#3 誰もが居なくなる

 花子との別れは何ら劇的でなかった。私は進学した先の高校に適応することに没頭し、花子との連絡は季節が過ぎるように無くなった。彼女が生きているのかどうかも分からなくなったが、そのことの手応えもなかった。彼女がケータイを持っていなかったことは、音信不通の大きな要因だったんじゃないかと思う。その当時から「ケータイを忘れた日は手足を家に置いてきたみたい」と感じたし、友達にも分かると言われた。

 私たちにとってケータイがあるということは、離れていても永遠にすぐに会えること、声がなくてもおしゃべりが出来ること、他人の記憶から抜け落ちないこと、肉体がなくても他人と連絡を取る手段があるということだ。花子は手足や、肉声や、見返す眼差しなどを、中学卒業と同時に私のなかから失くした。私のケータイのメモリーに彼女が居なかったということは、彼女が私に残り続けないという確定した未来だった。

 しかし、連絡手段がなければ生きているとみなされないのは、私の方でも同じことだ。私にはSNS上に、「肉体を見たことがない友達」という相手が二千人ほどいた。風邪でしばらく更新しなかったとき、私のコメント欄には私が死んだと思っているひとが沢山いた。私が会ったことのない他人にとっては、私のコメントや写真こそが私の肉体の代わりだった。投稿がないこと、またコメントに返信しないことは、離席ではなく、二度と帰らない不在のように彼らには映っていた。私は殺されたように、彼らに呼びかけられていた。

 このような不在と私の疑似的な死に纏わるアイデアは、私を怯えさせ、また多少私の気に入った。一切の投稿をせずにケータイの電源を切っている間、自分じしんに仮の死の幕を下ろし、自分を他人の目から避難させることが出来るなんて、何て素晴らしいんだろう。その幕を下ろすため、私の身体にもどこかに電源を切るボタンがあればいいのに。私は下着のすぐ上を撮影し、それを馬鹿げたポエムに仕立ててコメントとともに投稿した。そういう私を消費する他人が、沢山のハートマークをくれた。

 私がsugercubeとなり、ウソの効用というものを知って以来、私は花子の生き方を多少尊敬して思い返すことさえあった。留年しているという噂があったが、彼女は私より少し先に大人びていて、架空の存在のように愛されつつ消費される人格を手に入れていたのかもしれない。

 使ってみて分かった、ウソの最大の効用は、幕のように私の上に覆い被さり、他人の視線をそこだけに集中させてくれることだ。隠している部分があれば、そこに何かが隠れていると他人は思い込む。「私に主電源のボタンがあればいい」と言って下着のすぐ上を撮影すれば、下着の中にそのボタンがあると言い張ることが出来る。しかし、私が最も見られたくないのは私の表情、特に眉の辺りだ。そこに、私の電源を切るボタンが微かに光っているような気がする。そうして私は下着を撮影して投稿する、まるで「そこに華子が居るよ、見てごらん」と言う花子のように。

 それでもなお、花子には理解しきれない部分が多かった。「華子」の動機は、それに付き合っていた私にも結局のところ分からず終いだった。

 たとえば、彼女は思春期の少女にたまにある、「霊感がある」という主張をしていたのではなかった。もしそう言いたければそう言えただろうけれど、花子はつねに「華子」の話しかしなかった。それは特殊能力を持っているという主張ではなく、ただ単に彼女の人間関係のなかに、双子の姉である「華子」という人物が居るというだけの主張だった。そして「華子」は怪談のように血だらけで出て来るわけではなく、道路の向こうに立っていたり、体育の授業を見守っていたり、昼休みに教室の隅にただ立っていたりした。私は花子の想像力の凄まじさには慣れていたから、華子をというより、花子の想像力の方を信じた。

 しかし、そうやって彼女の日常に立ち寄るように現れる「華子」が、なぜ花子にそれほど必要なのか、私にはとうとう分からず、花子も「あそこに華子が居るよ」という以上のことを、私に知らせなかった。ねえ撮って、そして、アップして、シェアして。私と、みんなに見せて……。

 私には「華子」は、ただの習慣の名前として定着した。


『sugercubeさん、こんにちは! 素敵な写真ですね』

『ありがとうございます!』

 花子抜きになってからも、私が惰性で投稿している写真を沢山のひとが褒めてくれる。そこには最初から何も写っていなかったけれど、今では不在ですら写していない。私が吸うだけ吸って捨てた、ニコチン入りの習慣の吸い殻みたいなものだ。

『kawaiiの次に、hanakoを広めたいです(目をつぶっている顔文字)』と、私がコメント欄に入力しようとしたとき、

『死体が埋まってる感じがします(目をつぶっている顔文字)』と打ち込まれた。

 アカウント情報を見たら、aozorabunkoというユーザー名だった。プロフィール写真は青空に浮かんだハートマークの雲だった。投稿された八百ほどの写真は、学校の屋上や運動場など、いろいろな所から見た青空の写真だった。人物は全く写っていない。#aozora というハッシュタグは私もたまに使うので、ここからリンクして飛んできたな、と想像した。

 プロフィールページには、アカウントの紹介として短文が掲載されていた。

「ココロが疲れてしまったとき……青空を見上げてみませんか? 本棚からお気に入りの文庫本を取り出すように、あなたのお気に入りの青空が、この中にありますように(星が輝く文字)」

 SNSにはありがちな内容だと思った。また多少古臭い文章の感じがした。いわゆる「中の人」は少し年上かもしれないな、それに女性か、あるいはフェミニンな男性という感じがする。ともあれこの短文のお蔭で「aozorabunko」とは「青空文庫」と読ませるものらしいということは分かった。

 私は、並んでいる青空の写真のいくつかに、お気に入りのしるしであるハートマークを送った。

『写真撮るコツとか教えてください(目をつぶる顔文字)』とメッセージを送った。

 返事が来て、会うことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る