胸から手を這わせ、そのまま男の顔に触れる。男は女の手に自らの手を重ね、優しく微笑みかけた。
「大丈夫、司祭様にもバレやしないさ。そんなことより今日のパーティーを楽しまなくちゃ」
男はそう言うと、女の顔に自らの顔を近づける。息と息とがかかり合う距離でお互いに見つめ合い、そして軽く唇が触れ合った。
「ダメだよぉ……レイくん」
女は顔を背けながらもあまり抵抗出来ていないようだった。力なく男を押しながら離れようとする。だが男は、しっかりと女の背中に手を回し、彼女が逃げられないように強く抱きしめた。
「ミーナ、好きだ」
「レイ……」
そうしてまた二人は見つめ合う。男は目を閉じながらゆっくりと唇を女の唇に合わせた。だがそれは先のものとは違う長く濃いものだった。男は女の唇を強く吸いながら口内へと舌を這わせていく。肩が驚きで少し跳ねるのもお構いなしに強引に彼女の唇を奪い続けた。どれくらいそうしていただろう。二人はようやく顔を離した。
「レイくんは薄情だよ」
「どうして?」
女の突然の言葉に男は笑みをこぼしたまま、彼女の頭を軽く撫でた。
「私はこんなに顔を真っ赤にして恥ずかしい思いをしてるのに、レイくんは全っ然顔色変わんないんだもん」
上気した頬を膨らませながら不満気に顔を背ける女。そんな彼女に男は変わらず微笑みかけながら、優しく彼女の髪をなでる。彼の顔は一般よりもかなり白い肌をしているが、そんな少し病的なまでの青白さを変えることはない。
「それはね、ミーナ……」
男が何かを言おうとしたその時、――突然女の頭が揺れた。
見えない力に引っ張られるようにそのまま頭は降下していく。糸の切れた操り人形のように、彼女はそのまま床に倒れた。少しワイングラスが揺れ、小さく中身が波紋を作る。
「……」
レイはが言葉を続けることはなかった。手早く彼女を抱きかかえ、近くにあるソファーにゆっくりと彼女を降ろした。ソファーの隅にあった毛布をそっとかける。
「さて……」
レイはそう言いながら目に力を込める。体内に循環する魔力を集中させ、回路へと流し込む。
(
瞬間、レイの両目が光を帯びる。碧色のそれは淡く光り、彼女の体を少しだけ照らす。レイはその目でゆっくりと彼女の体に視線を泳がせながら、体内の状態を確認する。すると彼の頭の中にミーナの体内の情報が映し出される。それは体を構築している筋肉の中の血管へと情報が切り替わる。さらに血管内部の情報が頭の中に映し出され、絶え間なく流れる血液のイメージが情報として頭に入り込んでくる。そこで彼は目を閉じると、その碧色の瞳は光の帯びていない状態へ戻った。
(魔力消費確認、結界魔術の解除……よし)
レイはゆっくりと立ち上がり出口の方まで歩くと、自分が一人通れるほどの隙間を開けて外へと出た。
一斉に目に飛び込んでくる光に少々目を窄めながら状況を確認する。長い手すり付きの廊下の下の開けた空間に、いくつかのテーブルが置いてあり、そこには数十人の男女達がグラス片手に談笑していた。誰もレイに目を向けることなく、眼前にある料理とお酒に夢中だった。
当たりを見回したレイは突き当りにある階段を上り、三階へと上がる。そして一番奥にある部屋まで行き立ち止まった。
(確か四回だったな……)
レイはゆっくりと四回ノックした。「入れ」との声の後に中に入る。
まず、豪勢なシャンデリアが目に飛び込んでくる。次いで奥、長広い机に背を向け、如何にも高級そうな黒イスに修道服姿の男が座っていた。レイに背を向けながら、窓から外を眺めている。
「ミーナ、今夜のパーティーは楽しんでいるかい。君にはいつも世話になっているからね」
「……」
「例の魔剣の状態も良好だよ。良い感じに贄の血を吸って元気に育っている」
「……」
「ミーナ。いったい……」
そこで男がこちらを向いた。白髪交じりの初老の男だった。だが、その顔は驚愕に染まっている。口をあんぐり開けたまま、時が止まったようだった。
「魅了、もしくは洗脳の類か……随分と優秀な魔導士を手駒したんだな」
「だ、誰だ貴様は! どうやってこの部屋に入ってきた!?」
「彼女なら眠ってる。短い間だったけど世話になったからな。心が痛むようなことはしたくない」
乾いた笑みを零しながら、そう言ってみる。痛む心など彼は持ち合わせていないのだが。
「魔剣所持と呪術研究および拉致監禁により、
レイはそう言うと、懐から一本の短剣を取り出した。刀身から柄まで二十センチ程の物だ。少し湾曲した刀身には浅い溝が掘られている。鉄の刀身がシャンデリアの光を浴びて煌めく。
「くそっ!」
瞬間、初老の男が動いた。立ち上がり、魔術を発動させる。基本的に魔導士なら誰もが所持している倉庫、異空間に存在する自分だけの武器庫だ。男が使用したのは、そこに所持している武器を瞬時に召喚する魔術。
手元には三本のナイフ、食事に使われるような普通のナイフだった。それをレイに向かって投げつける。
「
その一連の行動は非常に速かった。レイに向かって投げられたナイフは目の前で粉々に分裂した。通常ではあり得ない事象を引き起こす魔術、それにより無数の刃と化したナイフがレイに降り注いだ。
――しかし、刃がレイに突き刺さることはなかった。彼の姿が忽然と消えていたのだ。
男は辺りを見渡すが、レイの姿は見当たらなかった。まるで元からそこには誰もいなかったような錯覚さえ覚える。
だがレイは消えてなどいなかった。彼はすぐ近くにいたのだ。
――男の真後ろに。
瞬間、血が噴き出した。真っ赤な血液が部屋の窓を血で濡らす。生暖かいそれをいっぱいに浴びるレイは、男の首に短剣を突き刺していた。
「ぐがぐっ」
それが男の意志で発した言葉なのか、口から溢れる血液で勝手に出たものなのか、それはレイにも分からなかった。鮮血を止めどなく流しながら目の前の男は倒れ、動かなくなった。
額にかかった顔を腕で拭う。燕尾服はあまり吸収が良くないらしく、うまく拭えなかった。今まで何度も血を顔に浴びてきたがレイだが、それを心地良いと思うことはない、一種の慣れでしかない。
(『
レイの目が光る。男の絶命を確認し、机を見た。なんてことはない普通の机だが、備え付けの引き出しの一番上の中身が黒くモヤが掛かったように映し出された。
レイは短剣を握っていた手とは逆の手で机の引き出しを開けた。心地良い音を響かせながら中身が姿を現す。そこには小さなガラス瓶が乱雑に置かれていた。
(引き出しを鍵や魔術で封じていた様子もない……彼女の結界魔術を余程信用していたのか)
中にある瓶の一つを手に取ると、張られたラベルを見る。
(
レイは少し考える素振りを見せると、手に取った瓶を握り、魔力を回路へと流し込み魔術を発動させる。
(『
レイが魔術を発動させると、握った手が淡い光に包まれる。光が消え、彼が手を開くと、そこにあった瓶は消えていた。彼は開けた引き出しを元に戻す。ここで全て回収しておくことも出来るのだが、ある意味手柄としてこの場に残しておきたい理由があった。
――その時、ドアをけ破るような大きな音と広間にいた者たちの悲鳴が飛び込んできた。沢山の足音が一斉に建物の中に入ってくる。そして、レイがいる部屋の扉も勢いよく開け放たれた。
「騎士団の者だ! ルエム司祭、お前の身柄を拘束っ……て、あれ?」
勢いよく部屋に飛び込んで来たのは、真紅に染まった髪と瞳を持つ中々の美女だった。紅い髪の毛は後頭部で結われていて、ふりふりと揺れる馬のしっぽの様になっていた。
彼女は部屋の様子を理解すると、大きく一つ溜息をつく。
「お疲れ様です。マーシャさん、今回も寸での差といったところでしょうか」
マーシャと言われた女性はもう一度分かりやすく溜息をついた。全身赤色の服を纏った彼女は、服の上からでも分かる曲線美を強調するかのように胸の下で腕を組み、うーんと少し唸った。
「いやね、実のところ私はそんなに気にしてないんだけどさ、騎士団の上層部の方々がね……あんまり枢機卿に手柄を取られると王政からの信頼が傾いてしまうぞって……いやいや私は知ったこっちゃ無いんだけどさ、給料減額は嫌だなぁって……はぁ……」
何とも私情満載の言葉を吐いてマーシャは頭に手を当てまた溜息をついた。国のお偉いさんが考えることは一労働者の彼女にとってはさしてどうでもよく、そんなことより給料減額の四文字が頭を悩ませているのであった。
「ずっと騎士団と枢機卿はピリピリしてますもんね……実際、うちの司令は気にしていないみたいなんですが……俺も言われた任務をこなしているだけなので」
「だよねー、うちのお偉いさん方も王政からの信頼とか置いといて仲良くしてくれれば良いんだけどね、こう、手と手を取り合ってさぁ!」
マーシャは胸に付いているディアレ王国のエンブレム、交差した十字架が描かれたものビシビシ叩きながら喚いていた。
レイは全くですねと前置きしながら続けて言った。
「ならせめて、お互いの配下である俺らが手と手を取り合うというのはどうでしょうか?」
レイの言葉にマーシャはニヤっと妙な笑みを浮かべた。
「ほぉ、旦那、というと?」
「俺はこの司祭を命令通り抹殺した訳ですが、肝心の魔剣と呪術に関してはまだ回収していません。魔剣の在り所は分かりませんが、呪術なら固体魔術の状態でこの引き出しの中に入っています」
レイは呪術が入った引き出しを指さしながらマーシャに提案する。
「その中に入っている物をそのまま私達に回収させてくれるってことかな?」
「はい、その通りです」
マーシャは大好きなおやつを前にした子供のように顔を一瞬輝かせたが、すぐさま訝し気な表情でレイを見つめた。顎に手を当てながら、何か思案している。
「それは凄く嬉しい持ちかけではあるのだけど、君は何も得をしないように感じるんだけど……はっ! もしかして魔剣と呪術を差し出す代わりに、私の身体が欲しいなんて言っちゃったりするのかな? 若くてギラギラしたものをとうとうマーシャ様にぶつけたくなちゃった?」
きゃーとピンク色の声をあげながら、マーシャは自分の身体を抱いてうねうねし始めた。レイは素早く違いますよと呆れた様子で言い放った。
「大した思惑はありません、俺はただ」
「私は別に構わないよ? レイ君実は結構タイプぅ~」
「人の話を聞いてください」
「お姉さん、ショック! これでも結構モテるんだからね! 夜には困ってないんだからねーだ、ばーかばーか」
「騎士団の副団長が何言ってるんですか、俺は何もいりません」
「レイ君は弟みたいに冷たいのねん……てか何もいらないの?」
レイは机を軽い動作で乗り越えると出口に向かって歩き始める。血に濡れた短剣を申し訳程度に袖で拭い、懐に戻す。髪と顔、肩等にびっしりとかかった血については諦めるほかない。
「俺も騎士団と枢機卿は仲良くすべきと思っている、それだけです。騎士団の団長様や上層部のことについてはよく知りませんが、マーシャさんは好きですよ、たぶん」
好きというのはどういった感情なのか彼はよく知らない訳だが。
「うーん、私もレイ君大好き! 弟と同じくらい好きだよん!」
ばさっと酔っぱらいのようにレイに抱き着きながら、肩に手を回し、頭をよしよしと撫でてくる。
「マーシャさん、血が付きますよ」
「いいの! いいの! そんなの気にしてたら年下のイケてる男の子に触れ合える機会を逃しちゃうもの! それより」
マーシャは肩に回してないほうの手でレイの鼻先に指で触れながら、小悪魔のような笑みを浮かべて言う。
「あんまり年下の子にいいとこ持っていかれてもお姉さんとしての威厳が立たないから、貸一つってことにしといてくれる? レイ君が困った時出来るだけ力になるわ」
血の匂いと女性のいい香りの混ざり合った変な臭いを感じながら、レイは鼻先についた指を離しながら言う。
「いいんですか? 決して俺はそんなつもりで言ったんじゃ」
「いいの! いいの! これはお姉さんの勝手だから」
勝手に話をまとめられてしまった。レイは分かりましたと言いながら、マーシャの腕から逃れ、出口に向かって歩く。
その時、こちらへ走ってくる人影があった。マーシャと同じ服を着ているが、色合いが違い青一色だった。胸には同じエンブレムが付いている。
その男は肩で息をしながら、マーシャに向かって言った。
「館内にいた奴らはとりあえず一通り抑えました。被害者の女性たちの救出もほぼほぼ完了です。後は司祭と魔剣だけですが、そちらは……ってこりゃ生きていませんね」
部屋の惨事を理解したのか、男はとりあえず息を整え、今度はレイに向き直った。透き通った銀髪が少し乱れている。姿勢を正し、敬礼のポーズをとる。
「レイ君。どうやら今回も先を越されたようだ。でも協力ということには変わりないだろう。今回もありがとう」
「いえ、騎士団の皆様もいつもお疲れ様です。後の事はそちらにお任せしても大丈夫でしょうか」
銀髪の男に習いレイも敬礼をしながらそう言った。
「ジャー君、魔剣の回収が最優先だって言ったじゃない! 君の事は優秀な部下だと思っていたのに、お姉さんプンプンだぞ!」
「副団長、ジャー君はやめてくれっていつも言ってるじゃないですか。僕の名前はジャックスです。全くレイ君の前でもお構いなんだからこの人は……」
ジャックスと言われた男はいつもの上司の傍若無人ぷり頭を悩ませている部下の一人だった。一等・二等兵を指揮する兵長が彼の役職だ。だがその実、優秀な部下に恵まれた彼は、必然的に暴れん坊な上司に頭を悩ませるのであった。
「そんなことより魔剣よ、魔剣! さっさと捜索に戻りなさい!」
「すみません……じゃなくて! 司祭が死んでるんなら副団長も手伝ってくださいよ」
これ以上ゴタゴタするのはごめん被りたい枢機卿の青年は、二人があーだこーだ言うのを横目に俺はこれで……と足早に退散することにする。袖に残る血や、鼻に付いた鉄の臭いを感じながら彼は思う。
いつも通りの日常である。殺しと血と、それがいつもの風景だった。
そう――彼の世界が変わる少し前の、いつもの出来事だった。
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